「んぁ……?」
目が覚めると、目の前には青空が広がっていた。
自分が横になっている感覚。まだ意識がハッキリしていないのか、思考がうまく機能しない。だが、確か自分は狩猟中だったはず。何で、こうして横になっているのか。
視線をズラしていくと、シルフィードの顔が見えた。自分はどうやら彼女の横で眠っていたのか、彼女の顔を下から見上げる形になっている。
どこか遠くを見詰めているシルフィード。すると、ふと下を見て自分が起きている事に気づいたらしく、彼女は優しげに微笑んだ。
「気分はどうだ? クリュウ」
「シルフィ……? あれ、僕何で……」
記憶がまだしっかり整理されていない。確か自分は彼女達と一緒にディアブロスと戦っていたはずだ。そして……
「ガレオスに後ろから襲われて呆気無く気絶したんだよ。まったく、疲れていたとはいえ情けないぞクリュウ」
肩を竦め、苦笑しながら言う彼女の言葉にようやく思い出す。自分は確かディアブロスを撃退したすぐ後、気を抜いていた所をガレオスに背後から砂ブレスを受けて気を失ったのだ――何とも情けない事この上ない話だ。
「まったく。君が倒れた後の二人を止めるのには苦労したぞ。ディアブロスの狩猟中だというのに二人して世界中のガレオスを根絶やしにすると豪語して戦列を離れようとするからな。首根っこを掴んで説得するのも楽ではないぞ。特にあの二人、妙に息が合ったパニックぶりを見せるからな」
苦笑しながら言うシルフィード。愚痴のようにも聞こえるが、彼女の口調からはそんな感じは微塵も感じられない。面倒でも可愛い妹達の話をしている姉、そんな感じだ。その優しげな姿に、クリュウはそっと微笑んだ。
かっこいいシルフィードももちろん好きだが、こういう優しくて笑顔が素敵なかわいいシルフィードもまた大好きだ。
と、そこで自分の状況に気づく。砂の上に寝ているという事は何となく感覚と風景でわかる。だが、それにしては頭の高さが高い。まるで枕を置いているかのように適度な高さ。そして気づく。自分とシルフィードの妙に近しい距離。そしてこの頭の下のものが意味するものを――
「ひ、膝枕ッ!?」
頭で理解した途端、クリュウの顔が真っ赤に染まる。それを見て、平然とした表情を浮かべていたシルフィードの頬もほんのりと赤く染まる。
「か、勘違いするなクリュウ。膝枕と言っても鎧越しだから素肌は触れておらん。君が頭を置いているのはそんな装甲の上に置かれたタオルだ。やましい事などない」
「いや、確かにそうなんだけど……」
きれいな女の人に膝枕をしてもらっているという状況がすでに彼にとっては赤面ものなのだ。だが正直まだ体が痛むのでもう少し横になって痛いのが本音だ。ガレオスにやられてこの様とは、情けない事この上ない。
様々な恥ずかしさが重なり、頬を赤らめたまま黙るクリュウ。そんな彼を不思議そうにシルフィードは見詰めるが、特に声を掛ける事もしないので二人の間には自然と沈黙が舞い降りてしまう。それが気まずくて、クリュウは慌てて話題を振ってみる。
「そ、そういえばフィーリアとサクラの姿が見えないけど、二人はどうしたの?」
「フィーリアにはディアブロスに対しての狙撃へ向かった。サクラはその護衛だな」
「えぇッ!? そ、そんなッ! 四人掛かりでもあんなに苦戦しているのに二人なんて無茶だよッ!」
慌てて身を起こそうとするクリュウだったが、ピッと立てられた彼女の人差し指が額に当たり、それを阻む。力づくでいけば何の問題もない程の指の力なのに、まるで姉に怒られる弟のような気分になり、思わずクリュウはそこで止まってしまう。
すると、シルフィードは「落ち着けクリュウ。それと、一応まだ起きない方がいいぞ」と注意して彼の体を元通りに横に倒す。
「私とてそれくらい承知している。何も正面から戦えなどと無茶は言っていないぞ」
「じゃあ……」
「今奴はエリア3にいる。君も見たと思うが、あそこにはちょっとした高台があっただろう? フィーリアにはそこに立って狙撃するよう指示している」
