十月の暑さも少しずつ緩和されてきたとある日曜日。
「ヤチヨ来たよ」
とあるアパートの一室の扉の前、そこに彩葉はいた。
その言葉が届いたのかガチャリと音がして扉のロックが解除される。
彩葉は靴を脱ぎ中に入る。
そして彼女の視界の先には薄暗い部屋の中央に「もと光る竹」と呼んでいる月人の作り上げたタイムマシンが水槽に入れられて鎮座している。
それこそがかぐやであり、月見ヤチヨの現在の本体。
『彩葉、おはよう』
「うん、おはよ」
彼女の装着しているスマコンから白髪の少女の像が映し出される。
『あれ?その荷物は?』
挨拶もそこそこに気になった事を質問する。
今の彩葉は背中にリュックサックを背負っている。
「じゃーん!」
よくぞ聞いてくれましたとそれを床に下ろすと中身を取り出し始める。
『雑巾、折りたたみのモップ、バケツ、ゴム手袋、洗剤、それに…これは魚の餌?』
「うん、この部屋を掃除しようかと。あ、これはFUSHIの好きそうなイカ、釣具店で買ってきたやつ」
心なしか部屋で飼われているウミウシが嬉しそうにしている様に見えた。
今日彩葉がこの部屋に来た目的の一つは大掃除だった。
「よし、始めちゃうよ!」
そう宣言して部屋の照明をつけて窓を開く。
隙間一つホコリを逃さない完璧な清掃を目指して。
掃除を終えた彩葉は床に置かれているモニターの一つと睨めっこしていた。
『そうそう、そこのコードを一旦消して』
「こ、こう?」
彩葉はヤチヨからの指示に恐る恐るといった感じでコードの一つにカーソルを動かしてそれを消去する。
『これで一度止めてそこのコードを移せばいいよ…それでそこはパラメータを増やすだけで…うん、やっぱり彩葉は飲み込みが早いね。もうちょっと練習すればツクヨミの本格的なエラー修正が出来そう』
ヤチヨは絶賛と表現しても良い発言をする。
ツクヨミの運営は基本的にはヤチヨの一人で行っている。
「これはヤチヨの記憶のおかげだけどね」
彼女はそう自虐する。
本人の考えとしては努力ではなくあくまでヤチヨの力だという考えなのだ。
事実として一度の説明で段跳びで作業を覚えてしまっている。
『ううん、記憶や知識はね、所詮は見たものでしかないよ。でもそれを活かせるかはやっぱり彩葉自身の熱意と努力だと思う』
仮に目の前で倒れた人がいたとして、咄嗟に正しい手順で救急介護が出来る人は何人いるだろうか。
「うん、ありがとうヤチヨ」
相手のその言葉を受け力の抜いて頬を緩ませてしまう。
これまで彼女の母親は何かで一番を取っても内心はともかくとして態度として認める事をしなかった。
今の彩葉はまだ十二分にプログラミングを納めたとはいえない技量だった。
それでもヤチヨはその向き合う姿勢を真っ直ぐに見守っている。
『あーっ!彩葉照れてる!!いとかわゆし!!』
相手はその照れた一瞬を見逃しはしない。
かぐやだった時ですら、彩葉は嬉しそうな顔をしない様に、不機嫌そうに表情筋を絞めていた。
それは母親に緩んだ気持ちを端から否定され続けてきたが故の自然と身についた防御反応なのだ。
しかし今は素直な気持ちが顔に出てしまう。
「そういうのは黙って見逃すところでしょ」
さすがに指摘された恥ずかしさのあまりつい顔を逸らす。
『まさか彩葉に何かを教える日が来るなんてー』
ヤチヨは取り敢えず話題を変更する。
彩葉からプログラミングについて教えてほしいと言われて、こうして時間を互いに作って教授をしている。
「色々と進路について調べて、もう受験までの勉強のスケジュールは余裕を持って組んだ、合格は十分射程圏内。それに大学進学してからプログラミングを覚えたりするんじゃ遅すぎるから」
これまでと同じく切り詰めたスケジュールではあるが今の彩葉には疲労感も焦燥感も全く無い。
