再び、世界が歪んだ。
メメントスへ入った時と同じように視界がぐにゃりと揺れ、周囲の景色が形を失っていく。
一瞬だけ目を閉じる。
そして、次に目を開けた時には。
「……戻った」
そこには、見慣れた渋谷の風景があった。
地下通路へ続く階段。
行き交う人々。
耳に戻ってきた駅前の喧騒。
ついさっきまでいた薄暗く不気味な空間が嘘みたいに、何もかも元通りだ。
……いや。
元通りなのは場所だけじゃない。
「…………」
隣を見る。
黒いロングコートも。
海賊も。
猫も。
狐も。
世紀末もいない。
そこにいるのは、見慣れたいつもの雨宮たちだった。
「……本当に戻ってる」
「だから言っただろ?」
坂本が笑う。
「見れば分かるって」
「いや、分かるには分かったけどさ……」
改めて辺りを見渡す。
普通の人たちは、何事もなかったように俺たちの横を通り過ぎていく。
この場所がほんの少し前まで、あんな不気味な世界と繋がっていたなんて誰も思わないだろう。
俺だって、自分で体験していなかったら絶対に信じない。
「……本当に戻ってきたんだよな」
「ええ」
新島先輩が答える。
「だよなぁ……」
さっきまでいた場所を思い返す。
認知世界。
パレス。
メメントス。
ペルソナ。
そして、人の心を盗む怪盗団。
全部、この数十分で実際に見て、聞いたことだ。
頭では理解している。
自分から関わると決めたことだって、もちろん忘れていない。
それでも、ついさっきまで普通の高校生だった身としては、一度に飲み込むにはあまりにも現実離れしすぎている。
「……改めて考えると、とんでもないところに首突っ込んだな、俺」
「後悔した?」
高巻さんが少し心配そうに聞いてくる。
「いや」
そこだけは迷わず答えた。
「それはしてない」
「……そっか」
高巻さんが少しだけ笑った。
俺だって、今でも怪盗団のやっていることを全部すんなり受け入れられたわけじゃない。
人間の心に入り込み、歪んだ欲望を直接盗む。
冷静に考えれば考えるほど、とんでもないことをしている。
それでも。
知りたいと思った。
一色家に何があったのか。
双葉ちゃんに何が起きているのか。
そのためにこいつらへ協力すると決めた。
そこを今さら曲げるつもりはない。
ただまあ。
世紀末の格好をした新島先輩については、まだ理解できていない。
「……佐藤くん?」
「なんでもないです」
危ない。
顔に出てたかもしれない。
そんなことを考えていると、足元から小さな物音がした。
視線を落とす。
「…………」
猫がいた。
黒い毛。
白い顔。
青い目。
さっきまで頭のでかい二頭身の姿で二本足を使って歩いていた謎生物が、何事もなかったかのように四本足で雨宮の隣に座っている。
「…………」
「…………」
目が合った。
俺はゆっくりとしゃがみ込む。
「……戻ったな」
「なんだよ、その言い方」
「…………」
聞こえた。
今度こそ、はっきりと。
目の前の猫から、人間の言葉が聞こえている。
「どうだ?」
モルガナが得意げに尻尾を揺らす。
「ワガハイの声、ちゃんと聞こえるだろ?」
「…………」
「おい?」
俺はゆっくり立ち上がると、隣にいた雨宮の肩を掴んだ。
「雨宮」
「なんだ」
「猫が喋ってる」
「聞こえるようになったな」
「そういう問題じゃない」
「だからワガハイは猫じゃないって言ってるだろ!」
足元から抗議の声が飛んでくる。
いや、分かってる。
分かってるんだけど。
「見た目完全に猫じゃん!」
「見た目で判断するな!」
「ついさっきまでニャーしか言ってなかった奴に突然説教される俺の気持ちも考えろ!」
「さっきも説明しただろ! ワガハイはずっと喋ってたんだ!」
「俺には聞こえてなかったんだよ!」
……なんだこれ。
猫と口喧嘩してる。
認知世界であの姿のモルガナと話していた時は、まだ周りもおかしかったから気にならなかった。
でも、ここは現実だ。
目の前にいるのは、どう見ても普通の猫。
その普通の猫と俺は今、普通に口喧嘩をしている。
ふと嫌な予感がして周囲を見る。
案の定、俺たちの横を通り過ぎた女性が、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「…………」
「どうした?」
「やめよう」
「何がだ?」
「これ以上は社会的に死ぬ」
「?」
モルガナが首を傾げる。
なんで分かんないんだよ。
「佐藤、慣れた方がいいぜ」
坂本がニヤニヤしながら言う。
「そのうち普通にモナと話すようになるからよ」
「嫌な慣れだな……」
少なくとも今朝起きた時点では、今日から猫と会話できるようになる予定なんて俺の人生設計にはなかった。
……いや。
そもそも異世界へ行く予定も、怪盗団に協力する予定もなかったな。
俺の人生、ここ数日で予定変更しすぎじゃない?