確かにあそこには高い高台があった。高さは、ディアブロスの通常体勢で言うと背中くらいの高さか。そこまで考え、クリュウは彼女の言う指示の意図に気づく。
「……そっか。ディアブロスは飛ばないしブレスも撃たない。突進しかないから、安全に狙撃に専念できるんだ」
「そういう事だ。少し卑怯かもしれんが、狩りは生きるか死ぬかの命の奪い合いだ。あらゆる手段をもってしてでも勝つ。先生流の持論だ」
そう言って彼女にしては珍しく、イタズラっぽい笑みを浮かべた。その見慣れない彼女の笑顔に、不意を突かれたクリュウは思わずドキッとしてしまった。一瞬だけ、いつも大人びた彼女が年相応の少女の姿を見れたような気がした。
「……シルフィとロンメルさんは、どういう経緯で知り合ったの?」
クリュウはふと、ずっと気になっていた疑問をぶつけてみた。
異国エルバーフェルドに来て、思わぬ形で師弟が再会した。それまで、シルフィードに師匠がいる事も知らなかったクリュウ。普通に考えれば師がいる事くらい普通のはずだが。彼女の口から直接そんな話を聞いた事はなかった。
クリュウの問い掛けに、シルフィードの表情が曇る。そんな彼女の表情を見て慌ててクリュウは「いや、話したくないなら別に言わなくてもいいんだけどッ」と話を掻き消そうとする。だが、シルフィードは小さく首を横に振った。
「いや、君には言うべきかもしれないな。君だって過去の話をしてくれたのに、私だけ言わないのは不公平だしな」
そう言って、シルフィードは何事かを考える。そして、ゆっくりと口を開いた。
「全てのモンスターを虐殺する為、力を追い求めるあまり私は力こそ全てという剣聖ソードラントに加わっていた。奴らは狩猟に快楽を感じるような者達ばかりで、スリルを求めるあまりにわざとモンスターを街に入れて市街戦を行うような性根の腐った連中だった。だが、力を欲していた私は奴らのその強さに魅せられ、彼らと共にいた。さすがに市街戦には参加してはいないがな」
剣聖ソードラントは、異名にこそ聖という文字がついてはいるが、実際には悪魔のような性格破綻者の集団。彼女の言ったような市街戦は珍しくなかったそうだ。ヴィルマで見たあの惨状を、わざと作り上げていた。そう思うだけで吐き気すら感じる。
だが、彼女はそこに身を置いていたのだ。復讐に狂い、ひたすらに力を追い求めていた、昔の彼女は。
「ある日、休暇をもらった私は一人でドンドルマの街を散策していた。と言っても、今も昔も女らしい事は何もしていなかったから、酒場でビールを飲んでいただけだがな。そこで先生が声を掛けてきたんだ」
「ふぅん、何て?」
「「よぉ嬢ちゃん。これから俺と一緒にホテルでも行くか?」とな」
「それってまんまナンパだよねッ!? しかも通過点を一気にぶっ飛ばして直球勝負のッ!」
男女の出会い方としては、ある意味最悪とも言っていい状況だ。まぁ、客観的に彼の様子を見ていると確かに軽そうな人という印象は抱いたが……
「そ、それで?」
「うん? いや、当然無視したぞ」
「そ、そりゃそうだよね」
「――だがあまりにもしつこいので、一発土手っ腹に鉄拳を入れて黙らせた」
「それって明らかに過剰防衛だよねッ!? 正当防衛を主張しても通らないよッ!?」
一応怪我人という扱いなのだが、構わず反射的にツッコミを入れるクリュウ。今の彼女からは信じられないような行動だ。先日彼女は昔の自分はかなり無礼だと言っていたが、これはそういうレベルではない。
クリュウのツッコミに、シルフィードは苦笑を浮かべる。
「昔の私は、今のサクラに結構似ていたからな。彼女を見ていると昔の自分を思い出すしな」
「シルフィって、サクラみたいだったの?」
信じられないし、ちょっとショックを受けるクリュウ。チーム一の常識人で頼れるリーダーでカッコいい狩人。それが昔は傍若無人で他人を片っ端から突っぱねる非常識人だったなんて……
「……そりゃ確かに、再会した時にロンメルさんが驚くのも無理ないよ」
「確かにな。先生もずいぶんと驚いていたな。まぁ確かに、昔に比べればずいぶんと落ち着いたからな」
