『兄のPCにバックドアを仕掛ける重すぎる妹と、重心移動が完璧すぎる潜入メイド。~天才お兄様は恋のバグに気づかない~』 作:水上 空
お兄様、おはようございます。レム睡眠からノンレム睡眠への移行パターンを解析した結果、今この瞬間が、脳内ドーパミンを最大化させる覚醒の黄金比ですわ」
零が目を開けると、そこには至近距離でタブレットを構え、自分の虹彩をスキャンしている結愛の顔があった。
「……結愛。お前の顔が網膜の有効視野を90%占有している。……それと、俺の枕元にあるこの小型センサーは何だ? 昨夜はなかったはずだが」
「あら、これはお兄様の『寝息のスペクトル分析機』ですわ。二酸化炭素の排出量から、わたくしへの夢を見ている確率を算出しようと思いまして……。結果は、残念ながら『素数(2, 3, 5, 7…)』の羅列を呟いていただけでしたけれど」
「当然だ。素数は宇宙の真理だからな。……不快なデータではない。続けろ」
零は表情一つ変えず、当然のように妹のストーキング行為を「熱心な生物学的観察」として受理した。
リビングに降りると、メイドの凛が、音もなく零の背後に立っていた。
「零様。今朝の栄養摂取プロトコル……いえ、朝食です。……あなたのBMIと、今日の予想消費カロリーを逆算し、糖質とタンパク質を4対1の比率で配合した特製スムージーと、エッグベネディクトです」
「……完璧な数値だ。凛、お前の計量技術は、研究所の電子天秤(てんびん)に匹敵するな」
「……恐縮です」
凛は無表情を貫いているが、零に「完璧だ」と褒められた瞬間、背中のメイド服の編み上げが弾けそうなほど胸が高鳴っていた。彼女のポケットには、結愛から支給された「兄への接近禁止距離(1.5メートル)」を測るレーザー距離計が入っているが、今はわざと電源を切っている。
「凛、お兄様の口角にソースが0.3ミリ付着していますわ。……ふふ、わたくしがこのナプキン(家宝にする予定)で、優しく、丹念に拭き取って差し上げます!」
「……いえ、結愛様。それはメイドの職務です。……私が、この滅菌処理済みの指先で……」
二人の視線が火花を散らす。零はその間を割って入り、自分でティッシュを一枚取ると、無造作に口を拭った。
「非効率だ。……それより結愛。学園のデータベースにアクセスしたところ、俺のクラスには『恋愛偏差値』なる非論理的な指標で生徒を格付けする下劣なアプリが流行しているらしい。……凛、お前は同級生だろう? 実態を教えろ」
凛は一瞬フリーズした。メイドの正体が「妹の同級生」であることは、零には秘密(という設定)のはずだったからだ。
「……! ……零様。……私は、プロのメイドとして『潜入調査』をしていただけで……。……いえ、そのアプリは、ただの……バグの塊です。気にしないでください」
「そうか。……なら、俺が今日、そのサーバーを物理的に『最適化(ダウン)』させても問題ないな」
「「ダメです(わ)!!」」
兄の「天才ゆえの過激な解決策」を止めるため、二人の意見が初めて一致した。
学園への道中。零を中心に、右に結愛、左に凛という、側近を連れた王族のような陣形で歩く三人の姿があった。
零は歩きながらタブレットで数式を解き、周囲の風景を一切見ていない。
だが、結愛と凛の視線は、道ゆく全ての女子生徒を「敵対的バイオハザード」としてマークしていた。
「凛、前方15メートル。お兄様の顔を見て赤くなった女子高生を確認」
「……了解。……音響兵器(イヤホンからの大音量ノイズ)で、零様への興味を逸らします」
「結愛、右方。お兄様にラブレターを渡そうと待機している下級生」
「……ふふ、お兄様の足元に『摩擦係数ゼロ』の極薄フィルムを設置。……転ばせて、わたくしが抱きとめるついでに、手紙は量子消滅(シュレッダー)させますわ」
零は、自分の足元で次々と起きる「不自然な転倒事故」や「突然の悲鳴」に気づくことなく、満足げに頷いた。
「……結愛、凛。……この通学路の安全性は、理論値を超えて安定しているな。……通行人の注意力が散漫なのが気になるが、俺の歩行アルゴリズムを邪魔する存在が皆無だ」
「「ええ、当然ですわ(ね)、お兄様(零様)」」
自分たちが、兄の平和を守るために「世界一過保護なデバッグ作業」を繰り返している自覚はある。
だが、天才の兄は、その背後に渦巻く「執着心という名のカオス」にだけは、一生辿り着けない方程式を解き続けているのだった。