拾った命をつなぐまで   作:ルイ(Louie)

1 / 1
拾った命をつなぐまで(前編)

 放課後のチャイムは、糸を切る音に似ていると思った。いままで張りつめていたものが、ぷつんとほどけて、教室の中に軽いざわめきが広がる。私はその音を聞きながら、机の上のプリントを揃えた。

 角を合わせる。連絡帳を閉じる。筆箱を鞄に入れる。いつも通りの動きなのに、今日は指先だけが少し落ち着かない。

 渡り廊下の窓の外ではグラウンドの笛が鳴り、白いラインの上をジャージの背中が走っていく。私はぼんやりそれを眺めながら、心臓の鼓動が少し速いことに気づいた。

 

(……デンジ君、待ってるかな)

 

 私のクラスは一組。デンジ君は四組。小学校のころは当たり前みたいにずっと一緒だったのに、中学に上がった途端、私たちは少し離れた。

 離れたのはクラスだけのはずだった。けれど、ほんの少しすれ違っていた。廊下ですれ違うとき、手を振るタイミングが分からない。声をかけたら周りが変に笑う。気にしている自分が嫌で、気にしてしまう自分がもっと嫌で。

 そんな私に、あの大雨の日にデンジ君から踏み込んできてくれた。クリーニング屋のひさしの下で立ち尽くしていた私に、安っぽいビニール傘を差し出してくれた。あれから、私たちはまた話すようになった。まだぎこちない時もあるけれど、少なくとも避けることはなくなった。

 

 

 昇降口はいつも騒がしい。上履きを放り投げた子がいて先生に注意されている。ロッカーの扉ががんがん鳴る。運動部が一斉に出ていくから、風みたいに人が流れる。

 その流れの端に、デンジ君がいた。壁を背に口を半開きにしてぼうっとした表情、少し明るい髪も朝のまま適当に撫でただけみたいな形。相変わらずちょっとだらしない。

 私は手を上げて小さく振った。デンジ君は一瞬、周りを気にするみたいに視線を泳がせて、それから私を見て片手をひらっと上げ返した。小学校のころみたいに大げさじゃない。中学生っぽい照れ隠しの動き。その感じが何だか少し嬉しかった。

 

「遅せーぞ」

「遅くない。普通だし」

「普通って言うやつほど普通じゃねえし」

「それ、デンジ君が言うと説得力ない」

 

 私は笑って靴を履き替えた。外はまだ明るい。校門の外には自転車がずらっと並び、遠くで商店街のスピーカーが流れている。私たちはいつもの近道を選んだ。先生に寄り道を疑われにくい道。だけど少しだけ裏道で、ゴミ置き場がある道。歩きながらデンジ君が急に言った。

 

「なあ、数学、わかった?」

「方程式?」

「そう、それ。あれ、人間にやらせるやつじゃねえだろ。xとyがケンカしてる」

「ケンカじゃなくて、協力して答え出してるの」

「協力って、俺がいちばん苦手なやつ」

「だろうね」

「レゼは得意そう」

「得意というか、やるだけだよ」

「そういうとこだけ急に大人みたいだよな」

「大人じゃないよ。中一だよ」

「中一のくせに、俺よりちゃんとしてる」

 

 褒めているのか悔しがっているのか分からない。その答えを探しているうちに、路地の奥で小さな声を聞いた。

 

「ミャ」

 

 風にまぎれそうなくらい小さい。気のせいかと思った。でもデンジ君も同時に足を止めた。

 

「……今、なんか鳴いた?」

「鳴いた」

 

 ゴミ置き場の横。潰れかけた段ボールの影に、黒い毛玉みたいなものが震えていた。目だけが大きくて、濡れて光っている。近づくと、その小さな身体がさらに小さく丸まった。

 

(……捨て猫だ)

 

 頭の中で言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。かわいそう。だけど、かわいそうだけで拾ったら、その後どうするのか。私は考えるより先に、デンジ君がしゃがむのを見た。

 

「おいおい、大丈夫かよ」

 