落ち着いたとかそういうレベルではない。人が変わった、そういう言葉が当てはまるような激変ぶりだ。
「先生は何かと私に構うようになって。ソードラントを抜けるよう何度も説得してきた。私がいくら突っぱねても、だ。数ヶ月ねばられて、ちょうどその頃にリーダー達の方向性の仲違いを起こしていたので、私はソードラントを抜けた」
そういえば以前に彼女はソードラントを抜けた原因を目指す道が違ったと言っていた。方向性の違い、彼女と彼らを分けたのは、一体何だったのだろう。
――だが、聞くまでもないだろう。狩りを楽しむ為だけに市街戦に持ち込むような連中と、シルフィードが一緒な訳がない。仲間想いで、正義感の強い彼女を見ていると、そう確信する。
「先生は「今日から俺がオメェのお師匠様だ。ビシバシ鍛えてやるから覚悟しておけ」と笑いながら私の肩を叩いた。以降、私は先生の下で修行を積み、先生の説得もあって次第に復讐の鎖から解き放たれた。先生の下を卒業した後は、再びソロハンターとして実績を積み重ね、周りからは《蒼銀の烈風》などと持て囃(はや)されるようになった――そして、君に出会った」
そう言って、シルフィードはクリュウを見て微笑む。その優しげな微笑みは、とても復讐に狂っていたとは思えない程きれいで、素敵で、温かくて。クリュウは思わずカァッと頬を赤らめてしまう。
「先生のおかげで闇から脱し、君と出会って光を知った。先生には感謝している。もちろん、君にもだぞクリュウ」
「いや、僕は別にロンメルさんと違って何かしたって訳じゃないよ。むしろ守られてばっかりで情けないくらいだし」
「……まったく、人の感謝は素直に受け取っておけ。どう言い繕っても、君と出会えた事で私は《幸せ》というものを知った。この事実は変わらんぞ――だから、ありがとうクリュウ」
優しく微笑むシルフィードの言葉とその表情に、クリュウは頬を赤らめて「う、うん……」小さく返事をするだけで黙ってしまう。こう面と礼を言われると、だいぶ恥ずかしい。嬉しくもあるが、恥ずかしいのだ。
「――さて、そろそろ起きれるかクリュウ? 一度、拠点(ベースキャンプ)に戻るぞ。いつまでもこうして砂漠の真ん中で寝ていられる程、ここは安全じゃないからな」
彼女の言葉に、自分がまだエリア5にいる事を思い出すクリュウ。見た所ガレオスの姿がないのは、おそらく怒り狂った二人が容赦なく駆逐したのだろう。想像するだけで恐ろしいが、そのおかげでこうしてゆっくりできていたのだから一応感謝はしておかないと。
クリュウは身を起こそうとするが、まだ背中が痛む。どうやらこれは本格的に薬草でも塗っておかないとマズそうだ。でも起き上がれない事もないし、歩けない事もない。薬草を塗ってしばらくすれば問題ない程度だろう。
クリュウは上体を起こし、膝を立てて起き上がろとする。すると、スッと目の前にシルフィードが立ち、ゆっくりと腰を下ろして背を向ける。
「シルフィ?」
「まったく、怪我人が無茶をするな。ほら、おぶってやるから早く乗れ」
その言葉に、彼女の行動を理解する。クリュウは慌てて手を横に振って「だ、大丈夫だよッ! 一人で歩けるからッ!」と断るが、シルフィードは譲らない。
「バカ者。こんな所で無茶をしていざという時に機能不全を起こされたら敵わん。私はリーダーだ。チームメイトの体調管理を負う義務がある。そんな無茶をさせられるか」
「で、でも……」
女の人におんぶしてもらうのは男としてのプライドが……、と心の中でつぶやく。要は恥ずかしいのだ。最近本気で男としてのプライドやら自尊心が見事に木っ端微塵状態な彼にとって、踏み止まりたい一線なのだ。しかしある意味似た者同士であるシルフィードはそんな彼の心中など察する事はできずに一喝する。
「さっさとしろクリュウッ。時間は無限にある訳ではないのだぞッ」
「は、はいぃ~ッ」
結局クリュウの方が折れ、シルフィードにおぶられる事になった。シルフィードは男の子一人背負っているというのにそれを感じさせない程に立ち上がって歩き出す。さすがは重量のある大剣をいつも背負っているだけの事はある。
