その夜、クリュウ達の姿は外界と村を結ぶ洞窟の中にある、行き止まりで前方と天井が無いまるでベランダのような所にあった。現時点で仮設の天幕(テント)に暮らしている者も多いが、中にはクリュウ達のように洞窟の中に居住している者も居る。
露天となっている場所に置かれたテーブルに腰掛けながら、クリュウは一人ぼーっと夜空を見上げていた。澄んだ空はずっと遠くまで見通せる程に綺麗で、星の輝きと月の明かりが眩しいくらいに夜を照らしている。
「クリュウ様?」
そんな彼に声を掛けて来たのはフィーリアだった。洞窟の中には地下水が流れている所もあるので、水浴びでもしていたのだろうか。濡れた髪をタオルで拭いながら現れた彼女に、クリュウはゆっくりと視線を向ける。
「あ、フィーリア」
「どうされたんですか?」
「いや、何かちょっと疲れちゃって。色々な事ばっかり起きるからさ」
苦笑を浮かべるクリュウの顔は、確かに少し疲れが見える。身体的疲労ももちろんだが、精神的なものがやはり大きいだろう。
この三ヶ月は、本当に激動だった。ちょうど三ヶ月前にアルフレア地域政府から避難命令が出て、その原因究明の為にイルファへと入り、そしてそこで鋼龍クシャルダオラと遭遇し、これと交戦。クリュウが負傷した事で撤退し、改めてフィーリア、サクラ、シルフィードの三人編成による討伐隊がイージス村から出発。同時並行で村人は二度に分けて避難する事となった。だが第二陣が村で準備中にクシャルダオラが突如村を襲撃。クリュウは単独にてこれを迎撃する事となった。
その後駆け付けてくれたルフィールとシャルル、ルーデルとエリーゼとレンなどと入れ替わりながら戦闘を継続。翌日にはカレン率いるエルバーフェルド帝国の大洋艦隊とイリス率いるアルトリア王政軍国の王軍艦隊が救援に駆け付け、更にはイルファから帰って来たフィーリアとサクラとシルフィードと最後の決戦を挑み、辛くも撃退に成功した。
鋼龍撃退後も村の復興等でクリュウは特に力を注ぎ、休む暇もなく活動を続け、実質ここまでぶっ通しで来たのだ。そして今度は彼の母であるアメリア・ルナリーフが東方大陸に居るかもしれないという情報からの東方大陸行き。まさに、激動と呼ぶに相応しい過酷な三ヶ月間を過ごして来た。
「ずいぶんお疲れに見えますが、大丈夫ですか?」
心配するフィーリアの問いかけに、クリュウは「平気だよ? 疲れてるように見える?」と笑って誤魔化す。だがいくら笑みを浮かべたって、フィーリアの目は欺けない。
「はい。無理は、なさらないでくださいね」
周りに心配掛けないよう振る舞うのは実に彼らしい。ここで無理に休めせようとすれば、逆により平気を装ってしまう。彼は素直に見えて、こういう所は実に頑固だ。彼とはもう短くない付き合いのフィーリアは、そんな彼の性格を良く理解していた。
「まぁ、休める時はちゃんと休むよ」
フィーリアの言葉に、クリュウはそう答えて改めて星空を見上げる。
「ここさ、昔良く母さんと来た所なんだよね。ほら、ここって何か隠れ家っぽいじゃん?」
「そうだったんですか。確かに、子供なら目を輝かせて喜びそうな場所ですよね」
「いやまぁ、見つけて大はしゃぎだったのは母さんの方だったんだけど……」
「うふふふ、本当にクリュウ様のお母様は子供のような方だったんですね」
「うん。幼稚、とはまた違う。何て言うか、文字通り子供心を忘れてないんだよね。今思えば、子供の頃に子供っぽい経験を出来なかった反動だったのかもしれないけど」
クリュウの母、アメリア・ルナリーフは南洋の大国、アルトリア王政軍国の先々代女王の娘、第一王女だった。イリスを見ていればわかるが、王族の暮らしというのは豪勢だが何かと不便だ。あの好奇心の塊だった母を見れば、その日々は相当に退屈なものだっただろうと簡単に想像ができる。
「木に登って木の実をかじったり、ワンピース姿で川に入って魚を追い掛け回したり、僕を驚かす為に良くかくれんぼをしてさ。本当に、子供ながらに母さんの行動にはヒヤヒヤさせられたよ」
苦笑を浮かべながら母との思い出を語る彼の言葉に、フィーリアも小さく笑みを浮かべる。
「本当に楽しいお方ですね、クリュウ様のお母様は。私も、ぜひ会ってみたかったです」
「……本当に会えるといいね」
