白石は雪を落ち着かせたあと、房太郎の身体を目立たない場所に埋めてやった。工場の停車場だが、これ以上房太郎を運ぶことはできない。雪1人で運ぶのも現実的ではなかった。雪はしばらく茫然としていたが、白石が声をかけると大人しく埋葬を手伝い始めた。鶴見中尉に追われている事を察して、彼らが長くここに留まることができないことがわかっていたのだ。こういうときに、雪は為すべき事を為す人間であった。しかし、埋葬用の穴を掘っている最中もずっと魂が抜けたかのように覇気がなく、その目は虚だった。
「俺、ボウタロウに助けられたんだ」
房太郎の顔に土を被せた後、白石は言った。
「彼は、最期に何か言ってた?」
雪は房太郎が眠りについた土を眺めていた。降り注ぐ雨が土を濡らし、染み込んで、房太郎の身体を沈めていく。
「『俺のことを忘れるな』ってさ……王様のことは、俺も絶対に忘れないよ」
「ありがとう、白石。アイヌが金塊を隠した場所のことだけど……」
「それも、最期に教えてくれたぜ」
「それなら、よかった」
「雪ちゃんは、これからどうするんだ? もし雪ちゃんさえよけりゃあ、俺達と一緒に来なよ」
「私はもう金塊を追い求める理由がなくなってしまった。争奪戦からは抜けさせてもらうよ。やることもあるからね。私の王様の物語を綴らなければならない」
「……そっか。じゃあ、ここでお別れだな」
「金塊はあなた達が見つけてね」
杉元一行と東雲雪は、こうして互いに別れを告げた。
女作家は、札幌の我が家に戻ることにした。再び、ひとりになって。
三年の不在で、家は荒れていた。壁や床が傷み、野生の住民達が我が物顔で居着いていたらしい。書斎の本が虫除けと防腐剤のおかげで無事だったのが、せめてもの救いだった。
だが、雪はもはやその家に住む事ができなかった。がらんとした部屋でひとり、咳をしても、声を上げても、何も返ってこない。今までは平気だったはずの空虚さが、牙を剥いて雪を襲うのだ。
寂しい。
くず折れて、慟哭した。胸に空いた穴の埋め方がわからなかった。
彼との思い出に縋りついて、雪は筆を走らせた。そうしていなければ死んでしまいたくなるからだ。それは、彼がいちばん恐れていることなのに。だから、筆にしがみついて命の火を長らえさせていた。三年の月日を書き起こし、その顔を、手を、温もりを思い返すたびに、胸に空いた穴が広がって、身体をボロボロにしていくようだった。
家の中にいるのが耐えられず、彼との思い出を求めて、ほとんど北海道を放浪するようになっていた。そうして少しして再会したのが、ヴァシリだった。彼のその目を見た瞬間、同じくらいに大きな喪失を経ていたことが雪にはわかった。ロシア人の緑色の瞳は以前のような輝きを失い、虚に空を彷徨っていた。
彼は腕を負傷していて、もう狙撃手になることはできないらしかった。その代わりなのか、絵の方に心身を注ぎ込んでいた。寝食をまともにとらず、彼はずっと死体の絵を描いていた。線路の上で死んでいる軍人の死体だ。テーマはずっと同じで、取り憑かれたように筆を握っていた。それが彼の喪失であり、絵画はその埋め合わせの儀式であることが雪にはわかった。
少し見ないうちに、やつれて垢まみれになっていた知人を見ると、雪のお人好しと世話焼きが少しずつ息を吹き返した。家に連れて帰り、風呂と食事と寝床を与えた。やがて、そのまま生活を共にするようになった。ヴァシリは相変わらず口が聞けなかったから、2人の間に多くの会話はなかった。それぞれ本と絵に向き合う時間の方が多く、寝床を共有するだけの間柄だった。
時折、雪は発作的に泣き出すことがあった。思い出を紡ぐ作業に耐えられず、あるいは、夢に出るその背中に追い縋って。そんなときにはヴァシリも筆を止めて、黙ってそばに寄り添っていた。そうするとさすがの彼も、雪がここにいない誰かを求めて泣いていることに気付き、あるとき、筆談で尋ねた。
「一緒にいた髪の長い男はどうしたんだ」
