「白石が、みんなで花見に行こうってさ。来週の日曜は空いてたよな?」
夕食のカレーを頬張りながら、房太郎が切り出した。雪はスマホのカレンダーの文字列を思い浮かべてから頷いた。
「うん。空いてる」
「よし! じゃあ俺達は足に使われるらしいから、日曜は早くに出て白石達を迎えに行こう」
房太郎は嬉しそうに笑う。白石からの誘いを断ることなんてない。きっと今回も、雪の予定を確認する前にYESの返事をしてしまっているのだろう。つい最近も顔を合わせて宴会をしたばかりだというのに。
少し呆れるが、雪も楽しみに思う気持ちは事実だった。
「お弁当もたくさん作らなくちゃ。アシリパちゃんはよく食べるから」
「それは杉元達の仕事だ。食う奴らに任しときゃいい。雪は俺にだけ作ってくれ」
房太郎は真面目なのか冗談なのかわからない顔でこういうことを言う。
「大人気ないこと言わないでよ。嬉しいけどさ」
「だってあいつらいつも食い尽くすだろ。俺だって雪の料理が食いたいよ」
「毎日食べてるでしょ」
「それとこれとは別だろー?」
この現代日本に生まれ直した二人は、涙の再会を果たして共に暮らしている。杉元一行とも再会してからは、白石と意気投合するままに飲み会やらパーティやらをしょっちゅう開いている。もっとも、白石は体良く食事をたかっているようだったが、房太郎も雪も彼らと食事をするのは好きだった。
過去のしがらみを忘れて、笑い合う。それだけで、心が満たされる。
「そうだ、ヴァシリも呼んでいい?」
雪が言うと、房太郎は一転して嫌そうに顔を歪めた。
「そう言うと思って、先に声かけといたけどさ、おあいにく。先約があって来れないってさ」
「またオガタとどこか行くのかな……」
「ズキンちゃんの名前出されると傷付くんだぜ、俺は」
ヴァシリと雪は現代でも仕事仲間だった。ヴァシリは雪の本の装丁を担当したり、挿絵を描いたりしている。雪は彼の個展のスポンサーを名乗り出て、活動のフォローをしていた。
房太郎は彼に嫉妬している。
「ただの仕事仲間だって言ってるだろ。ヴァシリは絵のことにしか興味ないよ。私も……」
雪は、仏頂面でカレーを睨み始めた房太郎を宥めるように言って聞かせた。だが途中で恥ずかしくなって、一度言葉を切ってカレーを飲み込んだ。
「
房太郎は顰めっ面を解いて、雪の顔を覗き込むようにして見つめた。
「もう一回言って?」
「……だめ」
雪はさっさとカレーを平らげると、食器を重ねて持ち上げてシンクに向かった。照れ隠しで、わざと水音を立てて洗い物を始めた。
そんな彼女の背中に歩み寄って、房太郎はそっと腕を回した。
「大好きだ、雪」
言い含めるような囁きが温かく、雪も体に回された大きな手を撫でた。
「私もだよ」
「俺雪ちゃんのだし巻き大好きぃ」
「お前らさっきから食いすぎだろ」
杉元、アシリパ、白石の一行と合流してレジャーシートを広げると、三人、特にアシリパと杉元は花より団子といった様子で、持ち寄った弁当を頬張っていた。相変わらず、「ヒンナ」と言い合っている。杉元は詳細な食レポを発揮してくれるから、雪は彼の感想を聞くのが好きだった。
「俺が独占したかったのによぉ」
「お前は毎日雪さんの手料理食ってんだろ」
「まぁな」
白石がヒュウと口笛を吹いた。
「いいな~。俺もお夕飯お邪魔していい?」
「駄目に決まってんだろ」
「白石が一緒なら楽しそうだけど」
「雪ってばよぉ~。俺の気持ちも汲んでくれよ」
大きな体でもたれかかってきた房太郎の頭を撫でて、雪はくすくす笑った。
「ごめんごめん」
「雪はときどき意地悪だよなぁ」
「昼間っからいちゃつきやがって」
杉元が軽く悪態をついた。
アシリパは桜餅を頬張りながら二人をじっと見つめていたが、やがて青く澄んだ瞳のまま尋ねた。
「二人はいつ結婚するんだ?」
彼女の無垢な言葉に刺され、宴会の場は少しだけ静かになった。雪はドキリとして少し照れ臭かったが、望太郎の方は照れもせず嬉しそうに話し出した。
「俺と雪の仕事がもうすぐ落ち着くからさ、そのタイミングで挙式しようと思ってるんだ」
「へぇ~。んじゃあもう籍は入れんの?」
「実はもう入れてる」
一同の歓声が上がった。
「なんだよ言えよ! お祝いしたのにさぁ」
「祝いは披露宴でたっぷりしてくれよ」
「指輪してないから気付かなかったぜ」
「俺の指に合うサイズがなくてよぉ。今発注してるとこなんだ」
「オーダーメイドかよ。贅沢だなあ」
「そりゃ社長サマと作家先生の夫婦だもんなあ。マンションも広いし」
「そのうち家も買うつもりだよ」
白石は額を叩いて後ろにひっくり返った。
「俺、お前らとは一生仲良くするぜ」
「雪、お前一人のときは入れなくていいからな」
「心配しなくても、知らない人は入れないよ」
「俺って知らない人なのぉ?」
笑い、食し、飲み、日が傾いてきたころに宴もたけなわとなり、一行は後片付けをしてそれぞれの帰路についた。
別れ際、アシリパは雪の足元に駆け寄って、「おめでとう」と言ってくれた。雪は膝を折って彼女の体を抱きしめ、「ありがとう」と心の底から答えた。
マンションに戻ってから、房太郎はふいに雪を後ろから抱きしめた。彼は甘えるときにはこうして肌を触れ合わせる。どうしたの、と問いかけるように、雪は彼の顔を見上げたが、それより先に手が重なった。
房太郎の大きな手が雪の手を包み、その薬指に指輪を通した。
体温に溶けるような銀色の感触に気付くと、雪は驚いてその手をかざした。それは先日、房太郎と二人で選んだ指輪だった。現物の受け取りはまだ先だと思っていたが、それが今自分の指に嵌まっている。
「こういうのはサプライズで渡したくてさ。こっそり受け取ってきたんだ」
囁きながら、房太郎も左手を見せた。彼の薬指にも同じ銀色が光っている。
「驚いた?」
「驚いたよ。すごく嬉しい」
雪は彼に向き直り、その首に腕を回してひしと抱きしめた。身長が違いすぎて、雪は精一杯背伸びをしないと届かない。房太郎は彼女の体を腰から抱き上げた。
「あのときはお前を置いて行っちまったけど、今回はもうあんな寂しい思いはさせねぇからさ」
明治のあの日、札幌で雨の中に沈んで消えていった房太郎の体を、雪は今も覚えている。そのあとに自らの死を迎えるまで過ごした、孤独と悲痛に埋もれた灰色の日々も。
だが今は、温もりに触れている。温かくて大きな手。毎日手入れしている、艶のある黒髪。愛しさに溢れたまなざし。
彼の頬を両手で包んで、雪は優しい口づけを落とした。
房太郎は彼女の柔い唇を受け入れて、目を閉じた。雪解けの日差しのように、二人の体温が溶け合う。かつて分かたれた二つの魂は、同じ時、同じ場所で、呼吸を重ねた。
重なり合った運命は、もはや永遠に離れることはない。