何より世界で初めて実用的なARとVRを生み出し何世代も先の技術力を実現した「スマコン」と、自由にここではない「ツクヨミ」という異世界を作り上げた世界最高峰の頭脳を持っているヤチヨから学べる事は多い。
本来であればいくらでも大金を積んでその技術を学びたいと列挙してくるはずの相手、それを個人で呼んで教授して貰えるのだ。
「まずはツクヨミのアバターを動かす為のパラメーターを完全に理解解析する」
手足を動かそうと考えるだけでアバターを動かすその技術。脳の信号を察知して体を制御する方法論。
それはかぐやを現実に顕現させる為の義体作りにおいて必須の項目になる。そしてそれはツクヨミの技術を応用する事になる。
これまで母親に認められたい、自分を見て欲しいというまるで何の目印のない荒野をあてどなく歩く様な感覚。
しかし今は明確なゴールを見据えて迷いなく真っ直ぐに進んで行ける。
そのような感慨に耽っているとヤチヨは何かに気がついたようだった。
『ん?おやや?』
「どうしたの?」
ヤチヨはふとウィンドウを開いて何かを確認していた。
何かしらの不正データを検出した様でその報告が来たのだ。
『えーっと「いろ×ヤチ快楽二人羽織 ヤッチョにこうされて喜ばぬ者などいなかった」』
「何だそれは!?」
ヤチヨの口からとんでもないタイトルが飛び出してきてつい声を荒げてしまう。
ヤチヨの八千年の記憶の中でも彩葉は有用なものと不要なものの二つのフォルダに分けている。
その中には「カップリング」と「受けと攻め」というものが含まれており、彩葉はその知識をゴミと位置付けている。
『どうやらAIを使って勝手に同人の本を出そうとしてるみたい、ヤッチョびっくり』
この前のヤチヨのライブの影響なのかいろPとヤチヨの関係を邪推する勢力が増加してしまっている。
結果としてその興味が邪な方向性に伸びているのだ。
「そんなもの取締りだ!取締り!無許可で私を素材にするな!!」
『いや、これは一時保留だね』
「そんなわけあるかぁっ!!」
『まって彩葉!ああっ!』
彩葉によって無情にもその同人誌は畳まれてしまう。
◎
長い、遅い。
上昇中のエレベーターの階層表示の数字の増加、それが牛歩の歩みかの様に酒寄朝日の焦燥感を煽ってくる。
『速く、速くっ…!』
彼の頭の中に過ぎるのは彩葉のアバターが自身を蹴り飛ばした事、そして紅葉をいらないと断じた事、そしてヤチヨを踏みつけた事。
先程ヤチヨから連絡が入り彩葉がログアウトしても間違いを犯さない様に早く部屋へと向かう様にお願いされたのだ。
人は簡単に死ねる。例えばタワーマンションの高層階から身を乗り出したりすれば。
『いや、そんな筈は…』
そんな筈は「無い」と断言出来なかった。
知らない、酒寄彩葉というたった一人しかいない、何の代わりにもならない存在。
父親が亡くなってから母親に責められ詰められていて、それを見かねて朝日が仲裁に入ってこそいた。
そこで彩葉は決まって「大丈夫」だとか「ありがとう」と返していた事。
口でそう返していても心の奥底でどう思っていたかなんて彩葉本人にしか分からない。
『そうか…』
彼は一つの答えに辿り着いて肩を落として項垂れる。
自身は優しいお兄ちゃんであるという役割を演じて気分が良くなっていただけなのだと。
亡くなった父親の代わりを演じて、それでしっかりやれている自分をみて悦に入っていたのだと。
―気落ちする妹を慰められてさぞ気分が良かっただろう?
母親に詰められて落ち込んでいる妹を助ける自分はさぞ男らしく、兄らしく見えた筈だ。
―上から偉そうに説教するのは楽しかっただろう?
彩葉に対して上手くやれなんて説教をして兄らしく振る舞えてさぞ気持ちよかっただろう。
しかもその後でかぐやとヤチヨカップを優勝する為の一助になれてさぞ鼻高々だったろう。
―ボロボロになった妹に手を差し伸べその手を取って貰えるのは家族としての絆を感じさせただろう?
