アイヌの集落を出る頃には無一文になっていたので、房太郎達はまた「仕事」に出かけていった。石狩川を下りながら船を襲うというので、雪は先に出る船で江別港に向かい、さらに少し下ったところで待っていた。
予定では船から客の荷物と現金を奪ってすぐに合流するはずだったのだが、どうしたことやら房太郎は、家臣の代わりに見慣れぬ御仁を連れて現れた。
「悪い雪。事情が変わった。こいつらと手を組むことになった」
「白石
ずぶ濡れの房太郎を押しのけて、半纏を着た坊主頭が手を差し出して来た。その名前はよく聞いていたので、雪は驚いて目を丸くした。
「あなたがシライシ!? 話はよく聞いているよ! どうしてここに?」
「え、お姉さん、ボクのこと知ってるんですか? ヤダ、嬉しいな……」
「たまたま船に乗ってたんだ。そこで色々あってな」
「権堂達は?」
「死んだ」
房太郎はあまりにもあっけらかんとしていた。雪はショックだったが、それを表に出す間もないままに食事の用意が始まってしまった。それというのも、房太郎が連れて来た人間はシライシの他に3人いて、彼らはさらにチョウザメを丸ごと運んでいたのだった。
シライシの連れは軍帽を被った青年杉元と、覆面で銃を背負った外国人、アイヌの少女アシリパだった。不思議な組み合わせだったが、日本人3人は仲が良いようだった。アシリパがてきぱきとチョウザメを解体していて、杉元に脳みそを食べさせたがっていた。
「
「ああ! 助かるぜ雪」
アシリパと何か話していた房太郎に声をかけて、雪は温めておいた着替えを渡した。上着を脱いで着替えている間に、雪がずぶ濡れの髪を拭いて櫛を入れる。房太郎が水に潜った後はいつもこうしていた。杉元と白石が、チョウザメの卵を頬張りながらそれを眺めていた。
「そっちこそどういう関係なんだ? さっきの子分とは雰囲気違うじゃねえか」
杉元は軍帽の下から鋭い眼光を覗かせている。今は頬張った魚卵のおかげで多少は愛嬌があるが、そうでなければ気軽に話せる人間だとは感じられない。刃こぼれした剣のような、触れればこちらが傷つけられそうな荒々しい殺気がある。服装からしても、日露戦争の帰還兵であることが明らかだった。戦争を経験した人間は、彼らにしかわからない世界を見ている。だから、そこらの人間とは纏う雰囲気がまるで違う。
雪は先に名乗ろうとしたが、房太郎の方が早かった。
「俺の正室だ。いい女だろ? 白石は手ぇ出すなよ」
「ええ〜。ボウタロウってばお嫁さんまで見つけてたのぉ? うらやましー」
白石が茶化して口笛を吹いた。その態度で、雪は白石がどういう人間なのかがなんとなくわかった。
「正室『候補』だ正確には。この人と一緒に旅をしてる。東雲雪だ。よろしく」
「ボウタロウ、フラれてんの?」
「俺の子を産んでくれって口説いてるとこなんだが、中々首を縦に振ってくれない」
「あんたの名前知ってるぞ。どこで聞いたんだったかな……」
「へぇ嬉しいね。私は作家をしてるんだ。どこかで見てもらえたんだね」
「作家さんなのぉ!? すげえ!」
杉元が素直に歓声を上げると、雪よりも房太郎の方が得意げに笑った。
「雪は頭もいい女なんだ。すげえんだぜ、外国語をいくつも話せるんだ」
「外国といえば、そっちの外国人はどういう関係なの? さっきから一言も喋らないけど」
「ああ、ズキンちゃんは……」
説明しようとして、言葉が浮かばなかったのか、白石はぽりぽりと頭をかいてから、杉元にウインクをした。代わりに説明しろということらしい。杉元はうざったそうに溜息を吐いた。
「あいつは俺達とは全く別の目的で着いてきてるだけだ。今んとこ害はないから気にしなくていい。話せないのは口を怪我しているからだ」
「ふぅん……見たところロシア人かな」
「雪ちゃんせいかーい! 樺太から俺らに着いてきたのよ」