シルフィードの背中に背負われ、クリュウは恥ずかしそうに頬を赤らめながら沈黙する。風が吹くたびに彼女のポニーテールが揺れ、髪が頬を撫でる。そのたびに彼女のうなじから、彼女の汗の混じった匂いが鼻をくすぐる。臭い訳では当然ない。むしろいい匂いで、そう思う自分が変態みたいで、色々な恥ずかしさで彼の顔は真っ赤に染まる。
一方、クリュウを背負うシルフィードは背中に感じる彼の重さと温もりに頬を緩ませていた。
ディアブロスに殺される。そう覚悟した危機を救ってくれた頼もしいパートナー。なのにその体は思っていたよりもずっと軽い。こんなにも軽くて小さな体で、自分を必死になって守ってくれた。それが、嬉しくて仕方が無いのだ。
「し、シルフィ。重くない?」
「うん? 心配するな、君程度をおぶる事など造作もないぞ」
「いや、それはそれでショックなんだけど……」
「どうした?」
地味にダメージを受けているクリュウに対し、自分が彼を傷つけたという自覚はまるでないシルフィードは首を傾げる。そんな彼女を見て苦笑しつつ、クリュウは言う。
「いつか、僕がシルフィを背負えるようになるよ」
クリュウの言葉に、シルフィードの口元に笑みが浮かぶ。
「私より背の低い君が?」
「うぐ……ッ」
返す言葉もなく黙ってしまうクリュウの反応をおかしげに笑うと、しかしシルフィードはそっとつぶやく。
「――楽しみにしているぞ」
クリュウは一瞬彼女のつぶやいた言葉の意味がわからず、戸惑いの表情を見せる。だが、その意味を理解すると笑顔に変わる。
「うんッ」
クリュウはそっと彼女の首に回した両腕に力を込めて、少しだけ強く抱きつく。シルフィードはそんな彼の行動に頬を赤らめながら微笑むと、ゆっくりとした足取りで砂漠を進む。
拠点(ベースキャンプ)に戻ると、すでにそこには先客がいた。
「クリュウ様ッ!? 大丈夫ですかッ!?」
「……クリュウ」
天幕(テント)の前で向かい合うように腰掛けて何事かを話していたフィーリアとサクラ。クリュウとシルフィードの姿が見えた途端、慌てて立ち上がって駆け寄って来る。その表情は安堵一色に染まっている。
「奴が移動した事はここに来る途中でわかったが、首尾はどうだ?」
クリュウを背負いながらシルフィードは狙撃を担当したフィーリアに尋ねると、フィーリアは自信満々な表情を浮かべる。
「シルフィード様の仰った通り、高台はディアブロスの攻撃が届かない為に一方的な狙撃を行えました。通常弾LV2の速射を大量に命中させたので、それなりのダメージを与えられたかと」
そう言ってフィーリアは自信を見せる。それを見てシルフィードはほっとしたようだ。特に怪我もなく、しかも確実なダメージを与えられた。これは未だに劣勢に変わりない状況を好転させるきっかけになるかもしれないと考えたのだろう。
一方、サクラはトコトコとシルフィードに背負われているクリュウに近づくと彼の鎧の裾を摘む。
「サクラ?」
「……クリュウ、大丈夫?」
不安そうな瞳で見詰める彼女を見て、心配してくれているのだろうと察すると、クリュウは安心させるように優しく微笑む。
「ありがとう。でも平気だよ。心配させてごめんね」
すると、サクラは首を横に振る。
「……夫の心配をするのは、妻の役目だから」
「君は本当に包み隠さないな」
サクラの発言にシルフィードは呆れ半分感心半分という具合に苦笑を浮かべる。すると、それまで穏やかな隻眼でクリュウを見詰めていたサクラが、突然刃物のように瞳を鋭くさせて、シルフィードを睨みつける。
「……さっさとクリュウから離れろシルフィード」
「わかった。わかったからそんな怒り狂った瞳で見ないでくれ。はぁ、何が悲しくてチームメイトに脅されなきゃならんのか……」
シルフィードはため息混じりにつぶやくと、クリュウを天幕(テント)の中のベッドまで連れて行き、彼を下ろす。
「ごめんねシルフィ。世話掛けさせちゃって」
「気にするな。これくらいどんどん掛けさせろ」