ヴァシリは杉元一行と旅をしていたときのスケッチを持っていた。その中には房太郎と雪の姿もあった。それを見せながら尋ねたヴァシリは、余計に雪を泣かせることになった。彼の精巧なスケッチは、日に日に薄れていく房太郎の姿形と体温を再び甦らせるような魔法だったのだ。二度と触れる事ができないその顔を、再び目の当たりにして、雪はかえって房太郎の喪失をより深く痛感することになった。
絵の中にいる房太郎は、記憶の中の房太郎である。雪の思い出の中にいる房太郎と、同じ顔をしている。同じ目を、髪を、口を、手を持っている。だがこの絵は絵でしかない。雪の中には、北海道の大地よりも、大海原よりも広くて深い、溢れ出るほどの記憶と想いがあるというのに、それは雪の中にしか存在しない。この絵を房太郎の生きた記憶と結びつけることができるのは、この世に雪1人しか存在しないのだ。雪が諦めてしまえば、投げ出してしまえば、このまま死んでしまえば、彼が生きた記憶は全て消えてしまう。
なんて悲しい、寂しいことだろう。どんなに偉大で美しい王様でも、時の流れ、人間の忘却の前では、無にすらなりうるというのか。房太郎はそれをこそ恐れていたのだ。ここにきて、雪はやっと彼の夢を本当の意味で理解する事ができた。
綴らなければならない。彼が生きた証を。
「死んでしまった。ここに、私の中には生きているのに。もう、触れることも、言葉を交わすことも叶わない」
やっと泣くのをやめて落ち着いてから、雪はロシア語でヴァシリに語った。ヴァシリはスケッチの中から房太郎の姿をあるだけ探して、雪に譲った。雪は、書斎にあるどんな貴重な本よりも大切にその絵を保管した。
「あなたは、あれからどうしていたの。オガタとは会えたの?」
ヴァシリはずっと描き続けている死体の絵を指した。線路の上に横たわる男は、体から血を流してぐったりとしている。目を撃たれたらしく、片目が潰れて血が顔を伝って流れていた。
「あなたが勝ったの?」
ヴァシリは激しく首を横に振った。そして、スケッチを交えながら、あの洋食屋で別れた後のことを筆談で話した。尾形との再戦と、敗北。またも死に切れなかった屈辱。勝ち逃げした好敵手。
「私はもうオガタに勝つことができなくなってしまった」
走り書きで語っていたヴァシリは、そこでペンを置いて項垂れた。何日もの間ずっと筆を握っていたので、指先は黒ずんで汚れている。風呂も雪が強く言わなければ入らないので、指どころか顔も身体中も、汗と垢で汚れていた。
「似ているね」
雪はぽつりと呟いた。
2人はそれぞれの作品に浸りながらも、同じ時間を過ごした。それは、雪にとっては心の穴を埋めてくれる時間だった。ヴァシリがあまりにも生活に頓着しないので、その世話を焼く事が痛みを忘れさせてくれた。閉じこもってがむしゃらに文字を綴り続けるよりも、そうして活力が湧いた頃の方が、ふとした房太郎の言葉や仕草を思い起こすことが多かった。ヴァシリの世話をするうちに、少しずつ、また外を向くようになった。
同じ家の中にいたが、2人の間にはほとんど会話がなかった。それも雪の方から食事や風呂の声をかけるだけで、ヴァシリが何かを発することは滅多になかった。画材を買い与えてしまったあとは、余計にキャンバスの前から動かなくなった。
「オガタのことを知りたい」
そんなヴァシリだったが、ついにキャンバスから離れることがあった。あるとき突然そう言って、雪の前に立ち塞がったのだ。最近やっとまともに言葉が発せられるようになり、簡単な会話ならできるようになったばかりだ。
ヴァシリに与えた居間は絵の具の匂いが充満し、雪が定期的に窓を開けて換気をしなければその匂いに溺れるくらいだった。床には敷物を敷いているが、染み込んだ絵の具はすでに畳を侵食している。もう腐り始めているかもしれない。町へ行って畳屋を呼ばなければ、と、雪は部屋に目をやって考えていたが、ヴァシリはそんなこと構いもせずにもう一度言った。
「オガタのことを知りたい。このままでは俺の中にいるオガタまでもが腐乱してしまう」