「へぇ、じゃああなた達は樺太まで行ってきたの? どうして?」
そこで杉元が白石に肘打ちした。余計なことを言うなということなのだろう。ガタイのいい杉元の肘打ちは威力が違う。白石はぐっと呻き声を上げて大人しくなった。
手を組んだとは言っても、杉元一行と房太郎はまだ腹の探り合いの途中らしい。
房太郎の髪を手入れしながら様子を伺っていた雪だったが、髪が一箇所不自然に短い場所を見つけて、思考を中断させられた。
「
「ん? ああ、杉元に切られた」
雪は絶望の表情で杉元を見た。
「どうしてそんなことを……」
「違う違う! 助けたんだろうが! 誤解を招く言い方すんじゃねえよ!」
杉元は蒸気船での出来事をかいつまんで雪に話した。房太郎が危うく死ぬところだったと聞くと、雪は青ざめて、彼の命を確かめるように首元に腕を回した。
「無事でよかった……ありがとう杉元」
杉元は軍帽で目元を隠し、雪とは目を合わせなかった。
「……俺達は金塊を手に入れたい。そのためにあんた達の情報がいるだけだよ」
「こう言ってるけど、俺に情が湧いたから助けたんだぜこいつ」
「少しは弁えろよてめえ!」
アシリパがチョウザメの
「そうか、辺見は杉元が殺してくれたのか。よかったよかった」
「何がよかったんだよ?」
「俺達も辺見に一度会ってんだよ。その時に雪が刺されてな。俺がぶっ殺してやりたいくらいだったんだ」
「えっ、東雲さんよく無事だったね……?」
杉元は時折、少女のような口調になるらしかった。だが平太とは違い、それが杉元の一面であるようだ。殺気を纏いながらも親しみやすさがある、不思議な人間だと雪は思った。
「雪と呼んでくれないか。名字で呼ばれるのは嫌いなんだ」
「へぇえ……えぇと……じゃあ……雪サン」
「そうそう、雪の名字はそのうち俺と同じになるからなあ」
「ボウタロウと雪はどうやって知り合ったんだ?」
アシリパが口を挟んだ。彼女はまだ子供だが、その年齢を全く感じさせない落ち着きと貫禄があった。初めはかわいらしい少女だと思ったし実際そうなのだが、緑の散った青い瞳は、恐ろしいほどの思慮深さを秘めているように思われた。
「俺が脱獄してすぐの頃、運悪く兵隊に見つかって撃たれちまってな。雪に助けられたんだ」
「えぇ……雪ちゃんこんな凶悪犯よく助けたね?」
「そこが雪のいいとこなんだよ! 肝が据わってるんだ。二瓶と会った時もだが、若山の親分と会った時もなあ……」
房太郎はすっかり上機嫌になって、雪の自慢話を始めてしまった。男2人は白けた顔でその話を右から左へ聞き流しており、アシリパだけ何か探すように房太郎の話を聞いていた。
雪は聞こえないふりをして、もくもくと
彼の名はヴァシリと言った。樺太の国境線で防衛の任務に就いていたが、そこで白石達に会った。そのとき白石達と共にいた人間の中に、腕のいい狙撃手がいて勝負をした。自分が撃たれて負けたが、死に損なったので、決着をつけるためにその狙撃手を探して杉元達に着いてきたということだ。狙撃手はアシリパを狙っていたので、彼らに同行していればいつか出会えると思っていると言った。勝負のためだけに故郷も仕事も捨てて異国へ渡ってきたその心意気に、雪は素直に感服した。
ヴァシリはその狙撃手やアシリパ達の似顔絵を描いていた。それが精巧だったので、雪はその腕前にも感嘆した。彼の話は雪の琴線にいくつも触れた。作家の本能をくすぐられる、「おもしろい」話ばかりだった。
そしてどうやら、ヴァシリは本当に金塊と無関係のようだった。「どうしてアイヌの少女が一緒にいるの?」「アイヌの金塊の話はどこまで知ってる?」と聞いてみたが、ヴァシリは「知らない」「わからない」としか答えない。求めるものは好敵手との勝負だけということだ。
それならそれで、言葉もわかっていないロシア人を同行させている杉元達の方が奇妙という話になってきた。だが面白かったので、雪はこの烏合の衆を気に入り始めていた。