「さて」
新島先輩が小さく手を叩いた。
「モルガナの声が聞こえることも確認できたし、そろそろ本題に戻りましょう」
「……あ」
そうだった。
メメントスのインパクトですっかり頭から吹き飛びかけていたけど、俺たちは異世界見学をするために集まったわけじゃない。
双葉ちゃん。
若葉さん。
そして、一色家に何があったのか。
それを整理するために集まったんだ。
「ここじゃ話しづらいよね」
高巻さんが辺りを見回す。
確かに、人通りの多い駅前で認知世界だの怪盗団だの話すわけにはいかない。
「場所を変えましょう」
新島先輩の言葉に、全員が頷く。
俺も気持ちを切り替え、雨宮たちの後を追った。
◇
俺たちは人目を避けるため、渋谷駅近くのカラオケ店へ移動した。
六人で個室に入り、最後に雨宮がドアを閉める。
外の喧騒が一気に遠くなった。
雨宮が鞄を床へ置くと、そこからモルガナがひょいと飛び出し、当然のようにソファへ上がる。
「…………」
「なんだ?」
「いや」
猫が当たり前のように会議へ参加している。
数時間前の俺なら絶対そこに突っ込んでいただろうけど、今日はもう色々ありすぎた。
慣れって怖い。
「じゃあ、改めて整理しましょう」
新島先輩が口を開いた。
その一言で、自然と空気が切り替わる。
「昨日、惣治郎さんから聞いた話。それから私たちが今まで調べてきたこと。佐藤くんが知っていることも含めて、一度全部並べてみたいと思うの」
「その前に、一個いいですか?」
「何?」
「昨日から気になってたんですけど」
俺は新島先輩を見る。
「惣治郎さんが言ってた『あの女』って、結局誰なんです?」
「……ああ」
新島先輩の表情が僅かに曇った。
坂本たちも「あー……」みたいな顔をしている。
やっぱり知ってるんじゃねぇか。
「昨日は結局教えてくれませんでしたよね」
「ごめんなさい。あの場で話す内容でもないと思ったから」
「それで?」
少し間を置いて、新島先輩が答える。
「おそらく……私の姉よ」
「…………」
姉?
「新島先輩のお姉さん?」
「ええ。新島冴。検事をしているわ」
「検事!?」
思わず声が大きくなる。
「ちょ、待ってください。なんで検事が惣治郎さんと双葉ちゃんの話に出てくるんです?」
新島先輩が雨宮へ目を向ける。
「昨日、姉がルブランに来たところを雨宮くんが見ているの」
「新島先輩のお姉さんが?」
「ああ」
雨宮が短く頷く。
「惣治郎に、双葉のことを聞いてた」
「…………」
また新しい情報が増えた。
昨日まで俺が知っていたのは、若葉さんと連絡が取れなくなっていて、双葉ちゃんとも二年以上会っていないということくらいだった。
それが一日で。
若葉さんは亡くなっていた。
双葉ちゃんは引きこもっている。
怪盗団が調べている。
そのうえ検事まで動いている。
何なの一色家。
俺が知らない間に何が起きたの?
