私の王様   作:仁寺野瑛瑠

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刺青人皮争奪戦6 白石編

 

 一行は土方一派が拠点とする寺に集められた。

 土方一派にはその右腕の永倉新八のほか、囚人の牛山辰馬、都丹庵士、アイヌのキラウシ、同じくアイヌで、第七師団から寝返った有子力松、網走監獄の元看守の門倉、舎弟の夏太郎がいた。

 アシリパは土方歳三と話をつけて、互いに集めた刺青人皮の情報を交換していた。それで房太郎も自分の刺青を明かすことになった。

 騒ぎの中でヴァシリはいなくなっていた。杉元が「オガタ」の名前を連呼したときに慌てて出て行ったので、それが目当ての狙撃手であると雪にもわかった。今もどこかで尾形を狙って隠れているらしい。尾形は、今は土方一派に与するがもとは第七師団の人間で、信用ならないようだ。だからヴァシリは、杉元曰く「猫よけ」だった。

 昼間は殺し合いをしていた連中だったが、夜にはすっかり打ち解けていて、酒を飲み交わしていた。過去のことは洗い流して、これから手を組もうという流れで一致したらしかった。

 布団を敷いた後もみんなほろ酔いで、軽い言い合いをしていた。

 杉元一派と土方一派は一度手を組んで網走監獄に侵入したようだった。そこで土方歳三が杉元側を謀ったことにより、二者間に亀裂が走っていたらしい。杉元と白石はそのときのことで門倉をどついていた。

 一方で、房太郎も酒を飲んで上機嫌になり、かつて同房だったらしい牛山と楽しげに話していた。

 そんな中でアシリパは、有子力松とかつて殺されたアイヌのことを話していた。

 それぞれがそれぞれ、酒の勢いに任せて話している間に、雪は土方歳三と向き合っていた。旧幕府軍の生き残り、それも新撰組の副長に会えたのだから、話を聞かない手はない。だが、雪は目の前に現れたこの唯一無二の雰囲気に気圧されていた。

 

「私にご用かな、お嬢さん」

 

 その老人は、まるで老人とは思われなかった。

 真っ白に染め上がった頭髪と、顔に刻まれた皺はたしかに老人であることの証だったのだが、目つき、声、姿勢、彼の発するそれらは明らかに若さを備えていた。それでいてそれは未熟な青さでは決してなく、活力と希望に溢れる類のものだった。

 向き合ったその力強さに圧倒されて、雪は緊張と興奮で体を震わせた。

 

「旧幕府軍の英雄とお会いできて光栄です」

「そのような賛辞を受ける人間ではないよ。私も、あなたのような美しいお嬢さんにお会いできたのは光栄だ。永倉のいないところでゆっくりお茶でもするのはいかがかね」

「え……!」

 

 あまりにも自然に、嫌味なく口説き文句を言われたので、雪はつい言葉を失ってしまった。ただの口説き文句なら聞き流せるのだが、言葉を発する者によってこんなにも変わるものだとは思わなかった。これほどまでに洗練された色男に言われては、雪は胸の高鳴りに逆らえなかった。

 

「おい雪ぃ、こんな爺さんと浮気かぁ?」

 

 すると、房太郎が酒に酔ったまま雪の後ろから抱きついてきた。長い髪も一緒に身体に巻き付いてきて、ぴったりと捕らわれてしまった。

 

「土方歳三ぉ、いくらあんたにだって雪はやらねぇぞ。こいつは俺と結婚して一緒に国を作るんだからなぁ」

「ほぅ、それはまた」

 

 土方は興味深そうに目を細めた。

 房太郎は若干呂律が回っていなかった。酔うと元々ぽやんとする人間だったが、今日はいつもよりも酔いが回っている気がした。

 

房太郎(ふさたろう)、飲みすぎだよ。もう水にしてね」

「どうした海賊ぅ! もう飲めねぇのかぁ! 嫁さんに泣きつくなんざ情けねぇぞぉ!」

 

 

