モンスターハンター ~恋姫狩人物語~   作:黒鉄大和

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第166話 恋する乙女の新たなる決意 蒼空の彼方への旅立ち

 ドタバタの夕食会を終えた一行はフリードリッヒが用意した各部屋で休む事になった。クリュウも宛てがわれた部屋へ戻ると、大きなため息を零した後に倒れるようにベッドへ倒れた。

「疲れたぁ……」

 夕食会は振舞われた食事自体は実においしくそれは満足なのだが、カレンが自作の料理を自分だけに振るまい、食べさせようとした際にフィーリア達が激しく反発してケンカに発展。事態を収拾する為に奔走した結果、必要以上に疲れてしまった訳だ。まぁ、自分で撒いた種と言えばそれまでだが……

 とにかく疲れた。本当はこのまま寝てしまいたい気分ではあったが、正直汗は流しておきたかった。重い体を起こし、部屋に用意されているシャワー室へ向かう。ここは客間だと言っていたから、必要な設備が整っているのだろう。

 脱衣室で服を脱ぎ、シャワー室で水を浴びる。ドンドルマの大衆浴場は中央工城の排熱を利用して湯を沸かせる為にお湯が使えるが、ここはそういったシステムがない為水だ。まぁ、田舎暮らしのクリュウにとってはむしろ水の方が当たり前なので慣れたものだが。

 シャワーを浴びていると水の冷たさに思わずくしゃみが飛び出した。まぁ、冷水のおかげで疲れから来ていた眠気は吹き飛んだのだが、寒さに思わず体を震わせる。

「……クリュウ、背中を流して――」

 ――バタン。

 背後で扉が開きかけたのを、クリュウは反射的に閉じた。

 シャワーを止め、フゥと小さくため息を零す。そして、

「……あのさ、サクラ。確か僕、部屋のドアに鍵をかけたはずなんだけど」

 すると、ドアに嵌めこまれた曇りガラスの向こうにいる人影が自信満々に答えた。

「……私とクリュウの間には、あの程度の壁は障害にはならない」

「……お願いだから、障害は障害のままで強行突破して来ないで」

 ずぶ濡れの頭を押さえながらクリュウは疲れたようにため息を零す。本当に、この子には常識というものがまるで通用しない。というか、タオルも服も全部脱衣所にあるのだが、彼女がそこに陣取っている限り出れそうもない。どうしたもんかと悩んでいると……

「サクラ様、何で脱衣所で服なんか脱いで――って、クリュウ様ッ!? し、失礼しましたッ! ほ、ほらサクラ様もさっさと服を着てくださいッ!」

 扉の向こうでフィーリアがサクラを排除しているのが気配でわかる。というか、フィーリアも普通に部屋にいるし――サクラに関して言えば、もうすでに戦闘準備ができていたという訳で……

 クリュウは大きなため息を零すと脱衣所に戻り、タオルで体全体を拭うと用意しておいた別服に体を通して部屋に戻る。すると、

「……クリュウ、お茶飲む?」

「って、そのお茶を用意したのは私ですよッ!? 何でおいしい所を堂々と持って行こうとするんですかッ!?」

「……すまん、邪魔してた」

 サクラにフィーリアだけではなく、シルフィードまでがまるで自分の部屋のように振舞っていた。シルフィードに関して言えば少し気まずそうな顔をしている所を見ると、二人の暴走(主にサクラ)を止めようとしたが結局止めきれなかったという具合だろうか。彼女の苦労にはいつも頭が下がる。

「もう……」

 でも、そんな三人を見詰める彼の表情はどこか安心していた。何というか、これまで様々な事が一度に起き過ぎていて整理がつかなかった。だが、こうしていつもの四人でいると、とても落ち着ける。もしかしたらサクラはそれを狙って部屋を強襲してきたのかもしれない。

「……クリュウ、今日は一緒のベッドで寝よう」

「何を言ってやがりますかッ!」

 ――まぁ、彼女の場合おそらく自分の欲望全開でここに来たのだろうが。

 でもまぁ、何となくそうやっていつものノリを全力でしてくれる彼女達を見ていると安心できるのは事実だ。思わず笑顔が零れると、サクラが首を傾げた。

「……クリュウ?」

「あ、いや何でもないよ。悪いけどフィーリア、僕にも一杯もらえるかな」

「は、はいッ! 喜んでぇッ!」

「……どこの居酒屋の店員だ君は」

 大喜びでお茶の支度をする彼女に思わず苦笑が浮かぶシルフィード。クリュウはそんな彼女の隣の席に腰掛けた。まだ塗れた頭をタオルで拭く。

「行水の最中にすまなかったな」

 隣に座るシルフィードが申し訳なさそうに謝るが、クリュウは気にした様子もなく「別にいいよ」と笑顔で答える。まぁ事実彼女は二人の暴走を止めようと失敗した身なので彼女自身に非がある訳ではない。

「君の部屋に行くと二人が言って聞かなくてな。鍵が掛かっていたから諦めるかと思ったのだが、サクラが難なくその鍵を解除してしまって……まったく、彼女のスキルの異常さには慣れたはずなのに未だに驚かされる」

「ほんと、色々な意味で人間離れしてるよねサクラって」

「まったくだ」

 向かい合いながらそう互いに言うと、思わず笑みが零れる。すると、そんな二人の間にズイッとサクラが割り込んで来た。キッとシルフィードを威嚇するように睨むと、シルフィードは苦笑しながら「何もしないさ」と両手を上げる。それを確認すると、反対側を向いてクリュウに横から抱きつく。その間の動きに一切の迷いがない所が彼女のすごい所と言えよう。