そう言ってシルフィードは微笑むと、一人で天幕(テント)から出ると心配そうに中を見詰めているフィーリアに声を掛ける。
「フィーリア。クリュウの手当をしてやってくれ」
「え? わ、私がですか?」
「うん? 君が適任だと思ったのだが。断るなら私が代行するが」
「い、いえッ! ぜひにも私にさせてくださいッ!」
そう言ってフィーリアは慌ててクリュウの手当の為の道具を片っ端から集め始める。そんな彼女の甲斐甲斐しい様子を微笑みながら見守っていると、視界の隅にキラリと光るものが……
「サクラ。首元に刀を押し付けるのはやめてほしいのだが……」
「……なぜ私が候補にいない」
「先程の分派と同じ理由だ。クリュウの素肌を見て君が正気でいられるとは思えん」
「……エリア2へ来い。貴様とは一度徹底的にやり合わないといけないようね」
天幕(テント)の外でそんな出来事があるとは露知らず、天幕(テント)でクリュウは一人半裸になって薬草を塗る準備をしていた。するとそこへ意気揚々とかき集めた救急道具を持ってフィーリアが入って来る。
「クリュウ様。私が責任もって手当してさしあげ――ってぇえええぇぇぇッ!?」
「うわッ!? ちょっといきなり入って来ないでよフィーリアッ!」
突然女の子に入られて慌てるクリュウ。一方のフィーリアもまだ覚悟していない状態でいきなりクリュウの半裸を見た為か、顔を真っ赤にして慌てふためく。道具類を一度横の小机に置き、両手で真っ赤になった顔を隠す。
「す、すみませんッ!」
「……まぁ、いいけどさ。それで、どうしたの?」
「あ、いえ、クリュウ様の手当をシルフィード様からお受けしたので……」
「シルフィが? もう、そんなに心配しなくてもこれくらい一人でできるよ」
シルフィードの心配性にも困ったものだと言いたげにため息を零すクリュウ。だが、そんな彼の言葉にフィーリアは「ダメですッ」と断固拒否する。
「手当はちゃんとしなくちゃダメです。その為に私が来たんですから、クリュウ様は背中を向けてるだけでいいです」
「いや、一人でできるって。フィーリアだって神経すり減らすような任務の後なんだから、僕に構わずゆっくり休んで――」
「ダメですッ!」
大声で怒るフィーリアにクリュウは多少驚きながら、彼女の表情を見て拒否はできそうもないと悟ると、ため息を零して諦める。フィーリアはすごく謙虚で自分の言う事は快く引き受けてくれる心優しい子なのだが、こういう時はどんなに言っても絶対言う事を聞かない。クリュウの事が絡むと自分の意見をハッキリと言うし、それをそう簡単にはねじ曲げない頑固な子になってしまうのだ。まぁ、それも彼を想うがゆえの行動だという事は言うまでもないだろう。
諦めたクリュウは背中を彼女に向けて手当を待つ。その間にフィーリアは打撲によく効く薬を取り出す。リリアが調合した特注品なので、薬草なんかよりもずっと治癒が早い優れものだ。
「それじゃ、薬を塗りますよ」
目の前に愛しい人の素肌の背中。フィーリアの顔はカァッと真っ赤に染まり、変に緊張してしまって手が震えている。
「フィーリア?」
黙ったまま固まる彼女を不審に思ったクリュウは振り返り、彼女の名を呼ぶ。その声にフィーリアは慌てて「す、すみませんッ。すぐに手当しますからね」と準備を始める。
ベッドに二人で腰掛け、クリュウはフィーリアに背を向けて座っている。フィーリアは頬を赤らめたままビンを開けて塗り薬を自分の手に塗ってならす。そして、彼の背中の少し青くなっている部分に塗っていく。
触れた途端、鋭い痛みが走って軽く悲鳴を上げるクリュウ。しかしそこは曲がりなりにも男の子。我慢する。
フィーリアはできるだけ手早く薬を塗り、しっかりと打撲部分全体に塗れた事を確認すると、ビンを閉じる。あとは包帯を巻くだけ。包帯を手に取って彼の体に巻いていく。その時、ふと視線に入ったのは彼の背中の傷。女の子でも羨ましいくらいに真っ白できめ細かい彼の肌。しかしそんな肌に包まれた背中において唯一の異質な存在。背中全体を一直線に走る古い裂傷。見ているだけで、痛々しい古傷だ。