 部屋の向こうから、牛山がビール瓶を振り翳して声をかけてきた。どうやら房太郎が酔った原因のようだ。房太郎は頭をふらふらさせながら、声だけ張り上げた。

 

「牛山さんまで雪のこと狙ってんのぉ? やらねぇからなぁ誰にもぉ! 雪は俺んだからなぁ!」

 

 会話が噛み合っていない。だが酒の場では会話が成り立つ方が珍しい。ただ雪に抱きついて喚く房太郎の姿が滑稽だということだけわかるので、みんなそれを見て笑っていた。

 

「よいしょっと。雪さん、あんたみたいないい女、海賊にゃもったいねえよ。どうだい俺と遊んでみねえか?」

 

 牛山がのしのしと近づいてきて、雪の隣に腰を下ろした。彼も酒が回っているらしく、顔が赤らんでいて足取りがふらついていた。

 いざこの巨体が近くにあると、酔っ払いでも威圧感があった。

 房太郎はひらひらと手を振って、虫を払うような仕草をした。

 

「駄目だって言ってんだろぉ。雪は俺の嫁なんだからなぁ」

「フラれてるって聞いたぜぇ? 無理やりそばに置いてんじゃねぇのかぁ?」

「ええ〜? 違うよなぁ、雪ぃ」

 

 酒臭い会話だった。2人とも雪の周りで頭をふらふらさせている。呆れた光景だったが、自分に甘える房太郎の姿は愛おしかった。雪は彼の綺麗な髪を撫でた。

 

「一緒にいたいからここにいるんだよ」

「雪……」

「へっ、相思相愛ってわけかい。いいねぇ」

 

 房太郎は雪の体に回した腕に力を込めて、彼女の頸に口付けした。そうしてぴったりくっついている2人を見ると、牛山はぐいっとビール瓶を飲み干してから別の人間に絡みに行った。彼は下世話な人間ではないらしいとわかって、雪は彼への警戒を少し解いた。

 酔っ払い達が騒いでいると、永倉が「さっさと寝ろ!」と怒鳴りながら部屋に入ってきた。

 

「札幌連続殺人の次の犯行の予想はあと2日しかないんだ! はやく起きて札幌を捜索するぞ!」

 

 札幌連続殺人。今新聞を賑わせている、娼婦の殺人事件だ。雪達も道中で新聞を目にしていた。だが、次の殺人が起こるなどという情報は出ていなかったはずだ。雪はまた土方に話しかけた。それで、土方達が今回の犯人をジャック・ザ・リッパーの模倣犯だと推理して、40日以内に反抗が行われると予想しているらしいことを知った。

 

「娼婦の連続殺人、新聞社への予告。たしかに共通点がありますね」

「そして、我々はその犯人が脱獄囚の1人であるとも予想している」

「なるほど、それを捕まえるために捜索すると」

「そういうことだ」

 

 雪と土方が話している後ろでは、酔っ払い達が掴み合いの乱闘騒ぎに発展していた。それというのも、怒鳴り込んできた永倉に杉元が「うっせぇコラァ!」と枕を投げつけて、それが顔面に命中してしまったので、永倉を怒らせて殴り合いになっていたのだ。

 房太郎は雪に寄りかかったまま眠ってしまっていた。だから彼を近くの布団に寝かせてから、大人しくしていたアシリパを連れて隣の部屋に行き、2人はそこで眠った。

 

「ずっと思い詰めた顔をしているね」

「なんでもない……大丈夫だ」

 

 アシリパは口ではそう言ったが、土方の部屋から戻ってきてからずっと、何かを考え込んでいるのは明らかだった。

 のっぺらぼうの娘で、金塊争奪戦の重要な鍵を握らされている。その重圧は、小さな肩では耐え切れないほどのものに違いなかった。いくら大人びていても、幼い少女であることに代わりはないのだ。

 雪は彼女の体を抱き寄せて、頭を撫でた。

 

「疲れたときは、何も考えないで眠るのがいちばんだよ。今だけは考え事をしなくていい」

「……わかっている」

 