「クリュウ様ぁ、お茶が入り――って、何してるですかぁッ!」

 そこへお茶の用意を終えたフィーリアが戻って来てより状況は混沌とする。両側からフィーリアとサクラが抱きついて奪い合う中、クリュウは苦笑を浮かべる。そんな彼の様子を横に見ながらシルフィードは静かに茶をすする。

 しばらく放置していたが、さすがに色々な意味で隣の桃色空気に耐えられなくなったのか、シルフィードが二人を引き剥がして席に座らせる。

 とりあえず落ち着いた所で、茶をすすっていたシルフィードが静かに口火を開いた。

「いよいよ明日か……」

 その言葉を皮切りに、沈黙していた他の面々もそれぞれ口を開く。

「いよいよ明日ですね。アルトリア、どんな国なんでしょうか」

「さぁな。私も流浪ハンターだった経験から様々な国、とりあえず西竜洋諸国は一通り回ったが、さすがに渡洋冒険はした事はないな」

「……まぁ、どこの国も政治家って生き物は腐ってたけど」

 元流浪ハンターとしての経験談をする三人。さすが皆旅には慣れたものでクリュウほど緊張はしていない様子だ――まぁ、サクラの意見はある意味放送禁止用語的なレベルだが。

「クリュウ様はあまり外国へ行く経験はございませんよね」

「そう、だねぇ。ドンドルマは一応外国の部類に入るのかな。それを抜いても前にガリアへ行ったのと、今回のエルバーフェルド。それくらいだね」

 クリュウは三人と違って流浪ハンターという諸国を旅した経験はない。ハンターとして旅には慣れているものの、行く先は狩場かもしくは途中通過、または拠点とする街や村くらい。国という単位にはあまり経験はなかった。

「まぁ、今回の場合はいつものとまるで状況が違うからな。私達の経験も役には立たんだろう」

 シルフィードの意見に残念ながら他二人もうなずいた。今回は一国の国賓扱い(まぁ、アルフ曰くそんな大それたものではないらしいが)での入国だ。今までそんな経験で入国した事は当然平民の出の三人は経験はない。貴族出身のフィーリアもエルバーフェルドでは国賓として扱われる事はあってもそれが外国となるとまるで経験がない。

 不安はないかと問われれば、それは全員個人個人では今まで経験のない状況に当然不安は抱いている。だが、

「まぁ、君達と一緒なんだ。どこに行こうが、乗り切れるだろうさ」

「そうですね。私達は最強のチームですからッ」

「……クリュウに害をなす存在全てを斬り伏せれば問題ない」

「サクラは少し手加減してね? でも、シルフィードやフィーリアと同意見だよ。僕達四人なら、どんな事だって乗り越えられるさ」

 互いを信頼し、互いを認め合い、互いを想い合い、互いを最高の仲間と心の底から想っている者同士。それがこの四人。イージス村が誇る最強精鋭のチームだ。

 四人の仲には確信がある――この四人でなら、どんな苦境も逆境も乗り越えられる。実際、これまでも無理や無茶と思えた事をこの四人で乗り越えてきた実績がある。

 この先、どんな事が自分達を待ち構えているかわからないという不安は確かにある。でも、信じられる仲間と一緒なら、きっとできる。そんな想いが、彼らの胸を満たしていた。

 自信満々に皆を見回すと、三人の視線が自分に集中している事に気づく。クリュウはそれらの視線に対して一つうなずくと、いつもの皆に元気を与える笑顔を華咲かせた。

「――ほんと、僕は幸せ者だよ」

 

 もしかしたら、本当に自分の不安を感じ取って励ましに来てくれたのかもしれない。

 一時間程前に部屋を出て行った三人に、クリュウは心から感謝していた。おかげで、ずいぶんと明日への不安は消えていた。

 自分の中の不安が薄らいでいるのを見て、クリュウはそんな風に考えていた。だとしたら、自分は本当に良い仲間を持った。もし違うとしても、タイミング良く現れてくれるという意味でも、いい仲間を持ったと言えるだろう。

 明日への不安が消えた今、残るのは明日への期待。母の故郷に行ける。

 それに、ここへ来たのは何もアルトリアへ行く為だけの通過点ではなかった。ちゃんとした収穫もあったのだ。

 父と母のかつての友、エルディンから父の知らなかった姿を聞けた。さらにその後、母はアルトリア人であるという確証も得た。エルディンが以前母自身から自分の故郷がアルトリアだと聞かされていたのだ。

 ――可能性は、この国に来て確信に変わった。そういう意味では、皆に感謝するのは当然だが、その中でもエルバーフェルド行きを強く推進し、様々な手を尽くしてに尽力してくれたフィーリアには特に感謝しないといけない。

 ――気がついたら、体が動いていた。

 外へ出てもいいような格好に変え、クリュウは部屋を出る。向かうのはフィーリアの部屋だ。

 先程まで一緒だったのだから今更会いに行くのはおかしい事かもしれない。でも何となく、フィーリアと二人きりで話したい気がした。二人きりの時に、ちゃんとお礼が言いたかった。

 レヴェリ側に立った全員が同じ階に部屋が割り当てられている。フィーリアの部屋を探すのは造作も無い事だった。

 ドアの前に立ち、早速ノックをする。すると中から「あ、はい。どなたですか?」と可愛らしい声が届く。

「あ、僕だよ。フィーリア」

「えぇッ!? く、クリュウ様ですかッ!?」

 ガチャッとドアが少し開き、その中からフィーリアが顔を出した。先程と違ってフリルがいっぱいの真っ白な可愛らしいデザインのネグリジェ姿だ。その表情は驚きに満ち、クリッとした瞳は一杯まで開かれている。その姿が何となく愛くるしくて、思わず笑顔が浮かんだ。