本来であれば体を壊す前に早く動くべきだった。
手遅れになってから手を差し伸べて何を正しい事をした気になっているのか。
上京して家に母親と妹を二人にしたらどうなるのか想像出来ない筈がなかったろう。
『……』
先程まで長い時間に感じたエレベーターの待ち時間、しかし深い思考に耽っているといつの間にか彩葉の住んでいる一室の前に着いていた。
息を呑みながらインターホンを押す。
『頼む…』
当たり前だがそれが鳴った瞬間に反応が返ってくるわけでも、すぐに扉が開くわけでもない。
永遠にも思える時間の後、インターホン越しに反応が返って来る。
『はい…お兄ちゃん?』
『彩葉っ』
『あ、すぐに開けるね』
最悪な予感とは裏腹に彩葉は気負いの無い雰囲気で返事が返ってくる。
そしてガチャリと玄関の扉が開けられると寝巻き姿の彩葉がおずおずと出て来る。
『……』
『……』
対面した瞬間、お互いに言いたい事や確認したい事は山ほどあるはずなのに、どちらも口も足を縫い付けられた様にその場で行動する事が出来ない。
『取り敢えず上がってよ』
彩葉はそう言ってリビングへと兄の朝日を通す。
彼は黙って従いソファーに腰掛ける。
(部屋ん中が荒れてる感じはない)
部屋の隅にはガチャの様な用途不明なものが置かれてはいるがそれはかぐやが残したもの。
彩葉は特別綺麗好きというわけではないが乱雑にものを床に置くのを好まない。
テーブルの上には抗うつ剤や大学進学のパンフレット、そしてプログラミングの教材が整理整頓されて置かれていた。
『お兄ちゃん何飲む?』
彼女は相手がソファーの端に座ったのを確認してから、ごく自然体な雰囲気でキッチンへと向かいながらそう尋ねる。
『え?えと、何でも…』
妹のあまりにも自然で気負いのない雰囲気につい驚き気のない返事をしてしまう。
『紅茶とか残ってたかな…』
何でもと言われて何を出すべきか困った様でキッチンの一角に置いてある色とりどりのティーバッグを眺めている。
すでに深夜を回っていてあまり刺激の強い飲み物を出すのは躊躇われた。
それらはかぐやが残していたものだった。
いつもはコーラとか炭酸飲料ばかり口にしていたのに背伸びでもしようとしていたのだろうかと考えている。
それとも彩葉の体を考えて刺激の少ない飲料を買っていたのか。
『な、なぁ彩葉…』
本来の目的を忘れそうになっている為何とか話題を振ろうとするがどうしても口が止まってしまう。
『ん?何か他に飲みたいのあった?』
『いや、そうじゃなくてだな…』
そんなやり取りをしている間も彩葉は沸かしていたポットのお湯をカップに注いでからティーバッグを一つ入れる。
それは安めで甘いくらいしか取り柄のないものだった。
『はい紅茶、お兄ちゃんの口に合うかわからないけど』
『あ、あぁ、ありがとう』
彼は目の前に置かれた紅茶の入ったカップに口をつける。
彩葉は兄が落ち着くまで隣に座り待ち続ける。
気まずさは残っておりお互いに切り出すタイミングを見計らっている。
『ごめんなさい』
彩葉はここで話を切り出した。
『お兄ちゃんが頑張ってセッティングした話し合いの場所台無しにしちゃった』
先程のかぐやの自意識に呑み込まれて八千年の怒りや恨みが表に出てしまった一件。
『いや、それは』
彼は分かっている。
ヤチヨからおおよその事情を聞いていた為、それを責める気など全く無い。
『それにお兄ちゃんを蹴っちゃって、それにお母さんを…』
しかし彩葉はその後、兄を絶句させる一言を放つ。
『気分が良かった』
彼はその告げられた言葉に何を言われたのかまるで分からなかった。
『彩葉…何を…』
『かぐやに身を任せてる時に思ってた、ざまぁみろって』
彩葉の口が止まらなくなる。
溢れ出すものが抑えられなくなる。
『何を今更仲直りなんて考えてるんだって、もう無理だよ、戻れないよ。謝ってそれで済むと思うなって、どの面下げて来たんだって』
その言葉が母娘の仲を取り持とうした兄を傷つける事は分かっていた。それでも口から出るものを止められない。
ここで話出してから初めて兄の方へと視線を向ける。
『お兄ちゃんにもさ、スポンサーが消えていって気分が良かった。裏やネットで叩かれてるのを知って気持ちよかった。私を見捨ててお母さんを避けるみたいに東京に逃げた報いだって思ってた。今更偉そうにお兄ちゃんぶるなって』
真っ直ぐに向けられる視線が嘘偽りのない気持ちである事を物語る。
『酷いよね、色々と便宜を図ってもらってる立場なのにこんな事考えて』
彩葉はヤチヨとの約束の通りに思っていた事をぶちまけた。
全ての現実を、現状を全て破壊して更地にする程の威力を込めた心の声を。
『俺も彩葉にずっと何でお母さんに言いなりになってんだって思ってた。いつまでも認められたいとかそんな無駄な事を努力してんなって思ってた。別にあんな人の言う事を真に受けてさ、どうでもいいじゃんて思ってた。そんでうじうじ傷ついて無駄な事をってさ』
しかし朝日は殆ど間を入れずに言い放った。
『俺がお母さんと向き合うのを嫌がって逃げたのは事実で、今更彩葉に兄や年上ぶっても何も響かないんだろうなって思う』
朝日は初めてここで胸のつっかえが取れた様な晴れやかな表情を作った。
『でも俺たちっておんなじ事を考えててさ…やっぱり兄妹なんだなって』
『うん…』
二人は一晩中醜いところも互いに感じていた愚痴も全てを語り合った。
時に母親への悪口で笑い合い、お互いへの不平不満や文句で喧嘩になり、悲しい気持ちや思い出を慰め合い夜 は更けていった。
彩葉は寝る時間がなくなってしまっていても特に気になる事はなかった。