 アシリパは嫌がらずに、雪の胸に収まっていた。小さな体を脱力させて、ゆっくりと呼吸をしている。

 

「雪はいい匂いがするな」

「匂い袋を入れてるからね。気に入ったのならアシリパちゃんにも分けてあげるよ。きっとよく眠れるよ」

「雪は、優しいシサムだな。ボウタロウとは違うみたいだ。善人なのが伝わってくる」

「彼だって優しいよ?」

「それは雪にだけだ。お前には悪いが、私達はあいつを信頼しきっていない」

「それはお互い様だ」

「……うん。でも、なぜだろう。雪のことは、信じてもいいって思えるんだ」

「嬉しいな。アシリパちゃんにそう言ってもらえるなんて」

 

 2人は一緒の布団に入って、丸くなった。アシリパは雪の腕の中で微睡んでいた。さっきよりは緊張が解けたようだ。彼女の髪を撫でながら、雪は囁いた。

 

「アシリパちゃんは、きっと大丈夫だよ。杉元が一緒にいれば、あなた達は誰にも負けないように思える。とてもいい相棒なんだね」

 

 アシリパはくすぐったそうにはにかんだ。

 

「雪もそう思うか?」

「思うよ」

「雪とボウタロウも、いい夫婦だと思う。でも、どうして雪みたいに頭のいい人が、囚人と仲間になったんだ?」

 

 アシリパは青く丸い瞳で雪を見ていた。その青はアイヌの大雪原よりも深く、吸い込まれそうな魅力がある。

 

「私達は似ているんだ」

 

 雪は彼女の青い瞳の中を覗き込みながら、呟いた。房太郎と初めて出会った日の川の水面を思い出していた。

 

「寂しがりなところがね。自分ではずっと認めることができずにいたけど、結局は私も寂しかったんだ。だから生活の中に房太郎(ふさたろう)が現れてくれて嬉しかったのさ。彼が家族になろうと誘ってくれたのも、とてもとても嬉しかった。こんな私を必要としてくれる人がいるなんて。偶然だった。彼の寂しさと私の寂しさが噛み合ったんだね。きっとそれだけなんだ。私達の繋がりなんて。ちっぽけなものさ。自分のために利用しているだけなんだ。私達は、独りよがりな寂しがりだよ」

 

 雪は自虐的に言った。言いながら、涙が溢れそうだった。頭のどこかで感じていたことを、口にしてしまうと、まるで変えられない真実になってしまったかのようだった。

 アシリパは冷静なまま、そんな雪を見つめていた。

 

「ちっぽけなものか。人は、そうやって誰かを愛していくんじゃないのか。雪はボウタロウを愛しているだろう?」

「愛だって? そんな大層なもの、私達には……だって私は彼の求婚を受け入れずにいるんだよ?」

「ボウタロウを愛しているのに、結婚しないのは何か理由があるんだろ? 私とアチャのことを聞かずにいてくれた雪だから、私もこれ以上は聞かない」

 

 雪は、陰鬱になっていた己の心に気付いて、我に返った。そして、アシリパの泰然とした佇まいに圧倒された。彼女はやはりその年齢に見合わない精神的成熟を済ませているらしかった。

 

「……ごめんね。少し取り乱してしまった」

「あいつらよりよっぽどましだ」

 

 隣部屋の騒ぎは、明け方にようやく収まったようだった。

 翌朝から、土方一派と共に杉元一派も物売りに化けて創作に加わった。店を構える貸座敷や曖昧屋は犯人が避けるため、狙われるのは道で客を取る街娼だと予想した彼らは、街娼に声をかけて下がらせ、犯行現場を絞ろうとしていた。

 雪は房太郎と一緒に吹玉売りの格好をしていた。

 

「いくらなんでも、札幌全ての街娼に声をかけるのは無理なんじゃないか」

「もう時間がない。日が暮れちまうぞ」

 

 夕暮れを見上げて2人がぼやいていると、急遽寺に戻るよう伝言があった。集められた一堂はその後、土方歳三の協力者である石川啄木により、次の犯行場所を知ることになった。