「え? い、一体何の御用でしょうか? あ、私何かクリュウ様のお部屋に忘れ物をしましたでしょうか?」

「ううん。特に理由なんてないんだけど……ごめん、理由がないのに来ちゃマズかった?」

「い、いいえッ! むしろ嬉しいくらいですッ! あ、あの粗末な部屋ですがどうぞ」

 そう言って中へ案内するフィーリア。自分の部屋ではなく宛てがわれた部屋だというのに《粗末》と言ってしまった所から見て、相当テンパっているらしい。まぁ、当然クリュウは気づいていないのだが。

「お邪魔しまぁす」

 部屋へ入ったクリュウは早速中を見回してみる。が、当然同じような作りの部屋だし持ち込んだ荷物もそんなに多くはないので私物もあまり見当たらない。だが所々に女の子らしいものがあったりする。

「ニャふぅッ!?」

 突然隣にいたフィーリアがベッドに突貫。そのままダイブしてベッドの上に倒れた。何事かと驚くクリュウにギコチない笑顔を浮かべながらこちらとは反対側へ転げ落ちる。

「ふぃ、フィーリア? だ、大丈夫なの?」

「へ、平気ですッ! お気になさらずッ!」

 姿を隠したまま焦ったように言う彼女の言葉に引っかかりは感じたが、本人がああ言うのだから詮索は無粋だろう。クリュウはそれ以上追求はしなかった。

 クリュウは気づかなかったが、実はベッドの上にはちょうど少し前に風呂から出た際に脱いだ下着が畳んで置いてあったのだ。今それはベッド横に倒れている彼女の手の中に。それを見詰める彼女の顔は真っ赤に染まり、追求をする事なく黙っている彼の優しさに感謝しながらホッと安堵していた。

 フィーリアは手早く下着をベッドの中に隠して、何事もなかったように振る舞いながら彼の所へ戻る。クリュウも無かった事にしようとしている彼女の気持ちを汲んで追求はせず、忘れる事にした。

 フィーリアは彼を席に座らせると、手早くお茶の支度をする。部屋に用意されている普通のお茶ではなく姉が分けてくれたレヴェリ産のチューリップティーだ。ついでに自分用に買い揃えていたお茶菓子を用意して彼の座るテーブルへと戻る。

「ごめんね。何だか余計な気を遣わせちゃって」

「い、いいえ。好きでしている事なのでお気になさらず」

 カップに紅茶を淹れ、彼の前に置くと同様に淹れたものを自分の前に置いて席に座る。対面するように座ると、クリュウは早速紅茶、チューリップティーを口にする。その瞬間、口の中いっぱいにチューリップの香りが広がる。独特な甘さと苦味が絶妙で、クリュウは思わず「うわぁ……」と声を漏らした。

「お口に合いましたでしょうか?」

「うん、すごくおいしいよ」

「お口に合ったようで良かったです」

 クリュウが気に入ってくれたのを見て安堵したようにフィーリアは胸を撫で下ろした。自分の故郷の名産品とだけあってそれを彼が気に入ってくれた事に嬉しそうに微笑む。

「これ、レヴェリ領の名産品なんですよ」

「へぇ……」

「私も家にいた頃はよくお姉様と一緒にこれを飲みました」

「でも、高いんじゃないの? すごくおいしいし」

「……そう、ですね。私も旅をするようになって自分の金銭感覚が変だという事を自覚したもので」

 恥ずかしそうに頬を赤らめながらフィーリアは苦笑を浮かべる。どうやら元貴族出身とだけあって、一般とは違った金銭感覚を持っていたらしい。彼女にしてみれば、忘れたい過去の一つなのだろう。

「貴族の生活も良かったですが、今の生活の方が私は向いているようです。どうも貴族の空気が私には合わなくて……」

「そうなの? フィーリアってやっぱりお嬢様っぽいと思うんだけど……」

 立ち振る舞いや仕草、雰囲気など彼女はその端々で一般人とは違う高貴さを感じさせるのは事実だ。だからこそクリュウは彼女が自分が貴族らしくないと言うのが少し意外だった。すると、そんな彼の疑念に答えるようにフィーリアは静かに首を横に振ると、照れたように頬を赤らめてペロリと可愛らしく舌を出した。

「私って結構おてんばですし、わがままですし、ちょっとした事でもパニックになっちゃったりと……とてもじゃないですが、優雅な貴族っぽさがまるでないんですよ。表面的な事なら何とかできますが、根本が貴族に向いてないらしくて」

「そう、なのかな? 僕は平民だからその辺の事はよくわからないや」

「セレスお姉様を見ていればわかりますでしょ? あれが本当の貴族というものです。私には到底真似できません」

 苦笑しながら言う彼女の言葉に、申し訳ないと思いつつも納得してしまった。確かに、セレスティーナはまさに貴族のご令嬢という気品に満ちている。立ち振る舞いや仕草など、優雅で高貴な雰囲気を纏っている。フィーリアの薄っすらと感じるものとは違う、明確な気品だ。

「だからと言ってルミナお姉様のように自由奔放というタイプでもありません。そういう意味では、私は個性的過ぎる姉二人に霞んでしまう地味な末っ子です」

 自虐的な物言いだが、確かにあの二人の個性を前にすればフィーリアには申し訳ないが霞んでしまうのもうなずける。ある意味、彼女が謙虚な性格になってしまったのはそんな凄過ぎる姉二人に圧倒され続けた結果なのかもしれない。