「……クリュウ様、痛みますか?」
「え? まぁ、薬を塗るとしばらくはちょっと痛いからね。でもすぐに収まるさ」
「いえ、そうではなくて……その、古傷の方は」
口ごもる彼女の言葉にクリュウは一瞬彼女の言いたい事がわからなかったが、すぐに察するとクリュウは安心させるように笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。もうとっくに完治してるからさ」
「そ、そうですよね。いえ、こうして改めて間近で見るとすごい傷跡だなぁって……」
「まぁ、当時は相当な大怪我だったからね。気を失ってたから覚えてないけど、血塗れだったみたいだし」
ルフィールを庇ってドスファンゴの角に貫かれた時、彼はそのまま気を失っていたので記憶がない。一瞬死すら覚悟したかと思ったら、次の瞬間には拠点(ベースキャンプ)で救護アイルーに荷車から捨てられていたのだから。その間の記憶はないが、話によると相当危険な状態だったらしい。だが、今こうしてピンピンしてるのだから特に気にする事もない。傷跡なんて男ならむしろ勲章みたいなものだと、見た目に反して妙に男らしい感覚のクリュウ。
包帯を巻き終えたフィーリアはしばし彼の傷跡をジッと見詰めたかと思うと、そっとその傷跡を指先でなぞる。
「……でも、さすがクリュウ様ですね。女の子を庇う為に、身を盾にした事を平然としてしまう。普通の人には早々できないような事ですよ」
「そうかな? まぁ、その時は必死だったからよく覚えてないけど」
「――でも、私の前ではそういうような無茶はしないでくださいね」
――刹那、頬を金色の髪がくすぐった。背中に感じるのは温かな温もり。優しく、包みこむような感覚。振り返らずとも、クリュウの顔が真っ赤に染まる。
「ふぃ、フィーリア?」
背中に突如フィーリアに抱きつかれたクリュウは顔を真っ赤にして狼狽える。慌てて離れようとするが、彼女はそれを許さない。
「フィーリア、あの、その……」
「――嫌ですからね」
ポツリと、耳元で彼女がつぶやく。
「……サクラ様の為、シルフィード様の為、誰かの為。ましてや私なんかの為にクリュウ様が傷つき、もしも、死んでしまわれたら。私、そんなの耐えられません」
背後から抱きつかれているので、彼女の表情は見えない。だが、耳元で囁かれる彼女の声は微かに震えていた。その震えが意味するものを、クリュウは察する。
「ふぃ、フィーリア……」
「ご自分の身を、最優先にお考えください。お願いします」
背中に、温かな水滴が落ちる。クリュウはその熱に何も言えなくて、ただただ沈黙を貫き続ける。
気まずい沈黙が、長く続いた。数分にも十数分にも感じられた沈黙、だが実際にはほんの数秒。そっと、背中を包んでいた温もりが離れた。だが、クリュウは振り返るのが怖くてそのまま前を見詰め続ける。その間に、背後ではフィーリアが片付けをしている気配。
「私は、そういう心優しいクリュウ様が大好きです。でも、誰かの為に自分の身を簡単に犠牲にしてしまう、そんな自分の命を軽視するようなクリュウ様はあまり感心できません」
「別に軽視してる訳じゃないよ」
「でしたら、ちゃんと行動で示してください。私だけじゃありません。サクラ様もシルフィード様も、そういう危なっかしいクリュウ様をいつも心配されています。どうか、その事だけは胸に留めておいてください」
そう言い残し、フィーリアは天幕(テント)を出て行く。一瞬だけ見えた彼女の横顔は、やっぱり泣いているように見えた。
手当を終えたクリュウはそのままベッドに倒れた。天幕(テント)の天井を見上げながら、ポツリとつぶやく。
「……だからって、みんなのうちの誰かでも僕は失いたくないんだよ」
フィーリアがクリュウを大切に想っているように、クリュウもまた皆を大切に想っている。
――それこそ、自分の身を犠牲にしてでも守りたい程に。
頭の中がゴチャゴチャになって、クリュウは考える事から逃げるように短い仮眠を取り始めるのであった。