『兄のPCにバックドアを仕掛ける重すぎる妹と、重心移動が完璧すぎる潜入メイド。~天才お兄様は恋のバグに気づかない~』 作:水上 空
「凛、ターゲットの生体反応を確認。予定時刻より3.2秒早い。……さすがはお兄様、成田からの京成スカイライナーの加速Gすら計算に入れて、最短経路を導き出したのね」
桐生家のリビング。妹の**結愛(ゆあ)**は、壁一面に並んだモニター群を前に、まるで作戦司令官のような鋭い視線を送っていた。画面には、自宅周辺の監視カメラ映像と、兄・零のスマホから密かに吸い上げたGPS情報がリアルタイムで表示されている。
「……結愛、一応確認だけど。零様は『お兄さん』であって、密輸組織のボスじゃないわよね?」
その傍らで、フリルのついたエプロンドレスを完璧に着こなした少女、**佐倉 凛(さくら りん)**が冷めた声を出す。彼女は結愛のクラスメイトであり、今日から「住み込みメイド」という名目でこのハイテク要塞に潜入する、結愛の親友だ。
「何を言っているの、凛。お兄様は『世界の至宝』よ。不純な輩が1ピコメートルでも近づかないよう、24時間のドーム型防衛圏を構築するのは妹の義務(マナー)でしょう?」
「……その防邪気な笑顔で、お兄さんのPCにバックドア仕掛けるの、本当にやめてあげて」
ピンポーン、と無機質なチャイムが鳴った。
結愛の顔が、一瞬で「恋する乙女」へと変貌する。
「来たわ! 凛、配置について! 『プロのメイド』を演じ切るのよ!」
玄関の自動ドアが開くと、そこには一人の青年が立っていた。
桐生 零(きりゅう れい)。
17歳にして数々の特許を持ち、海外の数理研究所から「歩くスーパーコンピュータ」と称される天才。彼は、手にしたタブレットに複雑な数式を打ち込みながら、顔も上げずに呟いた。
「ただいま。……玄関の気圧が0.5パスカル高いな。結愛、また換気扇のアルゴリズムを書き換えたか? 効率が悪いぞ」
「お、お兄様ぁぁーー!! お帰りなさいませ! 21日間と14時間ぶりの再会ですわ!」
結愛が弾丸のようなスピードで零の胸に飛び込む。零はタブレットを片手で保持したまま、もう片方の手で結愛の頭を「物理的な障害物を避ける」ような動作で軽く撫でた。
「ああ、結愛。……お前の体温が平熱より0.8度高い。……俺との再会によるアドレナリンの過剰分泌か、あるいは新型のインフルエンザか。後者なら、今すぐ隔離プロトコルを発動させるが?」
「再会による愛のオーバーヒートですっ! ……あ、お兄様。ご紹介しますわ。今日から我が家の家事を完璧にサポートしてくれる、専属メイドの凛さんです」
結愛に促され、凛が一歩前に出た。
彼女は心臓の鼓動が早まるのを感じていた。実は一年前、図書館で零に数学の難問を瞬殺で解いてもらって以来、彼女はこの「変人天才」に密かな恋心を抱いている。
「……初めまして、零様。佐倉凛と申します。家事全般、および……身辺の管理を担当させていただきます」
凛は深々と頭を下げた。スカートの裾を掴む指が、わずかに震える。
零は、初めてタブレットから目を離した。
その鋭く、しかしどこか虚空を見つめるような瞳が凛をスキャンする。
「……ほう。メイドか。……お前の立ち振る舞い、重心の移動に無駄がないな。……家事動線の最適化において、非常に優れたポテンシャルを感じる。……ところで、お前の瞳孔が開いているが、俺に対して何らかの殺意、あるいは強烈な光学的刺激を感じているのか?」
「い、いえ! ……その、光学的、というか、反射的な……感動です」
凛の顔が一気に赤くなる。零は首を傾げた。
「感動? ……なるほど、俺の帰宅という事象が、お前の脳内報酬系を刺激したわけか。……面白いサンプルだ。……結愛、彼女を雇用することに異論はない。ただし、俺の部屋の掃除には『量子力学的アプローチ』が必要だから、後でマニュアルを渡す」
「さすがはお兄様! 理解が早くて助かりますわ!」
結愛は親友の凛をチラリと見た。
(……凛、いい仕事ね。お兄様の関心を引くなんて。でも、これ以上距離を詰めすぎたら、親友でも『デリート』するから気を付けてね?)
凛は無言で頷く。
(……結愛、ごめん。監視するつもりだけど、私は……あなたの予想以上に、お兄さんに『最適化』されたいと思ってるの)
夕食のテーブル。
零が計算機のように正確な動作で食事を摂取する中、結愛は兄の皿に「お兄様大好き」とケチャップで書かれたオムレツを差し出し、凛は零の飲み物の残量をコンマ数ミリ単位でチェックしている。
「……結愛、凛。……この家には、理論上『平和』という名の安定解が存在するはずなのだが」
零は、オムレツのケチャップ文字を「可読性の低い非効率な符号」として一瞬で平らげると、真顔で二人を見た。
「なぜ、俺の周囲の空気抵抗が、これほどまでに熱を帯びているんだ? ……まるでお前たちの視線が、物理的な圧力(プレッシャー)として俺の皮膚に干渉してくるような感覚がある」
「気のせいですわ、お兄様! 愛の重力波が観測されているだけです!」
「……ただの、湿度計の故障だと思います。零様」
「そうか。……ならいい。……明日は学園に編入する日だ。……データの収集を邪魔しないでもらいたい」
零はそう言って、再びタブレットの世界へと没入した。
自分の生活が、妹のハッキングと、メイド(親友)の隠密奉仕によって、一分一秒まで「愛」という名のアルゴリズムで支配され始めていることに、天才はまだ気づいていない。
「……ふふ、お兄様。明日からの学園生活、わたくしが完璧にプロデュースして差し上げますわ」
「……(私の心拍数も、零様の計算式に入れてもらえる日が来るのかな……)」
桐生邸の夜は、解析不能な恋のバグを抱えたまま、更けていくのでした。