 だが、それでもフィーリアの瞳は輝いていた。今の自分は輝いている、幸せなんだ。まるでそう言っているかのように、彼女の顔に笑みが咲き誇る。

「だからこそ、私は平民の世界で自立しようとハンターとなり、それなりの実力も身につけました。何より、今の私にはきっと貴族のままだったら得る事のできなかったものをたくさん得る事ができました。料理の師匠であり、ちょっと素直じゃないですけど心優しい先輩なエレナ様。ちょっとドジしますけど、尊敬でき、心から頼れる姉御さんのシルフィード様。実に無茶苦茶で、ルミナお姉様すらも霞むほどの自由奔放さで――でも、やり過ぎなくらい真っ直ぐ。私にとっては最大のライバルであり、最高の親友と思っているサクラ様」

 彼女の口から飛び出すのは、今の彼女を取り巻く人達。彼女にとっては皆尊敬に値する人達なのだろう。その言葉の端々に尊敬と、信頼、そして絆が感じられる。まぁ、ちょっとサクラだけ毒舌っぽい気もするが、それでも最終的には彼女にとってサクラは特に特別な存在なのだと感じさせられる。

 そして、ゆっくりとクリュウを見詰め、頬を赤らめながら無邪気に微笑む。

「何より、今述べた方々に出会えたのはクリュウ様のおかげです。クリュウ様は私にとって本当に特別な人で、優しくて、強くて、真っ直ぐで、かっこ良くて、でもちょっと年上ですけどかわいいと感じる時もあって。本当に、私にとって特別な人。大好きな人――それが私の王子様。クリュウ・ルナリーフ様です」

 臆する事なく無邪気に笑いながら言う彼女の言葉にクリュウは照れたように頬を赤らめる。熱を帯びた頬を指先で描きながら何とも言えない照れ笑いを浮かべる。

「ちょっと、過大評価過ぎじゃないかな……」

「そんな事ありませんッ。これでも足りないくらいですッ。何でしたら二時間講習してさしあげましょうか?」

「え、遠慮しておきます。二時間耐えられる自信がないから……」

 そんなものを二時間も聞いてなどいられない。恥ずかしくて落とし穴にハマりたいくらいだ。だがフィーリアは話したかったのか、断ると残念そうに「そうですか……」とつぶやく。危ない所だった……

 クリュウが黙ると、フィーリアも自分から話しかける事はなく二人の間には沈黙が降りる。だがそれは嫌な沈黙ではなく、互いにチューリップティーを味わうという時間。しばらくすると、クリュウがここへ来た本来の目的を話し始める。

「その、ちゃんとお礼を言っておきたくて」

「え? 私に、ですか?」

 ホワイトチョコでコーティングしたクッキーを片手に紅茶を飲んでいたフィーリアは突如そんな事を言い出した彼を驚き見る。その表情を見るに、どうやら彼からお礼を言われるような出来事が彼女の頭にはないようだ。クッキーの先端を口先に当てながらフィーリアは彼から礼を言われるような出来事を思い出そうとしているが、そのうち諦めたのか「私、クリュウ様にお礼を言われるような大それた事しましたでしょうか?」と逆に聞き返した。

「え? あ、いや、その……」

 本人に自覚がないとわかると、クリュウはその先に困った。何せ自覚がないのだからむしろお礼を言うのが恥ずかしく思えたのだ。でも、クリュウは諦めず口を開く。わざわざお礼を言う為にその経緯を話すなんて恥ずかしい事この上ないが、ここは我慢だ。

「その、ほら、今回のエルバーフェルドでは特にフィーリアにがんばってもらったから、そのお礼を……」

「あ、そういう事ですか……そんなにお気になさらなくても良かったですのに」

 彼の言う《お礼》を理解した途端、フィーリアは妙に緊張していたのかほっと胸を撫で下ろした。そして、「だから、その……」とその先を言おうとする彼を制した。驚く彼を前にして、フィーリアは屈託の無い笑みで応える。

「私は特別に何かお礼を言われるような事はしていません。元々クリュウ様からお礼がほしくてした事ではありませんし。もしもそれでもと仰るなら、私は皆さんと同じお礼をしていただきたいです」

「同じ、お礼……?」

「シルフィード様もサクラ様も、エレナ様も。ルーやルミナお姉様も、自分のできる事の範囲内でクリュウ様の為に一生懸命がんばられました。私も、自分のできる範囲、自分が使えるカードをありったけ使ったに過ぎません。私の場合は皆さんとは違う貴族の出だったから、その人脈を駆使したに過ぎません。だから結果的に大きな働きをしたとしても、私は皆さんと同じ事をしたまで。なので、何か特別にお礼を言われるような事は何もしていませんよ」

 そう言って屈託なく笑う彼女を見て、クリュウも思わず笑みが浮かんでしまった。

 本当にフィーリアは純粋な子だ。自分のした事がどれほど今回の出来事で大きな事だったかはわかっているはずだろう。でも、それを他の人と同じだと言い切ってしまう。報酬を目的にしていない、本当に心からクリュウの為にがんばった一人。彼女はそう自分を評価しているのだろう。だとすれば、彼女は本当にすごい子だ。

