※同短編集内の『夢見る機械の夢を見る』及び『酒寄彩葉博士の展望/ペーパームーンを仰いで』とある程度の関連があります。
夜の虹を探す、という言い回しがあるらしい。
あり得ないはずのものを探し回ることを指しているとのことだ。
私はこの言葉が好きだ。だって、存在しないものの例えとするにはあまりにも綺麗だと思うから。
きっと夜の空に大きな虹が掛かる様は美しいのだろう。それは想像の中にしかないからこそ、幻滅する余地すらなく美しい夢であり続ける。
この世に無いものの代名詞が、そんな綺麗な夢であること自体がなんだか儚くてやるせなくて、私の心の中にいつまでも焼き付いている。
日々の生活の中で、ふと窓の外に暗い夜空を見上げるたびに私はそのことを思い出す。
独り見上げる空に、虹を見たことは一度もない
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酒寄彩葉という人を最初に見たのは入学式の新入生代表挨拶。
真っ直ぐな背筋とすっと通った綺麗な鼻筋、艶やかな
多くの人の前に登壇して緊張の欠片も見せない堂々とした立ち振る舞いと、滑舌も良く耳に響く鈴の音のような声。
東大主席入学者ともなると色んな意味で出来が違うんだなぁ、凄い人はいるものだ。なんて現場にいたはずなのにテレビの向こうの光景を見るような感想だった。
次に意識したのは入学後。理工学部というのは比率的にどうしても男性に寄りがちで、私も含めて女子学生は少数派で、だからこそ意識し合うようになる。
しかもゼミや取った講義も結構被っていて、私は否応にも彼女の存在を視界の端に留めざるを得なかった。
花の大学生だというのに彼女からは過酷な受験競争を生き抜いたというような解放感も、大学生活を謳歌しようというような浮ついた雰囲気はまるで感じられなかった。
シラバスと履修登録用紙と睨めっこしながら唸り続け、教授や教員にガンガン話しかけに行っては何かの相談に乗ってもらう。
サークル活動の勧誘なんかは全部無視していたし、空いた時間は図書館に篭ってずっと調べ物をしていた。
学校終わりには買い物用の手提げ袋みたいなものに図書館で借りた資料を満載して帰路についていた。多分、アルバイトとかはしていないんじゃ無いだろうか。
私のように勉強することが生活に染み付いているとか、勉強していないと不安で仕方がないみたいな強迫的ななにかに囚われているわけではなさそうだった。
ただ、絶対にやるべきことがあって、そのためには一秒たりとも時間を惜しんでいられないと、そんな鬼気迫る熱意を感じた。私は燃え盛る炎の車輪を幻視した。
少なくとも私とは違う人種なのだろうな、とそうぼんやりと思った。
彼女にとって東大合格というのは人生のゴールではなくて、むしろここからが本番なのだ。きっと、心からやりたいことがあって、そのための手段なんだろう。
「……でも酒寄さん、少し根を詰めすぎ……じゃないですか?」
「……え、あぁ、私?」
ただ、遠巻きに見ていただけだったのにその日は声に出してしまった。ついうっかり、口が滑ってしまったという感じで。
場所はすでに彼女の定位置が確保されつつある図書館の一角。酒寄さんは今日も城壁を建造するかのように辺りの書架から引き出してきた資料を並べ、一心不乱に手元のノートに書き物をしていた。
本だけでは飽き足らないのかタブレットで何かを検索しながら難しい表情をしていた彼女は、自分に声をかけられたことに気づいてはっとしたように手元から顔を上げた。
ぱちりとした、青緑がかった瞳が私に向けて初めて焦点を合わせる。
その視線にまっすぐ見られることがなんだかひどく気恥ずかしくて、私はおっかなびっくり肩をすくめながらおずおずと口を開いた。
「あの、酒寄さん、すごく頑張っているのはわかるんですけれど……その、お体にも気を遣われた方が良いんじゃないかと……」
「うん……?ごめんね、私、何か迷惑になるようなことしたかな?」
「いえ、そうではなくて……目元にクマができてるみたいなので、少し心配で」
「クマ……、あぁ、マジか……」
そう指摘すると、彼女はタブレットを写真モードに切り替えて自分の顔を映した。
そういう指摘をするのは不躾かもしれないと思って戦々恐々としたものだったが、それでも私は言わざるを得なかったのだ。
普段から色白な顔だなぁとは思ってたけれど、今日はまた一段と白い気がした。青白いというか。
そう思って注目すると目元の黒ずんだ色合いも気に掛かり始めたのだった。やっぱりそちらも昨日までと比べると心持ち濃い気がする。
自分の顔色を確認した酒寄さんはタブレットを置くと「うあー……っ」と呻いた。
……やっぱり言わないほうが良かっただろうか……。
「ご、ごめんなさい。失礼なこと言ってしまいまして、でも、今日は特に具合が悪そうに見えて心配で……!」
「ん〜……。これでもメイクで隠してるつもりなんだけどなぁ……化粧のノリが悪かったか。いや、指摘してくれてありがとう。大丈夫だと思ってたのにバレたということはこっちの判断能力も落ちてたのかも。黄色信号ってとこかな」
謝る私に対して酒寄さんはふっと口角を緩めて笑った。
メイクで隠していたということは、特別今日がしんどかったというわけではなく本当は普段からそうだったということだろうか。
私はぶるっと背筋を震わせた。家族にも友人にも心配をかけさせまいと、無理を隠しに隠してついには壊れてしまった人というのは何人も見てきた覚えがある。
なんだかそういう人達と同じ轍を彼女が踏むのではないだろうかと思うと、私は無性に怖くなってしまったのだ。
「だから、その……ちょっとずつでも、酒寄さんも、息抜き……とか、そういうのを試してみるのもいいんじゃないかなー、なんて……。……ごめんなさい、事情もよく知らないのに、部外者が勝手に偉そうなこと言って……」
あぁ、自分で言ってて途中でなんだかすごく恥ずかしくなってきた。
彼女には彼女の事情があってそれでも無理を押してでも勉強に励んでいるはずなのに、横からぽっと出の自分が偉そうな口ぶりで「休め」なんて、無責任なことを。
燃え盛りながら走り続ける炎の車輪は、燃え尽きそうだからこそ美しい。それに水をかけて止めようとすることは大変罪深いことなのではないだろうか?
なんて傲慢で、なんて偽善なんだろう。そうやって潰れていく人を本人が選んだ結果だろう、なんて何人見送ってきたかしれないのに。
なんで彼女だけ今更、そんな助言なんて。そもそも息抜きなんてもの自分でも大して知らないくせにーーーー。
「それもそうだね。あんまり周りを心配させるのもどうかと思うし、ちょっと休憩しようか。教えてくれてありがと」
「…………えっ?」
「息抜き、息抜き……あっ、そうだしまった!そういやライブ今週末じゃん!やっばー、リハやんないとヤチヨに叱られる!」
「……えっ?」
「よし、そうと決まれば早く帰ろう!今日はありがとね!」
なので、酒寄さんがあっさりと資料を片付け始めた時には面食らってしまった。自分が言い始めたことなのに。
大抵こういう時は突っぱねられるのが当然だとこれまでの経験で思っていて、身を縮こまらせていた私は混乱することしきりだった。
しかもライブ?酒寄さんに対して私が抱いていたイメージから完全に乖離した言葉が飛んできたことで脳が意味を処理できず空転する。
硬直しながら目を白黒させている私の内心を知ってかし知らずか、酒寄さんは気さくに話しかけてくる。
「あ、そういえば関係者席のチケット余ってるんだけど、一枚貰ってくれない?」
「え?」
「今度の土曜日の夜、ライブあるんだ。席埋めに協力してくれると嬉しいな〜、なんて」
「らいぶ……?……えっと、酒寄さんって、楽器の演奏とか……されるんですか?」
「うん」
半分くらい
あっさりと肯定される中でどうにか頭を動かして思考の整合性を確保する。
楽器の演奏をする……えーと、ピアノとかバイオリンとか?クラシック系?だろうか?彼女は育ちが良さそうだし子供の頃からそういうお稽古事をしていて今も続けているのかもしれない。きっと多分そうじゃないだろうか恐らく。
うん?でもそういう演奏会ってライブっていう表現をするのだろうか。
「真のエリートは遊びも疎かにしないものよ。……そういえばツクヨミのアカウント持ってる?」
酒寄さんはなんだか妙に得意気な顔でそう言った。
スマコンなら持ってます大学の入学祝いで、と私は辛うじてそう返事をした。
******
「た、助けてぇぇぇっ!!」
私は悲鳴を上げた。自分の喉からこんなに情けない声が出るなんて知らなかった。
頭は真っ白、思考はパニック。どこに向かっているのかもわからないけれど、とにかく足だけは全力疾走。
背後を振り向いて様子を確認するなんてそんな暇さえ惜しい。
あぁ、そんなことを考えていたら後ろからヒュンヒュンと風を切る音が……!
