原作で明かされなかったその後などが明らかになるのも、あの作品の魅力ですよね。
カッツェ平野は、常に濃密な負のエネルギーと死者の怨嗟が渦巻く、文字通りの死地である。しかし、その日に限って言えば、平野を満たしていた忌まわしい濃霧は不気味なほどに消え失せ、アンデッドにとっては忌避すべき、燦々と輝く太陽がむき出しの荒野を照らし出していた。
「……今年の王国と帝国の戦争は、随分と早く開戦しましたね。例年であれば王国領土の秋の収穫の時期を狙い、国力を削ぐために少し後に行われるはずですが……」
廃屋敷の執務室で、イーサンは首に巻いた自身の腸を優雅な手つきで撫でながら、窓の外のやけに澄んだ遠方の――戦場の空を見つめて呟いた。彼の口調には、生者たちの愚かな争いを高みから見下ろす貴族特有の余裕が満ちていた。
「まあ、早く始まる分には構いません。人間の政治的思惑など、我々には関係のないこと。ギャルソン、いつものように戦争の後に下位アンデッドを向かわせる準備をなさい。戦場に残された新鮮な死体を
イーサンがそう言いかけ、優雅に指示を下そうとした、まさにその瞬間であった。
何万という魂が一瞬にしてすり潰され、この世から物理的・精神的に消し去られたような、次元の違う「絶対的な死の気配」が、平野の端から巨大な津波のように押し寄せてきたのである。
それはカッツェ平野に満ちる怨嗟など比較にならない、純粋で圧倒的な『死』の波動だった。アンデッドである彼らでさえ、己の存在が掻き消されるような根源的な恐怖を感じるほどの質量。
「……何事ですか。この異常極まる気配は」
直後、戦場の偵察に放っていた配下のアンデッドが、執務室の分厚いオーク材の扉を乱暴に蹴り開けて転がり込んできた。感情や恐怖を持たないはずのアンデッドが、その骨の体をガタガタと打ち鳴らし、魂の髄まで根源的な恐怖に支配されている。
『お、お待ちください、イーサン様! 死体の回収など、不可能です……! 王国と帝国の戦争の結末につきまして、緊急のご報告が……!』
念話で伝えられたその内容は、イーサンとギャルソンが百年以上の時をかけて築き上げてきた世界の常識を、そして彼らの存在根底を、根こそぎ破壊するほどに常軌を逸したものだった。
「アインズ・ウール・ゴウン……? 帝国軍の陣に現れたという、そのたった一人の見知らぬ魔法詠唱者が、王国軍を壊滅させただと……?」
イーサンの顔のない頭部から、いつもの洗練された紳士的な声が完全に消え失せていた。
腹部を強引に塞ぐ無骨なボタンが、極度のパニックによって限界まで膨張した内部の臓器に押され、ギリギリと今にも弾け飛びそうな悲鳴を上げる。
「馬鹿なことを言うな! 七万ですよ!? 七万の武装した人間が、たった一つの魔法で死滅したなどと! あの帝国の
『戯言ではございません……! その者が魔法を放った直後、本当に王国軍の左翼七万人が一瞬で死に絶え……天から真っ黒な粘体が降り注ぎ、山のように巨大な、五匹の冒涜的な黒い化け物が現れ、残りの王国軍を蹂躙したのです! 現在も化け物どもによる大殺戮は続いており、王国軍の被害は計り知れません。さらに……』
配下のアンデッドは、そこに控えるギャルソンの方へと、恐る恐る視線を向けた。
『さらに、そのアインズ・ウール・ゴウンの背後には、数百体もの
「――ッ!!」
その言葉を聞いた瞬間、ギャルソンの右腕の失われた断面から、バチバチと青白い魔力の火花が弾け飛んだ。
ギャルソンが一生をかけて魔法の研鑽を積み、それでもなお一体すら支配できず、片腕を無残に奪われたカッツェ平野の絶対的な恐怖。それが、数百体。しかも、ただの盾や護衛のように、一人の魔法詠唱者の背後に大人しく整列させられていたというのだ。