 無邪気に微笑む彼女を見て、「それでも……」とクリュウは続ける。そして、彼女に負けないくらいの笑顔で――

「――ありがとう、フィーリア」

「はうッ……」

 お礼など必要ないと言いつつも、彼の満面の笑顔でのその言葉は相当な効果を発揮したのか、フィーリアは顔を真っ赤にして「あの……」とか「その……」とか散々狼狽する。大きく深呼吸してから、小さな声で「もう、クリュウ様はずるいですぅ……」とちょっと文句を言ってみたり。まぁ、その表情は嬉しさのあまりすっかり緩んでしまってはいるが。

 しばし嬉しくてえへへと頬を緩めていたフィーリアだったが、何かを思い出したようにハッとなる。途端にそれまでの緩みきった表情を消し、厳しい物に変わった。彼女の雰囲気が変わったのを感じ取って、クリュウは戸惑う。

「ふぃ、フィーリア?」

「……感謝と言えば、もちろん感謝はしています。ですが、許容できない事が一つあります――ガノトトスの奇襲を受けた際の事です」

 真剣な表情で言う彼女の言葉に、クリュウは全てを悟った。彼女がどこか怒っているような表情を浮かべている事も、その原因となった自分の行動も。

「いやその、あの時は必死だったって言うか……」

 彼女が怒っているのはきっと、その寸前の休憩で言っていた事だろう――誰かの為に自分を犠牲にする事に躊躇いのない自分の危なさ。

 彼女が自分の事を心配してくれている事は痛いくらい感じている。でも、あの時はああする他はなかった。自分は自分の信念を貫いた、仲間を助けた。だけど、それは彼女の想いを裏切った行動だ。

「……わかってます。こうして私が生きているのは、クリュウ様のおかげだと。頭では重々承知しております。ですが、やっぱり納得できません――どうして、クリュウ様は他人の為にそこまで無茶ができるんですか?」

 いつになく真剣な表情と口調で有無も言わさぬ迫力を持ちながら問うフィーリア。これほどまでに圧力的な雰囲気を彼女が出す事はこれまで片手で数える程しかなかった。それはつまり、彼女が本気で怒っている証拠だ。

 クリュウは彼女の気持ちに気づいていない。好きな人が危険な目に遭う事が、想いを寄せる人にとってどれほど見ていて不安で、胸が苦しくなるか。

 クリュウは知らない。自分を庇う為に好きな人が命を懸ける、その事の辛さを。自分の為にそこまで必死になってくれる嬉しさと、自分の為に命の危険に晒される苦しさを――その二つの相反する感情に板挟みになる辛さを。

 射抜くような鋭い眼光。いつも緩やかな瞳を輝かせる彼女からしてみれば信じられないような光景だが、それだけに彼女の本気が見て取れる。だから、クリュウも決してウソを言う事はなく、真っ直ぐに自分の想いを答えた。

「――そりゃあ、守りたい人を守ろうと必死になるのに理由なんかないでしょ」

「守りたい人……?」

「自分にとって大切な人。失う訳にはいかない、かけがえの無い存在って事」

「それは……意味はわかりますけど……」

「大切な人を守りたい。この気持ちに理由付けなんてできないでしょ? 確かにフィーリアの言う通り、僕は自分の命を軽視する行動が多いかもしれない。生物として本能に逆らった行動だと思う。でもさ、自分の命より大切な人がいるって事は、僕はすごく幸せ者だと思うけど」

 臆する事もなく平然と言ってのける彼の言葉に、フィーリアは開いた口が閉まらないという様子だ。それに対してクリュウは当然の事を言ったという感じで笑っている。彼の場合、口先や理想論を言っているのではなく、本心からそう思っている所がすごい事だ。優しすぎる性格と評価される、実に彼らしい意見。

 そして、クリュウの言葉を頭の中でしばし反芻していたフィーリアは彼の言葉の意味――彼にとって自分は《自分の命より大切な人》だという事に気づくと、途端に顔を真っ赤に染めて慌てふためく。

「で、ですがそれでご自分の命を落とされてしまっては本末転倒……」

「――なら、そんな無茶をする僕を君が守ってよ」

「わ、私がですかッ!?」

 何の迷いもなく言い放つ彼の言葉にフィーリアは思わず目を見張る。そんな彼女の反応を見て「あ、あれ? もしかして嫌だったりする?」と苦笑いを浮かべるが、それを耳にしたフィーリアは慌てて否定する。

「そ、そんなッ! 嫌な訳ではありませんし、全力でお守りする覚悟はできておりますッ!」

「なら、大丈夫だよきっと。フィーリアが僕を守ってくれるなら、僕は死なないでしょ?」

 あっけらかんと言ってのける彼の言葉についにフィーリアは返す言葉を失った。脳天気と言えばそれまでだが、彼の言葉の裏には彼女に対する絶対的な信頼がある。信じているからこそ、こんなにも簡単に自分の背中を預けると言えるのだ。優柔不断なようで、クリュウはこういう所は妙に大胆な少年だ。

 唖然として言葉を失っていたフィーリアだったが、そのうち大きなため息を零して肩を落とした。諦めたというか、彼の大胆さに負けたというか――彼の自分に対するちょっと重過ぎるくらいの信頼が嬉しかったりだとか。とにかく、どうやら彼には何を言っても無駄らしい。

 ふと、頭に思い浮かんだのはサクラの言葉。

「……私はクリュウの無茶を止めない。その代わりに――クリュウが無茶して怪我をしないように守る。そう決めている」

 彼女は自分のように彼の無茶を止めたりしないと言っていた。それは彼女自身が彼のそういった所を尊敬し、敬い、応援しているからに他ならない。だからこそ自分の志を貫く彼を、無茶で危なっかしい所がある彼を、自分の力で全力で守ると決めている。