「ひゃぁぁぁっ!?」
『オッケー、そのまま引きつけといて。真実、櫓が空いたから落としに行ってくれる?』
『りょーかい〜』
「なんでもいいですからはやくたしけておねはいしますぅぅ!!」
耳元に酒寄さん達の通信が入ってくるけどそれを理解する余裕が頭に残っていない。
それよりも最大の関心事はたった今体の横を通り過ぎていった矢の存在だった。
それは空気を裂くような薄寒い音と共に飛んできて、ドスンドスンとダンボールにカッターナイフを勢いよく突き刺すような音を立てて地面に藪を生やす。
笠に銅鎧を纏ういかにも戦国時代に出てきそうな兵隊が何人も弓を構えてこっちに狙いをつけている。
私は「これ初心者向けだから」という理由で渡された小銃をお守りのように抱きかかえながら、みっともなく泣きべそをかいて逃げ惑っていた。
「し、死んじゃうぅぅっ!!死んじゃいますぅぅぅぅっっ!!」
『大丈夫、死なない死なない。残機は三つあるでしょ?』
「慚愧ってなにぃぃぃぃっ!?!?」
一体私はなにをしているのだろう。
一体全体なにがどうなって私は戦国時代の合戦場みたいなところに放り込まれて矢を以て追われているのだろう。
ーーーー遡ることしばらく。
私は自室でおっかなびっくりスマートコンタクトの設定を終えてツクヨミへの初ログインを行った。
スマコンはこれからの勉強にも便利でしょ、という理由で大学合格祝いに両親に買ってもらったものでまだ真新しい。
それをこうやって人と遊びに行くのに使うというのは、うなじがちりちりするような罪悪感があったが、その時の私はそれよりも酒寄さんのお誘いを断る方がずっと良くないことのような気がしていたのだ。
水の中から浮かび上がるようなエフェクトが視界に広がり、やがて鏡のように透き通った水面の上に立つ。
VR機器に触れたことがないわけではないが、ここまでの迫真性を持った世界観は初めてで私はそれこそお上りさんのように辺りをきょろきょろと見回してしまった。
そして正面の鳥居の前に立つ美しい女性の姿を認めて、あっ、と小さく声を上げた。
「ーーーー太陽が落ちて、夜がやってきます」
長い銀色の髪に藍色の和服みたいなドレス、穏やかで耳通りの良い声をした彼女は私でも知っている、AIライバーの月見ヤチヨだ。
世界的に人気のある歌手でもあるけれどその正体はあくまで人工知能だという。
でも制作元も不明、インターネットの黎明期からそれらしい人が活動していたらしいけれど、それもいわゆる中の人なのか不明。
ただそういう芸能関係やらネットの情報に兎角疎い私には有名人らしい人だという認識しかなかった。存在しない人間、プログラムの塊をアイドルとして崇める人間の心理は残念ながらそういったものに熱中したことのない私には縁遠い文化だった。
実際に接してみて、話してみて、綺麗なモデルだなとか、どういうプログラムで会話を作っているのだろうとか、声のサンプルは誰なんだろうとか、そんなことは思ったりしたけれど。
神秘的な容貌に反して気さくでジョーク交じりの会話をする彼女に説明を受けながらアバター制作のチュートリアルを受ける。
正直こういうのは全くの初めてなのでドレスコードや常識、スタンダードやら流行のわからない私は、とりあえず色々なサンプルを見せてもらうことにした。
最終的に袴を履いた書生風の服にタヌキの耳と尻尾という外見を薦められた私は「それじゃいってらっしゃーい!」という月見ヤチヨの威勢のいい声と共にツクヨミへと送り出されたのだった。
「お、来た来た。大丈夫?最初の人は大抵転ぶから」
鳥居を潜った先にあったのは木造の大きな橋。送り出された勢いで前につんのめって転んだ私の耳に、聞き覚えのある声が聞こえた。
顔を上げればそこにいたのはキツネの耳と尻尾、喑青色の和服……和服でいいのかな?を着た酒寄さんだった。
転んだところを手を差し出されて掴み返すが、握った感触はない。ただ体だけが起こされるというのは奇妙な感覚だった。
仮想現実ならではのギャップ体験に戸惑っている私に、彼女は微笑んで奥の風景へと手招きした。
その所作はなんだか堂に入っていていて、まるで彼女自身がこの世界の大使であるかのようだった。
「初めまして、歓迎するよ。ーーーーようこそ、ツクヨミへ」
ユーザー登録者数一億人を超える世界最大のメタバース、仮想空間ツクヨミ。
常に夜が展開された空には光で構成された大小無数の魚が煌めきながら泳ぎ回り、ドローンショーのように様々なシルエットを描き出していた。
和風の木造建築に石畳でありながら街明かりはネオンサインが入り乱れ、ところによっては近代的なビルも天つくほどに伸び上がる。
街を行き交う人々は和装であることが多いが、それに当てはまらない様式のものも多く、私たちがそうであるように動物の耳や尻尾を生やしている人もいる。
街頭には大きなスクリーンがいくつも並び、一つとして同じ番組を流しているものはない。テレビ番組のように会社が作っているのではなく、個人が放映権を取って配信を流しているんだよ、と教えてもらって私は奇妙な驚きを覚えた。
繁華街や目抜通り、小さな細い路地にも個人運営の店舗や露店が並び、道行く人の視線を奪おうと工夫を凝らした看板と商品が立ち並ぶ。
ツクヨミでは誰もが表現者。雑踏と喧騒、艶やかで華やかで活気に満ちた夜の街。
「町並みは京都を参考にしているらしいよ。私、出身がそっちだから歩いてるだけでも結構落ち着くんだよね」
勝手知ったるというふうにあちこちを歩き回って私を案内する酒寄さん。
一方で私は視界に飛び込んでくる情報量に溺れて目を回しそうになっており、彼女の言葉には「はぁ」とか「へぇ」とか、そんな情けない相槌を打つしかできなかった。後で思えばだいぶ恥ずかしい対応だったと思う。
やがて川辺の、騒がしさが少し離れたエリアまで辿り着く。
そこでようやく一息つけるかな、とホッとしたところで私達は声をかけられたのだ。
「おーい、彩葉ー」
「あ、芦花、真実。こっちいたんだ」
「時間が空いちゃったから、遊んでから行こうと思ってさ」
そこにいたのは二人組の女の子で、一人はトナカイみたいな角を生やしていてもう一人はリスみたいな尻尾をつけていた。
酒寄さんと気安い雰囲気であるところを見るに友人のようだった。
邪魔しちゃ悪いかな、と思って一歩下がる私だったが……それを見越されていたかのように話の矛先が飛んできた。
「あ!その子が言ってた子〜?」
「そうそう、私の大学の友達」
「初めまして、よろしくね。私は芦花で、こっちが真実。彩葉とは高校時代の友達なの」
「こ、こちらこそよろしくお願いします……」
「よろしく〜」
紹介に預かった以上はしょうがないのでおずおずと手を差し出して握手をする。
二人とも気さくそうで、悪い人ではないのだろうなと思う。酒寄さんの友人だというのだからそれも当然だ。
ただ私が勝手に気後れしているのだった。私はきゅっと肩を縮こまらせた。
「私、酒寄さんの友達でいいんでしょうか……?」
「うん……?あ、ごめん。勝手に友達認定しちゃってたね?迷惑だった?」
「いえっ、そんな迷惑なんかじゃ……!私の方が酒寄さんにご迷惑なんじゃないかってそう思っただけで……」
「彩葉の人たらし〜」
「大学でも女の子引っ掛けてやんの〜」
「こらー、からかうのやめなさい二人ともー」
芦花さん、真実さんと戯れ合う酒寄さんはなんだか気が抜けていて、楽しそうで年相応の女の子に見えた。
大学で火がついたかのように勉強と調べ物に熱中しているあの姿からは全く想像できない一面だった。
こんな仲の良さそうな人達がいるなら、体調不良をちょっと指摘しただけの私なんて通りすがりに目に入った壁のビラ程度の扱いでいいんじゃないかなんて思ってしまう。
友達。彼女は私をそう呼んだ。
ーーーーその言葉がなんだか背筋に小さな棘になって刺さり、ちくりと痛んだ。
「まだライブまでしばらく時間あるんだよね。みんなで喫茶店でも行く?」
「えっとね、それなんだけど私達KASSENで時間潰そうってさっきまで話してて〜」
「お、いいね。せっかくだし、みんなで行こっか」
「?」
なので、そんなことを考えていた私は話についていけなかった。
いや、考えていなくてもついていけなかっただろう。この四人の中では新参の私は一番発言権がなく、ツクヨミに来たばかりの私に暇潰しの場所など提供できるはずもなく。
「じゃあ、ステージの前に体あっためとくか!」
「かっせん……?合戦?どこで?」
そういって体をストレッチし始めた酒寄さん達になにがなんだかよくわからないままに連れ行かれてーーーー私は戦場に放り込まれたのだった。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!!むり、もうむり……っ!!死んじゃう、死んじゃう……!!」
「おつかれ〜、すごい逃げっぷりだったね。一周回って筋いいんじゃない?」
「もうやりません……っ!!わ、私、こういう、ゲームとか、そもそも、初めてで……っ!!」
「……あー、なるほど、それはごめんね。それは彩葉が悪いよ彩葉が。相手のゲーム遍歴ぐらい聞いとけばいいのにね」
そして現在、ひたすらに弓と槍と刀で追い回された私は息も絶え絶えになって地面に突っ伏していた。
仮想現実なのを忘れるくらいの必死の逃げっぷりだった。なまじ解像度も物理演算も迫真のリアリティだからこそ、凶器の前に晒された私の恐怖は本物だった。
ぜぇぜぇ、と息を切らしている私を芦花さんと真実さんが宥めてくれている。
足を引っ張ってばかりだった私にはその優しさが居た堪れなかった。
ちなみに酒寄さんは途中で「そろそろ楽屋入りしてって連絡が来た、ごめん」といって先に抜けた。薄情だ……!
「アクション初めて?普段どういうゲームやってる感じ?」
「……数独とか、英語のクロスワード、とか……」
「ーーーーうん、なるほど。それなら一緒に今度ツクヨミでそういうの探してみよっか。パズルゲーム作ってるクリエイターさんも結構いるから」
いい歳こいて半べそをかいている私は二人に慰めてもらいながら、喫茶店で飲み物を奢ってもらった。
ただ(ついさっきまで忘れかけていたが)ここは仮想現実なのでジュースにも味はないし、喉が潤せるわけでもない。
なのでちゃんと水分補給はリアル側でするようにとアドバイスを受けてその通りにした。
泣き叫んだせいか、ただのミネラルウォーターがひどく身に染みた。
「味に関しては未来で超人科学者さんがなんとかしてくれるよ。私はその時を楽しみに待っておりまする〜」
真実さんは冗談めかしてそう言った。
確かに、いつになるのか誰がやるのかは知らないが、そういう夢があるのはいいことだと思う。
それこそ、夜の虹を待ち侘びるようなものかもしれないけれど。
いつの間にか雑談ができる程度には打ち解けてきた私達三人は連れ立って今日のライブ会場へと向かった。
その途中でまるで人の流れが河のように一方向に偏り始め、それはやがて下流で合流して一つの大きな建物に向かって吸い込まれていった。
『桂木座』と看板がかけられたお城のようなその建造物は歴とした劇場ということで私は面食らってしまった。
「酒寄さんって、こんなおっきなところでライブするんですか?本当に?」
「…………あ、彩葉ってばほとんど説明もせずにチケット渡したな〜?」
「ふふっ、それなら逆にサプライズになっていいかもね。度肝抜かれるよ」
「し、心臓に悪いのは勘弁願いたいんですけれど……」
私達が通された関係者席は上の方にあるバルコニーのような作りになっていて、ちょうど舞台を見下ろすような位置にあった。
劇場の作りは歌舞伎とかを想定しているのか、客席を横断するように花道が通っていたりする一方で、バルコニー席など西洋のオペラハウスのような雰囲気もある和洋折衷な作りだった。
視界の下で一般客席がどんどん埋まり始めていくのを私はどこか落ち着かない気持ちで眺めていた。
こういう舞台で演奏するなら、琴とか三味線とかかな?酒寄さんはそういえば京都出身というようなことを言っていたから和楽器が専門なのかも……?