 かける声が優しかった。普段、同級生にはもっと雑なのに。毛玉は震えたまま、でも逃げなかった。逃げる体力がないみたいだった。デンジ君は段ボールの端をそっと持ち上げ、手を差し入れた。

 

「え、触るの?」

「いや、何か寒そうにしてるし」

「……」

 

 その言い方が、まっすぐすぎて言い返せなかった。デンジ君は毛玉を抱き上げた。

 

「わ、すげぇ軽い。ほら、レゼも抱っこしてみろよ」

「え……。うん」

 

 猫は本当に軽い。中身が空っぽなんじゃないかと思うくらい。毛は湿って、手のひらと腕に冷たさが伝わる。

 

「……ちび」

「え?」

「ちびすぎだろ。名前、チビでいい」

「仮ね。仮の名前」

「いいよ。仮で。チビ」

 

 デンジ君は鞄から、体育で使っていたであろうタオルを取り出して、少しでも暖を取れるようにと、チビをぎこちなく包み直した。

 タオルの端がずれて、チビの耳がぴょこんと出る。デンジ君はそれを慌てて戻して、指先でそっと頭を撫でた。撫で方が、信じられないくらい優しい。

 私は、その手元から目が離せなかった。優しいのはいい。だけど、優しさだけで拾って、途中で投げ出したらどうなるのだろう。それは見てみないフリして素通りするよりも、ずっとひどいことをしているんじゃないだろうか。

 

「……デンジ君、その子どうするつもり?」

「え? どうするって……」

 

 私が言うと、デンジ君は撫でる手を止めて、顔だけを上げた。数秒、間が空く。考えているようで、考えていない顔だった。たぶん、そこまで先のことは、今この瞬間まで本気で考えていなかったのだと思う。

 

「……誰かに面倒見てもらうとか。ほら、猫好きの人とかいるだろ。そういう人に……」

 

 思いついたみたいに言う声だった。自分でも言いながら、ふわふわしているのが分かっているみたいで、語尾が少し弱い。

 私は胸の奥がざわついた。

 

(責任を取るつもりがないなら、助けないほうがいい)

 

 そう思う。私は、そういうふうに考える。失敗した時のことを先に想像してしまうから。途中で放り出して、結局この子がもっと辛い目に遭うくらいなら、最初から手を出さないほうがいい、と。

 でも。

 デンジ君の指先が、もう一度チビの頭に触れた。怖がらせないように、毛の流れに沿って、ゆっくり。チビは震えながらも、その指を拒まない。小さな身体が、タオルの中で少しだけ丸くなる。

 その光景を見た瞬間、私の中の正しさが、きれいな形のままではいられなくなる。

 

(放っておけない)

 

 助けるべきじゃない、と思う。だけど、助けたい、とも思う。どっちも本音で、どっちも子どもっぽくて、私は自分の中でぐちゃぐちゃになった。

 デンジ君は、私の迷いなんて知らないまま、ぼそっと言った。

 

「……だってさ、こいつ、このままだとマジで死ぬだろ」

 

 私は現実を並べてみる。私のマンションはペット禁止。デンジ君の家も、ずっとは無理だ。彼のお父さんは動物が嫌いだって聞いたことがある。けれど今週はお父さんが出張で、週末までいないという。

 

「じゃあ、飼い主が見つかるまで、その子デンジ君の家で保護しよ?」

「……マジ?」

「マジ。ここに置く方が無理でしょ」

 

 慎重な性格だと自分では思っている。でも慎重すぎると、逆に勢いで決めてしまう時がある。今がまさにそうだった。決めたら、もう戻れない。

 

 

 デンジ君のアパートは階段がうるさい。上の階で誰かがドアを閉めるたび、鉄骨がびりっと震えて、その振動が足の裏まで伝わってくる。

 玄関を開けると、デンジ君のお母さんが顔を出した。私を見ると明るい笑顔を浮かべたのに、チビを見た瞬間、その笑顔が止まった。怪訝そうに眉が寄る。面倒なものを持ってきた、という顔だ。デンジ君は、なぜか自分が怒られたみたいな顔をして背中を丸めた。悪いことをしているわけじゃないのに、家に何かを持ち込むと、こういう空気になる。

