救いのない鬱ゲー世界で主人公御用達の喫茶店をやる 作:音塚雪見
彼女は驚愕に顔を染め、口をぱくぱくとさせるばかりで、意味ある音が出てくることはなかった。
しばらく学園祭の喧騒を遠くに聞いていると、ようやく冷静さを取り戻したらしい繭子が深呼吸を一つ。
大きく息を吐いた彼女は、「……とても信じられないことだけれど」と前置きをして、
「まさか君は──古明地葵なのかい?」
「一応訊いておきたいんだけど、なんでそう思ったのかな」
たしかに二人の名前を漏らしてしまう、という過ちは犯した。だが、それだけで俺と古明地葵を結び付けるには弱いはずだ。
男は魔法を使えない。この常識は世界の絶対法則。いくら名前を知っていたからって、その常識を無視するほどのものではない。ストーカーの可能性を疑ったほうがいくらかあり得よう。
繭子は数度まばたきをした。
「……君は、自分で思っているほど他人を演じられていないよ」
「他人を演じる?」
「僕たちがどれだけ君と──古明地葵と一緒に過ごしてきたと思っているんだい。君が知らない癖だって知っているし、その立ち振る舞いが、いくらなんでも古明地葵と重なりすぎる」
意味ありげに人差し指を立てる繭子。
「じゃあ、つまり、なんだ。元々疑ってたところに名前を言ったものだから、疑いが確実なものになったと」
「一言で纏めるとそうだね」
俺は肩を落とした。
もはや誤魔化そうという気にもならない。
すでに彼女はこちらの正体を確信していたようだが、その沈黙が無言の肯定となった。分厚い丸眼鏡に屈折した目に涙を浮かべた繭子が唇をわななかせ、一足飛びに抱き着いてくる。勢いが凄まじい。肘が脇腹に突き刺さった。
魔法の代償で痛覚を失っている俺だが、物理的な圧迫は如何ともしがたい。肺を攻撃されたことで息を詰めてしまう。繭子はそれに気付いていない。機嫌のいい猫か何かのように、頭を胸に擦りつけてくる。
「葵、葵……っ!」
「ちょっと肘が刺さって苦しいんだけど──」
「どうして急に姿を消したりしたんだ! どれだけ僕たちが心配したか判っているのか!? 眠れない夜を過ごした僕たちの気持ちが解るか!?」
少し離れてくれ。なんてお願いをできる雰囲気ではなかった。
俺は苦悶を飲み込んで流れに身を任せる。
「でも──見つかってよかった」
「……心配を掛けたみたいだね」
「心配どころの話じゃない。絶望さ。君が居なくなって、僕たちは希望というものを失ってしまったのさ」
「大袈裟じゃない?」
「大袈裟なものか」
繭子はあり得ない、とでも言いたげに眉を跳ねさせた。
「人類存亡のための要である古明地葵。それが居なくなるだけで、どれほど足元が不安定になるか。しかも君は強さだけが取り柄じゃない。君は魅力的な人物だよ。傍に居なければ支えを失ったと錯覚してしまうくらいにはね」
一言一言、囁くように声を紡ぐ繭子。
丸眼鏡越しに見える彼女の瞳は、どこか危うげに揺らめていた。
「教えてくれないかい? どうして突然表舞台から退いたんだ。戦えない身体になったわけじゃないんだろう?」
「……あー」
頬を掻く。どう言えばいいものか。俺は答えあぐねていた。
日記の内容を思い出したから、そこに書かれていた『古明地葵が姿を消すべき理由』を話すことはできる。しかし忌憚なく告げられるものでもなかった。
俺はなんとか誤魔化そうと、繭子の肩に手を置く。
「それにしても、古明地葵が男だって発覚したのにずいぶんと冷静じゃない? 普通はもっと驚くと思うんだけど。ほら、男が魔法を使えるうえに、世界最強の魔女とか呼ばれてるんだから」
「……お茶を濁そうという意志を感じるが、まあいいだろう。別に僕だって冷静なわけじゃないよ? 心臓の鼓動を聞いてくれ。今にも破裂しそうなほど暴れまわっているだろう。取り繕ってはいるものの、常軌を逸していないのが奇跡というものさ」
繭子はさらに力を込めて抱き着いてくる。密着した身体から、彼女の言うとおり激しい鼓動が伝わってきた。早鐘のようだ。
「それに僕は前々から違和感を抱いていたんだ。すべての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙な事であっても、それが真実となるって云うだろう? 何年も必死に国中を探しているのに、古明地葵らしき女の姿が見つからないんだ。そもそも前提が間違っているんじゃないか、と疑うのが道理さ。現実逃避めいた疑問ではあるけどね」
繭子は苦笑する。
背中に回す指の力をぎゅっと強くして、
「もし僕が相手でなく、瑞佳あたりだったら酷かっただろうね。瑞佳はあれでいて激情家だ。取り繕うこともできないだろうし、数発の拳くらいは甘んじて受け入れてほしい」
「……瑞佳って何回魔法使ってたっけ?」
「四回くらいじゃないか? まあ葵なら大丈夫だろう。世界最強の魔女は耐久力も世界最高だから」
軽々と言って繭子は、
「書き置きも残さず姿を消して、僕たちに心配を掛けた罰だよ。大人しく受け入れてくれたまえ」
と胸の中から出ていった。
書き置きどころか、俺は正面切って「魔女辞めるわ」と伝えたのだが、それはカウントしてくれないのだろうか。
なんて思ったりもしたけれど、口に出すことはなかった。否。より厳密に言うなら余裕がなかった。
なぜなら。
「ど、どうして──繭子とさっきの人が抱き合ってたわけ?」
わなわなと震えながら、こちらを指差す瑞佳の姿があったからだ。彼女は口を開閉して頬を紅潮させている。
視線だけで繭子に助けを求めるも、肩をすくめるばかりで動く気配がない。自分でなんとかしろ、ということだろうか。
まったく無茶を言ってくれるものだ。
「場の流れで?」
「場の流れで抱き合うことになるわけないでしょ!」
「そりゃそうだ」
正論だった。反論できないくらいに。
これは瑞佳を説き伏せるのは相当難しいぞ──と諦めかけたとき、こちらを物凄い相貌で睨みつけている影に気付く。
見れば、褐色のポニーテールが眩しい少女、ノエリだった。ノエリが凄惨と表現して差し支えない表情で居る。
「……私と学園祭デートしてたのに、ついさっき出会ったばかりの女の人と抱き合う? 浮気? いやあの眼鏡の人の雰囲気からして昔の知り合いだったのか。だとしてもじゃない? 店長さんは遊び人だったの?」
ぶつぶつと何事が呟いていた。怖い。
もはや収拾のつかない状況に俺は降参したくなった。白旗揚げます。自分逃げてもいいでしょうか。
思案に忙しいらしい二人を置いてその場を離れようとしたところ。
──がし。
繭子に手を掴まれた。
「何を?」
「逃がすと思っているのかい?」
「逃がしてくれたらいいなあ、って」
「せっかく数年越しに再会できたのに、逃げた小鳥を放すわけないじゃないか。しっかりと鳥籠に収めて飼うとも」
逃げた小鳥扱いされた。小鳥って体格でもないんだが。
ズレた考えを抱いてしまうのは、現実があまりにも酷かったから。
正気を失ったように自己に没頭している二人に、冷静かと思ったら実は結構ヤバめだったのが一人。
およそ正常とは形容できない状況に、俺は「どうしてこうなったんだ」と静かに涙を流した。
──結局、三人を宥めるのに三十分近くを要した。