※やや鬱、嘔吐などの表現を含みます。
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私は一面の焼け野原を見下ろしていた。
炎がーーひたすらに赤い炎が、容赦なく苛烈に、街を焼き尽くしていた。
倒壊した建物が真っ黒な炭になり、木材と瓦が真っ赤な炎の中でじりじりと炙られ続けている。
崩れた瓦礫の下、炎に覆われた道の上に黒々とした影が幾つも落ちている。
それらは人形を不恰好に捻り上げたような奇怪な造形をーーーーあぁ、いや、誤魔化すのはやめよう、それは有り体に言って死体だった。
炎の壁の向こう、火の波の下、焼け焦げた人間の死体がそこかしこに散らばっている。焔と灰と、瓦礫と骸。
雪崩のように火の雨を降らせていた機影はもう頭上には見えない。見上げる空はひたすらに曇天。巻き上げられた灰がどこまでも空を淀ませ、肺を焼くような熱気だけが我が物顔で躍動している。
この地獄そのものの光景を、私はただただ呆然と見下ろしていた。
いつもそうだ。いつもそうだった。いつも私はなにもできなかった。
もっと自由に動く体なら、もっと自由に話せる体なら……もっと何かできたんじゃないのか?目の前にいる誰かの命を助けるために何かできたんじゃなかったのか?
もううんざりだった。本当ならできるはずだったのに、何もできない。この不自由がこの上なく恨めしい。
恨んでも恨めるのは自分しかいないのが最悪だった。もう何千年、あの時の失敗を悔いてきただろう。
涙なんて枯れ果てたと思っていたのに、悲劇に出くわす度に自分の無能を呪う気持ちだけはいつでも新鮮だった。
反吐が出る。吐くものなんて無いくせに、吐き気がする。
今だってそう。ここ街に住む人達が何をしただろう?
こんな……こんな風に地獄のような火に焼かれて死んでいくのが相応しいと?それだけのことをしたのか?それだけの悪いことをしたのか?罪があったのか?
彼らはただ暮らしていただけだ、日々の日常を営んでいただけだ。
朝起きてご飯を食べて、仕事をして、家族を守って……人では無い、小動物のような私のことも街角の住人として受け入れてくれた。
暗い世相、切り詰める必要のある事情の中で、それでも当たり前の生活を守ろうとしていた善き人々。
ーーみんな死んだ。
みんなもう、炎と瓦礫の下。捻れた黒い焼死体。
やめてくれ!もうたくさんだ!
私はそう叫んだがそれは小動物の小さな鳴き声にしかならなかった。
ばちばちと焼ける家屋と火花が散る音にかき消されてそれはどこにも届かない。
……この世界は地獄だ。そして、私はその地獄をどれだけ歩いていかねばならないのだろう。
八千年の間、色んなものを見た。多くのものを見た。