部屋の中にはあの絵が散乱していた。光の加減や色の具合が異なるだけで、どれも構図が同じ。尾形の死に姿だ。尾形の体はもう土に還っている。ヴァシリだけが尾形という男をこの場に留まらせているのだ。たぶん、この世でヴァシリだけが。だがヴァシリは尾形のこの姿しか知らないようだ。顔を見たのはほんのわずかで、狙撃勝負をしている間はもちろん姿など見えない。内心を絵で出力するヴァシリは、目で見えないものを表すのが難しい。勝負の時間と、この死体でしか尾形を知らないヴァシリは、何度も同じ記憶を取り出して眺めて、追想しているのだろう。何度も何度も、じっくりと。
だが記憶は新しくならない。過去は過去であり、記憶はむしろ薄れてなくなっていく。少な過ぎるそれを無理やり押し留めると、経過に耐えられず腐っていってしまう。
腐乱する。
雪はその感覚がわからないわけではなかった。だが、雪が持つ房太郎の記憶は豊かなものだった。三年もの時を共に過ごしたその記憶は、追想するだけで何日もの時間を使うし、あのときの房太郎も、そのときの房太郎も、雪はいつだって鮮やかに思い出せるほど密度が濃い時間を過ごしたのだ。美しく保存できるだけの豊かな記憶だ。
だけどいつかは、雪の中の房太郎も腐乱するのかもしれない。ヴァシリの目は虚ろだ。曇ってしまった緑色を見ていると、雪は霧に包まれるような不安を覚えた。
「気持ちはわからないでもないけど、私もその人には会ったことがないんだよ。杉元にでも聞いておけばよかったかもしれないけど、第七師団にいたことくらいしか……」
「それは日本陸軍のことか?」
「そう。陸軍の北鎮部隊といって、北海道の……」
「なら陸軍に話を聞きに行こう」
雪の言葉も待たずに、ヴァシリはさっさと絵筆を置いて背嚢を掴み、旅支度を始めてしまった。この突発的な行動力。故郷と仕事を捨てて日本に渡ってきただけのことはある。傍若無人さには呆れつつも、雪には彼の鋼のようなまっすぐさが美しく映った。
「あんた日本語話せないだろうに」
「お前がいるのだから問題ないだろう」
また寂しくなるな、と思いながらも、ヴァシリを送り出そうとした雪だったが、返ってきた言葉に目を丸くした。
「は? 私も着いてこいって?」
「まあ、無理にとは言わん。では世話になったな」
「ちょっとちょっとちょっと! 何のアテがあってどこに行くんだよ!」
こうして、ヴァシリのせいで、雪はまた家を空けることになった。日本語も北海道の地理もわからないくせに迷いなく進んでいくその背中が危なっかしく、それでいて眩しく見えたのだ。彼と共に陸軍から尾形の情報を集める旅をした。小説家の取材という名目にすれば、それなりに中に入ることができた。
ヴァシリは尾形が「山猫」と呼ばれていたことを知ると、絵のモチーフを猫に変えた。そうして尾形の話を聞きながら描き上げた作品は最期まで手放さなかった。
旅をしながら、雪はまた房太郎との思い出に浸っていた。尾形の足取りを辿り、杉元とアシリパにも会いに行った。2人はアイヌの村で仲睦まじく暮らしていた。そこで金塊争奪戦の顛末を知り、土方、牛山、都丹の死も知ることになった。
彼らがそうしてまで追い求めた金塊は、五稜郭に眠らせているらしい。アシリパらしい賢明な決断だと、雪はそのまま伝えた。
ところがその金塊は、数年後に姿を変えて雪の元を訪れることになる。
白石の顔が彫られた、どこかの国の貨幣。
「王様のことは、今だって忘れてないぜ」
短い手紙と、とえる王国への招待状が入った封筒が家に届いた時、雪は大いに笑った。大いに笑い、大いに泣いた。
海賊房太郎の夢を受け継ぐ者は、自分だけではなかったのだ。
尾形を求める旅を終えた後も、それから数年、雪はヴァシリと共に生活していた。雪が口聞きをして、ヴァシリは画家として生計を立て始めた。雪も作家業に専念して、2人はまたそれぞれの作品に浸る日々だった。文学と芸術の界隈でそれぞれ名を馳せた2人は、共に暮らしていることも世間に知られており、ほとんど夫婦として見なされるようになった。
しかし2人はいつもそれを否定した。雪の中には最後まで房太郎がいたからだ。
強く、気高く、美しく、いつまでも輝き続ける、私の王様。
第一次世界大戦、大東亜戦争の時代が過ぎ去り、やがて雪も土に還っていった。
そうして雪と房太郎は、ようやく再び巡り会うことになるのだった。