「やおよろ〜っ!!今日は桂木座に集まってくれてありがと〜!!神々のみんなに、今宵もサイッコーの舞台をお届けするね!!」
そんなことを思っていたらやがて劇場の照明が落とされ、アナウンスの声が舞台の開幕を告げた。
声は酒寄さんじゃない、でも聞き覚えがある。
あ、これってチュートリアルの……月見ヤチヨ!?
「それではみなさんご一緒にーーーーLet’s go on a trip!!」
そう思い至った瞬間に、花道の奥にスポットライトが当たってそこに現れた人を照らし出す。
銀の髪と和装ドレスのシルエット、そして番傘を携えた月見ヤチヨだ。
やがて軽快さと激しさが入り混じる音楽が鳴り始め、頭上からは桜の花が雨のように降り注ぐ。観客はそれこそ歌舞伎役者に向けるように声をあげて彼女の名を口々に叫び始めた。
音と花、歓声が降り注ぐ中に堂々とした足取りでヤチヨが花道を歩く。ランウェイを歩むスーパーモデルのように、或いは大通りを練り歩く太夫のように。
その歩みにツクヨミの入り口で少し話した気さくそうな雰囲気は微塵もなく、見たままの神秘的で厳かなスターの姿があった。
天女、女王、女神。そんな形容が頭の中を駆け巡る。
「あっ……!!」
ヤチヨが花道を歩き切ったと同時、正面舞台全体が一斉に照らし出される。
そこにいた人を……酒寄さんを認識した瞬間、私は思わず声を上げた。
そうだ。ヤチヨの衝撃に飲まれていたけれどそもそも私は彼女のライブを観に来たはずで……!
まさか、月見ヤチヨと一緒のステージに立つっていうことだったの!?酒寄さん!?
私の混乱を他所に、歌が始まる。
その瞬間、私は頭が弾け飛んだかと思った。
月見ヤチヨの歌声は高く伸びやかで真っ直ぐで、それでいて柔軟に自由に空間を響き渡った。
演奏が織りなす生の音楽は劇場そのものを巨大なスピーカーに変えてしまったかのように重く激しく奏でられる。
音は空気の振動で、それが鼓膜を震わせて神経に伝わって初めて音として認識される。
それは嘘だ、と私はこの瞬間思った。音楽は全身で聴くものだ、聴かされるものだ。或いは脳が直接揺さぶられて意識が振動することが音楽なんだ。
私はこの日、この瞬間初めて音楽というものを聞いたのかもしれない。
「すごいでしょーっ!!この曲、彩葉が作ったんだよ!!」
「……っ!?!?!?!?」
近くで真実さんがそう言った。音楽に負けないくらいに大きな叫びだった。
音の奔流に圧倒される脳に新しい情報が捩じ込まれて、私は頭がどうにかなりそうだった。
これ!?作ったの!?誰が!?酒寄さんが!?本当に!?
驚きに目を向けると、酒寄さんは全く対等に月見ヤチヨと同じ舞台に立っていた。
持っている楽器はピアニカ……じゃない、よく知らない。ギターみたいに抱える鍵盤、その表面を彼女の指が踊るように弾いていた。額に汗を滲ませて真剣な……それでも楽しげに誇らしそうに、不敵な笑みを浮かべながら。
その表情を見た瞬間に、どくんどくん、と私は自分の心臓が早鐘を打ち始めるのを感じていた。
熱唱するヤチヨと酒寄さんが互いに目配せをし合いながら歌と楽器で一つの巨大な音楽を、電子の空気を震わす大きなうねりを作り上げていく。
ステージ上で視線を交わす二人の眼差し、その間に虹色の火花が瞬いているように見えた。
「か、っこいぃ……!」
「でしょ?彩葉はね、すっごくカッコいいんだよ」
私は思わず掠れた声でそう呻いていた。完全に無意識だった。
それをバッチリ聞いていた芦花さんは、まるで宝物をこっそり自慢するような悪戯げな表情で私にそう囁くのだった。
ライブは果たしてどれくらいの長さだったのか全く覚えていない。時計は最後に見たのがいつだったのか記憶の彼方だ。
とにかく全てのプログラムが終わった後、私は聞いていただけのはずなのに疲労困憊になっていて、酒寄さんに「きょうはありがとうございました凄かったです」とだけメッセージを送ってログアウトした。
ツクヨミから帰ってきても、私は自室で椅子の背もたれに寄りかかって、虚脱していた。
全身が痺れて、頭もふわふわしていて自分の体がどこにあるのかわからないくらいだった。
しばらく現実に戻ってこれないままにぼーっとしていると、つけっぱなしにしていたスマコンがメッセージを受信する。
差出人は真実さんからで、動画サイトのURLのようだった。
「『かぐや いろPチャンネル』……?」
……かぐやって誰?あ、そういえばいろPって酒寄さんのツクヨミでの名義か、ライブ中でも叫んでるお客さんがいっぱいいたし。……でもかぐやって誰?
そんなことを思いながら私は素直にリンクを開くことにした。
ライブの余韻で熱が冷めやらない。このままだと当分寝られなさそうだし、それに明日は日曜日だし少しくらい夜更かししても……とそんな軽い気持ちだった。
そこにあった配信アーカイブを見て、私は自分の脳がトドメを刺されるのをまだ知らない。
******
「いきなりというか不躾で悪いのですけれど、サインください……」
「……え、あぁ、私?」
週明けて月曜日、お馴染みになりつつある図書館の一角。
私は運良く購買で売っていた色紙を差し出し、酒寄さんに頭を下げていた。
彼女は分厚い専門書から顔を上げて目を白黒させた。
「あ、急でごめんなさい。えっと……改めてこの前の土曜日は誘っていただいてありがとうございました。素敵なライブでした」
「はぁ、ご丁寧にどうも……」
「なのでサインください……」
「えーと、うん。わかった、私のでいいのね?ヤチヨの貰ってきてって仲介じゃなくて」
「ちちちっ、違います違います!私、酒寄さんのサインがほしいです!」
思わず大きな声が出てしまって、口を手で抑える。図書館は静かに、当然のマナーだ。
狼狽する私が面白かったのか酒寄さんは少し苦笑しながら色紙を取り、ペンを探して筆箱を漁った。
「あの、あの後……芦花さん真実さんから紹介していただいて、チャンネルの動画見ました」
「見てくれたの?ありがとう。……ちなみにどこまで?」
「えーっと……最初のやつから『ツクヨミ夜桜Fes.2032』まで……」
「直近じゃん!道理ですごい顔色になってると……!」
「あはは……」
彼女は私の顔を見て呆れたようにそう言った。対する私は苦笑するしかなかった。
私は結局、日曜日を全部潰して『かぐや いろPチャンネル』の動画をほぼほぼ全部見る羽目になった。
土曜日のライブからぶっ続けの興奮でさっぱり眠れていないし、スマコンのつけっぱなしのせいで目が痛い。瞼の内側で砂利がごろごろしているような気がする。
先週は私が酒寄さんの顔色を心配していたが、その時の彼女より相当酷い有様の自覚がある。
「あの、私……音楽は全然わかんないんですけど、酒寄さんが作る曲も演奏も、すごいって思いました。激しいのも静かなのも、すごい……心に響く感じで……。……ごめんなさい、なんか、気の利いた感想全然言えなくって迷惑……でしたなら……」
「あぁ、良いって良いってそんなの気にしないで!……創る側にとってはさ、良かったって一言貰えるだけで凄く嬉しくって励みになるから。だからこっちこそ、ありがとう」
登校する前にどうにか上手いコメントというか思いの丈を伝えようと思っていたのに、実際のところ口から出たのは「すごい」という月並みな言葉だけだった。今時小学生でももう少しまともなことを言えるだろうに。
そんな口下手な私を酒寄さんは笑って許してくれた。こういう対応にも慣れているんだろうなぁ、なんて思ってしまうのは私が卑屈なせいだろうか。
昨日調べただけで理解しきれているとはとても思えないことだが、酒寄さんはすごい人だった。
彼女の作る曲はどれも評価がとても良くて、この一年半ほどはあの月見ヤチヨにも何度か曲を作って大ヒットさせているし、一緒のステージにも出演している。
私がさっき言及した夜桜Fes以外にもツクヨミ内で催される季節の大きなライブイベントには大抵参加していて、その度に満員の客席から大歓声を受け取っていた。
それにゲームも上手くてプロ並みの腕らしい。私は動画を見てもいまいち凄さがわからなかったが、
東大主席入学で、勉強熱心な美人だとか、そういうのは彼女の一側面にしかすぎないと思い知ってしまった。
その衝撃で私は頭がどこか変になってしまったのか、それでこうして勢い余ってサインをねだるなんて不躾な行為に走っている。
「はい、これでいい?」
「ありがとうございます。……こういうのって額縁とかに入れた方が良いんでしょうか……?」
「ま、まぁ好きにしてもらえればいいよ」
シンプルに名前を綴られたその色紙を私は頭を下げて恭しく受け取った。
そういえばどうやって持って帰ろう。カバンの中に入れといて曲がったりしないかな、とか思い至って改めて自分の思慮の浅さを反省する。
……思えばこの時の私は寝不足と興奮のせいで頭だけでなく、口のネジも緩んでいたのかもしれない。
だから深い考えを巡らせることもできず、あんなことを言ってしまった。
「ええと……かぐやちゃんのサインは流石に無理ですよね?」
「…………かぐや?」
その瞬間、しまった、と思った。酒寄さんの声のトーンが変わったからだ。
虚を突かれたように無防備で、それでいて奥に僅かな硬質さを滲ませる声。不意に繊細な部分に触れられたことに驚いたような声だった。
私は自分の失言を悟って彼女の顔を見ることができなかった。あぁ、しまった!考えればわかることだったのに!