死別を見た。衰弱を見た。飢餓を見た。飢渇を見た。疾病を見た。病毒を見た。病魔を見た。苦悶を見た。苦痛を見た。苦悩を見た。干魃を見た。大火を見た。凍結を見た。洪水を見た。台風を見た。災害を見た。天災を見た。人災を見た。戦争を見た。競争を見た。闘争を見た。流血を見た。出血を見た。暴力を見た。暴行を見た。暴虐を見た。蹂躙を見た。略奪を見た。掠取を見た。破壊を見た。殺戮を見た。虐殺を見た。鏖殺を見た。拷問を見た。陵辱を見た。汚辱を見た。汚濁を見た。汚物を見た。汚穢を見た。悪意を見た。敵意を見た。憎悪を見た。怨恨を見た。呪詛を見た。憤怒を見た。悲哀を見た。愁嘆を見た。強欲を見た。傲慢を見た。増長を見た。虚栄を見た。嫉妬を見た。貪食を見た。暴食を見た。飽食を見た。放蕩を見た。淫蕩を見た。淫欲を見た。怠惰を見た。虚無を見た。諦念を見た。無為を見た。無常を見た。閉塞を見た。忘却を見た。無知を見た。蒙昧を見た。孤独を見た。孤立を見た。衰退を見た。退廃を見た。背徳を見た。腐敗を見た。浪費を見た。煩悩を見た。因果を見た。応報を見た。報復を見た。狂奔を見た。狂気を見た。隔意を見た。断絶を見た。罵倒を見た。侮蔑を見た。差別を見た。嘲笑を見た。嘲弄を見た。猜疑を見た。裏切を見た。破滅を見た。混沌を見た。混乱を見た。滅亡を見た。絶望を見た。失望を見た。邪悪を見た。人間を見た。
ーーーー地獄を見た。
もううんざりだった。飽き飽きしていた。
八千年の間に見たありとあらゆる世界の、人の醜悪さが飛び散る泥のように意識の底からフラッシュバックする。
忘れる、という地球生物の脳に由来する
どんなに輝かしい道があるとしても臓腑の内側に染みついた、黒いヘドロのような不快な記録が、地獄のような記憶が目の裏にまで這い上がってきてあらゆるものにドス黒い陰を投げかけていた。
意識の底に掃き落とそうとしても、押し込めようとする度に私の手はとめどなく汚れていく。見下ろせばもう真っ黒な泥だらけ。
いつまで?いつまで耐えればいいの?
いやだ。苦しい。辛い。やめてほしい。今すぐ終わらせてほしい!
もう無理。限界。本当は一秒だって待てないのになんでそんなに待たされなきゃいけないの!?
助けて!!私を助けて!!
お願い、助けて◼︎◼︎!!
ーー絶望の中で、最悪の予想が頭を過ぎる。
それはあまりにも最悪すぎて想像するだに恐ろしいものだった。
そんなのに思考を巡らせるなんて絶対にしてはいけないのに、弱りきった私の思考回路にはその最悪が猛毒のように回り始めていた。
……本当に自分は未来で◼︎◼︎に会えるの?
……だって見てごらん、この焼け野原、瓦礫の山。
……本当に百年かそこらで
……そこまで復興を、発展を、人の進歩を信じられる?
……ねぇ、私が飛んできたのは本当にあの世界に繋がる過去なの?
ーーーー実は、違う軸の
あ。ああ。ああああああ。あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ!!!!
そんなの無理だ嫌だ絶対無理だそんなの耐えられない!
もう何千年経ったと思ってるのどれだけ待ったと思ってるのどれだけ耐えたと思ってるのそれだけがそれだけがたった一つ残っている希望なのにそれがもしも無かったらどうすればいいの!!
会いたい会いたい◼︎◼︎に会いたい早く会いたいもう待てないお願い助けて私を助けてよ◼︎◼︎!!!!本当に!?本当にあなたはこの先の未来に生まれるの!?この地獄みたいな光景が本当にあなたの生まれる未来に繋がるの!?そうじゃなかったらもう私は私は◼︎◼︎◼︎は……どうすればいいの……!?