石川は途中で陸軍兵士に襲われたらしく、身体中ボロボロだった。そんな姿になってでもこの場所にやってきたのは、その手柄でどうやら札幌に来ている花魁に近付きたかったかららしい。

 

「あ〜あ……死んでバッタに生まれ変わればいいのに」

 

 永倉が侮蔑の言葉を吐いたところで、一同はやれやれといった様子で解散の流れになった。

 そこでようやく、雪は石川に声をかけることができた。

 

「お久しぶりです啄木さん」

 

 石川は事を土方に伝えることで精一杯で、それまで雪の顔が目に入っていないらしかった。それが東雲雪であることにやっと気付いた彼は、目と口をあんぐり開けて仰天した。

 

「げぇーッ! し、の、の、めェー!? オマエなんでこんなところにいるんだよッ! ハッ、土方さん、まさか私の代わりにこいつを雇うってんですか!?」

「何のことかね」

 

 土方は興奮した石川の代わりに雪に尋ねた。

 

「一時、同じ新聞社に入っていたことがあるんですよ。啄木さんと私は同業なんです」

「なんとそれは。もっと早くに知っていれば君に声をかけたろうに」

「全くだ。石川よりずっといい」

 

 土方と永倉が揃ってそう言ったので、石川はますます喚いた。

 

「ぬぁ〜に言ってるんですか! こいつは女のくせに我々の仕事を奪う人間ですよ!? 私の記事が載る予定だった新聞も何度奪われたことか!」

「何をおっしゃっているのやら。会社では啄木さんがいちばんの売上だったではないですか」

「お前に仕事を盗られた事実は消えてないんだよッ!」

「優秀な記者ということではないか。東雲女史の名前は、てっきり小説家のものだと思っていた」

「まあ。土方さんも私の名前をご存知だったのですね。光栄です」

「白々しいッ! 女ってのは学問なんかに触れずに家で大人しくしていればいいんだよッ!」

「まあ、ひどい……」

「いい加減黙れ石川」

 

 石川は興奮していて、永倉の静止も聞こえていないようだった。雪としては同業に挨拶しただけだったのだが、余計なことだったようだ。

 石川の女好きは雪も知るところだったが、それが女同業者への敵意にもなりうるものだったのはさすがに知らなかった。彼にとって女は快楽を満たすものであって、そこに知識や能力は必要ないということらしい。

 

「お前、聞いたんだぞ! 夫に捨てられた理由!」

 

 興奮したまま、石川は思いがけないことを言い出した。誰も予想していなかったし、その先などさらに予想がつかなかった。

 雪は、石川に知られていることを知らなかった。「夫」という言葉を出された時に、心臓を掴まれたような嫌な感覚に襲われたが、もう、間に合わなかった。

 

「お前が石女だから捨てられたそうじゃないか! 女の役割もこなせないままに、男の仕事を奪っ」

 

 石川は最後まで言い終わらなかった。その前に吹っ飛ばされたからだ。殴ったのは房太郎だった。房太郎は、すでに傷だらけの石川の顔面を殴り、さらにその胸倉を掴んで殴り続けた。

 

「てめぇ、誰の女を侮辱したんだ?」

「おい海賊、やめろ」

「止めんなよ。こいつ殺していいよな?」

「やめろ。そのクズが死ぬのは我々が困る」

 

 永倉と土方が辛うじて房太郎の手を止めた。房太郎はまだ殺気を抑えられなかった。

 

「おい、雪さん出てっちまったぞ。追いかけた方がいいんじゃねえのか」

 

 牛山が部屋の出口を指差した。部屋の中から雪の姿がなくなっていた。それで房太郎は我に返って、部屋を出て雪を追いかけに行った。「雪、おい雪!」静まり返った部屋の中で、房太郎が雪を呼ぶ声だけが虚しく響いていた。

 

「今のは啄木が悪い」

 