そう言ってクリュウは小さく、でもどこか寂しそうに笑った。その笑みの奥の彼の感情は複雑だ。そんな彼の心境を悟ったフィーリアの表情も、また複雑。
「正直、私は何と申し上げればいいかわかりません。希望を抱かせるような発言もできなければ、これから向かわれる前に切り捨てるような発言もできません」
ゆっくりとクリュウの対面の隣に腰掛けたフィーリア。彼女の髪から漂う石鹸の匂いにクリュウが思わず顔を赤らめたが、複雑な表情を浮かべる彼女を見て彼もまた表情が硬くなる。
「でも、もしも本当に生きておられるなら会ってみたいです。クリュウ様のお母様、きっと素敵な方だったと思います」
「……まぁ、息子の目から見ても美人だったと思うけど」
「それに、私はアメリア様にお礼を言いたい」
「お礼って何を?」
「秘密です」
フィーリアがアメリアにお礼を言う理由がわからず首を傾げるクリュウ。そんな彼を見ながらフィーリアは楽しげに微笑んだ。胸の上にそっと手を添えて、己が胸の奥の想いに触れる。
――クリュウ様を、私が大好きになった人を産んでくれて、ありがとうございます。
それに、もしも生きていたら自分のもう一人のお母さんになるかもしれない相手だ。そう考えるとついつい口元が緩んでしまう。
なぜかニヤニヤしているフィーリアを見て「どうしたの?」とクリュウが声を掛けると、フィーリアは慌てた様子で「何でもありませんッ」と自らのニヤケ顔を正す。
「もちろんその場合におけるクリュウ様の感情は私とは比べ物にならないでしょうが」
「情報源がキー姉ぇじゃなければ、絶対にないって言い切れるんだけどね」
「そんなに、キティ様の情報は信憑性があられるのですか?」
「信憑性ってのとはまた違うけど、今まで外れた事がないんだよね。それ以前に、姉の願いはなるべく聞いてあげたいじゃん?」
「うふふふ、クリュウ様は本当にお姉様想いなのですね」
「エレナにはシスコンだって良くからかわれてたけどね」
「……羨ましいですね、キティ様は。クリュウ様にそんなに想われて」
本当に羨ましそうに言うフィーリアを見て首を傾げると「でもさ……」と言葉を続ける。
「僕自身も気持ちの上では生きててほしいと思ってる。そりゃ、そう思うだろうさ。でも、頭ではそんな訳ないって思ってるんだ。こんな中途半端な気持ちのまま、見知らぬ東方大陸へ行く。それも、みんなを巻き込んで。これが正しいかどうか、正直わからないよ」
自らの身勝手でみんなを巻き込んだ。それも、その覚悟もまだ揺れている。自分の中に正義を見つけられず、彼は迷っているのだ。そんな悩む彼を見て、フィーリアは「別に正しいとか正しくないとか、そんなの気にしなくても良いのではないですか?」と首を傾げる。
「自分がやりたい事なら、迷わず実行すべきだと思います。良く言うじゃないですか、やらないで後悔するよりもやってから後悔する方が良いと。必ずしも今回の遠征が後悔するような形になるとは限りませんし。それにクリュウ様の場合は協力してくださる方が大勢居るんですから、安心して多少の無茶はすべきだと思います」
「……フィーリアって慎重に見えて結構大胆だよね」
「そうですか? 悩むくらいなら前に進むべきだと思っているだけです」
「それがすごいんだよ。僕はほら、優柔不断だからいつも迷って立ち止まっちゃう」
「もちろん、迷う事は必要です。進むにしても退くにしても、一度は立ち止まり、迷う事は大切です。サクラ様のように迷う事なく前に向かって全力突撃するくらいなら、ある程度の優柔不断は必要かと」
「サクラの場合は、本当に猪突猛進だからね」
我が道を突っ走るサクラの生き様に、二人は思わず笑みを浮かべる。基本的には彼女の生き様は無茶苦茶で、いつも振り回されている二人。だが時々皆が迷い立ち止まる中でも迷わず自らの信じた道を突っ走り続ける様は羨ましく感じる事もある。
「それに、私自身は少しだけ今回の遠征が楽しみなんです」
「楽しみ?」
「東方大陸って、実はハンターの間ではちょっとした人気なんですよ?」
人差し指をビシッと立てて楽しそうに微笑みながら語る彼女の言葉に「そうなの?」と何も知らないクリュウは首を傾げる。そんな彼の反応を待ってましたとばかりにフィーリアは大きく頷いた。