「雪はロシア語がわかるのか?」
雪とヴァシリが話しているのを見て、アシリパが尋ねた。
「少しだけどね。彼が何を言っているかはわかるよ。日本人の狙撃手を追いかけてきたって言ってる」
「雪ちゃんすごぉい」
「狙撃手って?」
すかさず房太郎が反応した。すると、杉元の顔つきがいっそう険しくなった。
「ただのコウモリ野郎だよ」
「ええ? どういうことだよ。俺達の敵なのか? それくらい聞いてもいいだろ」
「俺達だってまだお前達を信用しきれていないんだ。今すぐ話すわけにはいかねえな」
「ふーん……」
房太郎と杉元の間には常に緊張が走っていた。その後は房太郎が詮索をやめたので、雪もそれに従った。アシリパが杉元の口にチョウザメの脳みそを突っ込み始めたあたりから、場が和やかになった。杉元とアシリパは食べ物を口にすると、よく「ヒンナ」と言った。アイヌ語で食事に感謝する言葉だった。
杉元達が札幌を目指すというので、さらに川を下ることになった。川沿いを歩き、夜になるとまた火を囲んだ。アシリパは子供ながら野営に慣れていて、手際よく寝床を整えてくれた。
全員が寝静まった頃、雪は物音を立てないように寝床を抜け出した。月明かりを頼りに川辺にしゃがみ込み、紙で折った小舟を4つ取り出した。明るいうちに作っておいたもので、舟にはひとつずつ、権堂達の名前を書いていた。
両手を合わせて目を閉じていると、背後から声がかかった。
「何してるんだ?」
房太郎は雪の隣で眠っていたので、雪がいなくなるとすぐに気付いた。彼女の手元にある紙の小舟と、そこに書かれた名前を見つけると、隣にしゃがんで一緒に両手を合わせた。
「雪は優しいな」
「普通のことだよ。みんな悪い人間じゃなかった。ただ運が悪かったんだ。せめてこれくらい……」
雪はひとつずつ丁寧に、小舟を川に流した。紙の小舟はゆっくりと川を流れて、小さくなって見えなくなる頃に、少しずつ、少しずつ水の中に溶けていった。
「悪い人間じゃなかったよ」
小舟を見送りながら、房太郎は独り言のようにぼやいた。
「悪い奴らじゃなかったんだ……俺の家族になる奴らだった……」
夜風が吹いて、房太郎の髪を靡かせた。彼の顔は寂寥に染まっていた。
雪は房太郎の首に腕を回して抱きしめた。房太郎は雪の方に擦り寄って、その温もりを確かめた。背中に手を回して、しっかりと2人は抱き合った。
「お前だけは、俺が守るよ」
縋るような声だった。雪を捕まえておくかのように、その腕には力が籠っていた。
雪も同じ気持ちだった。彼女もまた腕に力を込め直して、体温を分けた。
「私はあなたを守るよ」
雪が言うと、房太郎は力を抜いて笑った。彼女と触れている体のひとつひとつが、声が、自分を慕う言葉が、全て愛おしかった。
「どんな神様に祈るよりも加護がありそうだ」
2人の体温が同じになるまで抱き合ってから、ようやく腕を解いた。
「あいつらは、俺達が忘れないでいよう」
「うん。ちゃんと4人とも、『海賊房太郎物語』に登場するからね」
「そりゃいい。あいつらの名前も後世まで残るな」
房太郎は雪の肩を抱いて、自分の膝に座らせた。このとき房太郎の顔つきが変わった。弔いを終えて、本題に入ろうとしているのだとわかった。
「さっき、あのロシア人から何か聞けたか?」
雪の耳元に顔を寄せて、房太郎は囁くように言った。少し離れたところで眠っている杉元達に聞かれないためだろう。雪も静かに答えた。
「どうしてアシリパが同行しているのかは知らないらしい。本当にただ狙撃手を探しているんだって。それも何者かはわからないようだけれど」