 房太郎を見送ってから、アシリパがぴしゃりと言い放った。当の石川は、房太郎に殴られたせいで気絶していたので聞こえていなかった。

 

「門倉、うまずめってなんだ?」

 

 アイヌのキラウシが、こっそりと門倉に尋ねた。門倉はぼりぼりと頭の脇をかいて、言いにくそうにキラウシに耳打ちした。

 

「子を産めない女のことだよ」

「こいつは馬糞で足滑らせて頭打って死ねばいい」

 

 永倉の言葉に、この場の誰もが同意せずにいられなかった。

 雪は一行が使っていた僧房を飛び出して、本堂から離れた仏堂の入り口にしゃがみ込んでいた。

 背中を丸めて膝を抱え込んで、その中に顔を埋めていたので表情が見えなかった。その頭はずっしりと重さが増したように膝の中に沈みきっている。結えた黒髪の下から頸が流れていたが、いつもよりも青白いように思われた。

 

「雪」

 

 房太郎はその姿を見つけると、駆け寄って肩を抱いた。雪はまだ顔を上げなかった。

 

「あんな奴の言うことなんか気にすんなよ」

 

 体を抱いて頭を撫でて、肩をさすった。雪は死人のようにぐったりとしていた。正直なところ房太郎は、この雪の姿を見るまで石川の言葉を真に受けていなかった。ただの侮蔑と思っていたのだ。しかし、雪はその程度の言葉でここまで傷つくほどか弱い女ではない。それならばあの言葉は、何だったというのか。房太郎は雪の体を撫で続けたまま、彼女にそっと尋ねた。

 

「あいつの言ってたことは、本当なのか?」

 

 かすかに首が動いて、雪はたしかに頷いた。房太郎は息を呑むのも、吐くのもこらえて、努めて平静な態度を取った。

 

「そうか」

「私が自分の口で言うべきことだった。ごめんなさい」

 

 雪はゆっくりと、重たそうに顔を持ち上げた。瞳は輝きを失い、ぼんやりとしていた。顔色もやはり青ざめていて、今にも倒れてしまいそうな印象があった。

 

「お前の『言わなければならないこと』ってのは、このことか」

 

 雪はまたゆっくりと頷いた。

 

「15のとき、見合い相手と婚約した。でも私は、何年経っても子供ができなかった。夫にはそれが原因で捨てられてしまった。家族に縁を切られたのも、本当はそのせいなんだ。……だから私、私は……」

 

 雪はしゃくり上げるように言葉を詰まらせた。房太郎は彼女の手を握って言葉を待っていた。やがて雪は、ぽろぽろと涙を溢し始めながらも、続きを紡いだ。

 

「私は、あなたの家族を作ることができないっ……あなたの夢を叶えることが、できない……あなたの隣にいるべきじゃないんだ……隠していてごめんなさい……」

 

 そうして雪は顔を背けるようにして、涙を隠そうとしたので、房太郎はそれより先に彼女の頭を胸に抱いた。彼女はその胸の中で嗚咽した。腕の中で、肩を震わせて。その全てを包むように、房太郎は何度も雪の頭を撫でた。

 

「謝るなよ、雪。お前は何にも悪くねぇじゃねぇか。俺がずっと無茶言っちまってたんだな。辛かったろ。ごめんな」

「違う、私、私がずっと隠していたせいで……私、あなたに捨てられるのが怖くて……」

「俺がお前を捨てるって? おいおいわかってねぇな。雪、俺はお前を愛してる。愛してるんだ、雪。今さら何を言われたって、俺はお前を離す気はない」

「でも、あなたは、家族がほしいんだろ? 私は……あなたの家族になれない……」

 

 雪はまた大粒の涙を溢れさせた。

 今までの彼女の言葉が、全て房太郎の中で繋がった日だった。

「家族」の形に忌避感を示し、房太郎を愛しているにも関わらず求婚を断り続けた理由。それがやっとわかって、房太郎はむしろ安心していた。自分への愛の確信は間違っていなかった。その方が房太郎にとっては重要だった。だから雪の恐怖は全く無用のものだったのだ。