「この大陸には居ない、全く違ったモンスターの数々。こちらに居るモンスターも生態が異なる事が多く、武器もこちらでは使われていないものがあると聞きます。東方大陸とは、ハンターにとっては新天地のような場所なんです」
「あぁ、そういえば前にイリスもそんな事言ってたな」
以前、アルトリアの繁華街をイリスと回っていた際に彼女の口から出た聞いた事もないモンスターの話があった。東方大陸とは、クリュウ全く知らない未知の世界なのだ。
「この中央大陸も不思議はいっぱいです。でも、冒険者としては見知らぬ土地というのにはどうしてもドキドキしてしまいます。もちろん、クリュウ様のお母様の捜索には全力を注ぎますが、東方大陸での狩りというのもすごく興味がある訳です」
そう語る彼女は、いつになく興奮気味だ。こんなにも楽しそうに狩りを語る彼女を見るのは、久しぶりな気がする。それこそリオレイアの話をしている時のようだ。
「あ、すみません……」
自分が興奮してしまった事に気づいたのだろう。慌てて口を閉じるフィーリアに対し、クリュウは小さく首を横に振る。
「そうだよね。母さんの事ばっかりで頭がいっぱいだったけど、東方大陸はこことは全く違う場所なんだよね。モンスターも狩りも全然違う。思ってもみなかったけど、確かに面白そうだよね」
空を見上げながら、クリュウは少し考える。
母を探すにしても、まずは向こうで生活の基盤を確保し無くてはならない。寝泊まりする場所を確保し、且つ生活できるだけの稼ぎがないといけない。自分達にできる仕事と言えば、もちろんハンター業だ。
だとすれば、全く生態系が異なる新大陸での狩りは、こちらの狩りとはまるで違うだろう。不安もあるが、彼女の言う通り楽しみもある。向こうにはどんなモンスターが居て、どんな素材があって、どんな武具があるのか。想像するだけで、何だか胸の奥が熱くなる。
「確かに、不安材料は多いです。別の大陸へ行くというのは、これまでの旅とは比べ物にならない程に大変です」
フィーリアの言う通り。これまでだってクリュウ達は狩場の行き来で様々な国を訪れた事はある。確かに国境を越えたりすると、世界観が変わったり文化の違い等で驚かされる事は多々あった。だがアルトリアを除いて言えば、結局は同じ中央大陸の中での話だ。
しかし、今度目指すのは新天地東方大陸。モンスターが違えば狩りも異なる。それだけではない。これまで以上に文化の違いや価値観の違いがあるだろう。更に言えば、ドンドルマに総本山を置くハンターズギルド本部。正確に言えば《ハンターズギルド中央総本部》。東方大陸にはこれの隷下にある《ハンターズギルド東方本部》があり、東方大陸で狩りを行えばその下に入る事になる。これまでと同じようなサービスが受けられるとは限らないし、同じハンターズギルドでも全く違う組織かもしれない。
同じ大陸内の国の情報なら比較的簡単に手に入るが、別の大陸となれば情報も限られる。一体どんな土地なのか、断片的な情報しかない今では、不安要素の方が多いのは事実だ。
「ですが、私は正直不安はありません」
「え? だ、だって別の大陸だよ? エルバーフェルドの常識とか、通じないかもしれないのに」
「確かに今までの私達の常識が通じない世界かもしれません。ですが――」
そこで一度言葉を切って、フィーリアはクリュウの顔を見詰める。自らの顔に何かついているのかと頬等を確認する彼の姿を見て、フィーリアは嬉しそうに微笑む。
「だって――クリュウ様と一緒ですから」
「フィーリア……」
「クリュウ様と一緒なら、私は怖くないですし、寂しくもありません。クリュウ様と一緒なら、私は大丈夫です」
そう言って、フィーリアは小さく拳を握り締める。呆然と彼女の姿をクリュウが見ていると、フィーリアは照れ笑いを浮かべる。
「えへへへ、ちょっと調子に乗っちゃってますかね? でも、クリュウ様と一緒なら私はどんな場所でも大丈夫です。きっとそれは、サクラ様やシルフィード様も一緒です」
「みんなも?」
「はい。だって――私達みんな、クリュウ様の事が大好きですから」
真剣に、しかし嬉しそうに、頬をほんのりと赤らめながら照れ笑いを浮かべるフィーリアの姿に、クリュウもまた小さく笑みを浮かべた。
彼女の笑顔は、いつだって自分の心を明るくしてくれる。何かに悩んだ時や、不安でどうしようもなくなった時、いつも彼女は自分の事を心配してくれて、励まし、そしてこうして笑ってくれた。