「変な外国人だな。たぶんその狙撃手ってのは、土方一味か第七師団の人間だ。一度は、少なくともあいつらが樺太にいる間は仲間だったが、裏切ったんで『コウモリ』なんだろうな。ロシア人がそいつを探してわざわざ杉元達に着いてきてるってことは、接触する可能性が外国人から見ても高いわけだ。俺達の敵でもある。用心するに越したことはねぇ」
「どうして彼らが樺太まで行ったのかも、わからないね。金塊とは関係ないように思えるけど……」
「俺もそれがわからねぇ。が、ひとつ思い当たることがあるんだ。アシリパの目を見たか?」
「青い瞳だったね。外国の血が混ざってる」
「それだ。俺が網走で見たのっぺらぼうと同じ目をしてるんだ。アシリパはのっぺらぼうの娘なんじゃねぇか? 小樽に家族がいるって言ってたんだ」
「なるほど、『小樽へ行け』っていうのっぺらぼうの発言とも一致するね。可能性はある。のっぺらぼうはアイヌかもしれないという話も聞こえていたしね。アシリパは金塊探しの大きな手がかりかもしれないというわけか」
「ああ。それくらいしか白石があの2人とつるむ理由が思いつかねえ。雪、お前、アシリパに取り入れるか? 俺は白石が口を割るように仕掛ける」
「わかった。あの子とはゆっくり話してみたくもあるから」
房太郎は杉元達を振り返った。杉の木を倒した簡易的な屋根の下で、3人は川の字になって眠っている。
「杉元には気を付けてくれ。あいつはアシリパの番犬らしい」
「そうだ、杉元とやり合って負けちゃったの? あなたが喧嘩で押し負けるなんて想像できないよ」
「まあな。あいつは本物だよ。もう正面からはやりたくねえな」
「本当に怪我はしてないんだよね?」
雪は心配になって房太郎の顔を撫でた。彼の骨太な身体は、少し身を預けるくらいではびくともしない。だがあの軍帽からはみ出す殺気が向けられたのならば、本当に二度と会えなくなっていたのかもしれない。そう思うと恐ろしかった。
房太郎は雪の華奢な手が好きだった。柔らかくて、小さくて可愛らしい。自分を労るこの手は、愛されているという実感を与えてくれる。
愛おしいその手をとって、口付けした。
「大丈夫だ。怪我なんてしてない。何発かいいのはもらったけどな」
雪はまだ心配が拭えなかった。だからといって、無理はするなとか、危険なことはするなとか、偉そうなことを言える立場ではない。房太郎の胸に顔を埋めて、寄り添うことしかできない。
房太郎はそんな雪の髪を撫でていた。
2人は夜明け前に寝床に戻り、少しだけ眠った。
翌朝からは引き続き札幌を目指して歩いた。アシリパは北海道の植物と動物をよく知っていて、和人達に説明しながら歩いていた。食べられる植物、毒のある植物、宿っている神様。アイヌの暮らしを覗き見るのは、雪にとっても楽しいことだった。特に杉元は彼女のよき生徒であるようだった。
「アイヌには面白い物語はある? 作家だからね、物語を聞くのが好きなんだ」
雪はアシリパの隣を歩いて、彼女のアイヌ講義に聞き入っていた。生徒からの質問があるとアシリパは嬉しそうに話してくれた。
「たくさんあるぞ。パナンペ・ペナンぺ物語でも聞かせてやる」
「それこないだ撮ったやつぅ? チンポ以外のお話にしなよぉ?」
杉元はいつもアシリパの近くにいた。アシリパに近付けば必ずその眼光に射抜かれることになった。アシリパが話す昔話を聞きながら、雪は斜め後ろの番犬の気配も常に観察していた。
「アシリパちゃんは小さいのに色んなことを知っているんだね。誰に教わったの?」
「アチャ……父だ」
「お父さんも一緒に住んでいるの?」
「……何年か前に、いなくなってしまった」
アシリパは遠くを見てそう言うと、父親のことから話題を逸らすように、「フキだ。これは食べられるんだ」と言ってしゃがみ込んだ。フキノトウのことらしかった。
雪は、相手の秘密を進んで暴ける人間ではなかった。やはり玄関から呼びかけて、扉が開くのを待ってしまう。アシリパがその扉を開きたくないことがわかってしまったので、それ以上踏み込むことができなかった。
