冷たいコンクリートの壁。
数週間前にも嗅いだ少し埃っぽい路地裏の匂い。
目前には目を閉じ微かに長く美しいまつ毛を震わせるアーモンドアイの顔があった。
「んっ……」
柔らかな感触が重なり合う。
彼女の髪から漂うミルクティーのような甘い香りがトレーナーの鼻腔をくすぐり冷たい秋の空気を塗り替えていく。
吐息が混ざり合う。
少しだけ開かれた唇の隙間から互いの熱を確かめ合うような深く静かな口付け。
彼女の細い指先がトレーナーのジャケットの胸元をきつく握りしめている。
布越しに伝わってくる彼女の体温は高く鼓動は少しだけ早い。
やがてゆっくりと唇が離れる。
銀色の糸が微かに引いては消え冷たい風が火照った二人の間をすり抜けていった。
「………ふあ」
アーモンドアイは潤んだ青紫の瞳をゆっくりと開いた。
白かった頬はほんのりと朱色に染まり吐息は白く霞んで空気に溶けていく。
「これで今日五回目だ」
トレーナーが静かに告げるとアーモンドアイは「ふふっ」と余裕を含んだ笑い声をこぼした。
「そうね。ルールはルールだもの。仕方ないわ」
休日の町中。
数週間前のデートで取り決めた『レースの話をしたら唇を塞ぐ』というペナルティ付きのルールは今日のデートでも継続されていた。
放っておけば四六時中トレーニング理論やライバルの動向について語り合ってしまう二人。
現役のアスリートとそのトレーナーとしての熱量を今日は少しだけ脇に置き、ただの恋人同士として時間を過ごすための取り決め。
しかし今日の戦績は明らかに異常だった。
五回のペナルティのうちトレーナーが原因だったのは一度だけ。
残りの四回はすべてアーモンドアイの敗北。
完璧を自負し自らの隙を絶対に許さない彼女がこれほどまでに失敗を重ねるだろうか。
(……もしかして)
トレーナーの胸の奥でひとつの疑念が首をもたげた。
彼女はわざと負けているのではないか。
口付けというペナルティを受けるために意図的にルールを破っているのではないか。
「どうしたの? そんな顔をして」
アーモンドアイが小首を傾げる。
頭頂部の大きな白いリボンが揺れピンと立ったウマ耳が微かに動いた。
その表情はどこまでも理知的で完璧な女王の余裕を崩していない。
「……いや。なんでもない。行こうか」
トレーナーはひとまずその疑念を心の奥底にしまい込み歩き出した。
確証はない。
それに自分から触れるには少しばかり気恥ずかしさがあった。
大通りに出るとアーモンドアイは自然な所作でトレーナーの隣に寄り添った。
彼女の左手がそっとトレーナーの右手に触れる。
指先が絡み合い冷たい外気の中で互いの熱を確かめ合うように強く握り込まれた。
そのまま町中を歩く。
カフェで新作のスイーツを味わい雑貨屋で可愛い小物を眺める。
アーモンドアイは時折ショーウィンドウを覗き込んでは楽しそうに微笑んでいた。
その歩みは迷いがなく一定のリズムを刻んでいる。
繋いだ手から伝わる彼女の力強い生命力。
ウマ娘特有の高い体温がトレーナーの手のひらをじんわりと温め続けていた。
やがて空が茜色に染まり始めた。
夕暮れの太陽が建物の影を長く伸ばし町全体をオレンジ色に沈めていく。
「もうこんな時間ね」
アーモンドアイが空を見上げて呟く。
夕日を反射した青紫の瞳が宝石のようにきらめいていた。
「帰ろうか。冷えてきたし」
「ええ。そうね」
駅に向かう帰路。
学生や買い物客の波に逆らうように歩道を進む。
風が冷たさを増しアーモンドアイの淡い栗色のロングヘアがさらさらと揺れた。
ふと前方を歩いていたジャージ姿のウマ娘の集団が目に入った。
トレーニング帰りだろうか。
その中の一人がふざけ合いながら歩道を軽く駆け抜けていく。
それを見た瞬間アーモンドアイの歩みがピタリと止まった。
繋いだ手から伝わる力が抜け彼女の視線がその学生の足元に釘付けになっている。
「……あの子の走り方少し重心が前に傾きすぎているわ」
無意識の呟きだった。
「あのままのフォームで走れば確実に膝に負担が……あっ」
言葉の途中でアーモンドアイの肩がビクッと跳ねた。
ピンと立っていたウマ耳が瞬時にペタンと伏せられる。
彼女は弾かれたようにトレーナーの方を向き繋いでいなかった方の手で慌てて自分の口を塞いだ。
見開かれた瞳。
その表情は先ほどまでの余裕が嘘のように崩れ明らかな動揺に満ちていた。
(……どっちだ)
トレーナーの中の疑念はより色濃くしかし複雑なものに変わった。
彼女の動揺は本物に見える。
本当にうっかりミスをしてしまったような完璧主義者としての心の底からの焦り。
もし意図的にペナルティを誘っているのだとすればここまで狼狽えるだろうか。
今日の彼女はただ単に集中力を欠いているだけなのか。
それとも……。
「言ったな。レースの話」
トレーナーが静かに問いかける。
アーモンドアイは口を塞いだままフルフルと首を横に振った。
「んんっなにも言ってないわ」
くぐもった声。
強がってはいるが背後に垂れた尻尾が焦ったようにバタバタと左右に揺れている。
「『あのままのフォームで走れば確実に膝に負担が』って」