かぐやちゃん。
元々酒寄さんの配信チャンネルを始めたのはあの女の子だった。金色の髪に弾けるような笑顔。ギャル系というのか、私とは最も縁通そうな人種の少女。
日曜日の間に私も調べた。2年近く前の夏、わずか1ヶ月の間に、ツクヨミ史上最高の伸び率で登録者数100万人を超えた超新星配信者。私にはいまいちピンとこないがすごいことをした人なのはわかる。
そして、たった2ヶ月弱の活動期間で引退してしまった流星のような少女。
そして、きっと酒寄さんにとっても大切な友人であっただろう女の子だった。
彼女は2年前の9月を最後に姿を消し、その動向はようとして知れない。無数の憶測が流れる中でも、酒寄さんは自身のチャンネルで多くは語らなかった。
かぐやちゃんはなぜ人気の絶頂からあまりに唐突な引退を決めたのか、彼女はどこに行ったのか、今は何をしているのか。
最悪の想像は幾らでも思いつくことができるし、そのどれもであってもおかしくない。
……なお悪いのはそれが正鵠を射ていた場合のこと。
酒寄さんが真相を誰にも話していないというその意味を私はもっとちゃんと察するべきだったのに。
こんな繊細なことに土足でいきなり踏み込んでしまうだなんて、言い訳のしようもなくバカなことをしてしまった。
なんて恥ずべき無神経なことをーーーー。
「あっ、その、っ、ごめんなさい!私、」
「ねぇ、かぐやの動画もちゃんと見てくれたの?」
咄嗟に謝ろうとする私を遮ったのは他ならぬ酒寄さんの言葉だった。
慌てて表をあげて見たその
思わず疑問符をつけてしまったのは、その微笑みがあまりにも優しくて慈愛に溢れていて……思わず面食らってしまったからだ。
大学で普段見るのとも、ツクヨミで見たのとも、そのどれとも印象の全く異なるその笑みはこれまでの彼女の印象をガラッと変えてしまうほどだった。酒寄さんって……そういう笑い方をする人なんだ……。
「あの子の動画、めちゃくちゃいっぱいあったでしょ?気に入ってくれたのあった?」
「えっと……はい、確かにすごくいっぱいあったんですけど……観始めはなるべく最初の方から観ていこうって思ってたので、取り敢えず頭から……」
「おぉ、あれから行ったか〜。初回のあの配信舐めてるとしか思えない動画、懐かしいなぁ。それ上げた直後にかぐやがねぇーーーー、」
私は戸惑いながらも、酒寄さん求められるままに私が観たかぐやちゃんの動画についての感想を、そしてかぐやちゃん自身への感想を語った。時折、彼女のしてくれる当事者としての裏話に聞き入ったりもしながら。
ーーーー正直なところ、最初観始めたときはよくわからなかった。私が配信文化とかそういうのに疎いせいもあったのだろうけれど、なんだかバカなことをやってるなぁとそんな失礼なことを考えたりもした。
映画の終わりが気に入らなくて泣いたり、ペットボトルロケット飛ばすのに失敗して呆然としたり、恵方巻きを喉に詰まらせそうにしていたり、ふざけているようにしか見えなかった。
でも不思議と観るのをやめようという気になれず、一つ観終わると次の動画、次の動画と再生を繰り返している自分に気付いた。そしていつの間にか、自分が声を上げて笑っていたのに気付いた。
自分がそうやって笑うことに自分でも驚いてしまった。
こういうバラエティ番組みたいな俗っぽいもので笑う感性が自分にもあったのかと焦りさえした。
でもそんな私自身の驚愕も、かぐやちゃんの笑顔を見続けていくとどこかに飛んでいってしまうような気がした。
彼女は笑うとき泣くときも、はしゃぐときも怒るときも、歌うときも踊るときも全力で、だからこそ眩しくて目が離せなかった。
そうか、楽しそうにしている人を見るのって、自分も楽しくなれることなんだ、と私はそんな月並な事実に気付いた。
それは私の人生において初めての気づきであり、その衝撃はかぐやちゃんの笑顔とともに深く胸に刻みつけられた。
過去の動画が時を超えて画面越しに私の心に陽の光を当て続けているようだった。雪が溶けて水が流れていくように、私の心が彼女の笑顔で溶かされていくのを感じていた。
だからこそ、あの卒業ライブまで見届けた瞬間に私は滂沱と涙を流していた。これが最後だなんて信じたくなくて、あの太陽のような笑顔を惜しんで私は泣いた。
会ったこともない人、動画でしか知らない過去の人のことでこうも涙が出てしまうなんて初めての体験で、私は昨夜夕食が喉を通らなかった。
後追いの私でもこんな有様だったのに、当時彼女を追っていた人はどんな気持ちだったのだろう。
ましてや、ずっと隣にいた彼女の気持ちはーーーー。
「ありがとう、かぐやのことを好きになってくれて。私も自分のことみたいに嬉しい」
私は拙い言葉で、周りの迷惑にならないように捲し立てた。
昨日初めてかぐやちゃんを知ったばかりの私の浅はかな感想を、論理性も可読性も考えていない思いつきのままに聞かせてしまって申し訳ないという気持ちが湧き上がる。
でも、同時に昨夜からずっと胸のうちに蟠っていた「何か語りたい」「誰かにこの興奮を分かち合ってほしい」という気持ちが満たされていく心地よさも感じていた。
身勝手だと思いながら喋り終えた私に、酒寄さんはふっと微笑んで感謝の言葉さえ口にした。
「かぐやのサインを書いてあげられないのは申し訳ないけれど、きっとあの子もファンがまた一人増えたって聞いたら喜ぶよ」
いえ、こんな話を聞いてくださってありがとうございます、お礼を言うのはこちらですーーーーとそう言おうとして私は二の句が告げなかった。
そのときの酒寄さんの表情があまりにも愛おしそうで、声をかけることの方が余程失礼に見えたからだ。
その微笑みの種類はなんというのだろう。慈愛、情愛、母性、そのどれでもないようで同時にどれでもあるように見えた。
ただ、彼女がかぐやちゃんに向ける愛の深さを垣間見た私は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような切なさを覚えた。
「……あ、やっば。話し込みすぎた!次の講義!」
「! しまった、は、早く行きましょう!同じでしたよね?教室どっちでしたっけ!?」
「案内する!ダッシュでついてきて!続きはまた今度ね!」
「は、はいっ!」
だがそんな話も途中までにせざるを得なかった。
ふとスマホに目を落として時間を確認した酒寄さんが大慌てで荷物をまとめて席を立ち、私もそれに続いた。
続きはまた今度、と彼女の言葉が耳の中で反復する。
社交辞令の一種だろうと思いながらも、それで少しドキドキする自分もいた。
ーーーー背筋で小さな棘が疼くような、ちくりとした痛みを感じる自分もいた。
なお講義には私だけ遅刻した。
酒寄さんはアスリート並みに足が速く、とてもではないが追いつけるものではなかった。
……それから私は酒寄さんと行動を共にすることが増えた。
大学では同じ講義を取っていることも多かったから、復習や課題に一緒に取り組んだりした。彼女の方がずっと頭が良いので私が教えられっぱなしなのはご愛嬌だが。
それでも彼女が普段自主的にやっている調べ物に関しては、私は深く知ることはできなかった。
まだ形になってないから恥ずかしいし、と語る彼女の言葉が本当なのか建前なのか。そこまではまだわからない。
放課後や週末にツクヨミで待ち合わせることも多かった。
単純な道案内からオススメのレジャースポットに、面白い露店や雰囲気が楽しめるお料理屋さん、アバター用の服やアクセサリ。
配信者文化に疎い私も、少しずつ情報を仕入れて動画を見るようになり始めた。近頃はテレリリさんという人の雑学・雑談配信なんかがタメになって良かった。
その過程で芦花さんや真実さんも、それぞれ美容と美食の分野でたくさんのファンを抱えていると知ったのは驚きだった。
酒寄さんのお兄さんだという人にも会ったことがある。ドラマとかで美形と言われる俳優やタレントがあてがわれた役が喋るような台詞を自然に話す人で、私はこんな人が実際にいるんだなぁと感心したものだった。
お兄さんはツクヨミでも指折りの人気配信者で、プロゲーマーらしい。ゲームでプロというのがその時の私には全くピンと来なくて、遊びで本当にそれでご飯が食べていけるんですか?などと実に失礼なことを口走りもした。
お兄さんは笑って「面白れー友達じゃん」と酒寄さんに言っていたが、あれは本心だったのだろうか、それとも皮肉だったのだろうか……。
でもやっぱり私にとっての一番は酒寄さんが作り、奏でる曲だった。
音楽に詳しくない私にはジャンル分けしたり、使われている技法に関して語ることはできない。
けれどその旋律は全てがキラキラと輝いていて、ワクワクと鼓動が弾むようで、そして胸の奥がギュッと切なくなるようで……聞いていると心に羽が生えたように浮き足立つのを感じるのだった。
それらの楽曲はツクヨミの歌姫であるヤチヨさんの歌声によって形を与えられ、命を吹き込まれていく。
2人のライブを観覧した何度目かで、私は感極まって泣いてしまいさえした。
彼女と出会ってからの一月ほどで、私は自分で自分のことなのに初めて知ることばかりだった。
楽しくて笑うこと、歌を聞いて涙が出ること。
私にとって初めてばかりの、自分の心のこと。
「ツクヨミはどう?楽しい?」
「はい、楽しいです。世の中にはこんなに楽しいことばかりのところがあったんだなって、びっくりです」
「ありがとう……ヤチヨの作った世界のこと、好きになってもらえたら嬉しいな」
石畳の階段を連れ立って歩きながら、私の方を振り向いて酒寄さんがそう尋ねる。
その微笑みがとっても深い愛と優しさに溢れていて、私は思わずどきりとしてしまった。
自分にとって大切なものを、他の誰かが好きだと言ってくれるのは嬉しいことなのだろうと今の私なら少しわかる。
そして彼女のその愛情はヤチヨさんと、このツクヨミに向けて注がれているように見えた。
きっと酒寄さんは愛というものを知っている。だから彼女の作る曲は美しいのだ。
ーーーーまるで、夜空に架かる虹のように。
「…………」
「? 何かあった?」
一瞬立ち止まった私に、酒寄さんが怪訝な表情を浮かべている。
心配させてしまったのが申し訳ない。私はなんでもないです、と一言返して彼女の後を追って階段を登った。
ーーーー背筋がチリチリと痛むような気がした。小さな棘が、一片刺さって抜けないように。
******
五月のある日、私はふと思い立って一人でツクヨミに入った。
いつも誰かに誘われたり、待ち合わせたり、どこかいく予定を立ててから行くものだからそういう計画もなしにただログインするのは初めての経験だった。
無目的に、何も考えず、ただただぼんやりと夜の街を歩く。
雑踏、喧騒。華やかな灯り、空を泳ぐ魚、ミラーボールの月。
現実側では見ないような風変わりな
色とりどりの提灯とネオンが屋台に露店、塔にビルを照らし出して、まるで巨大なバースデーケーキに取り込まれたかのよう。
ずっと賑やかさが途絶えない街のことを不夜城と形容するそうだけれど、ツクヨミはまさにそれだろう。
敢えていつも夜を映し出している空なのに、地上は昼みたいに騒がしいのがなんだかなんだかおかしかった。
「お姉さん、今お暇?いっしょに遊ばない?」
「ぁっ、えっ?ご、ごめんなさい。そういうの間に合っ……あれっ?」
何も考えず、
さてはナンパかと思って、やっぱり1人は不用心だったかと後悔しながら反射的に断って……そこにいた人の顔を見てびっくりした。
「やおよろ〜っ。どうせなら、ヤッチョが素敵な夜景スポット案内してあげちゃう……ぜ⭐︎」
そこにいたのは極々自然に、この世界の風景に溶け込むように佇んでいた月見ヤチヨその人だった。
遊び人でも気取っているのか、なぜかかけていたサングラスを外しながらウィンクしてくる。
びっくりするほど長い睫毛と真珠色の瞳が私を射抜く。虚をつかれた私は思わず「あ、はい」と曖昧な生返事を返してしまうのだった。
「どう?この辺りは穴場なんだ〜。ツクヨミはどこも人が多いけれど、一人でぼーっとしたいときとか内緒話とかしたいときはこういうところがおすすめだよ」
「は、はい……。ありがとうございます」
それからしばらくして、私は彼女に伴われてビル街の一角にきていた。
幾つも立ち並ぶビルのうちの一つの小さなテラス。まるで渓谷の壁面に空いた小さな横穴のようだ。
彼女の言うように人目にはあまりつかないけれど、同時に見晴らしも良い。一人で物思いに耽るにはちょうど良いのかもしれない。
眼科の夜景を見下ろしながら電子の風が吹きつけてくるのに身を任せる。
欄干に背を預けたヤチヨさんの長い髪が風の中で翻って、一枚の絵のように優美だった。
酒寄さんが以前、ヤチヨは風と仲が良い、とこぼしていたけれどなんだかその意味がわかるような気がした。
ヤチヨさんとここまで来る途中で、多少彼女のファンに絡まれたりすることはあったが、それでも聞きつけた人がごった返して身動き取れないほど……というような騒ぎにはならなかった。
彼女は分身を使って常日頃から街に降りてファンと交流しているため、ツクヨミに馴染んでいる人はたまにそこらの通りを練り歩いていても「なんだヤチヨか」くらいの感じで接しているらしい。
曰く、散歩中の野良ヤチヨを見かけたらその日一日はラッキー。……占いかな?