「嫌なことを聞いてしまったかな。ごめんなさい」
「いいんだ。慣れてる。……私も雪に聞きたいことがあるんだ」
「何かな。私で答えられることなら、何でも聞いて」
アシリパは杉元を振り返ると、「フキをたくさん集めてきてくれ。たくさん」と言って、杉元をその場から追いやった。彼の背中が遠くなったのを見送ってから、アシリパは改めて雪に向き直った。杉元には聞かれたくない話なのだと察して、雪は膝を折って彼女に目線を合わせた。
「雪はボウタロウのことが好きなのか?」
少し意外な質問だったので、雪は面食らった。アシリパは真っ直ぐな瞳で真面目に聞いているようだった。
「うん。好きだよ」
「ボウタロウと結婚するのか?」
思ってもみなかったところから弱点を刺されてしまった。雪は少しだけ表情を崩した。
「さあ……金塊を手に入れないことには、わからないな。
「金塊がほしくてボウタロウと一緒にいるのか?」
「まさか。好きだから一緒にいるんだよ」
「でも、結婚しないのか?」
「それは、私にとって別の問題なんだ。結婚という形を取らなくても、好きな人と一緒にいることはできるだろう?」
アシリパは目を伏せて、何か考えているようだった。
「なんだかボウタロウが可哀想だ」
それを言われてしまうと、雪は弱ってしまう。苦笑して、アシリパの顔を覗き込んだ。
「アシリパちゃんは、杉元が好き?」
すると、アシリパは表情こそ変わらなかったが、器用に両耳だけを真っ赤に染め上げた。
「違う。私は、そういうのは……」
「そっか。でも、とっても仲の良い相棒なのはわかるよ。素敵な関係だ」
アシリパの耳は触れば火傷しそうなほど真っ赤になっていた。年相応にかわいらしい反応を見せたので、いじらしくてたまらなかった。
「アシリパさぁん、これで足りるぅ?」
「うわああああっ! あ!? 何やってんだ杉元! そんなにフキ集めてどうすんだ!」
「えぇー!? なんで!?」
フキノトウを両腕に抱えた杉元が戻ってくると、アシリパは珍しく声を荒げた。アシリパが命じたというのに、そのことを忘れてしまっているらしい。杉元は不憫だったが、雪は面白くてくすくすと笑ってしまった。
アシリパの声に反応して、少し後ろを歩いていた房太郎達も追いついてきた。だが、不思議と機嫌の悪くなったアシリパがいただけだったので、首を傾げていた。
「雪さん、アシリパさんと何話してたんだ?」
「乙女の会話だよ。内緒」
杉元は不服そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
アシリパはその後から、少しばかり雪に懐いたようだった。雪が見聞きした外国の話や新聞の話に聞き入ったり、夜には隣に来て眠ったりした。聞けば母親を早くに亡くし、きょうだいもいないらしい。雪くらいの歳の同性という存在は彼女にとって貴重で、甘えたいものなのだろうと雪は思った。2人が一緒にいる時には、杉元も白石も邪魔しにくることはなかった。たぶん雪と同意見だったからだろう。
札幌の近くまで来たある時、杉元とアシリパが倒木の下敷きになったことがあった。そのとき房太郎は白石と話していて、雪はヴァシリと話していた。雪とヴァシリの位置からは2人が木に飲み込まれていくのが見えた。白石が大慌てで2人を探していたので、雪は急いで場所を伝えた。白石は器用に体を使って倒木の中に入っていったが、さすがに雪はそうもいかない。房太郎と一緒にそばにいた木こりを探して、2人を助け出すことができた。
事が起こる直前、房太郎は支笏湖で獲れた金貨のことを白石に話していたようだった。それを引き合いに出して、白石はアシリパがのっぺらぼうの娘であることを房太郎と雪に教えてくれた。