どんなに辛い時も、どんなに大変な時も、いつも彼女はこうして笑ってくれる。その笑顔に、これまで何度助けられて来た事か。
「何だか、恥ずかしいよ……」
照れ笑いを浮かべるクリュウに対し、フィーリアもまだ赤い頬を押さえながら「えへへへ、たまにはクリュウ様の照れ顔を見てもいいじゃないですか」とイタズラっぽく笑う。
「フィーリアの方が顔、真っ赤だと思うよ?」
「えぇッ!? そ、それはそうかもしれませんが、クリュウ様だってお顔が真っ赤ですッ!」
二人共、お互いに顔を真っ赤にし合いながら笑い合った。
夜空の下、二人の笑い声が静かに、そして楽しげに響き渡る。
「ありがとう、フィーリア」
ひとしきり笑った後で、クリュウはおもむろにそう言って彼女の方を見る。フィーリアは「いえ、別に私は何もしてませんよ」と小さく笑って彼の言葉に返す。
「いつもいつも、フィーリアに助けてもらってばっかりだよね」
「何を言ってるんですか。私の方こそ、いつもクリュウ様に支えられてばっかりです」
「じゃあ、僕達はお互いに支え合ってるって事だよね」
「うふふふ、そうかもしれませんね。何だかちょっぴり恥ずかしいです」
照れたようにはにかむ彼女の笑顔を見て、クリュウは小さく笑って、そっと天を仰ぐ。空にはきれいな満月が浮かんでおり、夜空には美しい星々がキラキラと輝いていた。
「初めて君と会った時の事、覚えてる?」
「……お、覚えてますけど。あまりその話はしないでくださいッ。は、恥ずかしいでうぅ」
「そっかな? あんなにかっこ良く僕を助けてくれたのに」
「そ、その後お腹が減って倒れてしまったんですよ? 台無しもいい所じゃないですか」
「あははは、そうだったね。でもさ、まさかあの時からこんなに長い付き合いになるとは、正直思ってなかったよ」
「私だって、こんな気持ちになるなんて思ってませんでしたし……」
初めて会った時、確かに話しやすい人だとは思った。男の人が苦手だった自分からすれば、彼は優しくてとても接しやすかった。最初の頃、自分が彼に向けていた印象はその程度だった。
まさかそれがいつの間にか惹かれ、そして好きになってしまうなんて。当時の自分が知れば驚くに違いない。
今思えば、あの頃の自分は他人のようだ。あの頃の自分はクリュウの事を年上でもちょっと弟のようにも感じていた。だって、危なっかしくて頼りなくて、見ているこっちが不安になってしまうようだったからだ。それが今では好き過ぎて、こうして顔を合わせているだけで自然と頬が赤らみ、胸が高鳴り、幸せな気持ちでいっぱいになってしまう。
「フィーリアは、いつまでハンターとしてやってくつもりなの?」
クリュウからの突然の問いかけに、フィーリアは目をパチクリとさせる。そんな事、そういえば考えた事もなかった。何せ、自分は今の生活、そしてこの狩人としての道を楽しんでいる最中だ。
だが、ハンターという体を張った仕事が寿命が短い事も知っていた。多くは四〇代の手前には引退してしまい、早ければ三〇代始めで体力の衰えから引退していく世界。自分はまだ十代だが、決して遠い未来の話ではない。
「あまり深く考えた事はありませんが……できれば結婚を機に、みたいな感じがいいですね」
自分の将来の話をするのは何だか照れくさい。思わずそう曖昧な返しでこの話を終えてしまおうとした。だが、
「結婚かぁ……フィーリアはきっといいお嫁さんになるよ。料理はおいしいし、家事もできて、何かと色々気にかけてくれて」
クリュウの言葉に、フィーリアはまたしても顔を真っ赤にさせてしまう。彼からそんな風に褒められると、どうしても胸が高鳴る。嬉しくて嬉しくて、頬が緩んでしまう。
「も、もうッ。からかわないでくださいよぉ……」
「からかってなんかないよ。本気でそう思ってるんだから」
そう言って、クリュウは否定する為にパタパタと動かしていたフィーリアの手を掴んだ。突然手を握られて驚くフィーリアに、クリュウは顔を近づける。
今までにないくらいに近い彼の顔。それに、何だかいつもと違う彼の表情。真剣に何かを訴えようとする彼の表情は、凛々しくもあり、そして恐ろしくもあった。
「あ、あのクリュウ様? 何だか、顔が怖いです……」
「フィーリアは、誰か好きな人って居るの?」
「えぇッ!?」