もういやだ何も考えたくない想像したくない何も覚えていたくない思い出したくないいっそ狂いたい早く終わらせたい狂わせてほしい終わりにしてほしいもういやだなにもかもいやだいっそ死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死ねないくせにこんなにも死にたい。
私は人間じゃないから死ねないどんなに死にたいと思っても体さえないから死ねないもしも◼︎◼︎と会える未来が来なかったとしても私は死ねない◼︎◼︎と会えない世界でずっとずっと生きていく夢も希望も味も熱も歌も無い世界でずっと独りきり永遠に永遠に生きていくあなたのいない世界で膝を抱えたまま終わらない暗闇の中で生きていくんだ。
吐き気がするご飯なんて最後にいつ摂ったか覚えてないのに吐き気がする寒気がするもう熱も暖かさも感じないはずなのに寒さだけがどこまでも痛い。
もう終わらせてほしい。
いっそ死なせてほしい。
叶うなら殺してほしい。
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「うああ゛ぁぁぁぁあ゛ぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!??」
深夜、自分の悲鳴で跳ね起きた。
心臓が痛い。どっ、どっ、どっ、と暴走したエンジンのように早鐘を打ち、心筋が引き攣れたような痛みを訴える。
頭痛が酷くて頭が回らない。脳が灰色の石になったように重たくて、何かを考えるようなことができない。
ただただ全身が不快だった。寒くて重たくて、身体中の血が冷えた泥に入れ替えられてしまったよう。
「ぅっ、っぐ……!ぅぇっ、ぅぐ、ぉ゛ぇええぇぇぇ……っっ!!」
立ち上がって歩く気力すら湧かなかった。無意識のうちに這って、かろうじてゴミ箱を引っ掴んだ私は胃の中身をぶちまけた。
もうとっくに夕飯は消化し終わっていて、中身のない胃袋からは酸っぱい胃液しか湧いてこなかった。
他人の手で無遠慮に内臓を雑巾搾りされているような不快感が絶えず、私は何度もえづいて胃酸を吐いた。
「ぇ゛っ、ぇぅぅ゛っ……!……ぐ、っ、ぅ、ぅぁ……っ」
ようやく、ようやく吐き気の波が一度引いた頃にはゴミ箱を手で支える力もなかった。
がたん、と倒れたそれからゴミと胃液の混合物が床に溢れるのを見送るしかできない。
ガタガタと
寒い。いや、熱い。それとも暑い?全身にタールのようにベッタリとした汗がへばりついていて不快だった。
ひゅーっ、ひゅーっ、と荒い呼吸音が聞こえる。地上の酸素に溺れる魚の気分。息をしている筈なのに息が苦しい。吸って吐く空気は吐瀉物の酸っぱい味しかしなかった。
「……ろは、……い…は!」
視界が暗い。暗い筈なのに目の裏がチカチカする。脳髄と神経の裏から真っ黒なヘドロが湧いてきて意識と思考がぐちゃぐちゃに塗りつぶされていく。
高山に放り出されたように耳鳴りが止まず、夜の海で溺れたように前も後ろも右も左もわからない。なんなら上下もよくわからない。どこに向かっても暗い水底に沈んでいく。
「いろ……!い…は…!返事を…て、いろは……!」
でも、それなのにたった一つだけ光る何かが私の意識に映り込んでいた。
一片の羽根のような小さなそれを、藁を掴むような心地で必死に握り込む。
それは女性の声だった。この世で唯一で無二の、私をいつでも見守ってくれる最愛の人の声。
「……いろは!しっかりして、彩葉!」
「…………ャ、チよ……?」
ぱちぱち、と瞼を瞬かせる。知らずのうちに溢れていた涙で滲む視界の中に光っている画面が見えた。
枕元に置いていたタブレット端末、そこに映っている月見ヤチヨが私に声を投げかけていた。
綺麗な眉をハの字に寄せて今にも泣き出しそうな表情。
……あぁ、やめてよ、そんな辛そうな
「彩葉……っ!……いい、彩葉?今からヤチヨの声にだけ意識を集中してね」
「……ぅん……」