 

「雪、前にも言っただろ。俺がほしいのは血の繋がりじゃない。帰る場所なんだ。お前がいるところが俺の帰る場所になる。知ってるか? 俺、お前が『おはよう』って言ってくれるのが好きなんだ。いつだって俺を迎えてくれるお前の声が大好きだ。なぁ、俺の名前を呼んでくれ」

 

 房太郎は雪に囁き続けた。雪は淵の大きな目を濡らしながら、彼の顔を見上げた。

 

房太郎(ふさたろう)

「ああ。俺は大沢房太郎(ふさたろう)だ。この名前で呼んでくれるのはお前だけになっちまった。雪。お前と家族になりたい。お前じゃなきゃ駄目だ。子供ができようができまいが、どうでもいいんだ。お前はそれよりもずっといい方法で、俺が生きた証を残してくれるだろ」

 

 雪は房太郎の大きな体に身を預けていた。すっぽりと体を覆われていて、温かい。頭を撫でる手も大きくて、安心する。垂れ幕のように体を流れる髪は、毎日の手入れのおかげで黒檀のように艶やかだ。

 愛しい人にここまでの言葉をもらえた。雪はだんだんと呼吸を落ち着かせて、ゆっくりと息を吐いた。

 

「雪、愛してる」

 

 房太郎はもう一度、彼女の小さな耳元に囁いた。心からの言葉だった。これ以上に、想いを表せるものはない。

 

「私もだよ」

 

 雪はまだ潤んだ瞳で房太郎を見つめていた。泣いたせいで赤くなった目元と頬が、彼女をいつもより幼く見せていた。弱々しく、いじらしい。

 

「愛してる」

 

 雪の口からその言葉が出たのは初めてだった。房太郎は、甘い美酒に溺れるような心地を味わった。

 花の香りに吸い寄せられる蜜蜂だった。

 房太郎は彼女に吸い寄せられるように、その唇を喰んだ。雪はもう拒まなかった。2人は今までの時間を取り返すように、何度も吐息を混ぜ合った。

 

「お前を抱きたい」

 

 いつかの日のように、房太郎は雪に覆い被さった。長い髪が垂れて、2人を外から隠していた。2人の表情は互いにしか見えていなかった。

 

「抱いて」

「……いいんだな?」

「あなたに抱かれたいの」

 

 潤んだ瞳が房太郎を見つめていた。

 何度も何度も、その肌に触れたいと思っては抑えてきた欲情が膨れ上がって、房太郎の体を沸騰させるかのようだった。ぼうっとする頭の中で、房太郎はとうとうその柔肌に触れた。

 

 2人は翌日の昼頃に皆のところへ戻った。そのときにはすでに、一同は今晩の作戦会議を終えていたらしく、各々好きに過ごしていた。僧堂の広間には土方と永倉がいて、2人はそこで囮作戦の詳細を知らされた。

 

「石川の非礼を詫びよう。すまなかった」

 

 土方は2人に面と向き合って頭を下げた。房太郎はそれでもまだ不服そうに眉を顰めていたが、雪はこんな大物に頭を下げさせるのが忍びなくて仕方なかった。

 

「あいつ本人が頭を下げろよ。どこにいるんだ?」

「奴は傷がひどいので医者にやってる。お前の言い分はもっともだが、しばらくは無理だろう」

 

 房太郎が不機嫌そうに尋ねると、永倉が答えた。房太郎はますます面白くなさそうな表情になっていく。雪は彼の袖を引っ張って言った。

 

「いいよ房太郎(ふさたろう)、あの人も間違ったこと言ったわけじゃないんだから」

 

 すると房太郎は、雪に向かって何か言おうとしたが、諦めたかのように盛大なため息を吐いた。

 

「お前のお人好し加減には呆れる」

「それより今後の話をしよう。作戦では囮の女役が必要なんだろ。私が囮になるということでいいのかな」

 

 淡々と話を変えた雪には、土方も永倉も小気味良さを感じた。そして、それに従うことにした。

 