 けれど、お母さんは何も言わず台所へ行き、水を皿に入れて床に置いた。チビは最初だけ警戒して鼻をひくひくさせたが、すぐに顔を突っ込み、必死に飲み始めた。ぺちゃぺちゃという音が、やけに大きく聞こえる。私は息を吐いた。

 

(よかった……飲める)

 

 台所から鍋に水を張る音がして、火がつく気配がした。冷蔵庫が開く音。パックがまな板に置かれる音。

 そのうち、お母さんがささみを茹でてを出してくれた。相変わらず怪訝そうな顔のままだったけれど、手だけは迷いがなかった。

 デンジ君は床にしゃがみ、ささみを指でちぎって、チビの口元へ差し出した。チビは匂いを嗅ぎ、ぺろっと一度だけ舐めてから、がつがつと食べ始めた。必死なのに嬉しそうだった。小さな口が夢中で動くのを見ていると、胸の奥の固いところが少しだけほどける。

 

「美味そうに食うなぁ」

「生きてるって感じするね」

 

 私が言うと、デンジ君はちぎる手を止めないまま少しだけ笑った。その笑いを見て思う。

 デンジ君はバカだけど、優しい。多分、こういう時だけ、私よりずっと真っ直ぐだ。最初に抱き上げたのも、迷いなく手を伸ばしたのも、彼だった。

 私は慎重で、考える。考えすぎる。考えているうちに動けなくなることもある。でもデンジ君は動いてから考える。だから危なっかしい。だから放っておけない。私にとって放っておけないのは、チビだけじゃない。

 食べ終わったチビはタオルの上で小さく丸くなった。さっきより呼吸が落ち着いている。私はその背中を見ながら、急に現実に引き戻された。

 

(……で、どうするの)

 

 拾った。保護した。ここまでは勢いでできた。でも次。飼えない。私の家はペット禁止。デンジ君の家も、週末には状況が変わる。飼ってくれる人、引き取ってくれる人――里親という言葉は知っている。けれど、どう探すのか、何を順番にすればいいのか、私は知らない。デンジ君も知らないのが、顔を見れば分かる。さっきまでの勢いが、ささみと一緒に少し冷めて、ぽかんとしている。

 やっぱり無鉄砲な決断をしてしまった気がする。それでも、チビの身体が温かくなっていくのを見たら、後悔する選択肢だけは消えた。

 私は一度だけ、家のことを思い出した。

 うちの親は厳しい。悪い人じゃない。でも正しさを優先する。もし私が、猫を拾ったなんて相談したら、最初に言われるのは多分、同情じゃない。早く元の場所に戻しなさい。勝手なことをするな。そういう言葉だ。怒られるのが怖いというより、結局、私の迷いを突き返されて終わる気がした。

 うちの親は正しいほうへ押し戻してくるだけだ。だけど、私は今、正しいだけでは足りない場所に立っていると思う。

 だから家じゃない。保護者じゃない。頼るなら、順番を知っている大人だ。

 

「……明日、先生に相談しようと思う」

「レゼんクラスの担任?」

「うん。早川先生。ちゃんと話聞いてくれそう」

「俺、あいつ、何かこえーんだよな」

「怖いっていうか、静かなだけだよ」

「静かなやつって、怒ったときヤバそう」

 

 そう言いながらデンジ君はチビの頭を指でそっと撫でた。乱暴に見えるのに、触れ方だけは優しい。私はその手元を見て、もう一度息を吐いた。

 ひとつの命を拾ってしまった。拾ったからには、ちゃんと繋がなきゃいけない。それが今の私たちにできるかどうかは分からない。

 中学一年生の私たちには、知らないことが多すぎる。でも、知らないなら教えてもらえばいい。

 明日、早川先生に相談する。大人の力を借りる。

 そう決めた瞬間、胸の奥の不安が少しだけ形を変えた。

 怖いけれど、逃げる怖さじゃない。これはきっと、前に進むための怖さだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。