救いのない鬱ゲー世界で主人公御用達の喫茶店をやる 作:音塚雪見
ページを捲る。
殴り書きされた文字に目を通していく。
指先には乾いた血の感触。
ページとページとが血で張り付いて、捲るたびに、ぺりぺりと音が鳴った。
俺は魔法の代償で連続性を失っている。
短期的な記憶は可能だが、長期的な記憶に至らない。おそらく海馬の機能を『持っていかれた』のだろう。
ゆえにこうして、定期的に自分の足取りを確かめないと、今どこに向かっているのか判らなくなる。
日記をつけるのは、魔女になってから始めた習慣だった。
初めての魔法の代償。
それによって記憶の保存ができなくなってから。
「こんなこともあったのか」
日記には熱のこもった記述がされている。
きっと当時の自分にとっては、大事な記憶だったのだろう。
今となっては他人の記録と同義だが。
単なる文字の羅列。感傷に浸るわけもない。
加えて、俺はこの世界のことを現実として捉えられなかった。
ゲームの知識だとかは関係なく。
離人・現実感喪失症や、デレアリゼーションと呼ばれる状態だ。現実検討能力は失っていないから、俺がいま居る世界が夢や妄想の類ではないと、理解はしているのだが──目の前の光景が現実として解釈できない。まるで画面越しに眺めているように。
だからこそ命がけの魔法にそこまで躊躇しなかったというメリットもあるのだが……生きるのが苦痛になる、なんてデメリットのほうが大きい。
魔女は、魔法を使うたびに人間から離れていく。
あるいは人間性を代償にしていると表現してもいい。
視界を失ったり、腕を失ったりなど。
本来あるべき人間の形から、逸脱していくのだから。
「式子と珠姫の件……どうするかなあ」
俺は溜息をついた。
魔女である古明地葵が、人間である古明地葵を忘れないために定めた規範。
そのうちの一つに「古明地葵は違法性のない事態に干渉することができない」という一文がある。
過去の自分が作った規範に逆らって、彼女らを助けるべきか。
はたまた、素知らぬふりをして過ごしていくか。
……なんだかもう、面倒になった。
未来に起こり得るイベントを確認する作業はやめだ。
日記を引き出しに叩きこんで、俺は椅子から立ち上がる。
「いつもどおり店を開くか」
世界が滅亡しないのであればそれでいい。
かつて古明地葵が願ったように。
たとえ自分を犠牲にしようと、誰が犠牲になろうとも。
人類が明日も続いていくのなら、それは規範に則っているのだから。
記憶には残っていないけれど、やはり身体は覚えているのだろう。喫茶店の開店作業は酷くスムーズに進んだ。ものの三十分ほどで作業は終了し、後は来るわけもないお客さんを待つばかり。いつもどおりだ。変わらない。記録にある日常と、何も。
しかし、そんな店内に異物があった。
机の上に折りたたまれている二つのエプロン。
小牟田式子と大牟田珠姫に支給していた物だ。
「返しに来たのか。直接会って渡してくれればよかったのに」
いや、無理か。
たぶんソフィアに制限されていたのだろう。
喫茶店の店主にはもう二度と会うなとか、そのあたりを。
「……?」
俺は首を傾げた。
なぜだろう。
今、ちくりと胸が痛んだような。
「気のせいか」
古明地葵は痛覚を失っている。
だから、それは気のせいに違いないのだ。
嘆息をして、俺はカウンターに座った。
後はもう本当にいつもどおり。来るはずもないお客さんを待つふりもせず、読書に耽る。
途中、これを読むのはいったい何回目なんだろうと疑問に思った。記憶を失ってしまえば、本の内容など覚えていられないので、同じ本を何度も何度も読める。読めてしまう。
差し込まれていた栞を抜き取って、何回目かも判らないまま、一ページ目から読み始めた。
きっと、俺はこのまま二人のことを忘れていくのだろう。
そして、まっさらな古明地葵が日常を重ねていく。
彼女らへの親愛を失った自分が。
……そう考えると、なんだか嫌な感じがした。
理由は分からないけれど。
──そんな時である。
扉に掛けられた鈴が鳴った。来客を示す証。
まさかソフィアがまた来たのか?
