放課後のチャイムは、糸を切る音に似ていると思った。いままで張りつめていたものが、ぷつんとほどけて、教室の中に軽いざわめきが広がる。私はその音を聞きながら、机の上のプリントを揃えた。
角を合わせる。連絡帳を閉じる。筆箱を鞄に入れる。いつも通りの動きなのに、今日は指先だけが少し落ち着かない。
渡り廊下の窓の外ではグラウンドの笛が鳴り、白いラインの上をジャージの背中が走っていく。私はぼんやりそれを眺めながら、心臓の鼓動が少し速いことに気づいた。
(……デンジ君、待ってるかな)
私のクラスは一組。デンジ君は四組。小学校のころは当たり前みたいにずっと一緒だったのに、中学に上がった途端、私たちは少し離れた。
離れたのはクラスだけのはずだった。けれど、ほんの少しすれ違っていた。廊下ですれ違うとき、手を振るタイミングが分からない。声をかけたら周りが変に笑う。気にしている自分が嫌で、気にしてしまう自分がもっと嫌で。
そんな私に、あの大雨の日にデンジ君から踏み込んできてくれた。クリーニング屋のひさしの下で立ち尽くしていた私に、安っぽいビニール傘を差し出してくれた。あれから、私たちはまた話すようになった。まだぎこちない時もあるけれど、少なくとも避けることはなくなった。
昇降口はいつも騒がしい。上履きを放り投げた子がいて先生に注意されている。ロッカーの扉ががんがん鳴る。運動部が一斉に出ていくから、風みたいに人が流れる。
その流れの端に、デンジ君がいた。壁を背に口を半開きにしてぼうっとした表情、少し明るい髪も朝のまま適当に撫でただけみたいな形。相変わらずちょっとだらしない。
私は手を上げて小さく振った。デンジ君は一瞬、周りを気にするみたいに視線を泳がせて、それから私を見て片手をひらっと上げ返した。小学校のころみたいに大げさじゃない。中学生っぽい照れ隠しの動き。その感じが何だか少し嬉しかった。
「遅せーぞ」
「遅くない。普通だし」
「普通って言うやつほど普通じゃねえし」
「それ、デンジ君が言うと説得力ない」
私は笑って靴を履き替えた。外はまだ明るい。校門の外には自転車がずらっと並び、遠くで商店街のスピーカーが流れている。私たちはいつもの近道を選んだ。先生に寄り道を疑われにくい道。だけど少しだけ裏道で、ゴミ置き場がある道。歩きながらデンジ君が急に言った。
「なあ、数学、わかった?」
「方程式?」
「そう、それ。あれ、人間にやらせるやつじゃねえだろ。xとyがケンカしてる」
「ケンカじゃなくて、協力して答え出してるの」
「協力って、俺がいちばん苦手なやつ」
「だろうね」
「レゼは得意そう」
「得意というか、やるだけだよ」
「そういうとこだけ急に大人みたいだよな」
「大人じゃないよ。中一だよ」
「中一のくせに、俺よりちゃんとしてる」
褒めているのか悔しがっているのか分からない。その答えを探しているうちに、路地の奥で小さな声を聞いた。
「ミャ」
風にまぎれそうなくらい小さい。気のせいかと思った。でもデンジ君も同時に足を止めた。
「……今、なんか鳴いた?」
「鳴いた」
ゴミ置き場の横。潰れかけた段ボールの影に、黒い毛玉みたいなものが震えていた。目だけが大きくて、濡れて光っている。近づくと、その小さな身体がさらに小さく丸まった。
(……捨て猫だ)
頭の中で言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。かわいそう。だけど、かわいそうだけで拾ったら、その後どうするのか。私は考えるより先に、デンジ君がしゃがむのを見た。
「おいおい、大丈夫かよ」