「姉が何を調べているのか、私にも分からないわ」
新島先輩が続ける。
「ただ、惣治郎さんの言った『あの女』が姉を指している可能性は高いと思う」
「……なるほど」
納得したような、余計に分からなくなったような。
「でも、それなら一個聞きたいんですけど」
今度は全員を見る。
「そもそも、なんで怪盗団が双葉ちゃんのことを調べてたんです?」
「そこからか」
坂本が言う。
「そこからだよ。俺、昨日初めてお前らが双葉ちゃん探してるって知ったんだから」
「確かに、佐藤には説明してなかったな」
モルガナが頷いた。
「事の始まりは、『アリババ』って奴だ」
「アリババ?」
「そいつが突然、リーダーに接触してきたんだ」
「雨宮に?」
「ああ」
モルガナが続ける。
「それでワガハイたちに、ある人間の心を盗んでほしいって依頼してきた」
「……ある人間?」
「佐倉双葉」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「双葉ちゃんの……心を?」
「そうだ」
「アリババって奴が?」
「ああ」
「なんで?」
「それを調べていった結果」
新島先輩が口を挟む。
「私たちは、アリババ本人が佐倉双葉なんじゃないかと考えているの」
「…………」
意味を理解するまで数秒かかった。
「つまり」
頭の中で整理する。
「双葉ちゃんがアリババって名前を使って怪盗団に連絡して、自分自身の心を盗んでくれって頼んだ……?」
「今のところは、そう考えてる」
高巻さんが頷く。
「……何でそんなこと」
口から自然と漏れた。
昨日聞いた惣治郎さんの話が頭をよぎる。
部屋から出ない。
母親の声が聞こえる。
母親が自分を見ている。
そして、自分のせいで母親が死んだと思い込んでいる。
そんな双葉ちゃんが、自分から怪盗団へ助けを求めた。
「それで、お前らは双葉ちゃんを探してたのか」
「そういうこった」
坂本が答える。
「そしたらお前が『双葉って子知ってる』とか言い出すから、こっちもビビったけどな」
「俺もビビったよ」
まさか久しぶりに名前を聞いた子が、怪盗団に心を盗んでくれと依頼しているなんて誰が予想する。
「だから昨日、佐藤くんから話を聞いた時は驚いたわ」
新島先輩が俺を見る。
「私たちが知らなかった、一色若葉さんと双葉さんの過去を知っていたから」
「……俺も全部知ってるわけじゃないですけどね」
むしろ、知らないことの方が増えた。
「でも、やっぱり気になることがありますね」
俺の言葉に、全員の視線が集まる。
「母さんと若葉さんの連絡が途絶えたことです」
昨日話した内容を、もう一度頭の中で整理する。
「母さんと若葉さんは、ずっと仲が良かった。毎週みたいに会ってたし、俺も双葉ちゃんと遊んでた。それが急に途絶えた」
「そして例のメッセージか」
喜多川くんが言う。
「うん」
『もう二度と連絡してこないで』
今でも覚えている。
あの短い一文。
「それが最後です。その後は何度連絡しても返事がなかった」
「時期は?」
新島先輩に聞かれる。
「正確な日は覚えてないです。でも、惣治郎さんの話と照らし合わせるなら……若葉さんが亡くなる前後のはずです」
新島先輩が考え込む。
「やっぱり気になるわね」
「ですよね」
「ただし」
すぐに釘を刺された。
「昨日も言ったけれど、そのメッセージが若葉さん本人から送られたものではない、と断定することはできないわ」
「……分かってます」
分かっている。
証拠は何もない。
俺が知っている若葉さんなら、母さんにそんなことを言うはずがない。
双葉ちゃんを残して自殺するとも思えない。
でも、それは結局、俺の知っている若葉さんから考えた推測だ。
「ただ……偶然だとは思えないんですよね」
「俺もそこは引っかかるぜ」
坂本が腕を組む。
「急に連絡切って、その頃に死んじまってるってことだろ?」
「だが、それだけでは何があったのかまでは分からない」
喜多川くんが静かに言う。
「そもそも、若葉さんが自ら命を絶ったという話自体、我々は惣治郎さんから聞いただけだからな」
「……そうなんだよ」
昨日からずっと引っかかっている。
若葉さんの死。
最後のメッセージ。
双葉ちゃんの今。
新島先輩のお姉さんまで何かを調べている。
一つ一つなら偶然で済ませられるのかもしれない。
でも、全部並べるとどうしても何かがあるように思えてしまう。
「でもさ」
高巻さんの声で、思考が止まった。
「若葉さんのことも気になるけど……今は双葉のことも考えた方がいいんじゃないかな」
「双葉ちゃん?」
「うん」
高巻さんは少し言葉を選ぶようにして続ける。
「惣治郎さんの話だと、双葉ってずっと自分を責めてるんでしょ?」