突然の思いもよらない質問に、フィーリアは驚き、慌てる。だってその好きな人は、今目の前に居るのだから。
「わ、私はそのぉ……」
「僕も、いつか結婚するんだと思う。それは、何年先になるかわからないけどさ、やっぱり守るべき奥さんと子供が居るってのは、男の夢だと思うし。僕も、そういう生活がしてみたいと思う」
「そ、そうですか」
いつになく真剣な表情で語る彼の口調に、フィーリアは少し違和感を感じていた。何か、いつもの彼のそれとは違う、どこか鬼気迫るものを感じる。
「僕は、できるならフィーリアみたいなお嫁さんが欲しいなぁ、なんて」
「ふぇッ!? わ、私みたいな、ですか?」
クリュウの言葉に、フィーリアは顔を真っ赤にしながら慌てる。どうすればいいか狼狽する彼女の手を握りながら、クリュウが更に少し距離を詰める。
「あのさ、もし良ければ、なんだけど。もしも、フィーリアが良いって言うならさ」
「え? えぇッ? えぇえぇッ!?」
目の前に彼の真剣な顔がある。しかも、何だか恋愛小説の中のような展開。恋する乙女の想像力はフルスロットルだ。もしかして、本当に小説の中のような展開になるのか。だとすれば、自分は……
息が掛かる程の距離。すぐ近くに聞こえる彼の声と息。鼻をくすぐる彼の香り。信じられない距離にフィーリアの目はもうグルグルと回りまくる。
「あ、あの、クリュウ様、もしかして……」
ずっと夢に見ていた展開。フィーリアも覚悟を決めて、彼からの言葉を待つ。お互いに頬を赤らめ合いながら、真剣に見詰め合う。クリュウも覚悟を決めたように一度うなずき、ゆっくりと口を開く。
「あのさ、フィーリア。どうか僕と――いひゃぁッ!?」
それまでの凛々しい顔が一転して、突如奇声を上げて飛び跳ねるクリュウ。突然の事に呆然とするフィーリアだったが、彼の背後に忍び寄る影に気づいた。
「さ、サクラ様ッ!?」
「……クリュウ、浮気はダメ」
いつの間にか、クリュウの背中に抱きついているサクラ。先程までフィーリアと一緒に水浴びをしていたせいか、少しまだ濡れている髪を靡かせながら、サクラはクリュウに抱きついたまま彼の耳にフゥと息を吹きかける。先程の彼の奇声はこれだったらしい。
「い、いつの間にッ!?」
クリュウも驚きを隠せない様子。だって、全く気配を感じなかったからだ。まぁ、彼女なら気配もなく忍び寄る事はできるとは頭ではわかってはいるのだが。
「……クリュウ。そんなに結婚したいなら、私と結婚して。私、がんばって子供たくさん作る。大丈夫。私、夜に強いタイプだから」
なぜかビシッと凛々しい真顔で宣言するサクラ。ものすごい下ネタなのに、彼女が言うとすごくかっこ良く聞こえる。だがまぁ、結局は下ネタなのだが。
「いや、別に僕は……」
逃げようとするクリュウに抱きついたまま、サクラはクリュウの耳をそっと舐める。
「いひゃぁッ!?」
「……クリュウは昔から耳と首が弱い。私、何でも知ってる」
そう言って、サクラは妖艶にクリュウの首筋を舐める。彼女の言う通り、クリュウは滅法この攻撃に弱く、一瞬で脱力してその場に倒れ込んでしまった。這って逃げようとする彼の背中を押さえたまま、サクラはなおも執拗に彼の耳や首を攻める。
「さ、サクラマジで勘弁ッ。ほんとにタンマッ!」
顔を真っ赤にしながら実質のギブアップ宣言をするクリュウだが、サクラはどうやらこの状況が気に入ったらしく、攻撃の手を緩めない。このままでは本気でクリュウの男としての尊厳が木っ端微塵に砕け散りかねなかったが、ここでようやくフィーリアが助けに入った。
「さ、サクラ様ッ! ふ、不潔ですッ! そのようなはしたない行いはやめてくださいッ!」
顔を真っ赤にしながらサクラの横暴に攻撃するフィーリアに対し、何気にクリュウの服を脱がそうとしていたサクラは真顔で彼女を見詰める。
「……クリュウは汚くないわ。あなた、失礼よ」
「えぇッ!? わ、私だってクリュウ様の事を汚いなんて思ってませんよッ!? クリュウ様、信じてくださいッ!」
「……フィーリア。早速サクラの話術に踊らされてるよ?」
サクラの下敷きになりながら、クリュウのツッコミが見事に炸裂した。
サクラの襲撃から逃げるようにクリュウが去り、その場にはフィーリアとサクラだけが残された。サクラは持っていた水の入ったコップを自らの前に、そして対面に座るフィーリアの前に置く。