かける声が優しかった。普段、同級生にはもっと雑なのに。毛玉は震えたまま、でも逃げなかった。逃げる体力がないみたいだった。デンジ君は段ボールの端をそっと持ち上げ、手を差し入れた。
「え、触るの?」
「いや、何か寒そうにしてるし」
「……」
その言い方が、まっすぐすぎて言い返せなかった。デンジ君は毛玉を抱き上げた。
「わ、すげぇ軽い。ほら、レゼも抱っこしてみろよ」
「え……。うん」
猫は本当に軽い。中身が空っぽなんじゃないかと思うくらい。毛は湿って、手のひらと腕に冷たさが伝わる。
「……ちび」
「え?」
「ちびすぎだろ。名前、チビでいい」
「仮ね。仮の名前」
「いいよ。仮で。チビ」
デンジ君は鞄から、体育で使っていたであろうタオルを取り出して、少しでも暖を取れるようにと、チビをぎこちなく包み直した。
タオルの端がずれて、チビの耳がぴょこんと出る。デンジ君はそれを慌てて戻して、指先でそっと頭を撫でた。撫で方が、信じられないくらい優しい。
私は、その手元から目が離せなかった。優しいのはいい。だけど、優しさだけで拾って、途中で投げ出したらどうなるのだろう。それは見てみないフリして素通りするよりも、ずっとひどいことをしているんじゃないだろうか。
「……デンジ君、その子どうするつもり?」
「え? どうするって……」
私が言うと、デンジ君は撫でる手を止めて、顔だけを上げた。数秒、間が空く。考えているようで、考えていない顔だった。たぶん、そこまで先のことは、今この瞬間まで本気で考えていなかったのだと思う。
「……誰かに面倒見てもらうとか。ほら、猫好きの人とかいるだろ。そういう人に……」
思いついたみたいに言う声だった。自分でも言いながら、ふわふわしているのが分かっているみたいで、語尾が少し弱い。
私は胸の奥がざわついた。
(責任を取るつもりがないなら、助けないほうがいい)
そう思う。私は、そういうふうに考える。失敗した時のことを先に想像してしまうから。途中で放り出して、結局この子がもっと辛い目に遭うくらいなら、最初から手を出さないほうがいい、と。
でも。
デンジ君の指先が、もう一度チビの頭に触れた。怖がらせないように、毛の流れに沿って、ゆっくり。チビは震えながらも、その指を拒まない。小さな身体が、タオルの中で少しだけ丸くなる。
その光景を見た瞬間、私の中の正しさが、きれいな形のままではいられなくなる。
(放っておけない)
助けるべきじゃない、と思う。だけど、助けたい、とも思う。どっちも本音で、どっちも子どもっぽくて、私は自分の中でぐちゃぐちゃになった。
デンジ君は、私の迷いなんて知らないまま、ぼそっと言った。
「……だってさ、こいつ、このままだとマジで死ぬだろ」
私は現実を並べてみる。私のマンションはペット禁止。デンジ君の家も、ずっとは無理だ。彼のお父さんは動物が嫌いだって聞いたことがある。けれど今週はお父さんが出張で、週末までいないという。
「じゃあ、飼い主が見つかるまで、その子デンジ君の家で保護しよ?」
「……マジ?」
「マジ。ここに置く方が無理でしょ」
慎重な性格だと自分では思っている。でも慎重すぎると、逆に勢いで決めてしまう時がある。今がまさにそうだった。決めたら、もう戻れない。
デンジ君のアパートは階段がうるさい。上の階で誰かがドアを閉めるたび、鉄骨がびりっと震えて、その振動が足の裏まで伝わってくる。
玄関を開けると、デンジ君のお母さんが顔を出した。私を見ると明るい笑顔を浮かべたのに、チビを見た瞬間、その笑顔が止まった。怪訝そうに眉が寄る。面倒なものを持ってきた、という顔だ。デンジ君は、なぜか自分が怒られたみたいな顔をして背中を丸めた。悪いことをしているわけじゃないのに、家に何かを持ち込むと、こういう空気になる。
