日がすっかり傾き、蒼穹の空をオレンジ色に染め上げる夕暮れ時。リフェル森丘の木々も空と同じ淡い赤みで身を包み、どこか幻想的な光景が広がる。
そんな夕焼けに染まって燃えるような色合いをする崖の下に広がる森の中に、フィーリアは倒れていた。
「……うぅ」
そんな小さな声が柔らかそうな唇の間から漏れた刹那、閉じられていた彼女の翡翠色の瞳がゆっくりと開いた。
ぼやけた暖かな光に包まれた光景や自分が横になっているという感覚などが徐々に彼女の意識を覚醒させる。
まるで寝起きのように頭がぼーっとしながらも、フィーリアはゆっくりと体を起こす。が、その途端に全身に鈍い痛みが走り、顔をしかめて浮いた体は再び地面に倒れた。皮肉にも、それが彼女を完全に覚醒させる事となる。
「……ここは、一体」
フィーリアは全身の痛みに堪えながらゆっくりと上半身だけ起こすと、辺りを確認する。
そこは森の中であった。空を染め上げる柔らかな赤色が今が夕方だと表していた。そして、全身に走る鈍い痛みを感じながら、起き上がったばかりの彼女は状況を整理する。
「確か私はリオレウスと戦っていて……」
そこまで思い出した途端、彼女はハッとなっていきなり立ち上がった。全身の痛みに一瞬顔をしかめるが、今はそれどころではないと心の警鐘がうるさいくらいに鳴り響く。
「クリュウ様ッ!? サクラ様ッ!? シルフィード様ッ!?」
仲間の名前を呼ぶが、誰一人返事はなかった。
周りには、誰一人いない。どうやら逸(はぐ)れてしまったらしい。フィーリアの不安はその現実にどんどんと大きく膨れ上がる。
常の彼女なら仲間と別れたくらいで動揺する事はない――だが、今は非常事態だ。リオレウスの毒爪を受けたクリュウの血まみれの姿を思い出し、一気に顔から血の気が引く。
「……早く発見しないと……手遅れになる……ッ」
クリュウを失うかもしれない。そんなとてつもない恐怖が痛む体を無理やり動かして前に進もうとする。全身を包む鈍い痛みの中、フィーリアはふと空を見上げる。さっきまで蒼い空が広がっていたのに、今はすっかり夕焼けに染まっている。どうやらかなりの間気を失っていたらしい。
見上げる視線の先、見えたのは夕焼けによって茜色(あかねいろ)に染まった崖。単純に見ても一〇〇メートル近くはある。どうやらあそこから落ちたらしい。よく無事でいられたと驚いてしまうような高さだ。
幸いどうやら枝に引っかかって落下速度が緩み、さらに秋だからこその枯葉がクッションになってくれたらしく大した怪我もなく助かったらしい。風に当たって頬がヒリヒリするのは、きっと枝か何かで切ったのだろう。
痛む体を引きずって歩くフィーリア。次第に慣れてきたのかだんだんと足取りが軽くなる。
歩き始めて三〇分、あまり崖下付近から離れないようにしてたぶん同じような場所に転落したであろうクリュウ達を捜したが、発見する事はできなかった。
足取りはだんだんと重くなる。
――もしかして、もうこのまま誰とも会えないのではないだろうか。
そんな不安が心を過(よ)ぎった刹那、木の陰に何かが見えた。モンスターなのか。壊れていなかったハートヴァルキリー改を構えながら、ゆっくりと迫る。人差し指はいつでも引き金が引けるような構えだ。
そして、そのまま木の陰に隠れながらその《何か》を確認する――すると、そこには少女が一人倒れていた。
どこか異国風な鎧を身に纏った、黒く艶やかな長い髪をした少女――そこまで確認し、フィーリアは慌てて彼女に駆け寄る。
「サクラ様ッ!」
それは逸れた仲間の一人――サクラであった。
急いで抱き起こすとサクラで間違いなかった。