「真ん中の塔の一番上がヤッチョのお部屋でね。そこからの眺めも大好きなんだけど、同じくらいみんなと同じ目線で歩くのも大好きなんだ」
そう言って彼女はビルの合間を縫うように指をさす。
ツクヨミの真ん中に聳える中央塔はまるでお城の天守閣のような威容で街を睥睨している。
あそこからの眺めはさぞかし絶景なのだろう。けれど管理人の部屋には誰も立ち入ることはできないという話(それは当然だろう)だ。
それはそれでやっぱり寂しいのかもしれないな、と私は思った。相手はAIなのに変な話だが。
……いや、誰と会う予定も無し一人でツクヨミに来ていた私が言うことでもないか。
「あの……ありがとうございます。……でも、なんでわざわざ、私に……」
「ん〜?そんなに理由は必要かにゃ〜?ヤチヨはツクヨミの管理人だからお困りの
「……私、困っているように見えましたでしょうか」
戸惑いながらもお礼を言う私に、ヤチヨさんは笑いながらそう返した。
なんだか猫のような笑みだった。風に靡く銀の髪は二又の尾のようだ。……これじゃ妖怪か、失礼かもしれない。
……私は一億人いるユーザーの一人だ。なにか別に管理人である彼女に特別目をかけられるようなことをした覚えはない。
困っているように見えたとしても、理屈に合わないような気がする。
「まぁね、あなたのお困りごとは理由の半分。あとの半分はヤッチョ自身のわがままなの。この機会にお礼を言っておきたくてね」
「……お礼?私なんかに?」
「うん。ーーーー彩葉とお友達になってくれてありがとう。ヤチヨは電子の世界の歌姫だから、現実のことは現実の人に任せることしかできなくって。だからお礼を言いたかったの」
ぺこり、と月見ヤチヨが私に頭を下げた。
その瞬間に、ずきり、と痛みが走る。背筋に刺さった小さな針が深く食い込んだような鋭い痛み。
私は思わず耐えかねて眉根をギュッと寄せた。
「そんな……お礼を言われるようなことなんかじゃ、ないです。私、そんな、そんな……っ」
「……彩葉は頑張り屋さんだから、時々一人で突っ走りすぎちゃう癖があってね。だから大学でもあの子を見守ってくれる人がいるのって、すごく安心するの。みんなあなたに感謝してるよ」
「…………知ってます。何度か、言っていただいたことですから……」
私は彼女から目を逸らすように、欄干へと歩み寄って手摺りを握りしめた。
眼下の夜景には色とりどりの光が連なり、綾模様を形作っている。
私にはそれすらも眩しすぎるような気がして目を細めた。今の自分にはビルの隙間のテラスの、この暗がりが一番居心地が良かった。
酒寄さんが無理をしすぎてしまうタイプだと言うのは聞いていた。芦花さん、真実さん、お兄さんが異口同音に言っていたからだ。
曰く、高校生のころは実家から家出同然に飛び出して一人暮らしをしていて、生活費と学費を自分で稼ぎながら進学校で全科目首席を維持し続けていたらしい。
……私はそれを聞いて、自分がとても恥ずかしかった。
勝手に彼女のことをあらゆる環境に恵まれた人間だと思い込んでいた。
恵まれた家族、環境、才能、努力、そういうのを全部持ち合わせた完璧な人間で……だからあんなにも強くて、美しいのだと、なんでも持っているのだとそう思い込んでいた。
私にはない
「私なんて、酒寄さんと全然違います。たまたま、同じ学部で、たまたま同じゼミで、たまたま同じ講義を取ってて、たまたま……」
無意識に呟いた言葉は声にならなかった。ずきずきと、うなじの後ろが痛むような気がして無意識に手で押さえた。
……きっと私に本来は酒寄さんと友達になる資格はない。横に一緒に立つ資格も、歩く資格もない。なぜなら私には何もないから。
私にとって、人生のゴールとは東大に合格することだった。
小さいころから頭が良いと褒められて、勉強だけが特技で、素直で従順であることが取り柄だった。
そんな自分にかけられる期待を裏切りたくなくて、いつしか日本で一番の学校に入ることが私の夢で人生の目的になっていて、両親もそのための道を全力で作ってくれた。
私にとって娯楽なんてものはいつでも勉強に紐づけられるもので、それにうつつを抜かしている他の学生を内心では小馬鹿にしてさえいた。
勉強のしすぎで心と体を壊してしまう人が近くにいても才能がなかったんだ、と無視していた。競争相手が減ってよかったと思いさえした。
大学に合格することだけが私の人生で、それ以外のことは切り捨てることが当然だった。そういう判断ができる自分のことを誇りに思ってさえいた。
ーーーーだから、ゴールを迎えた後の自分が何も持っていないことに気づいてしまった。
ーーーーそして、私が切り捨てた何もかもを抱えながら、ゴールのずっと先を見据えて走り続けている人に出会ってしまった。
「酒寄さんだけじゃない、芦花さん、真美さん、お兄さん……。ヤチヨさんも……かぐやちゃんも……すごくて、眩しい人ばっかり……」
ツクヨミでは誰もが表現者、と最初にログインした時のアナウンスでそう言われた。
何かを作りたい、何かを残したい……。いや、ただ単に誰かに喜んでもらいたい、楽しんでもらいたい、そんな情熱が至る所に溢れているからこそこのツクヨミという世界の街明かりは美しい。
でも、私には何もない。そこに持ち寄れるようなものは何も持っていない。
笑うことさえ、楽しむことさえ、遊ぶことさえ、受験の無駄だと思っていた私にはそんなものを育む余地は残っていなかった。
まるで場違いなドレスコードで紛れ込んでしまったパーティのよう。
ここに私はいるべきではなくて、私の居場所はないのかもしれない。
私は本当はもう、枯れていて燃え尽きている人間なのだ。
私の人生は東大に受かることだけが全てで後はもう余生の話。
あんなに輝かしい人の隣にいて……ましてや友達なんて言われる資格はないのだ。
返せるものも、こちらから与えられるものもないのに。
そこまでわかっているくせして、そこから離れることもできないのが全く惨めで可笑しかった。
まるで誘蛾灯の虫。近づきすぎれば身を焦がすことは知っているのに、その眩さを失うことは一丁前に恐れている。
だからこうして縁を切ることもできずにぐずぐずしている。
……ツクヨミを一人で散歩しようとしていたのもそう。一人になりたいはずなのに、独りが寂しくて、この騒がしさと明るさの合間を彷徨っていた。
それは私の長ったらしく、みっともなく、恥ずかしい独白だった。
思えば私はどうしてヤチヨさんにこんなことを話しているのだろう。
日頃からお悩み相談チャットサービスを運営しているという彼女がそれだけ聞き上手ということなのだろうか。
ただ悔いてももう遅い。こんな話に付き合わせて悪かった、さぞかし呆れられているだろう、と思いながら私は彼女が口を開くのを待った。
「ーーーーそっかぁ、あなたはこれまでの人生、とっても頑張ってきたんだね」
だから、そんな言葉をかけられたことで私はかえって困惑してしまった。
頑張ってきた?誰が何を?少なくともそんな評価をされたことは今までなくって、自分でも自分のことをそんな風に思ったことはなかった。
揶揄われている可能性さえ考えたけれど、ヤチヨさんの目はどこまでも優しかった。
その微笑みは柔らかな月明かりのようだ。
「だって誰にでもできることじゃないもの、そうやって何かを我慢したり、無かったことにしながら歩き続けることって。……ヤッチョも独りだったら絶対耐えられないなぁ。
何かを背負い続けて取りこぼさないことだけが強さじゃないの。だからあなたはこれまでずっと頑張り続けて、ここまでやってきた。それはね、本当はとてもすごいことなんだよ」
「……でも、私……」
私は反駁しようとして、それでもうまく舌が回らなかった。
ちりちりと背筋が痛む。食い込んだ棘がきりきりと背骨を軋ませているような気がした。
……でも、私には本当はそこまで褒めてもらえるような資格はないのだ。
頑張ったなんて言っても、努力をしたと言っても、結局のところ大事なのは成果の話だ。
私が我慢を重ねたことが強さだとしても、その強さになんの意味があるのか。これから何を生み出して成果を証明するというのか。
「……違うよ。あなたはもう十分に示し終えている。あなたがここまで
あなたはもう人生の苦労の先払いを終えているの。……だから、これからはその支払った分の苦労と努力と頑張りで、何を買うか決める番なんだよ」
「…………何を、買うのか?」
「うん」
そう言ってヤチヨさんは私の手を取った。
夜空のような深い青の整った爪、白木細工のようなほっそりとした綺麗な指先。
触覚はないはずなのに、なぜか心地よいひんやりとした手触りがそこにあるような気がした。
こちらを覗き込んでくる瞳には真珠色の輝きが揺蕩っている。
その目に魅入られたように目が離せない。少なくとも私の傲慢な卑屈さではとても。
「あなたはこれから素敵なものをたくさん見つけて手に入れるの。素敵な未来、素敵な夢、素敵な歌や遊び。素敵な友達や、素敵な恋人かもしれない。
ーーーー今まで色んなものを切り捨ててきた?自分には何もない?ノンノン!プリペイドカードは満額で、カートは空っぽ。それならこれからなんだって選びたい放題ってことじゃない!