けれど、お母さんは何も言わず台所へ行き、水を皿に入れて床に置いた。チビは最初だけ警戒して鼻をひくひくさせたが、すぐに顔を突っ込み、必死に飲み始めた。ぺちゃぺちゃという音が、やけに大きく聞こえる。私は息を吐いた。
(よかった……飲める)
台所から鍋に水を張る音がして、火がつく気配がした。冷蔵庫が開く音。パックがまな板に置かれる音。
そのうち、お母さんがささみを茹でてを出してくれた。相変わらず怪訝そうな顔のままだったけれど、手だけは迷いがなかった。
デンジ君は床にしゃがみ、ささみを指でちぎって、チビの口元へ差し出した。チビは匂いを嗅ぎ、ぺろっと一度だけ舐めてから、がつがつと食べ始めた。必死なのに嬉しそうだった。小さな口が夢中で動くのを見ていると、胸の奥の固いところが少しだけほどける。
「美味そうに食うなぁ」
「生きてるって感じするね」
私が言うと、デンジ君はちぎる手を止めないまま少しだけ笑った。その笑いを見て思う。
デンジ君はバカだけど、優しい。多分、こういう時だけ、私よりずっと真っ直ぐだ。最初に抱き上げたのも、迷いなく手を伸ばしたのも、彼だった。
私は慎重で、考える。考えすぎる。考えているうちに動けなくなることもある。でもデンジ君は動いてから考える。だから危なっかしい。だから放っておけない。私にとって放っておけないのは、チビだけじゃない。
食べ終わったチビはタオルの上で小さく丸くなった。さっきより呼吸が落ち着いている。私はその背中を見ながら、急に現実に引き戻された。
(……で、どうするの)
拾った。保護した。ここまでは勢いでできた。でも次。飼えない。私の家はペット禁止。デンジ君の家も、週末には状況が変わる。飼ってくれる人、引き取ってくれる人――里親という言葉は知っている。けれど、どう探すのか、何を順番にすればいいのか、私は知らない。デンジ君も知らないのが、顔を見れば分かる。さっきまでの勢いが、ささみと一緒に少し冷めて、ぽかんとしている。
やっぱり無鉄砲な決断をしてしまった気がする。それでも、チビの身体が温かくなっていくのを見たら、後悔する選択肢だけは消えた。
私は一度だけ、家のことを思い出した。
うちの親は厳しい。悪い人じゃない。でも正しさを優先する。もし私が、猫を拾ったなんて相談したら、最初に言われるのは多分、同情じゃない。早く元の場所に戻しなさい。勝手なことをするな。そういう言葉だ。怒られるのが怖いというより、結局、私の迷いを突き返されて終わる気がした。
うちの親は正しいほうへ押し戻してくるだけだ。だけど、私は今、正しいだけでは足りない場所に立っていると思う。
だから家じゃない。保護者じゃない。頼るなら、順番を知っている大人だ。
「……明日、先生に相談しようと思う」
「レゼんクラスの担任?」
「うん。早川先生。ちゃんと話聞いてくれそう」
「俺、あいつ、何かこえーんだよな」
「怖いっていうか、静かなだけだよ」
「静かなやつって、怒ったときヤバそう」
そう言いながらデンジ君はチビの頭を指でそっと撫でた。乱暴に見えるのに、触れ方だけは優しい。私はその手元を見て、もう一度息を吐いた。
ひとつの命を拾ってしまった。拾ったからには、ちゃんと繋がなきゃいけない。それが今の私たちにできるかどうかは分からない。
中学一年生の私たちには、知らないことが多すぎる。でも、知らないなら教えてもらえばいい。
明日、早川先生に相談する。大人の力を借りる。
そう決めた瞬間、胸の奥の不安が少しだけ形を変えた。
怖いけれど、逃げる怖さじゃない。これはきっと、前に進むための怖さだ。