「……ああ」
「お母さんが死んだのは自分のせいだって思って、ずっと部屋から出られなくなって……それで今、自分から怪盗団に助けを求めてる」
そこで一度言葉を切る。
「本当に何とも思ってないなら、わざわざそんなことするかな」
「…………」
何も言えなかった。
「アリババとして接触してきたってことは、少なくとも双葉には今の自分をどうにかしたいって気持ちがあるんじゃない?」
「……そうか」
そこで、ようやく気づく。
俺はずっと、若葉さんの死ばかり考えていた。
何があったのか。
あのメッセージは誰が送ったのか。
本当に自殺だったのか。
もちろん、それを知りたいという気持ちは今も変わらない。
でも。
今一番苦しんでいるのは、若葉さんじゃない。
双葉ちゃんだ。
「……俺」
無意識に声が出た。
「若葉さんのことばっかり考えてたかも」
「無理もないと思うよ」
高巻さんが言う。
「佐藤くんにとっても大切な人だったんでしょ?」
「……はい」
「だったら知りたいのは当然だよ。でも、双葉のことも放っておけない」
「そうだね」
小さく頷く。
若葉さんに何があったのかを知りたい。
でも、それと同じくらい。
いや。
今はまず、双葉ちゃんだ。
「本人が怪盗団に依頼してきた以上、何かしら心に抱えているのは間違いない」
モルガナが言う。
「もしフタバにパレスがあるなら、その原因になってる歪みを探れば、今アイツが何に苦しんでるのかも分かるかもしれない」
「でも」
新島先輩がモルガナを見る。
「いきなり認知世界の話に進む前に、本人から話を聞くべきだと思う」
「ワガハイも反対はしない」
「私もそう思う」
高巻さんが頷く。
「昨日聞いた話だけで、私たちが勝手に双葉の気持ちを決めつけるのは違うと思うし」
「そうだな」
雨宮が短く答えた。
全員の意見がまとまり始める。
「なら、まずやるべきことは一つね」
新島先輩が俺たちを見渡した。
「佐倉双葉本人と話す」
その名前を聞き、胸の奥が僅かにざわついた。
最後に双葉ちゃんとまともに話したのは、もうずっと前だ。
小さかった頃の姿しか、今の俺は知らない。
二年以上会っていない間に、何があったのか。
何を見て。
何を聞いて。
何を思ってきたのか。
そして──なぜ、自分の心を盗んでほしいと怪盗団に頼んだのか。
知りたいことは、山ほどある。
「……分かりました」
俺は頷いた。
「まず、双葉ちゃんと話しましょう」
そうして、俺たちの次の行動は決まった。
◇
カラオケを出た俺たちは、そのまま双葉ちゃんのいる佐倉家へ向かうことになった。
さっきまであれだけ話していたのに、いざ本人に会いに行くとなると、不思議と口数が減る。
俺も同じだった。
二年以上ぶり。
そう考えたところで、少しだけ違和感を覚える。
正確には、俺が最後に会ったのは『一色双葉』だ。
一色若葉さんの娘で。
母さんたちが話している間、よく一緒に遊んでいた女の子。
ゲームをしたり、くだらないことで笑ったり、若葉さんに呼ばれれば二人揃って返事をして。
俺の中に残っている双葉ちゃんは、今でもその頃のままだ。
でも、これから会うのは佐倉双葉。
母親を亡くして。
惣治郎さんに引き取られて。
二年以上も部屋に閉じこもっている。
そして、怪盗団に自分の心を盗んでほしいと頼んだ女の子だ。
同じ双葉ちゃんのはずなのに。
俺の知っている双葉ちゃんと、今の双葉ちゃんの間には、あまりにも大きな空白がある。
「……佐藤」
「ん?」
隣を歩いていた坂本が俺を見る。
「さっきから静かだけど、大丈夫か?」
「俺が静かだとそんなに珍しい?」
「いや、珍しいだろ」
「即答すんな」
「だってお前、今日ずっと喋ってんじゃん」
「今日は色々ありすぎたんだよ」
異世界に行って。
怪盗団の秘密を聞いて。
猫と会話できるようになった。
これで普段通りでいられる奴がいたら見てみたい。
「緊張してる?」
今度は高巻さんだった。
「……まあ、ちょっと」
否定する意味もないので素直に答える。
「最後に会ったの、二年以上前だから」
「そっか……」
「それに、昔と同じように話していいのかも分かんなくて」
あの頃みたいに。
『久しぶり』
なんて笑って声をかければいいのか。
それとも、何も知らなかったことを謝ればいいのか。
若葉さんのことを聞くべきなのか。
聞かない方がいいのか。
考えれば考えるほど分からなくなる。
「無理に何か言おうとしなくてもいいんじゃない?」
高巻さんが言った。
「まず会ってみて、それから考えれば」
「……そう、だね」
今の双葉ちゃんがどんな状態なのかすら、俺は知らない。
ここで一人で考え込んでも仕方ないか。