「あ、ありがとうございます」
小さくお礼を言って、フィーリアは水を少し飲む。熱くなっていた体が、少しずつ冷えていくのがわかる。
少しずつ冷やすようにゆっくりと飲むフィーリア。そんな彼女を見詰めながら、サクラが小さく口を開く。
「……クリュウは、きっとあんたの事が好きよ」
「ぶはぁッ!?」
サクラの言葉が耳に入った瞬間、思いっきりむせてしまったフィーリア。激しく咳き込む彼女を、サクラは冷たく見詰める。しばらくして、ようやく咳が収まるとフィーリアは涙目になりながらサクラに向き合う。
「く、クリュウ様が、私の事が好きッ!? な、何言ってるんですかッ!」
顔を真っ赤にして叫ぶフィーリアに対し、サクラは小さくため息を吐く。
「……わかるわよ。私、クリュウの事は全部わかる。だから、わかるの。クリュウは、たぶんあなたの事が好きなのよ」
「いや、さすがにそんなはずは……」
「……さっきの彼、きっとあなたに告白しようとしてた」
サクラの発言を笑い飛ばそうとしたフィーリアだったが、その言葉に開きかけた口を閉じてしまう。
先程の彼は、確かに様子がおかしかった。あんな彼の行動、今まで見た事がない。それに、あの言葉の数々。自分だって、一度はそう思い掛けた程だ。今考えれば何かの間違いだったと少し残念に思っていたのだが。
「わ、私はクリュウ様の事が好きです。でも、クリュウ様が私の事を好きだなんて、そんなはず……」
「……私を誰だと思ってるの? 私は、クリュウの全てを理解できる。だから、わかるのよ。彼の態度や口調、振る舞いから漏れるあなたへの特別な想い。私やシルフィード、エレナ達と接する時と、彼はあなたに接する時とでは微妙に違う。その微妙が、あなたに好意を抱いている証拠よ」
淡々と語る彼女の言葉を理解する程に、フィーリアの顔はより真っ赤に染まっていく。
「そ、そんなはず、ないじゃないですか」
声の震えが止まらない。息は荒く、やっと収まった体の火照りが再び急上昇していく。一種のパニック状態になっている彼女を前に、サクラは淡々と言葉を続ける。
「……さっきのを見て、まだ否定する気?」
「でも……」
「……ふざけないで。クリュウの想いを、踏みにじる気なの?」
これまでの冷静さとは打って変わって、感情的な声で問いかけるサクラ。見れば、彼女の隻眼はいつになく真剣で、そして悲愴に満ちていた。今にも泣き出しそうなのを、必死に堪えているような、そんな瞳。
親友の瞳の奥の想いを知り、ようやく認めざるを得ないと覚悟したフィーリア。小さく、首を縦に振る。
「クリュウ様が、私の事を好きだなんて……」
「……クリュウは、昔からあなたみたいなタイプが好きだった。童話の中のお姫様に、何度も憧れてたわ」
「お、お姫様だなんて……私はそんなに高貴な身分じゃないです」
「……あなたが言うと、何だか無性に腹が立つわ」
ジト目で見詰めてくるサクラの視線に、フィーリアは苦笑を浮かべる。
フィーリアは確かにお姫様ではないが、大国エルバーフェルド帝国の由緒正しき一等貴族であるレヴェリ家のお嬢様だ。十分高貴な身分ではある。
「でも、私は爵位継承権は第3位です。それに、家はセレス姉様が継ぐ事になってます。出身は確かにそうですが、今は事実上の平民です」
「……別にクリュウは貴族であるあなたを好きな訳じゃない。貴族のお嬢様として、健気で、おしとやかで、可憐で、守ってあげたいような女の子が好きなのよ――何を言わせるのよ」
「自分で言い始めたんですよッ!? 恥ずかしいのはむしろこっちですッ!」
サクラの口から自分を褒め称える言葉の数々が出た事に、フィーリアは嬉しくもあり恥ずかしくもあり、顔を更に真っ赤にさせる。もはや熟したシモフリトマト状態だ。
「……私は、正直クリュウのタイプとは違う。だから、子供の頃はクリュウの好きなそんな風な女の子を目指した。でも、途中でやめたわ」
「どうして、ですか?」
「――だって、そんなの私じゃないもの」
キッパリとそう言い切って、サクラは小さく拳を握り締める。月明かりに照らされる彼女はどこか神秘的で、でもその決意に満ちた力強い表情は凛々しくもあった。
「……私は、クリュウに私を好きになってほしい。偽りの自分じゃない、本当の私を。だから、私は決めたの。私は決して自分にウソをつかない。私自身を好きになってほしいから」