いつもクリュウを巡って何度も対立してきた恋のライバル。いつもムカつくくらい冷静で多少の事ではビクともしない人形のように美しい少女。だが今の彼女は本当の人形のようにピクリとも動かない。閉じられた隻眼は、見下したような視線を向ける事はない。
「サクラ様ッ! しっかりしてくださいッ!」
フィーリアは肩を揺すって必死に起こそうとする。
確かに彼女は恋のライバルで、いつもいつもクリュウを独占し、自分とクリュウの仲を邪魔してくる恋敵だ――でも、恋のライバルであると同時に、彼女は仲間だ。クリュウという絆が結んだ、掛け替えのない仲間。その彼女が、死んだようにぐったりとしているなんて、悪夢以外のなにものでもない。
「サクラ様ッ! 目を開けてくださいッ!」
必死に彼女の名前を呼び続ける事数十秒、サクラが小さなうめき声を上げた。その瞬間、パァッと希望に満ち溢れるフィーリア。
「サクラ様ッ! しっかりしてくださいッ!」
その声に、薄っすらとサクラの隻眼が開かれた。ぼんやりとしながらも意識を取り戻した彼女を見てフィーリアは安堵の息を漏らす。
「……ふぃ、フィーリア?」
「サクラ様、ご無事で何よりです」
「……ここは?」
「わかりません。私達どうやらリオレウスのブレスを受けて崖下に転落したようなのですが……」
フィーリアに支えられながら、サクラはゆっくりと起き上がった。フィーリアと同じく彼女も転落によって全身に打撲や擦り傷があるせいか、少々辛そうな表情を浮かべている。
「大丈夫ですか?」
心配するフィーリアに肩を借りサクラはフラつきながらも歩き、木の幹に背を預けて座った。フィーリアに比べてサクラはかなり体力を消耗していた。そんな彼女を見てフィーリアは自分の道具袋(ポーチ)から回復薬グレートと元気ドリンコを取り出して彼女に手渡す。
「これを飲んで元気を取り戻してください」
「……迷惑掛けて、ごめんなさい」
「迷惑だなんて思ってませんよ。私達は仲間じゃないですか」
「……ありがとう」
サクラは小さく礼を言うとそれを受け取ろうと手を伸ばす。だが、その手がそれらの品物に触れる寸前でピタリと止まった。不思議そうに首を傾げるフィーリアを見詰めるサクラの顔色が、真っ青に変わっていく。
「ど、どうされたんですか?」
「……クリュウは? クリュウはどこ?」
サクラの言葉に、フィーリアはハッとして負傷している彼の事を思い出した。今現在わかっている状況の中で、最も危険な状態に陥っている可能性があるクリュウはいまだ発見されていない。自分達をかばってブレスの直撃を受けたシルフィードも見つかってはいない。状況は最悪であった。
「クリュウ様、及びシルフィード様の行方は依然不明です。私が発見できたのは、サクラ様お一人なんです」
「……じゃあ、クリュウは怪我したままって事?」
「おそらくは」
「……捜さないとッ!」
「サクラ様ッ!? ご無理をなさってはいけませんよ!」
フラフラな体に無理を押して立ち上がろうとするサクラをフィーリアは慌てて止める。しかしサクラはそんな彼女の制止を振り切って立ち上がる。だが、フラついた状態では満足に立つ事もできずに倒れる。が、間一髪でフィーリアが支えたので倒れる事はなかった。
「そんな状態では捜索なんて不可能ですよ!」
「……放してッ! 私なんかより、クリュウを助けないとッ!」
「それはわかってますッ! しかしその体では……ッ!」
「……私になんか構わないでッ! クリュウにもしもの事があったら、取り返しがつかなくなるッ!」
悲鳴のように怒鳴り散らすサクラ。その隻眼を見ただけでわかる。いつも冷静沈着な彼女が冷静さを失っている。大事な人の命が懸かっているという現実に、冷静でいられるほど彼女は非情にはなれないのだ。
