救いのない鬱ゲー世界で主人公御用達の喫茶店をやる 作:音塚雪見
どうするべきか。
目の前に現れた怪しげな女に、俺は目を細める。
こんなタイミングで意味ありげに登場してきたのだから、まさか無関係な一般人ではあるまい。
だいいち、普通の人間がモルガナと嶺岸明日香の頂上決戦を前にして冷静で居られるものか。まず間違いなく腰を抜かして失禁するか、意識の維持を放棄して地に倒れ伏すかするだろう。
俺の悩みを看破したのか、歯車は「あらあら」と頬に手を当てた。
「そんなに悩まなくてもいいんですよ。私のことは気にしなくても」
「────」
「あら? もしかして返答してくれないつもりですか? ……ああ、声を出して正体を気取られるのを恐れているのですね」
「!」
「ご安心を。私は貴方の正体から名前から存在理由まで、すべてを網羅しておりますから。今さら隠さなくとも大丈夫ですよ」
歯車は慈母のごとき微笑を湛える。
だが、俺の胸中は疑念の嵐に満ちていた。
そんな含みのあることを言われて安心などできるものか。
「……お前がこの事件の首謀者か?」
「うーん、なかなか難しい質問ですね。『この事件』というのが何を指しているのか。関わった事象が多すぎて、特定できません」
困ったように眉を下げる歯車。
「余罪は後で追及するとして──学園に通う魔女の誘拐事件だよ」
「ああ。それでしたら、そうですね。私を首謀者と見做すのが妥当でしょう」
「ずいぶんあっさりと白状するんだな」
「誤魔化しても信じないでしょう? 無駄なことはしないんです。時間は有限なものですから」
自身の黒髪を撫でながら言う歯車に、俺は鉈を構えながら、
「さっき俺の正体まで知ってるって言ったよな」
「ええ」
「だったら、世界最強の魔女に勝つ方策でも用意してるのか」
「実はないんです。お恥ずかしながら、私は戦闘が苦手ですから」
苦笑して、あるいは自嘲するように目を伏せる歯車。
俺は予想していなかった答えに声を失う。
まさか世界最強の魔女を知っていて、対策を用意していないなんて。
「……勝てる見込みもないのに、のこのこ出てきたと?」
「はい。そこのお二人が魔法を使ってしまいそうだったので」
「モルガナと嶺岸明日香が?」
歯車が指差したのは、杖を向け合って睨み合いを続ける二人だった。
彼女らも闖入者の出現には気が付いているだろうが、お互いに隙を見せると危ないと確信しているのだろう。視線は敵から離れていない。
「やっぱり嶺岸明日香が殺されるとまずいのか」
「計画が破綻してしまいますからね。相当な時間を費やしてきましたから、また一から始めるのは嫌なんです」
「だったら俺が全力で邪魔するよ」
「うーん、それは困りました」
歯車は首を傾げて笑う。
その様子は言葉とは裏腹に、あまり困っていないように見える。
むしろ、「お前にできるのか」と問うてきているようで──。
「でしたら、邪魔をできないようにしてしまいますね」
「何を──」
「古明地葵のことでしたら、私は貴方以上に貴方のことを知っているのですよ?」
額に掌があった。
ひんやりしている。冷たい。まるで死人の手だ。
唐突に現れた感覚に喉を詰まらせる。
そして気が付いた。
これは、歯車の手なのだと。
「なっ……!?」
「私は決して速い動きができるわけじゃない。直接あなたと戦ったのなら、十秒も持たずに殺されてしまうでしょう」
ですが。
歯車は慈しむように俺の額を撫でる。
「古明地葵の『死角』を意識して動けば……ほら。このとおり」
「あり得ない! 何年も魔物と戦ってきて、考えうる限りの弱点は潰してきたはずだ!」
「そうですね。貴方の努力はずっと見てきました。頑張りましたね」
おちょくるような言葉に血管が浮かび上がる。
人間らしい感情などとっくに失ったものだと思っていたが、彼女と相対していると昔の自分が蘇った。
『人間を殺してしまうのだ』という事実は一瞬忘れて、容赦なく、鉈を歯車に叩きつけようとする。
──叩きつけようとして、できなかった。
良心が咎めたわけではない。
物理的に、腕が動かなかったのだ。
「なぜ──」
「言ったでしょう。『死角』を突いたのですよ。古明地葵が私に対して攻撃ができるわけないじゃないですか」
「俺は……お前が何を言っているのか分からない」
「今はそうでしょうね。ですが安心してください。いずれすべてが判る時が来ますよ」
その時まではお別れですね。
と歯車はどこか寂しそうに笑った。
彼女の白魚のような指先に光が灯り、熱を奪われていく感覚と、逆に脳みそが沸騰しているかのような錯覚。
それは長らく忘れていた『痛み』なるもの。
俺は杳として知れず、無意識のうちに悲鳴を上げていた。
「がああああああああああッ!?」
「暫しの別れを。ですがご安心ください。約束の時は目前です。まもなくすべてが終わりますから」
薄れていく視界に、顔の見えなくなっていく歯車。
俺はせめて一矢報いようと、鉈を取り落として、緩く握りしめた拳を彼女にぶつけようとした。
ゆるゆると軌道を描いた拳は、歯車の頬にこつんと当たって、そこで止まる。
「さようなら、古明地葵。貴方の祝福がこの世界を救いますように」
最後まで何を言っているのか分からない。
歯車は俺の額にキスをすると、冷たい掌で、俺のまぶたを降ろさせた。
まるで母親が子供にするような仕草だった。
そして、俺は──。