「ゆっくり目を閉じて……それで、深呼吸するの。息を吸って、吐いて……すーっ……はーっ……て、一緒にリズム合わせて……」
「ぅん……」
私が応えるとヤチヨは泣きそうな表情を消してから、穏やかな月の光のような優しい笑みを浮かべ、私にそう促してきた。
ろくにものを考える余裕もない私はただただ死にそうな不快感から逃げたい一心で言葉に従った。
息を吸って、吐く。息を深く吸って、深く吐く。ヤチヨのすぅ、はぁ、という息遣いに合わせて、ただ何も考えずに呼吸をすることだけに集中する。
やがて少しずつ全身の強張りが解けていくのがわかる。手足の震えが収まり、少しずつ指先に血と熱が通っていく。
「少し落ち着いた?じゃあ、お水飲もっか。一口だけでいいよ、左手にボトル置いてるでしょ?」
「うん……」
言われた通り、体を起こして布団の横に置きっぱなしにしていたミネラルウォーターを手に取る。
気を抜いたらまた消化管が逆方向に蠕動しそうな気がして怖い。それでも恐る恐る水を口に含んで飲み下す。
口と喉に張り付いていたいがらっぽい胃液臭さが薄まるのを感じる。
それだけでまた少し体から力が抜ける。
楽になった分、かえって疲労感がどっと押し寄せてくる。私はぐったりとしながら布団に横たわった。
全身の骨が冷えた鉛のように重たい。それでもさっきより少し意識が鮮明になってきたのは救いだった。
「彩葉、少し落ち着いた?」
「うん……ありがと」
「……ずっとうなされてたよ。昨日、熱が出てたもんね。体がしんどいと……ちょっと、夢見も悪くなるもんね」
「うん……そうだね……」
ヤチヨの言葉をどうにか咀嚼しながら、改めて何がどうなっていたのかを思い出す。
そう……夢を見ていたんだ。悪い夢。八千年分の煮詰めに煮詰めた悪いところの煮凝りみたいな……悪い夢。
「ヤチヨ……」
「うん。どうしたの、彩葉」
「ヤチヨの歌、聞きたい……」
「…………うん、いいよ。子守唄、歌ってあげるね」
ヤチヨは一瞬、逡巡するような間を置くと、深くは訊かずに私のリクエストに応じてくれた。
曲は『Remember』。ヤチヨのデビュー曲で、私が一番聴き込んだ曲。
私が一番しんどくて限界ギリギリになりながら日々を切り抜けていた時期に、背中を支え続けていてくれた曲。
この歌が、ヤチヨがいてくれなければ私はきっと今こうして生きていなかった。
目を閉じて聞き入ると、条件反射で気持ちが落ち着いていくのがわかる。体だけでなく、心の強張りが解けていく感覚。
……ヤチヨ、いつも本当にありがとう。暗がりに押し潰されそうなとき、いつもあなたは背中に寄り添ってくれる。まるで優しい月の光……。
「この曲、子守唄扱いなんだね……」
「……そうだよ。だって彩葉が
「ほんと、懐かしい……。まだ2年くらい前だけどね……」
私が呟くとタブレット上に小さいウィンドウが開いてヤチヨがもう一人現れた。わざわざ雑談用の分身も用意してくれたんだ。
ヤチヨの分身はサーバー性能にものを言わせた
人間である私だって雑談しながら手元で書き物したりするけれど、ヤチヨのはそれのもっと
二人に増えるくらい大した負荷じゃないのは知ってるけど、最推しにして最愛の人が増殖して構ってくれるのってなんだがむず痒い。嬉しすぎて。
「あとでわかったけどさ……この曲って私のこと宛書きだよね……気づいた時ちょっと恥ずかしかった……」
「んふふ〜……やっぱりそう?でもこのメロディー、ヤチヨの一番大好きな旋律だから、デビュー曲はこれを使って一番大切な人に届けるって決めてたのです!えへん」
「…………うん、ありがと」
ヤチヨの得意げな表情に目を細めながら頷く。
一番大好きな旋律。ぼかした言い方をあえてしているけど、もう知っている。
『Reply』……私が月に帰ってしまったかぐやに向けて綴り、完成させた
古くは私とお父さんが一緒に作った曲のメロディーは彼女を月から呼び戻して……その後の遭難した八千年の間、その孤独の支えになっていたことを、私は知っている。
……支え。……本当に?