 同じ不安を抱いているはずなのに、自分は彼を制止しようとし、彼女は彼のやり方を全力援護すると決めている。

 同じ想いを抱いているはずのに、自分達は全く逆だ。自分はまた彼を束縛しようとしている。彼の志や可能性を、自分はまた、自分のわがままで邪魔しようとしている――彼を心配するあまり、どうやら自分は相当な臆病者になっているらしい。情けなさ過ぎて笑えてしまう。

 彼を本当に想うなら時には止める事も必要だ。だが、今はその時じゃない――こういう時、自分の親友ならきっとこう答えるだろう。

「――では私も、クリュウ様と同じく覚悟をもってクリュウ様をお守りしますッ」

 彼女ならきっともっと至極簡潔に、真っ直ぐに言うだろう。自分はこんな時も遠回しだ。だがそれでいい。自分は彼女とは違うのだから、自分らしく彼を支える。誰かの真似事なんかじゃなく、自分の意思で、自分の力で彼を守り切る。そう、心から誓った。

 フィーリアの言葉にクリュウは一瞬驚いたように目を見開く。だがそれはすぐに彼らしい困ったような苦笑いに変わった。

「それじゃ、どっちも動けなくない?」

「あ……」

 フィーリアもようやく気づいたのか驚くと恥ずかしそうに頬を赤らめて「え、えっとぉ……」と思考を巡らせる。だがそんな彼女の姿が実に愛らしくて思わず笑みが浮かんでしまう。

「――でも、僕は君を信じてるからね」

 それは魔法の言葉だ。たったそれだけで、自分の中に無限にも感じられるような希望と勇気が満ち溢れる。それが自分にとっての彼の存在――自分を勇気づけ、奮い立たせ、支えてくれる。

 だから自分は真っ直ぐ前に進む事ができるのだ。

「はいッ」

 元気良く、フィーリアは満面の笑みを浮かべながらそう答えた。

 

 翌朝、帝都エムデン郊外にあるカースラント基地にクリュウ達の姿はあった。ここは帝都防衛の為エルバーフェルド国防軍の中でも精鋭部隊が揃う基地であり、同時にアルトリアからの連絡船が停泊する飛行船専用の船着き場がある基地だ。

 カースラント基地の一角にある飛行船専用の船着き場には一隻の飛行船が停泊している。エルバーフェルド国防軍が保有する『イレーネ』を始めとする航空哨戒艦よりもはるかに大きな飛行船。全長は二〇〇メートル近く、軍艦としての威厳を見せるように艦体側面から無数の大砲が突き出ている。

 以前にクリュウ達がヴィルマで見たうちの比較的大型の飛行船と同規模のもので、アルトリアでは中規模クラスの飛行軍艦だ。その飛行船の停泊しているバースとはまた違う場所には全長一〇〇メートル程の軍艦三隻が停泊している。おそらくは護衛艦なのだろう。

 クリュウ達がいるのは大型の飛行船が停泊しているバース。飛行船の周りには複数人の兵士が護衛しており、クリュウ達の前を歩くアルフが近づくと見事な敬礼をしてみせた。その一糸乱れぬ動きにクリュウ達は思わず息を呑んだ。

 飛行船の前に立つと、アルフは振り返って後に続くクリュウ達に背後に停泊している飛行船を紹介する。

「君達にはこの軽巡洋艦『シェフィールド』に乗ってもらう。荷物はすでに搭載しているから、早々に乗艦したまえ」

 軽巡洋艦『シェフィールド』。クリュウ達は知らないがこの艦は以前ヴィルマに支援艦隊旗艦として作戦に参加しており、クリュウ達も一度目にしている。が、その際にはその周りに何十隻もいた駆逐艦ですら驚いていたので全く記憶に残っていないが。

 軽巡洋艦は駆逐艦よりも砲と装甲が強力なものが搭載されているが、同様の機動力を持つ事からアルトリアでは迅速な任務の際に用いられる。以前のヴィルマ支援や今回のエルバーフェルドへの訪問も同様に迅速さを求められた為この艦が使われたのだ。

 表面は耐火塗料を塗ったゲリョスの皮で敵の砲弾を跳ね返し、さらにその奥には鋼鉄の装甲板を施した大掛かりな防御装置を備えている。同じ飛行船でも『イレーネ』のような必要最低限の防御力が施された艦とはまるで違う、まさに空飛ぶ軍艦だ。

 クリュウ達の背後に並ぶエルバーフェルド軍の兵士面々やフリードリッヒ、カレンなどは自国の技術力では到底作れない、そして同盟国とはいえ決して譲渡される事はない強力な兵器に目を奪われていた。彼らの内心は「この艦を大量に保有できれば、ガリアや東シュレイドなど数日で焦土にできる」という考えに染まっているのだろう。

 ハンターであるクリュウ達はハンターの礼儀としてそれぞれ武装しており、エレナだけは純白のカットソーにサスペンダー付きの紺色のキュロットスカートというかわいらしい出で立ちだ。

 そのような出で立ちで佇む彼らは『シェフィールド』を見上げその大きさに呆気に取られていた。以前ヴィルマで見た時は遠くから眺めていただけでその大きさに驚いていたが、今こうして目の前にしてみて改めてその大きさには度肝を抜かれる。