だが、そんな彼女を助けないとと思う気持ちのおかげで、フィーリアは冷静でいられた。
「確かに、今になって思うとあの傷は結構危険です。早急に見つけないといけません」
「……急がないと、手遅れになる!」
サクラはフィーリアの手を振り切って歩き出す。だが、そんな彼女の肩をフィーリアが掴む。その妨害するかのような行為にサクラは振り返って血走った隻眼で睨み付ける。
「……邪魔する気ッ!?」
「――邪魔なんてしませんよ。私だってクリュウ様が心配です。でも同時に、サクラ様も心配なんです。だから、一緒に行きましょう。私の肩、貸してあげますから」
そう言ってにっこりと微笑むフィーリアにサクラは呆然と立ち尽くす。しばしの沈黙の後、ようやくその言葉の意味を理解したのかサクラは小さくうなずいた。
「……助かる」
「困った時はお互い様ですよ。仲間ですし」
そう言ってサクラの腕を自分の首に回して肩を貸すフィーリア。サクラの方が身長は高いのだが、それでもおかげでかなり楽になる。
「さぁ、早くクリュウ様やシルフィード様と合流しましょう」
「……えぇ。早くクリュウに会いたい。そして、抱き締めたい」
「そ、そんなのダメですよッ! 私だってッ!」
「……そして、同じベッドで一夜を過ごす」
「反則ですッ! それはルール違反ですッ! 私達は同盟を組んでいたのではないんですかッ!?」
「……恋に卑怯もクソもない。どのようにして恋敵(ライバル)を蹴落とすか――恋は戦争」
「わ、私だって負けませんよッ!」
すっかり目的が変わってしまった上にシルフィードの存在も完全に抜け落ちてしまった二人は、早くクリュウと合流する事を目的にゆっくりとだが森を歩く。
互いに支え合うその後姿は、二人の恋姫が友情という絆で結ばれている事を表しているかのように、柔らかな夕焼けに照らされていた。
フィーリアとサクラが共にクリュウとシルフィードの捜索を始めてから半時ほどが経過した頃、今の今まで気を失っていたシルフィードはゆっくりと目を覚ました。
まず目に入ったのは灰色の光景。そこが洞窟の中であるとわかるのに少し時間が掛かった。そして、自分が横になっているという感覚。そこまで気づいてゆっくりと体を起こそうとする。だが、
「ぐぅ……ッ!」
ひどい痛みが体中に走った。どうやらかなりの怪我をしているらしいが、動けないという事はなさそうだ。無理を承知で何とか起き上がる。その時、
「……ダメですよ……まだ起きては……」
弱々しく、どこか苦しそうな聞き知った声に驚いて振り返ると、そこには岩壁に背を預けて力なく座るクリュウがいた。
「クリュウッ!? 無事だったのかッ?」
「……無事、なんでしょうか?」
そう言って苦笑いするクリュウは――真っ黒に染まっていた。
彼が身に纏っていたのはバサルシリーズ。白っぽい灰色の岩竜の甲殻で作られた鎧。だが今の彼が身に纏っているのは黒い鎧だ。所々に赤がべっとりと付いたその光景に、シルフィードの背筋は凍りつく。
その黒や赤の正体は――彼の血であった。
「クリュウ……」
「……ここまでの傷になると……自分じゃどうしようもなくて……回復薬や回復薬グレート……秘薬も飲んだんですが……応急処置にもならなくて……」
それはそうだろう。回復薬などの薬品はあくまで《体力を回復させる》ものだ。傷を直接治す力はない。特に彼のように負傷した場合は、一刻も早い処置が必要であった。
「傷を見せてみろ」
そう言って彼に向かって手を伸ばす。と、その時自分の腕に包帯が巻かれている事に気づいた。よく見ると、腕だけではなく脚や胸、腹や肩に至るまで様々だ。防具も全て外されている。
「これは……」