私はヤチヨに救われたけど、私はヤチヨの救いに本当になれたのだろうか。
考え始めると、辛い。胸の奥がぎりぎりと捩れるように痛み、ドス黒い血が溢れかえって溺れそうだ。
「……ヤチヨは……」
「うん、どうしたの?」
「ヤチヨは……夢を、見たりするの……?」
「……ううん」
私がそう訊ねると、ヤチヨは少し逡巡するような素振りを見せてから
「月人は情報生命体だから、記憶の処理の仕方は人間と違うの。だから休眠中に無意識下で記憶の整理をしているとき、制御できないイメージが表層に登ってくるということはないんだ。52時間毎にスリープに入るときも、私はもっとデジタルに処理しているから……」
「……納得、夢は地球生命の脳の構造に由来しているだけね」
「うん、だから……。……だから、寝る時はリラックスして、体調良くしようね。そうしたら悪い夢も見ないでぐっすり眠れるよ。彩葉、大学が夏休みだからってちょっと無理してたでしょ?」
「……そうだね。心配かけてごめん……」
「ヤチヨは止めたのに……昨晩少し熱があったの知ってるんだからね」
だから……、という言葉の後にわずかに躊躇う素振りを見せたヤチヨは、ぷりぷりと可愛らしく怒りながら説教モードに移行してしまった。
彼女の言い分は本当にその通り過ぎる。正論でロックされるのは苦手なんだけど黙って謝るしかない。
ただ多少の無理は必要なことだというのは弁解させてほしい。
私はここしばらく、FUSHI経由で月人の持つ技術体系を脳にインストールする処置を受けていた。
人間の手で人間の体を完全に再現する。
私はその大目的のために人生を賭ける覚悟を決めたが、大学で学びながらそのために必要な技術開発の
その工程を強引にでも縮めるためには月人の技術と知識を取り込むことは必須だった。
ただそのせいで何度か知恵熱が出てヤチヨにすごく心配されているのはわかっていた。
夏季休暇を利用してインストールのペース配分を上げたのも良くなかったのだろう。
……だから、あんな夢を見る羽目になった。
二年前、私が頼み込んで共有させてもらったヤチヨの八千年分の旅の記録。
その底に溜まりに溜まっていた、あの粘つくヘドロのような質感の、悪夢。
「ヤチヨ」
「うん、どうしたの?彩葉」
「愛してるよ」
「……彩葉……」
私がそう口にするとヤチヨは戸惑いながらも頬を少し赤くした。
照れる表情がこの上なく可愛らしくて、傷んでいた胸の奥に甘やかな熱が灯る。
言うべきかどうか迷ったけれど、本音を聞かせずに後悔するのはもう懲りたからちゃんと言おう。
そりゃあ言いたくない、言うべきでない本音というのがあるのは知っているが、今回のは言ったほうがいい本音だと思う。
「私はヤチヨのことが好きだよ。世界で一番愛している。でもね、それはあなたの中にかぐやがいるから……っていうのもあるけど、それだけじゃない。ヤチヨの全部をひっくるめて愛しているの」
「私の、全部」
「うん、あなたの八千年もひっくるめて、全部」
そう言うと画面の中のヤチヨが少し肩を震わせた。
ヤチヨは八千年の人生経験を経たかぐやだ。かぐやは私の人生を変えた、何より大切な子で、ヤチヨの奥に今でもその名残を垣間見るたびに胸が熱くなるのを感じる。
でも私がヤチヨを愛しているのはそれだけじゃなくて、
もう
でもそんないじらしいところが可愛い、なんて言ったら怒られるかな。
「だからね、悪い夢を見ても、いいの。私、ヤチヨの苦しさだって分け合いたいから。……こうやって同じ傷を負えるのが、ちょっと誇らしい」
「彩葉……」
ひょっとすると寝ている間の