「リオレウス何体分かな……これ?」

「単純な長さなら十体分くらいか? だが気嚢の大きさを考えるとそれじゃ足りんな」

「……これ、本当に空飛ぶの?」

「ヴィルマでは飛んで来てましたよね」

 飛行船自体がここ数年で急速に民間レベルで普及した新しい移動・輸送手段である為、田舎にいるとその存在すら知らない事も多い。砂漠などでは砂上船と並んでよく使われている。その飛行船だって『イレーネ』よりも小型のものが主流だ。これ程の大規模な艦が空を飛ぶ事が、彼らにはまだ信じられなかった。それでもある意味、事前に『イレーネ』に乗った事があるだけに、それほど飛ぶ事自体に不安はなかったが。

 すでに出港の準備はできているのだろう。気嚢の下にある全長一〇〇メートル程の下層艦橋のちょうど気嚢を挟んで真上にある全長五〇メートル程の上層艦橋から突き出た煙突からは動力部が活動している証として黒煙が吹き出ている。それに合わせて艦体や気嚢の各所から突き出たプロペラがゆっくりと回転している。

「さぁ、早く乗りたまえ――と、言いたい所だが。その前にしばしの別れになる者、もしかしたら二度と会えんかもしれん連中に挨拶しておけ」

 フッと笑みを零しながらアゴで挿した方へ振り返ると、そこには今回の一件で大変世話になった面々がこちらを見詰めていた。

 このエルバーフェルド政府までの道筋を作ってくれたレヴェリ家のセレスティーナ、ルーデル。

 そしてこうしてアルトリア行きのチャンスを与えてくれたエルバーフェルド政府のフリードリッヒ、ヨーウェン、エルディン、カレン。

 四人が一斉に振り返ると、まず口火を切ったのはセレスティーナだった。

「フィー、体に気をつけていってらっしゃい。戻って来たらたまには家に顔を出してね。もちろん、クー君達も大歓迎よ」

「くれぐれも失礼のないようにね。あんた達揃いも揃って常識知らずな連中ばっかりだから。あ、もちろんフィーちゃんは別だよ?」

 セレスティーナの言葉に微笑みながらうなずき、ルーデルの言葉には思わず苦笑を浮かべながらうなずいた。セレスティーナは本当に優しく思いやりに溢れている美しい麗人。ルーデルも素直じゃないだけでとても心優しく、仲間想いな子だという事を、自分達は知っている。そう思うと、彼女の実に素直じゃない見送りの言葉にも胸が熱くなる。

 二人が口火を開くと、ゆっくりとエルディンが前へ出た。しっかりとした足取りで地面を踏み締めながら彼はクリュウの前に立つと、ポンとその頭に手を乗せる。

「気をつけて行って来いクリュウ。それと、帰って来て暇があったら一度俺の所へ武者修業に来るか? 一人前のハンターに育ててやるぞ?」

「あ、それはぜひにでも――」

「……断る。クリュウには私がいる。貴様の手など借りるか」

 パンッとクリュウの頭に乗せられた手を払うと、サクラは二人の間に割って入ってエルディンを睨み上げる。女子としては平均的な身長を持つサクラでも、エルディンのような長身相手だとどうしてもその絵面は大人と子供になってしまう。だが、その隻眼に宿る光は、決して子供ではない。一人前の狩人の目だ。

「おいおい、手厳しいなぁ」

「す、すみませんッ。こ、こらサクラッ!」

「サクラは少し物言いに常識がないですが、私も同意見です。クリュウは私が――いえ、我々三人でもっと違う景色が見れる世界へと導いてみせます」

 サクラを引かせ前へ出たシルフィードは、しかし自信満々に師の手を振り払った。その瞳にはもう過去の濁りや暗さはない。真っ直ぐ前を見詰め、希望と幸せに満ちた光り輝く瞳があった。それを見てエルディンはフッと口元を緩めると、今度はシルフィードの頭を撫でた。

「言うようになったなオイ。師としちゃ嬉しい限りだぜ。お前がそう言うなら、俺は手出ししねぇよ。だがまぁ、こいつはエッジの息子だ。そのうち化物みたいな実力を開花させるかもしれねぇ。その時、お前らの手におえなくなったら、いつでも俺を頼れや」

「……クリュウは化物になんてなりませんよ。なるとすればそう――英雄です」

「いや、それはさすがに言い過ぎだよ」

「そうか? 私は君がいずれ世界を変えるかもしれないと感じているが?」

 からかうように言う彼女の口調は冗談なのか本気なのか、一見するだけでは見て取れない。だがその幸せに満ちた表情を見ているだけで、彼女のかつての姿を知っている身としては実に嬉しく感じる。自分にはできなかった事を、彼女にからかわれて困ったような笑みを浮かべる少年がやり遂げた。

 親友と想い人の息子、その可能性はきっと自分の想像を遥かに超えるだろう。

 エルディンは静かに再び彼の頭の上に手を置くと、振り返る彼にニッと微笑んだ。

「元気でなエッジの意志を受け継ぐ少年よ。そして見て来い、アメリアが生まれ育った国を――きっとそれはお前にとって、何かを変えるきっかけになるだろうから、しっかり目に焼き付けておけ」

 そう言ってエルディンはクリュウの背中を力強く押すと、踵を返して手をヒラヒラとさせながら下がった。するとまるでそれに合わせたかのように今度はカレンが前へ出た。彼が自分を見詰めている事に気づくと、カレンは頬をほんのりと赤らめた。