「……あぁ……あぁ……なんという……なんという……」
ギャルソンの眼窩に灯る青白い炎が、かつてないほど激しく、狂気的に燃え上がった。
かつての敗北のトラウマは、その異常なまでのスケール差を前にして完全に上書きされた。彼の心は、己の理解を遥かに超えた存在への圧倒的な畏怖と、魔法の深淵に対する強烈な陶酔に完全に支配された。
「魔導の神だ……。私が、私が求めていた魔法の極致、その具現がそこにいらっしゃる……!」
ギャルソンはその場に膝から崩れ落ち、虚空に向かって――アインズ・ウール・ゴウンが君臨しているであろう戦場の方向に向かって、深く深く、狂信者のように平伏した。
一方で、イーサンの心を満たしていたのは、ギャルソンのような陶酔ではない。果てしない絶望と、理不尽すぎる現実への強烈な憤怒であった。
「……死体回収は、今回は中止です。動く気配すら見せてはなりません。……馬鹿な、そんなデタラメに強大な魔法詠唱者が帝国の味方についただと!?」
イーサンは紳士の矜持を忘れ、執務机を激しく叩き割った。飛び散った木片が床に散乱する。
「もし我々が……我々の存在がバレでもしたら虫けらのように一捻りにされるのは明白ではないですか!!」
彼は長年かけて積み上げてきた策略を想い、腸を煮えくり返らせた。
人間の裏社会を利用し、負のエネルギーを集め、機を伺いヴァディス自由都市を内部から奪って『アンデッドの独立国家』を建国するという、壮大で完璧なはずだった計画。
「なぜ、私の百何年という血の滲むような悲願を、ぽっと出の魔法詠唱者の魔法一振りで、こうもあっさりと過去の遺物にしてしまうのだ……!!」
イーサンの冷静さはとうに失われていた。
彼らが誇っていた強さなど、アインズ・ウール・ゴウンの前では、嵐の前に舞う羽虫の羽ばたきほどの価値もない。不用意に動けば、即座に存在を感知されて塵にされる。完全な「詰み」であった。
「イーサン様。……私は、アインズ・ウール・ゴウン様の御膝元へ向かいます」
不意に、平伏していたギャルソンが立ち上がった。彼の声には、かつてイーサンに向けていた「対等な協力者」としての敬意や親愛は既になかった。あるのはただ、神にすがる狂信者のそれである。
「正気ですか、ギャルソン!? その魔法詠唱者は帝国の……人間の側についているのですよ! 我々のようなはぐれのアンデッドがノコノコと出向けば、浄化されるか、よくて実験動物扱いです! 貴方の魔法への探求も、そこで潰えるのですよ!」
「潰える? 逆です。あの御方こそが魔法の究極であり、世界の真理。あの御方に隷属し、魂ごとすり潰されたとしても、神の魔導の礎となるのであれば、これ以上の本望はございません」
イーサンは必死に自身の持つスキルを同時発動し、言葉に強力な精神干渉の力を乗せて説得を試みた。
しかし、神への狂信という名の分厚い鋼鉄の壁に守られたギャルソンの精神には、一切のスキルが弾き返され、かすり傷一つ負わせることはできなかった。
もはや、彼の計画は完全に終わったのだ。強大な同族の目と理不尽な暴力を恐れ、ただこの薄暗い廃屋敷で息を潜めることしかできない。
自身の無力さを呪い、激しい苛立ちと共に、すべてを諦めるような泥のような虚無感がイーサンの全身を包み込んだ。
「内臓男爵」が百年の以上の時をかけて抱いたアンデッドによる建国という夢物語は、ナザリックという絶対的な超越者の影が落ちた瞬間に、手も足も出せない無惨な喜劇へと姿を変えていたのである。
次は明日の朝8時に投稿予定です。