真剣に、静かに自分の想い、決意を語るサクラ。フィーリアはそんな彼女の凛々しい姿に思わず見惚れてしまった。同じ女性の目から見ても、自分に正直に生きる覚悟を決めている彼女は、凛々しく、そして美しく見えた。
「……でも、クリュウは私じゃなくて、あなたを選んだ」
「サクラ様……」
悲しげにつぶやく彼女の言葉に、フィーリアは掛ける言葉を見つけられなかった。自分は彼女の親友のはずなのに。でも今は、自分の言葉は全て彼女を苦しめてしまう。そんな気がして、喉の奥がつかえて、言葉が出ない。
「……でも、悔しいけど――少しだけ嬉しいの」
「え……?」
彼女の顔を見ていられなくて、思わず伏せていた顔を上げると、サクラはこちらをジッと見詰めていた。いつもと変わらず、何を考えているか窺い知る事のできない無表情で、こちらを見詰めている。その表情が――小さな笑みに変わる。
「……だって、フィーリアは私の唯一無二の親友なんでしょ? 親友の幸せは、私にとっても幸せだから」
そう言って、ぎこちなく小さく微笑む彼女の瞳は本当に嬉しそうだ。幸せに満ちた、優しげな瞳。そんな彼女の煌めく隻眼を目の前にして、フィーリアの胸の奥に熱いものが込み上げて来る。
自分とサクラは親友だ。それは、お互いが認め合った関係だ。だが、こうして彼女の方から言われる事は滅多にないし、こうして笑いかけてくれる事などきっとこれまで数える程しかなかった。
自分の為にサクラが喜び、そして祝福してくれる。まるでもう一人の親友であるルーデルから祝福されている時のような、そんな喜びが胸の奥いっぱいに広がった。
「サクラ様……私、サクラ様の為にも――」
「――でも、クリュウは渡さないわ」
「え……」
先程までの優しげな微笑みはどこへやら。炎王龍テオ・テスカトルすら尻尾を巻いて逃げ出しかねないような邪悪にして高圧的で、大胆不敵且つ挑戦的な笑みを浮かべ、サクラは静かに、そして高らかに、親友――否、恋敵(ライバル)へ宣戦布告する。
「……例えクリュウが貴様の事が好きだとしても関係ない。私は偽善と幻想で塗り固められた純愛に興味はない。真の愛とは、何が何でも勝ち取るもの。私は血生臭くて狂気に満ちた略奪愛でも構わない。むしろ、私に仇なす全ての敵を蹴散らし、クリュウの寵愛を受ける。私は誰にも負けないわ――私は貴様から、クリュウを奪い取る。覚悟しておきなさい、親友」
そう言って、大胆不敵に挑発的な笑みを浮かべてみせるサクラ。その隻眼は愛に激しく燃え上がり、彼女の恋心はグラビモスの火炎袋よりも熱くなっている。
親友の略奪愛宣言に対し、フィーリアだって負けてはいない。
「わ、私だってただ手をこまねいてたりなんかしませんッ。絶対に、クリュウ様のお嫁さんになってみせますッ!」
「……愚かな。クリュウは私の婿になるのよ。あなたは私とクリュウの愛の営みを家政婦として見守ってるがいいわ」
「恋敵に好きな人を奪われた挙句、奴隷のようにコキ使われるんですかッ!? どんだけ残虐な人生なんですかそれはッ!?」
一人の少年を巡って、争い合う二人の美少女。だがそのどちらにも、絶望の闇はない。
親友同士なのに、好きな人は同じ。普通に考えれば、二人が幸せになるハッピーエンドなど存在はしない。片方のハッピーエンドは、もう片方にとってはバットエンド。二人の想いは、決して同時には報われはしない。
互いに、一人の男を奪い合う。壮絶で辛い戦いになる事はわかっている。だが、どちらも決して悲観してはいない。それどころか、相手を憎む事もしなければ、むしろこの状況を楽しんでいるようにも見える。
確かに、二人の幸せは決して同時には報われはしないだろう。だが今だけは、同じ人を好きになった者同士。彼の言動にドキドキしながら、親友と楽しく笑える、そんな時が刻まれている。まだ二人は、その微妙でくすぐったくたい関係でいたい。そう感じ取っていた。
いつの間にか楽しげに笑い合うフィーリアとサクラ。二人の恋は、まだまだこれからだ……
「……本当に、君は幸せ者だな。クリュウ・ルナリーフ」
楽しげに語らう二人からは死角になっている洞窟内の岩陰に腰掛けて二人の会話をこっそり聞いていたシルフィード。フッと口元に笑みを浮かべながら、隣で同じく黙って二人の会話を聞いていたクリュウの頭を撫でる。