だからヤチヨは私がどんな悪夢を見ていたか予想がついていたし、だからあえて深く踏み込まなかった。
わかるよ。自分の記憶のせいで相手が苦しんでるんだって思ったらしんどいよね。
……でも、いいんだ。私は傷付くならヤチヨのために傷付きたい。
本当の苦しみを共有できないまま、理解できないままでお為ごかしのように「辛かったね」なんて慰めの言葉を言いたくない。
あなたと同じ傷を負って、あなたと同じ血を流したい。
そしてその苦痛も悪夢もひっくるめて、
「……彩葉。ありがとう、彩葉の気持ち、すごく嬉しい……」
「ヤチヨ……」
「本当は、彩葉が苦しんでるところなんて見たくないのに、あなたにはずっと幸せでいてほしいって思っているのに……こんなことで嬉しくなっちゃってごめんなさい……。でも、だから、ごめんね……」
「……謝らなくていいよ、私の自己満足みたいなもんだし」
私がそう言うとヤチヨは首を左右に振った。
二つに結った銀髪が揺れて、長いまつ毛の端から涙が溢れるのが鮮明に見えた。
あぁ、そんなところも綺麗だな、ヤチヨは。
「そうじゃないの……。月人は夢を見ないの、だから……私は悪い夢を見て、うなされて飛び起きるとか、そういう苦しみをわかってあげられないの。それが悔しくて、悲しいの……。彩葉は私の苦しみをわかってくれるのに……っ」
あぁ、なるほど。さっき言い淀んだ「だから」の続きはそれか。
彼女は夢を見ない。夢というのは人間の脳が寝ている間に行う無意識下の情報編纂だから、人間と同じ脳を持たない彼女には悪夢がわからないのだ。
私が見た夢は、八千年の歴史そのものではない。私の無意識が圧縮して編集した長い旅路の中の悪性の煮凝り。
こんなの見なくてもいいよ、なんて口にしようとしたけど……それも野暮かな、と思った。
それは、それこそヤチヨが私に言いたいことだろう。八千年の旅の苦労なんて最初から私に背負わせたくなかったし、そのことで苦しんで欲しかったわけじゃない。
でもそれを無理矢理共有させて、勝手に傷を負って勝手に満足した気分になってるのは私の我儘だ。
だから私もヤチヨの我儘を肯定してあげないとダメかなぁ。
嫌だなぁ、ヤチヨにはこれからの人生ちょっとでも嫌な気分なんて味合わせたくないのになぁ。
でもそれってヤチヨが私に対しても思ってることなんだろうなぁ。
それを言い始めると堂々巡りの無限ループだ。
……だから、これは言わないほうが良い方の本音だろう。
「……じゃあさ、夢、見れるようにしようか」
「彩葉……?」
「将来作るヤチヨの体、夢も見れるように作ってあげる。それでね、一緒に同じベッドで寝て、同じ夢を見るの。……素敵じゃない?」
「うん……すごく素敵。……じゃあね、彩葉。ヤッチョが悪い夢見たら……今度は彩葉が子守唄歌ってね」
「もちろん。夜通し背中さすって、歌ってあげる。ミルクも飲ませてあげようか」
「…………それもすごく、素敵な気がするね」
「いや、ミルクはさすがに冗談……いや、ヤチヨがいいならやるけど……」
流れで私の夢のハードルがまた一段階上がる。人工脳神経の開発もリストに加わったが、面白いと思う。
どうせ夢を見るならもっと素敵な夢を見てみたい。
頬を綻ばせながら他愛のない雑談を続ける。夢を見るならどんな夢がいいだろう。将来を夢見るならどんな未来がいいだろう。
タブレット越しに向き合いながら、私は指を二本差し出した。
お互い言葉も要らずに指先を合わせる。ちょん、ちょん、ちょん。仲良しのやつ。
流れるメロディーとヤチヨの優しい声を聴きながら、私はいつしかゆっくりと瞼を閉じ始めていた。
その晩はもう、悪夢は見なかった。