だからヤッチョを信じて。あなたは全部これからなの。これからたくさん素敵なものを胸に詰め込んで、自分だけの宝箱を作れる!これ以上の未来ってないと思うな!」
ぱちん、と長い睫毛を瞬かせるようなウィンク。なんなら星屑が弾ける様も見えたかもしれない。
彼女の言葉は驚くほど私の胸の内にすっと入りこんできた。砂地に染み入る水のように。
……私は、本当は誰かにこういう風に言葉をかけられたかったのだろうか?
今まで頑張ったね、これからも大丈夫だよ、心配ないよ、なんて。
「そんな……」
胸の奥から熱いものが込み上げてきそうで、私は必死でそれを飲み下した。
あまりにも優しい言葉は私にとっては熱いお湯のようだった。それに浸っていたいと思うと同時に、溺れるのは命の危険を感じることだった。
顔を伏せて言葉に詰まる私に、ヤチヨさんは何を思ったのか。
彼女はからからと笑って楽しげな声を上げた。
「ま、なんであれ何か始めるのも新しい楽しみを見つけるのも、何歳からでも遅くないってこと!ヤッチョだってインターネット始めたのは七千と九六〇歳からだけど〜、今はご覧の通り仮想空間にこんなおっきな街を作れるようになりました!なんてね」
そう言って彼女はパッと腕を広げて眼下に広がるツクヨミの夜景を示した。
今から四十年くらい前って……そもそもインターネット黎明期の話じゃないですか、そこからやってるんなら大ベテランですよ、っていうかその頃にAIのあなたいたんですか、なんて言葉が脳裏に過ぎる。
けれど彼女なりのジョークで少し込み上げていた熱も引いた。
私は、はぁ、と一つ小さな息を吐いた。
「……ツクヨミは誰もが平和に誰とも繋がれる場所を目指して作ったけれど、たまには一人になりたい時もあるだろうし。そういう時にはこういう場所に来るといいよ。
それで……その時に、もしも迷惑じゃなければヤチヨにお話を聞かせてもらえると嬉しいな」
「……あなたにこちらから何か返せるものもないのに?」
「私、寂しがり屋だから。相談でも愚痴でも、誰かとお話しできるのが楽しいんだ〜。おっと気が咎めるならふじゅ〜でお支払いしてくれてもいいよ?」
「ぁ、いや……」
お金で今回のことを精算してもいいと言われても少し困る。
結果として相談に乗ってくれたような形にはなったし、少し気持ちが楽になったのは事実だ。確かに感謝もしている。
けれど、考えてみれば私はお悩み相談チャットサービスに申し込んだわけでもない。
これは……カウンセリングの押し売り、というやつではないのだろうか?
あぁでも、助かったのは間違いないし、元々ふじゅ〜はこういうときに使うものなのでは?みたいに思考がぐるぐると混乱し始める。
そんな逡巡を見て取ったのか、ヤチヨさんはピンと指を立てて一つこちらに提案してきた。
「おっと、勝手に悩みを聞き出してあれこれ外野から口出してるのはヤチヨだしね〜。むしろこっちがお支払いするのが筋ってところかな?よぉし、それじゃあこうしよう!
今からヤッチョに何か聞きたいことがあれば一つ聞いてみて!答えられることならなんでも答えて差し上げましょう。それを今回の迷惑料代わりということで!」
「えぇ……、いや、悪いですよ。やっぱりふじゅ〜で……」
「ねねっ、おねが〜い♡ ほらほらさっきヤッチョ寂しがり屋って言ったでしょ?私にとってはお話しするのがお代金代わりになると思って、さぁさぁ!」
「……私なんかと話していて、楽しいでしょうか……?」
「いいんだよ。何かの価値は一人でつけるものじゃないの。ーーーーどこかで無価値と思われてるものでも、所変わればお値打ちものかも。あなた自身だってそう」
だから……ね?と可愛らしくヤチヨさんが小首をかしげる。
なんだか子供みたいにあざとい、おねだりの仕草だ。庇護欲を煽るために最適化されたそれを見ていると断ることにものすごい罪悪感を覚えてしまう。
……ものの価値のことを考える。私から生み出せるものなんて何もない、持ち合わせているものも何もない。
それでも私の外にいる誰かが、ないない尽くしの私に価値を見出すのなら……それに何か報いてあげたいと、少し思ってしまった。
そうだ……私は、昔から人の期待を裏切ることが怖くてーーーーだからこそ期待に応えることだけは得意な子供だった。
「……じゃあ、お一つよろしいでしょうか?」
「いいよ〜、どうぞどうぞ〜♪」
「ーーーー
「…………わ〜お、そうきたか……」
私が質問すると、ヤチヨさんは目を丸くしてそう言った。
…………あれ、私、
自分で自分の口から出た言葉に戸惑った。
言い間違えた?いや、なんだろう、そういうわけではない気がする。
理屈と理性とは別のところで、これが正しい質問だと感じている自分がいる。なんで?どうして?
「ふーむ、彩葉との関係について聞かれると思ってたんだけどね……」
「……えっと、ごめんなさい。変な質問しちゃって、でも、あぁ、なんていうのか……」
ヤチヨさんは唇に指先を当てて思案顔だ。
彼女が言うように、確かに私は口を開く瞬間まで酒寄さんとの関係について聞こうと思っていた。
一年半ほど前に一度コラボした限りの彼女のことを、今では作曲家として重用していること。しょっちゅうライブで伴奏担当として起用していること。
そして今もそうだけれどユーザー名の「いろP」ではなく「彩葉」と本名で呼んでいること(私に合わせているだけかもしれないけれど)。
一億のユーザーを抱える仮想空間の管理人として、公平性を欠くのではという邪推がネット上で聞こえるくらい、どうにも彼女は酒寄さんに肩入れしているように見える。
何より、酒寄さんがヤチヨさんに時折見せる親愛の笑みはーーーー。
そこまで考えたところで、思考のピントが合う。
疑問の根本を掘り当てた気がした。
「なんていうのか……そう、酒寄さんがかぐやちゃんとヤチヨさんの話をする時、似たような
「…………ん〜、なるほど」
「だから、それが少し気になって……。あ、何もないんだったらごめんなさい、私の早とちりで変なことを……」
『ありがとう、かぐやのことを好きになってくれて。私も自分のことみたいに嬉しい』
『ありがとう……ヤチヨの作った世界のこと、好きになってもらえたら嬉しいな』
私の脳裏で酒寄さんの言葉と表情がフラッシュバックする。
優しくて柔らかくて、慈愛と母性を感じさせる笑み。……思わず見ているこちらもどきりとしてしまうような、愛おしさに溢れたあの表情。
あの表情を見たのは二回、かぐやちゃんとヤチヨさんのことを口に出したとき。
……だからお二人に何か共通項というか、関係があるんじゃないかな、なんてそう思ってしまったのだ。
仮にも理系にあるまじき、ただの直感でしかないのが恥ずかしいのだけれど……。
「なるほど……よく見ているね。だから彩葉が選んだのか……」
「え?」
私の曖昧な根拠の言葉を彼女は笑わなかった。
ただ神妙な顔をした彼女が何を呟いたか、それはうまく聞き取れなかった。
もっとよく聞こうと思って、半歩歩み寄ると、ヤチヨさんはふっと儚い笑みを浮かべた。
まるで月の下で一晩だけ咲く花のような、淡い笑みだった。
「かぐやはね……ヤチヨの夢なの」
「……夢?」
「うん、他のみんなには内緒だよ」
その回答の意味は私にはよくわからなかった。
夢。AIの……夢?電子の歌姫は月の兎の夢を見るのか?
ただ……わからないなりに何か、非常に重要な秘密を明かされたような気がしたのだけは事実だった。
困惑する私を他所に彼女は悪戯気に人差し指を一本立てて口元に寄せた。
しーっ、と。この話は誰にも聞かせてはいけないというように。
「ーーーーおっと、ヤッチョはそろそろ今夜のライブのお時間です。チケットは持ってる?持ってなくても街頭スクリーンで生中継してるからね。お見逃しなく〜っ♪」
「えっ、ぁっ、ちょっ……!」
呼び止めようとした私の言葉を他所に、ヤチヨさんはテラスの欄干から身を躍らせた。
すわ飛び降りか!?と肝を冷やした私が真下を覗き込むとーーーーぶわりと大きな風が吹き上がり、巨大な影が眼下を通り過ぎていった。
どこから取り出したのか、それは三角の翼を広げる大きなパラグライダーだった。
翼の面に「月」「見」と威圧的な書体で名前を書いたそれを駆りながら、ヤチヨさんは悠々とビルの合間を鳥のように飛んでいってしまった。
……なんというか、自由な人だなぁ、と私は思った。
『これからも、彩葉のお友達でいてあげてね⭐︎ 任せたよ」
飛び立っていく背を見送る私の手元に、和風の便箋がポンと出現する。
中身はヤチヨさんからのメッセージ。目を通した私はそれを握り込んでーーーーメールフォルダに鍵をかけて保存した。
背筋を苛んでいた、棘のような痛みはいつの間にか消えていた。
******
とある平日のこと、講義中にその違和感に気がついた。
教室内をぐるりと見回しても酒寄さんの姿を見なかったのだ。履修している科目のはずなのだが。
遅刻かな?それとも風邪でも引いたのかな?