「僕は幸せ者なんかじゃない。僕は、最低人間だよ」
瞳に薄っすらと涙を浮かべながら、小さく、弱々しくつぶやくクリュウ。その表情は悲痛に歪み、今にも大粒の涙を流しながら泣きだしてしまいそうな程に弱々しい。そんな彼の頭を撫でながら、シルフィードは優しく声を掛ける。
「何が最低だ。そんな事を言えば、あの二人が怒るぞ?」
「僕が、中途半端に居続けるから。だから、二人は争う。僕が、優柔不断だから」
「……君は、今の自分達の関係を崩したくなかった。そうだろう? 誰かを選べば、この奇跡とも言える繊細な均衡で維持されている関係は一瞬で崩れ去る。それ程に、私達の関係は脆い。だから君は選ばなかった――否、気づいていないフリをしていたのだろう?」
シルフィードの問いかけに、クリュウは無言で頷いた。そんな彼の返答を見て、シルフィードは小さく項垂れる。
「まったく、君はとんだ役者だな」
「ごめん……。本当は気づいてたよ。フィーリアとサクラの気持ち。エレナやイリスにアリアにカレン、ルフィールとシャルル――そして、君の気持ちも」
「……全ての娘達の想いを知った上で、君は気づかないフリをしていた。それは偏に、私達との関係を壊したくなかった。もはや家族も同然の、私達の関係。それを想って、君は決断しなかった。決断どころか、気づいていない事にした。そうだろう?」
小さくため息をするシルフィード。自らの問いかけに対する彼の返事は確認する事はなかった。もう、答えはわかっている。だから、別に彼の方を見る必要はない。淋しげに冷たい地面に置かれた彼の手の甲に、自らの手のひらをそっと添えるだけ。
「君は、本当は誰が好きなんだ?」
「……まだ、正直ちょっとわからない。でも、きっと僕は――フィーリアが好きなんだと思う」
「そっか……つまり、私はフラれてしまった訳だ」
「ごめん……」
「謝る必要はないさ。恋なんてそんなものさ。結ばれるかフラれるか、二つに一つ。君が私をフッた所で、私は君に感謝すれど恨む事はしないさ――少し、傷つきはするがな」
「ごめん……」
小さく、そして申し訳なさそうに謝るクリュウ。そんな彼を、シルフィードはそっと抱き寄せる。自らの胸に弱々しく震える彼の体を優しく抱き留めながら、シルフィードは静かに続ける。
「むしろ、私の方こそすまなかった。君は一人、ずっと苦しんでいたのだな。自らの想いを隠して、一生懸命に今の関係を守ろうとした。それに、私は気づけなかった。リーダー失格だな」
「そんな、シルフィは何も悪くないよ」
「……まったく、君はフッた相手にも優し過ぎる。今は、君の優しさが少し残酷だぞ」
「……あ、ごめん」
再び申し訳なさそうに謝る彼に対し、シルフィードは小さく首を横に振り、そっと彼の頭を自らのその大きな胸に抱き寄せる。慌てる彼の耳元で、シルフィードはイタズラっぽく、そして妖艶に「君はエッチだな」とささやいた。
「好きな女が居るのに、ちょっと別の女にこうされただけで顔は真っ赤。本当に、君はエッチで、可愛らしい男の子だ」
「か、からかわないでよッ」
「ふふふ、すまんな。どうやら私はやはり、君の事がどうしようもなく好きらしい」
「シルフィ……」
何て声を掛ければいいかわからず、呆然とするクリュウ。そんな彼を優しく抱き締めながら、シルフィードはそっと彼の耳元に口を寄せる。
「――決めた」
「え? 決めたって、何を――ひゃッ!?」
クリュウが小さな悲鳴を上げたのも無理はない。彼の耳元で一言そうつぶやいたシルフィードは、そのまま彼の頬に優しくキスをしたのだから。
彼女の柔らかな唇を受けた頬を押さえながら、顔を真っ赤にしたまま狼狽するクリュウ。そんな彼を再び、そして強くシルフィードは抱き締める。そして、宣言する。
「サクラは君を諦める気はないらしい。ならば、私も君を諦める必要はないな」
「シルフィ……」
「お姉さんをナメるなよクリュウ・ルナリーフ。君が本当にフィーリアと結婚するまで、私は君を諦めないからな。必ず、君の隣に立ってみせるぞ」
そう力強く宣言したシルフィードは、そのまま満面の笑みを浮かべながら彼に覆いかぶさる。慌てふためき声を出しかけた彼の唇に自らの唇を押し当てたのは、そのすぐ後の事だった……