房太郎はその金貨をアシリパに譲った。アイヌが各地から集めた砂金をひとつにして作ったその金貨は、アイヌが団結して日本国と戦おうとしていた決意の象徴であり、彼女はそのアイヌの意思を受け継ぐ存在だったからだ。
雪もその金貨はアシリパが持つべきものだと思った。彼女がアイヌの意思を背負ってこの奪い合いに臨んでいることを知って、雪はその気高さに心から敬服した。
それから数日もしないうちに、一行は札幌に着いた。ここに上エ地がいるという情報と、娼婦の惨殺事件が起きているという情報があった。そのふたつを追いかけることになるのだ。
上エ地の名を聞いて、房太郎は雪にも聞かせたことのある思い出話を聞かせた。その話を聞きながら、一行は水風亭という洋食の料理屋で食事を取っていた。杉元達は以前もこの店で食事をしたことがあるらしかった。
「ヒンナすぎるオソマ! 前に食べたのはチンポ先生のおかげだったな!」
可愛らしい少女の口からあまり聞きたくはない言葉が飛び出していた。食事の前に房太郎の髪を結っていた雪は、ぎょっとして口を挟んだ。
「アシリパちゃん、今なんて言ったの……?」
「アシリパさんは味噌とかライスカレーとか、見た目がウンコの物はオソマって言うんだよ」
「先生ってのは?」
「前に牛山って囚人に会って……」
「お食事中にやめてぇ?」
そんな会話をしながら食事を楽しんでいた。杉元がスプーンを落として、それを拾おうとテーブルの下に潜り込んだとき、突然に轟音が鳴って何かが店の中に突っ込んできた。それは暴馬のような勢いで店を突っ切り、食事中のテーブルを薙ぎ倒していった。
雪は驚いて悲鳴を上げた。房太郎はまだカレーを頬張っていたが、すぐに雪の肩を抱いて自分が盾になるように庇った。
「なにごと?」
誰かが呟いた後で、店の脇から穴を開けて入ってきた僧服の大男が口を開いた。
「お嬢! また会ったな!」
「チンポ先生〜〜ッ」
その大男はとにかく体が逞しく、筋骨隆々とはこの体を表するための言葉なのだと雪が悟ったほどだった。鼻の下に小綺麗な髭があって、額が特徴的に隆起していた。
「牛山だ」
房太郎が呟いた。脱獄囚の1人の名前だった。事情はわからないが、敵陣の1人が突っ込んできたということらしかった。
そして敵の進軍はまだ続いていた。牛山が入ってきたところから、さらに銃と刀を携えた老人が現れたところだった。
その老人を目にした瞬間、杉元が目つきを変えて襲いかかった。2人は雪の目には追えない攻防を繰り返したが、その間に牛山が入ってさらに収拾がつかなくなった。
「敵と鉢合わせてしまったんだよね?」
「そうらしい。あの爺さんが土方歳三だ」
「え、ほんと!?」
「落ち着け。あいつらを止めなきゃ巻き込まれる。お前は絶対に前に出るなよ」
雪に言い聞かせて彼女を物陰に隠してから、房太郎も牛山を止めに入った。しかしその身体を投げ飛ばされて逆さまになって帰ってきたので、雪は仰天して声を上げた。人が宙に投げられるのは初めて見た。
「駄目だ強すぎる」
「あの人本当に人間なの……?」
雪が困惑している間に、騒ぎは外にまで出て人も増えたようだった。アイヌの男と行人の格好をした男がやってきて、取っ組み合いをする2人を止めようとしていた。
土方歳三は冷静に銃を構え、杉元を狙っていた。その間に立ちはだかったのがアシリパだった。
「聞いておきたい。土方歳三が考える未来ではアイヌはどうなってるか」
アシリパは物怖じせず土方歳三と渡り合っていた。彼もアシリパを子供扱いせず、対等に話をしていた。
アシリパの質問に対して答えていたが、房太郎と雪には話が見えない事が多すぎた。ただ、土方歳三が「蝦夷共和国」なるものを想定していることはわかった。
その場はアシリパが同盟を提案することで、ようやく騒ぎが収まった。房太郎と雪も今は杉元に従い、土方歳三と手を組むことになったのだった。