「それに、話すのは佐藤だけじゃねぇしな」
坂本が言う。
「オレらもいるしよ」
「そうね」
新島先輩も頷く。
「昨日の話を聞いた以上、佐藤くん一人に任せるつもりはないわ」
「……ありがとうございます」
ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
そして、しばらく歩いたところで雨宮が足を止めた。
「ここだ」
「……ここ?」
その先に、一軒の家があった。
俺も足を止める。
「…………」
ここが、佐倉家。
当然、見覚えはない。
俺が昔何度も遊びに行ったのは、一色家だ。
若葉さんと双葉ちゃんが二人で暮らしていた家。
ここには、俺の思い出なんて一つもない。
それなのに、この家の中に双葉ちゃんがいる。
「……変な感じだな」
思わず呟いた。
「何がだ?」
雨宮の鞄からモルガナが顔を覗かせる。
「いや……俺が知ってる双葉ちゃんの家じゃないからさ」
「…………」
「当たり前なんだけどね」
若葉さんが亡くなって。
惣治郎さんに引き取られて。
名字まで変わった。
頭では昨日聞いた。
でも、こうして実際に知らない家を目の前にすると、二年間という時間が急に形になったように感じる。
一色双葉から、佐倉双葉へ。
俺が知らない間に、本当に色々なことが変わってしまったんだ。
「行こう」
雨宮の声に、俺は小さく頷いた。
「……うん」
俺たちは佐倉家の中へ足を踏み入れた。
当然、中も初めて見る場所だった。
昔の一色家とは何もかも違う。
見覚えのある家具もなければ、懐かしい景色があるわけでもない。
それでも。
ここで双葉ちゃんは暮らしている。
正確には──この家の一室に、ずっと閉じこもっている。
その事実を意識した途端、さっき少し収まったはずの緊張が戻ってきた。
「……で」
俺は家の中を見回す。
「双葉ちゃんの部屋って、どこ?」
「こっちだ」
そう言ったのは雨宮ではなかった。
足元にいたモルガナが、慣れた様子で先へ進み始める。
「…………」
俺はその後ろ姿を見つめた。
「なんでお前が知ってんの?」
「前に調べておいたからな」
「前?」
モルガナはそのまま振り返りもせずに答える。
「ゴシュジンからフタバの話を聞いた日だ。お前らがルブランで話してる間に、ワガハイはこっちを調べてたんだよ」
「…………」
ゴシュジン。
多分、惣治郎さんのことだろう。
いや、そこは今どうでもいい。
「……ルブランで話してた時?」
「ああ」
その言葉で、ふと思い出す。
惣治郎さんが帰った後。
俺もルブランを出て。
家に帰ってベッドに寝転がりながら、昨日聞いたことを思い返していた時。
最後に、妙なことに気づいた。
『……あれ?』
『そういや、途中から猫いなくなってなかった……?』
「…………」
目の前を歩くモルガナを見る。
「あれ、お前ここにいたの!?」
「気づくの遅いぞ」
「いや分かるわけないだろ!?」
まさかあの時、猫が一匹いなくなった裏で佐倉家へ不法侵入していたなんて誰が思う。
「猫の姿はこういう時便利だからな」
モルガナが得意げに言う。
「不法侵入を得意げに語るなよ……」
「怪盗だぞ?」
「開き直った!」
そうだった。
こいつら怪盗だった。
さっきまで人の心を盗むだのなんだの真面目に考えてたせいで忘れかけていた。
「それで?」
新島先輩がモルガナへ尋ねる。
「その時、双葉さんの部屋まで確認したの?」
「ああ。本人の姿までは確認できなかったけどな。ずっと閉じこもってる部屋があるのは分かった」
「なるほど」
新島先輩が頷く。
それなら、モルガナが場所を知っているのも納得だ。
……納得していいのか?
まあいいか。
今日はもう色々なものを納得しすぎて、俺の中の常識もだいぶガバガバになってきている気がする。
「こっちだ」
モルガナに案内され、俺たちは家の中を進んでいく。
一歩。
また一歩。
進むにつれて、妙に心臓の音が大きく感じる。
そして。
「ここだ」
モルガナが足を止めた。
俺たちも立ち止まる。
目の前には、一枚の扉。
ただの部屋の扉だ(なんか色々デコられてるけど)。
なのに。
「……ここに?」
「ああ」
モルガナが答える。
この向こうに。
双葉ちゃんがいる。
「…………」
何を言おう。
久しぶり?
覚えてる?
俺だよ?
どれもしっくりこない。
カラオケでは散々、「まず本人と話そう」なんて言っていたくせに。
いざ扉一枚を挟んだところまで来ると、最初の一言すら出てこなかった。
俺は黙って扉を見つめる。
二年以上前。
俺の中で止まったままの双葉ちゃん。
その時間が。
今、ようやく動き出そうとしていた。
Cat Can Talk