こっちのスマホも一応確認してみるが、特に連絡はない。自分が連絡をしてもらえるだけの間柄かどうかは置いておいて。
次と、その次の授業にもいなかった。これは本格的に病欠だろうか……そう思って講師の先生に一応尋ねてみるが、教務課に連絡は来ていないらしい。
他の生徒にも確認をしてみるが、見た人はいない。
私は胸騒ぎを覚えながら、一縷の望みをかけて自分のスマホからメッセージを送った。
既読がつかないくらいは、私の人付き合いの範疇ではよくあることなので気にはしていない。
ただマメな性格の彼女がそのあたりの確認をしないというのは……私の心配をかき立てるのに十分だった。
「さ、酒寄さん……?」
「ーーーーーー……」
「酒寄さんっ?大丈夫!?」
「ーーーーーーえ、あぁ、私?」
だから、ふと思い立っていつもの図書館の一角を見に行き、そこで彼女を見つけた時には心底びっくりしてしまった。
学校に連絡も入れずに授業をサボって、その上で図書館に篭ってただけなんて明らかに彼女の行動としては妙だ。
そして、私に声をかけられて顔を上げた彼女の顔色は、明らかに憔悴していた。
何かが、変だ。
「酒寄さん、どうしたんですか?先生も、みんな心配してましたよ」
「心配……?え……?えっと、今何時、だっけ、まだ……?」
「……もうお昼です。午前の講義、全部終わってますよ」
「うっそ……!うわっ、本当だ。もうこんな時間」
スマホの時計を、今ようやくその存在を思い出したかのように確認して彼女は驚きの声をあげた。全く酒寄さんさんらしくない迂闊さだった。
よく見れば目の焦点がどことなくボヤけて虚ろだ。顔色も不自然に赤みが強い。
私は慌てて彼女の額に手を当てた。いきなりで失礼かな、とかそんな遠慮は捨て置いた。
「わっ、やっぱり酒寄さん熱あるじゃないですか。風邪ですか!?」
「あははっ、家出た時にはまだ大丈夫だったんだけど、こっちついた頃には頭がふらふらと……」
「笑い事じゃないですよ!は、早く医務室行って休ませてもらいましょうっ。解熱剤もらって帰って寝るでもいいですから……っ」
手のひらに感じる体温はじんわりと高かった。微熱くらいだとは思うのだけれど油断はできない。
あの酒寄さんが欠席連絡を忘れるくらいの状態なのだ。熱の高さだけが症状の重たさとは限らない。
取り敢えず席を立ってもらおうと、肩を掴んで引き上げようとする。
……だが、その手は申し訳なさそうに振り払われた。
「ありがたいけど……ごめん、まだいけない。やること、あるから」
「やることって……今は休むのが最優先…………。ーーーーなんですか、これ」
熱に浮かされて弱った眼差し。けれど私を拒む彼女の意思は明確で、それだけは確かなものだった。
困惑する私はそこでようやく、テーブルの上に広げられていた彼女のノートの存在に気がついた。
その上には見開きのページ一面を覆い尽くすように、びっちりと何らかの数式が書き込まれていた。
私もまだあくまで大学生の身だ。その筋の専門家に知識では足元に及ぶべきでもない。
だが、直感でそこに書かれている数式群が何か妙であることは気がついた。
まるで古い時代の呪いを刻み込んだ羊皮紙。或いは、宇宙人が使うUFOのコンピュータの中身を写し取ったかのようなーーーー本来人が触れるべきでない何かを垣間見たような怖気が、ぞっと背筋を這い上がる。
「頭の中が……今、これで、いっぱいいっぱいでさ。一旦、全部吐き出さないとなんにも手につきそうにないっていうか……」
「………………っ」
「心配かけてごめんね。最初の講義までに間に合うかなって思って、ちょっとメモ書き程度のつもりだったんだけど歯止め効かなくって」
しかもその数式はその見開き分だけではなかった。
パラパラとめくるとそこに至るまでの前のページにも同じようなものがびっしり書き込まれている。
……まさか、これを朝大学に来てから今まで、ずっと……?
「ちょっとこのペースだと午後も難しいかなー……なんて。悪いんだけど、代わりに教務に連絡入れといてもらっていいかな?埋め合わせはちゃんとするからさ」
「酒寄、さん……」
呆然とする私を置いて彼女は再びペンを取ってノートに向かい合い始めた。
ものすごい勢いで見たことのない、理解できない数字と式の奔流が紙面を覆い尽くしていく。
一心不乱に手元を動かす酒寄さんの表情は真剣そのもので、そこに込められた熱量に目が眩みそう。まるで、炎を噴き上げながら回り続ける巨大な車輪だ。
彼女が何に触れてこんな知識を仕入れてきたのかわからない。今の彼女はまるで知識に食い潰されそうになる自我を繋ぎ止めるために戦っているようだ。
怖い。素直にそう思った。
けれど……けれども、私は、
「酒寄さんっ」
「ーーーーっ?」
「私、ここで見てますから」
私は、椅子を引いて彼女の対面に座ることを選んだ。
酒寄さんが目をぱちくりと瞬かせて、こちらに視線を向けた。
その瞳に怯まないように、背筋を伸ばして見返す。
「色んな人から酒寄さんを頼みますって、頼まれてますから……。だから、心置きなく今やってることに集中してください」
「…………いいの?」
「良くないです、心配です。本当は引っ叩いてでも止めたいですけれど……止められそうにないので。代わりに、全部終わったら、私があなたを抱えてでも医務室まで連れて行きます」
『彩葉は頑張り屋さんだから、時々一人で突っ走りすぎちゃう癖があってね。だから大学でもあの子を見守ってくれる人がいるのって、すごく安心するの』
『これからも、彩葉のお友達でいてあげてね⭐︎ 任せたよ』
ヤチヨさんの言葉が脳裏に蘇る。
そうだ、私はもう既に彼女から酒寄さんのことを任されているのだ。
その期待に応えたい。自分でも驚くほどその願いはすっと胸のうちに湧いてきた。
だからせめて今目の前にいる酒寄さんから目を逸らさない。
彼女がどうしてそんなことをやっているのか、何をやっているのかわからなくても、今の彼女を決して一人にしないことが私の役割だとそう思った。そう決めた。
私がそう宣言すると、酒寄さんは額に汗を滲ませながらも、ふっと口元を緩めて笑った。
「……ありがとう。なんだかちょっとだけ心強い。
ーーーー心強いついでに相談なんだけどさ」
「私にできることなら、なんでも聞きます」
「シャーペンの芯持ってない?そろそろ切れそうでさ……」
「持ってません」
「……」
私は鉛筆派だった。
その後、酒寄さんはシャーペンを使い潰してから渋々鉛筆に鞍替えし、それも何本か潰れるまで止まることなくノートを埋め続けた。
結局その日、二人して午後の講義は全て欠席した。
教務課に連絡を入れてなかったことに気づいたのは全て終わってからのことだった。
******
「はい、どうぞ。購買で買ってきました」
「ありがとう。……うぉ、ダッツやん……なんぼしたん?」
「……?あ、いいですよ立て替えなくて、奢りですから」
「いやいや、悪いって」
「じゃあ、貸し一つということで……」
一区切りがついた頃、私たちは構内にあるベンチで並んで座ってアイスを食べていた。
奮発して少し高いのを買っただけあって、初夏の熱さが気になり始めたこの時期には冷たい甘さが身に染みる。
さっきまで熱を出していた酒寄さんには特に効くのだろう、ひと匙掬って口に運ぶたびに相好を崩していた。
スプーンを手繰る彼女の右腕は肘から手首まで、湿布でぐるぐる巻きになっていた。
例のノートを埋め終わる頃には酒寄さんは疲労困憊になっていて、宣言通り抱えていくことにはならなかったが、医務室までは肩を貸していくことになった。
ベッドを貸してもらい、頭に氷嚢をあててしばらく横になっていると楽になってきたのは幸いだ。
医務室の先生が言うにはおそらくは知恵熱だろうとのこと。
結局、冷却シートと、それと急性の腱鞘炎で痛みを訴える右腕用に湿布を貰って帰る頃には西日が差し始める時刻になっていた。
「……今日は迷惑かけたね。でも助かったよ」
「いえ、お気になさらないでください。大したことでもないです」
「でも、結局一緒に講義サボらせちゃたし……」
「それは、まぁ、遅れ分は後で取り戻せばいいでしょうし。……二人で」
ちらりと、酒寄さんの方へと横目で視線を向ける。
アイスを一息に平らげた彼女は、しかし甘く見てたなぁなぁヤチヨに叱られる、などと呟いていた。
なぜそこでヤチヨさんの名前が出てくるのかはよくわからない。ただ二人だけにしか共有できない事情もあるだろうとだけ私は考えた。
……ただ、私が「二人で」と口にしたときに込めたなけなしの勇気くらいは汲んでほしかったところではあるが。
「……それで、結局、あのノートに書いていたものはなんだったんですか?」
「……ん〜〜〜、まぁ、それは気になるよねぇ。……しかしどう説明したのものか」
私が話題を向けると酒寄さんは腕を組み、難しい顔をして悩み込んでしまった。
彼女が書き連ねていた数式はおよそこの世のものではないような気がした。細かく読んでいたわけではないが、あれはおそらく本来人間がまだ触れるべき知識ではないのではないかという直感、根源的恐怖があった。
天才数学者ラマヌジャンは自身が提唱した数式の由来を自身でもその根拠をうまく説明することができず、「夢の中で女神に教わった」と語ったらしいが、なんとなくそれに近しいものを感じた。
どこか、人の智慧が及ばない場所からやってきた、未知の何か。
あんなものを酒寄さんはどこから拾ってきたのだろう?あれを使って何をしようとしているのだろう?