「我々はそのつもりだが、そちらの意見を聞きたかった」

「何言ってんだ! 雪にそんな危ない真似させられるかよ。囮なら俺がやる。他の囮だって全員男だろ?」

 

 房太郎は雪の肩を抱き寄せて言った。

 

「どちらでもいい。組分けは話した通りだ。今、囮役が着物の合わせをしているから、お前達もそっちに行ってくれ」

 

 永倉がそう言ったので、2人は隣の僧堂へ行った。言葉通り、囮役の白石、門倉、夏太郎を中央に立たせて、それを囲むように皆が集まっていた。床には女用の着物が折り重なっており、囮役達はそれを脱ぎ着しているらしかった。

 2人が入ってくると、一同は一瞬静まり返ったが、房太郎が間髪入れず声を出したので沈黙を防いだ。

 

「よお。俺に合う着物はあるか?」

「あれ。ボウタロウもやるのぉ? 雪ちゃんがやると思ったのにさぁ」

「雪に危ない役をやらせるわけねぇだろうが」

 

 白石が最初に答えたおかげで、この場の緊張感は一瞬にして解けた。最初の一声に迷っていたらしい真面目な男達は、そのまま2人の会話に乗ることにした。

 

「ボウタロウは図体がデケェから、ここにある着物じゃ合わねぇだろ。ほら、裾が短すぎる」

「だからってわざわざ新しいの買うわけにもいかねえだろ。ここにあるので誤魔化せよ」

 

 杉元が適当な着物を房太郎に合わせて、丈が合わないのを示して見せたが、門倉がそれを無理やり着させた。身長だけでなく肩幅もあるから、袖を通すのも苦労するようだった。

 

「うお、袖が通らねえ。おいキラウシ、有古、手伝え!」

「通るのかこれ?」

「痛え痛え! 無理やり引っ張んなよ!」

 

 男達が戯れ合い始めたのを見ると、アシリパはこそっと雪に近寄った。

 

「雪、大丈夫か?」

 

 アシリパは目ざとく、雪の目が赤く腫れているのに気付いていた。聡い彼女には隠すことができないだろう。雪は彼女に目線を合わせて膝を折った。

 

「大丈夫だよ。ありがとう」

「なら、いいんだ」

 

 2人は微笑みあってから、男達に混ざってあれやこれや口を出し始めた。夕方になってようやく、囮の街娼が4人出来上がった。

 一行は夜になってから札幌ビール工場付近に集まった。3人1組に分かれ、それぞれ街娼1人につき合図役と仕留め役がいる。

 房太郎は有古、都丹と組になっていた。雪を現場に連れて行くことは承知しなかったので、雪は近くの宿の一室で、夜の札幌を見守っていた。

 だから、その夜に房太郎がアシリパに尋ねたことを、彼女は知らなかった。

 

「雪がいるじゃないか。雪はきっと、お前のことをずっと覚えているぞ」

 

 房太郎が尋ねた「夢の話」を聞きながら、アシリパは雪の言葉を思い出していた。雪は房太郎の本質をよく捉えているように思われた。

 互いの寂しがりが噛み合った、ふたり。房太郎が本当に欲しいものは、きっと国なんかじゃない。もう手に入れてすらいるのではないか。アシリパは彼の顔を見上げて、そう思っていた。

  

「アシリパちゃんの想う未来に杉元佐一はいるの?」

 

 房太郎は相変わらず、無遠慮に心の扉を叩くのだった。アシリパはその礼儀知らずに苛立ったが、また雪の言葉を思い出して堪えた。いつだったか雪は、「ごめんね」と断ってこう言ったのだ。

 

房太郎(ふさたろう)は不躾な質問をすることがよくあるんだけど、私の顔を立てて許してやってくれないかな」

 

 あの様子だと、雪自身もその「不躾な質問」を浴びせられたことがあるようだった。もう数年共にいるらしいから、それも一度や二度ではないだろう。にもかかわらず、あの慈悲深い言葉を発するのだから、雪は優しすぎる。いや、その優しさは、あるいは房太郎にだけ向けられているのかもしれない。ともかく、アシリパは雪の優しさに免じて怒りを堪えることにした。