「……すみません……シルフィードさん……火傷を負っていたので……すり潰した薬草を塗って包帯を巻いたんですが――あ、もちろん変な所は見てませんからね……」
そう言って少々頬を赤らめるクリュウ。彼の場合は本当に見ないようにがんばりながら巻いたのだ。自らの方が重傷なのに、努力賞ものである。
通常ハンターは防具の下に下着代わりのようにインナーを着込んでいる。シルフィードも同じで、防具を脱ぐといきなり裸という事はなかったのが幸いだ。
「そうか、ありがとう」
シルフィードは素直に礼を言った。防具を脱がされた事に多少の恥ずかしさはあるが、それも彼が自分を助けようとがんばってくれたおかげだと思うと、そのむずがゆさまで心地良い――こんな感覚初めてだ。
「……最初に合流したのが……僕じゃなくて……サクラやフィーリアだったら良かったのに……すみません……」
「謝るな。君は私を助けてくれたのだ。私は感謝している」
「……でも……見てはいなくてもその……シルフィードさんの肌とか……触ってしまいましたし……」
顔を真っ赤にしながらだんだんと小さくなる声で言うクリュウ。彼は同世代の男子に比べてずっと純粋な男の子なのだ。ハンター養成学校の時も周りの男子が女子風呂を覗きに行こうなどと実行する中、必死に止めようとしたくらいに純粋なのだ。そんな彼にとって手当てとはいえ女性の体に触るのは覚悟がいる事だったのだ。そして、そんな覚悟をしてまで、彼女を助けたかったのだ。
そんな彼の心境や想いを、シルフィードはしっかりと感じ取っていた。罪悪感を感じている彼に、シルフィードは気にした様子もなく言う。
「私は女である前にハンターだ。そのような恥じらいはとうの昔に捨てた。気にするな」
男と女で差別されるハンター世界。彼女自身も女だからと蔑まされた事は幾度とあった。実力も知らずに性別で判断する輩(やから)など所詮大した事はないのだが、それでも居心地がいいとはお世辞にも言えなかった。
だから、この世界を生きる為に自分は女を捨てたのだ。ハンターとして生きるのに女というものが障害となるなら、捨てるなど構わなかった。
クリュウは罪悪感など感じる必要はない。そう思っていた。だが、
「……ダメですよ……シルフィードさんはきれいなんですから……きっと、幸せになれるはずです……だから……そんな悲しい事……言わないでください」
クリュウのか細い声に、シルフィードは驚いたように彼の顔を凝視する。そんな事を言われたのは初めてだった。
女としての幸せ。そんなの当の昔に捨てたはずだった。なのに、彼にそう言われると、その捨てたものが掛け替えのないものに感じてしまう。
女だからという理由で蔑まされてきた。だから、自分の大志を阻む女を捨てたのだ。なのに、そんな自分に女だからこその幸せを願うクリュウ。
彼が変わっているのか、それとも自分が変わったのか。それはわからない。でもなぜか、《女》という部分も含めて自分を認めてくれた彼の言葉が――嬉しかった。
「そんな事、初めて言われたよ……変わってるな君は」
「……変わって……ますか……?」
「相当な」
「……あんまり……嬉しくないです……」
そう言って苦笑いするクリュウに、シルフィードはフッと口元に小さな笑みを浮かべた。
――なぜフィーリアやサクラが彼の傍にいるのか、少しだけわかった気がした。
自分が今まで触れた事もないような優しさ。彼はそれを持っているのだ。誰にも負けない優しさ。その優しさが、自然と周りを笑顔にさせる――自分も、その一人であった。
「……こんな仲間が、私は欲しかった」
「え? 何か言いまし――ゲホォッ!」
突如クリュウは激しく咳き込み始めた。しかも咳をするたびに口からはベチャッと真っ赤な血の塊が吐き出される。その姿に、シルフィードの顔から血の気が引く。