「…………私、夢があるんだよね。夢っていうか、目標っていうか……私が心からやりたいことでもあるし、絶対やらなきゃいけないことでもあるの」
「それは……まぁ、横から見てたらなんとなくわかります」
「うん。……高校の時は親とか、担任の先生を説得するためにプレゼンもしたけどさ。大学入って資料漁って、必要そうな技術、解決しなきゃいけない課題とか、色々具体的に調べてたんだけどね……。……ひょっとすると、これって自分が生きてる間に終わらないんじゃないかって。そう思っちゃって……」
はぁ……っ、と彼女は自身の顔を手で覆って深い溜息を吐いた。
その振る舞いに私は驚きを隠せなかった。
私は今……ひょっとして酒寄さんが弱音を吐いているところ見ているのだろうか。
私の知る彼女は、いつだって精力的で、前向きで、情熱的で、それでいて颯爽としていていつも涼やかな表情で、なんでもこなしてしまう完璧な女性だった。
だから、彼女がそんな弱々しいところを人に見せることもあるのだというのが衝撃だった。
それも、よりによって私の前で。
「酒寄さんがそうまで思い詰めるって、それは……どんな目標なんですか?」
「……うーん……ごめん、今はまだ言えない」
「な、なんででしょう。やっぱり、私じゃ信用はできなさそうでしょうか……せめて、相談相手くらいには」
「違うよ。
「ーーーー私に?」
「そう。他でもない、あなたに」
酒寄さんは真剣な表情で私を見た。
ほのかに青い
その表面に鏡のように写っているのは、どこか呆けたような顔をした私自身だ。
そんなテーマの話になるなんてさっぱり思っていなくて私は困惑してしまった。
選ぶ側はいつでも彼女で、値踏みされる側はいつでも私だとそう思っていたのに。
「私のやりたいことはきっと一人じゃ達成できないと思う。だから一緒に研究に協力してくれる仲間がたくさん欲しいと思ってる」
「……私も、その仲間に?」
「そう。最初の一人はあなたが良い。……打算だと思って怒ってくれても良いけどね、あなたと友達になろうと思って良かったと今なら思う」
「そ、そんな私、何も大したことなんてしてなくて……」
「してくれたよ。ーーーーだって、私が調子崩したときすぐ声かけてくれたでしょ?それにさっきだって、私のこと放っておかないで付き合ってくれたじゃん」
「そんなことで……?」
「そう、そんなことでよかったの」
目を白黒させている私に対して、酒寄さんは自信満々にそう言い切った。
私にとってはなんでもない、本当になんでもないことだったのに。
人の顔色がわかるとか別に誇れるような特技でもなんでもない。ただ小さい頃からそれを窺って、合わせていたら褒められると学習しただけ。
最初に声をかけたのは、本当に気まぐれに過ぎなかった。今まで何人も見捨ててきた自分が、ここで彼女だけ無視しなかったのはただの偽善じゃないかと思いもした。
……それでも私は酒寄さんを心配することを選んだ、傍に居て見捨てないことを選んだ。
何を思っていたにせよ、行動と結果はそれが全てだった。そしてそのことを悔いていなかったのもまた事実だった。
『あなたがここまで歩んできたこと、生きてきたこと自体が証明なの』
『どこかで無価値と思われてるものでも、所変わればお値打ちものかも。あなた自身だってそう』
ヤチヨさんの言葉をまた思い出した。
ただ私の行動こそが私自身を証明する。
私が大したことではないと思っていたことに値打ちをつける人がどこかにいる。
それも、こういうことだったのだろうか。
「私ってどうも一人で突っ走りがちで、そのせいで周りに迷惑かけたことも何度かあってさ。だからそういうとき純粋に心配してくれて気を遣ってくれる人のことを大事にするって決めてるの。そのおかげで救われて、今の自分がいると思ってるから」
「……芦花さんとか、真実さんとか、でしょうか」
「そうーーーーそれに、あなたとか」
目元を緩めて彼女が笑う。
ーーーーあぁ、なんて今のは、ずるいのだろう。
殺し文句、っていうのが世の中にあるとしたらきっと今のがそうだ。
そんな風に言われたら、こっちはどうしたらいいのかわからない。
顔は赤くなってやしないだろうか。なんだか無性に恥ずかしくて私は視線を切って少し俯いた。
「……うん、だからね。もしもあなたが友達として、将来私の夢に協力してくれるのなら……そのために、ちゃんとした形で話したい。絵空事だとか夢物語だとか言われたくないから」
「…………きっと、話してくださいね。私、絶対笑いませんから」
「ありがとう、笑い物にならないように頑張ってみるよ。だから少し待っててくれると嬉しいな、多分
「……アレですか」
さっきのノートに書き連ねられていた数式のことだろう。思い出して私は少しため息を吐いた。あんなものを勉強するのはどう考えても体に悪いと思う。
それでも彼女はアレを利用することは諦めていないらしい。
周りを心配させがちという自覚はありながらこうなのだとすると、昔から付き合いのある人はいつもハラハラしていたんじゃないだろうか。今度その辺りを芦花さんや真実さんと話してみるのも良いかもしれない。
……ただ、酒寄さんほどの人があんな劇物に頼ることを決めるくらいなのだ。
彼女の追っている夢というのはさしづめ……。
「そこまでしないといけないなんてーーーー酒寄さんの夢は、きっと夜の虹を探すくらいに難しいことなんでしょうね」
「夜の虹かぁ……。……なんだか良いね、その言い回し。すごくロマンチックだ」
ないものを探すようなこと、と形容するのは少し失礼だっただろうか。けれど普通なら絵空事と笑われかねないような夢だというのなら、きっとそれだけのものなのだろう。
それに辿り着くのは途方もなく困難で、でもきっと見つけ出すことができたのならば美しいだろう代物。
そういう意味で口にしたのだが、酒寄さんは違う印象を抱いたようだった。
彼女はふっと笑って、上を見上げた。
東の空は少しずつ夜の群青がかかり始め、そこには白いガラスのような月が昇りつつあった。
「そうだね、あの虹は月から降ってきた……。めちゃくちゃで、はちゃめちゃで、むちゃくちゃで、破天荒で……なんて綺麗な虹」
月を瞳の真ん中に映しながら彼女はそう溢した。
優しくて、柔らかくて、愛おしそうで……そして切なくて、哀しそうで。それと同時に気高くて、迷いのない微笑みだった。
ーーーーその横顔の、なんて美しいことだろうと、私は思わず見惚れてしまった。
その瞬間に私は理解した。彼女はきっと見たことがあるのだーーーー夜の虹を、本当に。
人からすれば夢物語でも、彼女にとってはかつては一度目にした本当の美しい夢。それを再び手に取るために今も彼女は走り続けているのだ。
どくん、と胸の内で心臓が跳ねる音がした。
ーーーー私も見てみたい。
衝動的にそう思った。思ってしまった。
『あなたはこれから素敵なものをたくさん見つけて手に入れるの』とヤチヨさんが言っていたことを思い出す。
……ありがとうございます、ヤチヨさん。あなたの言っていた通りでした。
私も見つけました、一つ素敵なものが。素敵な夢が……素敵な人が。
「酒寄さん」
「うん?」
「一緒に見せていただいて良いですか」
「何を?」
「あなたの見た、夜の虹を」
「……いいよ、きっとあなたも好きになってくれるはずだから」
いやに得意気な表情で酒寄さんが笑う。
私はそれを見返さず、代わりに同じ空を見上げた。
夜の足音が迫ってくるあの空に虹はまだ見えない。
一人で見上げる夜空に虹を見たことは一度もないーーーーけれど、あなたなら、あなたとなら見えるかもしれない。
美しい夢に思いを馳せて、私たちは同じベンチに二人並んでクラゲのように浮かぶ白い月を見上げていた。
******
後年
「ーーーーそれで結局、電脳体の方は
「うん。人間の精神活動は脳だけで完結していないからね。腸内細菌の作用まで含めた内分泌系とかの化学作用、全身の臓器に及んでいる神経網まで含めて、心と体は全体で相互作用しあっているから……」
「心臓移植を受けた患者が提供元の人物と同じような趣味嗜好を発現するケース、というのも聞きますしね」
「そうそう。だからどの部分を省略したときに、電脳に移植した人格にどの程度の影響が出るかはわからない。なので一旦全部ひっくるめて再現しちゃおうって思って」
「……腸内細菌だけでも兆は体の中にいますよ。普通のサーバーならシミュレータが耐えられませんが……うちのなら大丈夫ですね」
「そうそう。『もと光る竹』2号の運用もうまく軌道に乗ってるからねー。あとは演算機としてだけでなく中の機能もきちんと運用できるように……というか
「この辺りはヤチヨさんとかぐやちゃんを頼りたいですが、お二人とも感覚派ですからね……。かといって大学生の頃の所長みたいに頭に月人の技術体系をインストールすると危険ですからね、あまりおいそれと人に試すわけには……」
「うぅ、その節はご迷惑をおかけしました……。まぁ、その辺はうちの情報工学班の面子が嬉々として取り組んでくれてるからあまり心配はしてないけどね」
「あ、情報工学班といえば、夜な夜な研究所の屋上で灯籠を頭に被った人たちが
「……集会はツクヨミでやるように言っといて……あっちの方が『月』に近いからさ……」
「伝えておきます。……今はまだ先ですが『ジョルジュ・メリエス計画』も始動させたいですね、彼らのためにも。この前の米国行きでスポンサーも増えたので資金面での心配が減ったのは良いことですけどね。はいどうぞ、お手紙です」
「おっと、まーたスポンサーさんからのラブレターかぁ。モテる身も辛いねぇ。MITはお金だけじゃなくて人も寄越してくれるっぽいね。こっちはX社か……アメリカに来たら会社を新しくプレゼントしてくれるって。社名はヒューマンX?ネーミングセンスが無いなぁ……」
「いまだに引き抜きの勧誘も多いですね。所長は
「まぁね。でも職員のみんなにも来てるでしょ?ほら、これとか私だけじゃなくてあなた宛でもあるよ、スタンフォードからだって」
「所長がそちらに移籍されるのでしたら、私もついていきますが」
「じゃあ無しか。……しかし、あなたとも付き合い長くなったねぇ。このまま最後まで付き合ってくれる感じ?」
「それはそうでしょう。あなたが私の夢なんですから。
だから私は所長の秘書でーーーー酒寄さんの友達ですよ。これまでもこれからも、ずっとね」
次で短編集ラストです。