「元気でね。約束通り、ちゃんと手紙を書いてくれないとひどいんだからね」

「わかってるよ。ちゃんと書くから」

「よろしいッ――また、会えるわよね?」

 それまでの笑顔が一転して不安そうな表情で尋ねる彼女の問いに、クリュウは微笑みながら自信満々にうなずいた。

「もちろん。またきっと、この国に来るよ。その時にね」

「……そう」

 クリュウの返事を噛み締めるようにゆっくりとカレンはうなずくと、くるりと振り返る。そのまま数歩歩いて立ち去るのかと思いきや、少し先で再び振り返ると、そこには最初会った時には想像すらもできなかった満面の笑みを浮かべた彼女が立っていた。

「約束、忘れないでよッ。今度来た時は――絶対デートしてもらうんだからッ」

 それは彼女なりの、きっと最高の別れ文句だったのだろう。クリュウも一瞬頬を赤らめるも、その言葉にうなずき微笑んだ。周りから見れば、実に微笑ましい別れの光景だ――だが、同時にそれは問題発言でもあった訳であって……

「――クリュウ様ぁ」

 いつもは聞くだけで癒しすら感じられる事ができる彼女の声が、なぜか今だけは死刑執行を告げる警報に聞こえた。恐怖のあまりビクッと震えた後、ギシギシとサビついたドアを開けるようにギコちなく振り返ると、そこには満面の笑顔を浮かべたフィーリアが立っていた。

「クリュウ様、今のデーニッツ様とのやり取りでちょっと気になる点がございまして。詳しくご説明願ってもよろしいでしょうか?」

 それはまさに天使の笑顔。世の中、これほどまで可愛らしい笑顔はそうないだろう――だがそれも、瞳が濁っていれば恐怖以外のなにものでもない。問い掛け口調も、今の彼女では決定事項を告げているようにしか聞こえないのが不思議だ。

 クリュウが恐怖のあまり固まっていると、ゆっくりと歩み寄って来た彼女に右腕を、そしてなぜかいつの間にか忍び寄っていたサクラに左腕を確保される。そしてそのままほとんど引きづられるようにして背後へ、『シェフィールド』へ歩かされる。

「ちょ、ちょっと待ってッ! まだ別れの挨拶が途中で――」

「ほらほらクリュウ様。出発は急ぐようレキシントン様が仰っていたじゃないですか。急ぎますよぉ~」

「……クリュウ、私も話がある」

 助けを求めるようにサクラを見るが――ダメだ。この子も目が魔界に堕ちてしまっている。濁った隻眼は光を失い、不気味過ぎる。

 そのうち、今度は突如首をガッチリと腕でキープされた。呼吸すら危うくなる程キツく締め上げられ、クリュウは声にならない悲鳴を上げる。見ると、そこには烈火の如く怒り狂うエレナの姿があった。

「クリュウッ! 船に乗ったら逃げ場はないわよ――容赦しないんだからッ!」

 激怒中の激怒という具合に怒り狂う姿を見て、そして左右の濁った瞳で自分を処刑台へと連行する二人を見て、クリュウはいよいよ自分が命の危険に立たされている事を思い知らされる。

「し、シルフィッ! た、助けてぇッ!」

 唯一この場で冷静に立っているシルフィードに助けを求める。だが、ゆっくりと振り返ったシルフィードは冷静に一言。

「……クリュウ、君は少し節度が無さ過ぎだ。反省しろ」

 と、冷たく突き放された訳で――この瞬間、クリュウの死刑執行の書類に印が押された。

 少女三人に連行されクリュウは『シェフィールド』に強制乗艦。それに続いて無言でシルフィードも続き、嵐のように騒がしく現れ、嵐のように騒がしく彼らはセレスティーナやフリードリッヒ達の前から姿を消した。

 クリュウ達が姿を消すと同時に、『シェフィールド』の煙突から噴き出る黒煙がより濃く、より膨大に膨れ上がった。それに合わせるように各所のプロペラが一斉に回転力を増し、空気を震わせながら高速回転を始める。そして、船体がゆっくりと浮上を始めた。

 旗艦である『シェフィールド』が出航するのに合わせて他三隻の駆逐艦も次々に出港。あっという間に四隻の飛行船は空高くまで昇ると、ゆっくりと四隻は前進を始め、カースラント基地から遠ざかっていく。

 空の彼方へ旅立っていく飛行船団を無言で見上げるエルディン。口元には頼もしげな笑みを浮かべ、静かに親友と想い人の息子と愛弟子の旅路を祈る。

「……何を阿呆面で空を眺めてる。さっさと宮殿に戻るぞエルディン」

 その隣に不機嫌そうに眉をしかめたフリードリッヒが近づき、仁王立ちで彼を睨みつける。そんな彼女の反応を見てエルディンは苦笑を浮かべた。

「おいおい、愛弟子との別れをもう少しくらい味あわせてくれてもいいんじゃねぇか?」

「知るか。さっさと行くぞ」

 さっさとこの場を去ろうとする彼女を見て思わずため息が零れる。そんな二人の姿を見ていたヨーウェンは「もう、フーちゃんは本当にかわいいわねぇ」と微笑みながら彼女を追い掛ける。

「セレスティーナ様、私達も帰りましょう――レヴェリへ」

「そうねぇ」

 セレスティーナとルーデルも遠ざかっていく船団に別れを告げると、兵士に案内されながら退散する。

 一人残されたエルディンは遠くで馬に乗ってこちらが来るのを不機嫌そうに待つ自分達のお姫様に苦笑しながら歩み出す。途中、一度だけ振り返るといつの間にか船団は雲の向こうへと姿を消していた。

 船団が空の彼方へ消えたであろう、アルトリアのある方角の空を見上げながら、エルディンは静かに微笑んだ。

「――ったく、騒がしい連中だったぜ。達者でな、クリュウ、シルフィード」


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