「クリュウッ! 大丈夫かッ!?」
「……は、はい……大丈夫で――ゲホゴホッ!」
激しく咳き込むクリュウ。シルフィードは改めてクリュウの怪我の具合を見る。タオルで押さえられている右脇腹から出血し、白い鎧は今も溢れ出す血の赤とすでに乾いて黒く変色した血に染められていた。
傷は思ったよりはひどくはなかった。リオレウスの爪を受けてこれだけの傷で済んだ方がそもそも奇跡的なのだ。バサルシリーズの強固な防御力がなかったら、完全に即死していただろう。
だが、それでも状況は芳しくない。いくら傷の状態が予想よりは良かったとはいえ重傷は重傷。早く適切な治療を受けないといけなかった。
シルフィードは辺りを見回す。するとすぐ横に置かれた脱がされた防具の中に道具袋(ポーチ)を見つけ手に取る。そして中から取り出したのは筒状の道具。それを見たクリュウは少しうつむいてしまう。
「……すみません」
「気にするな。今は君の怪我を治す事を優先するのは当然だ。報酬などを気にしている場合ではない」
「……はい」
シルフィードはそう言ってまだフラつく体を何とか立たせて洞窟の外に出る。洞窟といっても洞穴のような小さなものだ。五メートル程度で出口に到達すると、筒の先端から飛び出している紐を掴み、一気に引き抜く。その途端、シュボッという音と共に黄色い煙が噴き出した。シルフィードはそれを外に放ると再び彼の下に戻る。
「もう少しの辛抱だ。もうじき救護アイルーが来るはずだ」
「はい……」
救護アイルーとは狩場に生息するギルドと契約を交わした医療アイルーの事だ。アイルーの技術は様々な分野において人間を超えるもので、爆弾生成術の他に医療術もまたアイルーの方が上。その為ギルドでは負傷したハンターを救助し、適切な治療をして生存性を高める為にその地域に住むアイルーと契約を交わしてハンターを救助させている。
ギルドにとってはもちろんハンター救助が目的だ。一方のアイルーはというと救護する事でハンターが受けている依頼の初期報酬の三分の一を受け取ってそれを給料としている。街に出稼ぐ他にアイルー達はこうした事でもお金を集めて暮らしているのだ。
先程シルフィードが使用したのは依頼を受けた際にギルドから支給される救護発炎筒という救護アイルーを呼ぶ為の道具だ。その調合方法はギルドが秘匿しているが、ほのかに煙から漂う匂いにはマタタビの匂いが混じっている。アイルーやメラルー以外の生き物にはまるで効力がないのでモンスターを呼び寄せる危険性もない。
シルフィードは再び先程の場所に腰掛ける。クリュウはついに背を預けて座っているのも辛くなったらしく今は横になっている。
「大丈夫か?」
「……は、はい……ゲホゴホッ!」
無理して笑みを浮かべるも、すぐに激しい咳で苦悶にその笑みも歪んでしまう。息も荒く、額には脂汗を浮かべ、表情は辛そう。一刻の猶予もなかった。
シルフィードは自らも怪我しているのに気にせず彼の横に移動すると腰掛けた。そして辛そうに息をするクリュウの背中を優しくさすってやる。
「苦しいか?」
「……大丈夫です……けど、痛いです……」
苦笑いしながら答えるクリュウ。少しでもシルフィードに負担を掛けさせたくないという想いが込められたその笑顔に、シルフィードは小さく微笑む。
「無理はするな。今は自分の事だけを考えていろ」
「は、はい……」
そう答えると、クリュウは静かに目を閉じた。眠いのではなくもう瞳を開けておくのもしんどいのだ。それほどまでに今の彼の体力は限界に達していた。
自分の横で苦しげに荒い息を繰り返すクリュウに、シルフィードは力なくため息した。
