救いのない鬱ゲー世界で主人公御用達の喫茶店をやる 作:音塚雪見
「──小牟田式子に、勝ちたいんです」
ノエリは声で刀を研ぐように、細まった喉の穴に空気を通す。
異様な雰囲気となった彼女。
喫茶店の時間がしばし止まった。
「ふうん」
俺は適当な相槌を打ちつつも、ノエリの発した『小牟田式子』という名前に覚えがあるような気がして、底の底に沈殿してしまった記憶を浚う。
小牟田式子……小牟田式子……。
──ああ、思い出した。
『魔女あるいは』の主人公か。
変な気持ち悪さが解消された。
小高い山に登り、清涼な空気を肺いっぱいに取り込んだような心地だぜ。
俺は魔法の代償によって長期的な記憶ができなくなっているが、どのように過去が消えていくかというと、ぼんやりと、少しづつ、薄い磨硝子を重ね合わせていくように遠くなっていく。
たとえ忘れかけている記憶でも、なんらかの方法で思い出せば、些細な欠落はあっても、大部分を復元することができるのだ。まあ自分が体験した記憶ではなく、画面越しに眺めるような感覚だが。
ところが最近は日記を書く行為をしていないので──そもそも日記をなぜ書くのか、という目的を忘れていた──重要な記憶を失いかけていた。
ある意味、ノエリは命の恩人である。
なので王に拝する騎士のごとく、恭しく礼をしてみた。
「なんで急に片膝着いたんです?」
「なんとなく?」
「店長さんの行動原理って分かりませんねえ」
彼女は困惑と呆れとで相貌を染める。
しかし双眸は面白そうに細められており、ノエリもこちらのテンポ感を掴んできた様子だ。
汚染されたとも言う。
「店長さんは小牟田式子のことご存じないでしょう?」
「いや、ある程度は」
「意外と耳ざといんですね」
「学園の有名人だからな。学園の敷地内に店を構えさせてもらってる立場としては、それくらい把握してなくちゃあ仕事にならん。……あと何かの間違いで常連さんになってくれるかもしれないし」
「天地がひっくり返ってもあり得ないですよ」
小牟田式子は魔法の代償で味覚を失ってるんです。
とノエリは遠い目で呟いた。
「へえ」
俺と同じか。『魔女あるいは』の主人公なだけに、それなりの親近感を抱いていたが、途端に心の距離が縮まった気がするぜ。相手は俺のことなど知りもしないだろうけど。いや、世界最強の魔女古明地葵のことは知ってくれてるかしら。結構有名らしいし。
「じゃあ、私はこれで」
「引き留めてしまってすまないね」
「いえいえ。今度はちゃんとした料理食べさせてくださいよ」
「天に祈っててくれ」
図書館に向かうノエリを送り出しつつ、俺は彼女が使った食器類の片付けを始めた。