 杉元佐一が、未来にいるのかどうか。

 樺太に行く前には、不本意にも毒矢で尾形を射るまでには、その質問には答えられなかったかもしれない。だが今は迷いなく答えられる。

 未来は、地獄行きの特等席にいる、その男と共に。

 

 作戦が始まってしばらくしたころ、ドンっと大きな音が鳴って辺りが急に明るくなった。合図の花火が上がったのだ。門倉、キラウシ、牛山組が配置されている場所だった。夜の札幌が鮮やかな火に照らされ、街を蠢く陰謀達の顔が晒される。

 宿屋の一室で、雪もその花火を見ていた。祭りの華やかさとはかけ離れた冷たい音だった。その光を見た瞬間、雪の胸を嫌なざわめきが襲った。さっと血の気が引いたような感覚に陥り、神経が湧き立ってどうにも落ち着かない。少し間を置いて、さらにそのざわめきを煽るように、銃声が何発か鳴った。

 

「駄目だ。雪は安全な場所にいろ」

「どうして。私もあなたのそばにいるよ」

 

 作戦が始まる前、房太郎は駄々をこねる雪を宥めて、困ったように眉尻を下げた。

 

「そりゃ嬉しいがよ、お前が危険な目に遭う方が嫌なんだ。杉元達だけじゃなくて、土方もいる中じゃあ、お前を見失っちまうかもしれねえだろ。わかってくれ。事が済んだらちゃんと戻ってくるから。そうしたら俺達で金塊をぶんどっちまおうぜ」

 

 房太郎は大きな身体で雪を抱き締めてから、街に出て行った。そのときは彼の言う事を聞いて、こうして大人しく留守番することしたが、どうにも今は逸る気持ちを抑えられなかった。

 そんな中で、もう一発の花火が上がった。神経が昂っていた雪は、びくりと過敏に反応してしまう。

 花火が上がるのは、囚人と遭遇した合図だ。なぜ2回上がったのだろう。

 窓から街を見下ろすと、軍帽を被った集団が駆けていくのが見えた。こんなところにやってくる軍人など決まっている。第七師団だ。

 だが、そんな奴らとの交戦は予定になかったはずだ。杉元、土方組は知らないが、少なくとも、自分たち2人はそうだ。陸軍相手に喧嘩をするつもりは毛頭ない。花火の数からしても、もはや、ジャック・ザ・リッパーを捕まえてそれで終わりなんて事態では終わらなくなっているのかもしれない。

 雪は青ざめた顔で、札幌の街に飛び出した。

 銃声飛び交う街中、ビールが溢れ出す工場、馬の嘶く声。札幌は戦場へと化していた。喧騒をかき分けて、房太郎の姿を探し、明け方にやっとビール工場の宣伝車の中にそれを見つけたときには、もう全てが終わっていた。

 

房太郎(ふさたろう)、そんな」

 

 声の方を振り返って、アシリパはぎゅっと壊れそうな胸を押さえつけた。そこにいたのは、髪も服も乱れ、肩で息をする雪だった。雨が降り始めたというのに、濡れることも厭わず、あるいは気付いてすらいない。恐怖で見開いた目は、ただ一点しか見ていなかった。青ざめた顔でふらふらとこちらに近づいてくる。

 

「雪ちゃん……」

 

 白石は悲痛そうな表情をしていた。杉元は黙ったままだ。軍帽の庇でその顔は見えない。アシリパは胸が張り裂ける思いだった。

 

「雪……」

 

 アシリパの呼び声も、雪には聞こえていないようだった。まだ車の中で横たわるその体に、恐る恐る、ゆっくりと手を触れる。身体中が血まみれで、空虚に開いた唇は固かった。大きな手は、すでに温度を失い始めていた。

 

「置いていかないで……」

 

 雨音の中に、雪の声が痛ましく落ちて行った。

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