「……き、気のせいじゃないかしら。わたしはただ……その……」
苦しい言い訳を探すように彼女の青紫の瞳が泳ぐ。
完璧を自負する彼女がこれほど分かりやすく狼狽えるのはやはり異常だった。
トレーナーは繋いでいた彼女の手を少し強めに引いた。
「……っ!」
アーモンドアイが短い悲鳴を漏らす。
トレーナーは歩道から少し外れた路地の入り口――人目につかない建物の陰へと彼女を連れ込んだ。
周囲の喧騒がふっと遠ざかる。
「ちょ、ちょっと、あなた……!」
背中が冷たい壁に触れアーモンドアイはビクッと体を震わせた。
逃げ場はない。
トレーナーは彼女の正面に立ち退路を断つように顔の横の壁にドンッと手をついた。
至近距離。
互いの吐息が届く距離で見下ろすとアーモンドアイの肩が小さく跳ねた。
「ルールはルールだろ?」
トレーナーの言葉にアーモンドアイは息を呑む。
口元を覆っていた手がゆっくりと下りた。
彼女はギュッと目を閉じ覚悟を決めたように少しだけ顎を上げた。
ほんのりと赤い頬。
待ち受けるようなその無防備な唇。
トレーナーは唇を塞ぐ代わりに顔を寄せ彼女のウマ耳のすぐそばで低く囁いた。
「……わざと負けてるだろ」
その瞬間アーモンドアイの体がビクンと大きく震えた。
「え……っ」
目を見開いた彼女の顔が一瞬にして耳の先まで真っ赤に染まる。
理知的な青紫の瞳が激しく泳ぎ行き場を失って彷徨った。
「そ、そんなことないわ……!」
裏返った声で必死に否定する。
「わたしは常に完璧よ。わざとペナルティを受けるなんてそんな非効率なこと……するわけない……」
言いかけて彼女の言葉がピタリと止まった。泳いでいた視線が宙を彷徨いやがて何かを探り当てるように見開かれた瞳がさらに潤みを帯びていく。背後の尻尾が感情を隠しきれないように左右に揺れた。
(……図星か)
その反応を見てトレーナーは確信した。
やはり彼女は意図的にペナルティの条件を満たしにきていたのだ。
完璧な女王がここまで分かりやすく動揺し言葉を失うことなど通常ではあり得ない。
トレーナーの胸の奥で甘く熱い感情が爆発した。
もはや言葉はいらなかった。
トレーナーは壁についていた手を離し、アーモンドアイの細い腰に回してギュッと抱き寄せた。
「きゃっ……」
バランスを崩した彼女の体がトレーナーの胸にぴったりと密着する。
柔らかい感触。
そしてもう片方の手を彼女の後頭部に回し逃げられないように顔を固定した。
「あ、なた……っ」
抗議の声を上げる間もなくトレーナーは彼女の唇を深く奪った。
「んぅっ……!」
押し付けるような強引な口付け。
アーモンドアイの体が硬直し喉の奥から甘い声が漏れる。
これまでのペナルティのためのキスとは違う。
彼女の愛らしさに対する抑えきれない衝動だった。
腰を抱く手に力を込めると彼女の体がさらに密着する。
衣服が擦れる音。
二人の胸が高鳴り鼓動が直接伝わってくる。
「んんっ……はぁっ……」
アーモンドアイの両手が行き場を失ってトレーナーの胸板を力なく叩いた。
だがすぐにその力は抜けトレーナーのジャケットの背中をすがるように強く握りしめる。
冷たい夕暮れの空気の中で二人の息だけが熱く混ざり合っていく。
彼女の体温が上がりミルクティーのような甘い香りがより一層濃く漂う。
角度を変えさらに深く唇を重ねる。
アーモンドアイは抵抗するどころかつま先立ちになり自らその熱に応えるようにすり寄ってきた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
肺の酸素が限界に近づき互いの鼓動が早鐘のように鳴り響く。
名残惜しさを感じながらトレーナーはゆっくりと顔を離した。
「はぁっ……はあっ……んっ……」
アーモンドアイはトレーナーの胸に顔を埋めたまま荒い息を吐いていた。
後頭部を撫でる手のひらに彼女の体温が熱く伝わってくる。
ゆっくりと見上げた彼女の顔は首筋まで真っ赤に染まっていた。
理知的だった瞳は熱情に潤み焦点が定まっていない。
完全にキャパシティを超えてしまったのか彼女はしばらくの間その場で固まっていた。
ウマ耳はペタンと伏せられ尻尾はトレーナーの脚に巻き付くように揺らいでいる。
「……ペナルティはこれで終わりだ」
トレーナーが少し意地悪な笑みを浮かべて囁く。
するとアーモンドアイは潤んだ瞳でこちらを睨み上げ唇をわずかに尖らせて、視線を逸らしたまま呟いた。
「……別に、わざと負けたわけじゃないわよ」
まだそんな強がりを言うか。
完全に赤らんだ顔と潤んだ瞳のままではどんな言い訳も説得力を持たないというのに。
完璧を自負する絶対王者のあまりにも可愛らしい抗議。
「そういうことにしておくよ」
トレーナーは彼女の頭頂部の白いリボンを優しく撫で繋いでいた手をもう一度強く握り直した。
「帰ろうか」
アーモンドアイは真っ赤な顔のまま無言でコクリと頷きトレーナーの腕にギュッと抱きついた。
夕闇が完全に落ちた帰り道。
もうレースの話は出なかったが二人の距離は行きよりもずっと近くに密着していた。
冷たい風が吹く中で互いの体温だけがいつまでも熱く燃え続けているのだった。