俺は本から視線を上げる。
「おはようございます。お久しぶりですね」
「……ええ、おはようございます」
『お久しぶりですね』の代わりに『初めまして』と告げようかと思った。
だって、今の俺は彼女のことを知らないから。
日記にだって載っていなかった。名前も、性格も、写真も。
初対面の相手が親しげに話しかけてくるのは、存外気分の悪いものだ。
悪いのが全面的に自分だとしても。
「モーニングを頂けるかしら」
「席に着いてお待ちください」
「ふふ。相変わらず仏頂面なのね」
「性分でして」
俺は彼女を席に案内して、コーヒーと料理の準備を始めた。
コーヒーは匂いである程度の出来が判るが、料理のほうは難しい。
それこそ誰かに味見でもしてもらわないと──なんて。
もう味見をしてくれる誰かなんて、居ないというのに。
何か苦々しいものを感じつつも、つつがなく注文を完成させていく。
いつかのように塩と砂糖を間違えないよう慎重に。
トレイに皿とカップを乗せて、にこにこと待っている彼女の元に運んだ。
「お待たせしました」
「まあ。美味しそう」
胸元で掌を合わせ、莞爾として笑う女性。
コーヒーにトースト、目玉焼きにサラダとありふれた献立なのだが。
彼女は心底楽しみだというふうにカップを手に取った。
──その様子が、誰かと重なって見える。
あるいは過去の彼女かもしれない。
軽さを感じさせる黒髪に、ふわりと閉じられた瞼。いっそ不健康なほどに白い肌。それらしすぎてわざとらしさまで彷彿とさせる、シスター服を纏った格好である。
こんな印象的な人間と出会ったのなら、如何な俺でも、日記に記録する程度はすると思うのだが。喫茶店を訪れてくれたお客さんならなおさらだ。
「……じっと見られていると、味も判らなくなってしまいますよ」
「すみません。横顔があまりにお綺麗だったもので」
「お上手ね」
ふふふふ、と彼女は頬を綻ばせた。
「それとも──この格好に興味があるのかしら」
「拝魔教の衣装でしたか」
「まあ、そうね。衣装と言うとコスプレっぽさがありますから、装束と表現したほうが適当ですけど」
シスター服を摘まむ女性。
その双眸は透き通っている。
「店主さんは信仰をお持ちですか?」
「いえ。このご時世ですし」
「最近の方はそういう趣向が多いですからね。申し訳なく思う必要はありませんよ」
この世界に神は居ない。
少なくとも、数々の宗教で語られるような、人類を保護し救済してくれる神は。
そんなもの魔物が現れた数千年前に否定された。
もし神が居るのなら、結界など張る必要もなく、世界も滅亡の危機に瀕したりしない。
宗教はあまりにも下火の存在であった。
しかし拝魔教だけは趣を異にする。
拝魔教──字面のとおり、魔物を拝する宗教。魔物を神に与えられた試練だと定義し、その魔物を殺す魔女を非難する。
まったく現実逃避も甚だしい教義だが、迫る滅亡から目を逸らすには丁度よかったのだろう。数千年前から活動していたらしいけれど、最近の躍進は目覚ましい。信徒がだいぶ増えていると聞いた。
「そうだ」
俺はふと思ったことがあって、尋ねてみる。
「拝魔教の方は魔女を公然と批判しますよね」
「まあ……聞こえは悪いですが、そうですね。そういう側面もあります」
「どうしてです?」
純粋に疑問だった。
拝魔教の教義を非難する意図もなく。ただ単に、ダンジョンで目の当たりにした魔女たちの覚悟を、決死の想いを、どうしてそう否定するのだろうかと。
女性はしばらく考え込むように俯いた。
そして、
「そもそも──魔女とはいったいどんな存在でしょうか。世界を守るために命を粉にする勇者? 挺身して世界を守る悲劇的な生贄? 確かにそういう側面もあるかもしれません。ですが、それは一つの面でしかないのですよ。なぜなら魔女は魔女なのですから」
乾いた舌を湿らすようにコーヒーを啜る。
「魔女がどうして魔女と呼ばれるか知っていますか? 魔法を使う女。魔力を持つ女。字面としては正しいように思われますが、実際は違います。語源を取り違えているのです。……これは魔女が子供を産めないことからも読み取れる事実なのですが。魔女の由来は──」
ぴぴぴぴぴ。
女性は恥ずかしそうにはにかんだ。
ポケットからスマホを取り出して。
「いけません。店主さんとのお話が楽しいものですから、すっかり時間を忘れてしましました。集会があるのです。もう行きませんと」
「忙しいところ、気分を害されたでしょう。すみません」
「いえいえ。こんな活動をしていますと、よく訊かれることですから。気にしていませんよ」
彼女は席を立って店を後にしようとする。
その背中に、俺は声を掛けた。
「もう一つ失礼な質問をするのですが……俺と貴女は、以前どこかで?」
「……うふふふ。そうですね。常連というほどでもないですが、何度かお邪魔させていただいております」
「それは」
本当に失礼なことじゃないか。
恥じ入るばかりだ。過去を憶えていられないとはいえ。
こんな辺鄙な喫茶店に何度か足を運んでくれた人を、日記に書きもしないなんて。
「お名前をお伺いしてもいいですか? 次に来店してくださった際には、謝罪ではないですが、誠意として何かのサービスを致します」
「あらあら、うふふ。そうですか。嬉しいですね」
彼女は頬に手を当てて微笑んだ。
微笑んで、視線を宙に彷徨わせる。
「名前、名前……そうですね。では、私のことは『歯車』とでも呼んでください」
「歯車さんですか?」
「好きなんですよ、歯車。小さいのに頑張って。いじらしいでしょう」
「はあ」
特殊な趣味趣向は理解できないが。
とにかく、彼女が歯車という名で呼ばれたいのは理解した。
日記には「歯車さん」と出会ったと記述しよう。
「では、私はこれで」
「またのお越しをお待ちしております」
そうして、歯車は店を後にした。
ぱたんと閉まる扉の音が、静寂の店内にいつまでも響いていた。
ような気がした。気がしただけだ。