ドンドルマの時、守ってみせると豪語したのに結果は彼にこんな大怪我を負わせ、自分も火傷を負って満足には動けない状態。情けなくて言葉も出ない。
自分の不甲斐なさが彼にこんな大怪我を負わせた上に、今もこうして怪我で苦しむ彼を自分は助ける事ができない。今はただ、救助が来るのを待つしかない。できる事といえば、こうして背中をさすって少しでも彼を安堵させてあげる事ぐらいだ。
「すまない……」
気がつくと言葉が漏れていた。その小さく弱々しい声に、クリュウが目を開けた。その瞳が見たのは悔しそうに唇を噛む彼女の姿。
「……どうして……謝るんですか……?」
「――私は無力だ。君一人を守る事も助ける事もできない。無力な存在だ」
「……そんな事ないですよ……僕は……シルフィードさんがいてくれて……すごく嬉しいです……」
「いるだけでは、無意味ではないか」
「そんな事ありません……いてくれるだけで……十分なんです……」
その心からの声に、シルフィードは瞳を大きく見開く――刹那、その頬を一筋の涙が流れた。
「え? えぇッ!?」
突如泣き出してしまったシルフィードにクリュウは慌てて起き上がり、傷口に激痛が走って悲鳴を上げる。
「だ、大丈夫か?」
「……な、なんとか……ッ! それよりシルフィードさんこそ……ッ!」
「す、すまない。そんな風に言われたのは初めてだったから」
「……そ、そうなんですか?」
瞳に薄ら涙を浮かべながら見詰めるクリュウに、シルフィードは自嘲的な笑みを浮かべる。
「私が蒼銀の烈風と呼ばれている事はもう知っているだろう? おかげで危険な依頼ばかり送られてきて、どれも私ならやれて当然という雰囲気だった。失敗すれば責められ、存在も否定される。周りには舐められ、理不尽な暴力を受けた事もあった――生きる為には、機械のように振り回されてでも勝つしかなかった」
「そんな……」
「――だから、君の優しさが、私には何にも代えがたいように嬉しいのだ」
そう言うシルフィードは小さく微笑んでいた。いつもクールで鋭い眼光をする彼女のその笑顔はとても優しげで、きれいだった。
有名になればなるほど個人の自由は失われていく。彼女はそんな自由の奪われた世界をずっと生きてきたのだ。小さい頃から、ずっと……
サクラも、護衛依頼は絶対に断らないし放棄しない隻眼の人形姫と呼ばれていたので、彼女を雇ってわざわざ危険なコースを選ぶ依頼者は少なくなかったらしく、そのたびに彼女は自らの体に傷を負いながら必死に護衛したという話を聞いた事があった。それを聞いた時、クリュウは激怒した。
フィーリアも同じようにわざと危険な依頼に投入された事が何度もあったらしい。彼女は笑顔で今ではいい思い出だと語っていたが、その時のクリュウは怒りで頭がどうにかなりそうだった。
ハンターを、サクラやフィーリアを道具としか見ていない輩がいる事が許せなかった。
そして、シルフィードもまたその犠牲者であった。
クリュウは知らない。
モンスターを討伐して、村人総出で感謝してくれるという恵まれた経験をしている彼には、そんな三人の気持ちはわからない――でも、許せなかった。
「……シルフィードさん」
「何だ?」
「……僕は……シルフィードさんの事を……そんな風には思ってません……」
「クリュウ……」
「――僕は、シルフィードさんを大切な仲間って思ってますから」
シルフィードは小さく微笑むと「ありがとう」と言って彼の若葉色の髪をそっと撫でた。その柔らかな感触に、クリュウも小さく微笑むとそっと瞳を閉じた。
血にまみれるクリュウを見て、シルフィードは立て掛けてある煌剣リオレウスの柄を握った。今モンスターに襲われた場合、迎撃ができるのは自分だけ――彼を守れるのは自分だけ。その想いが彼女を奮い立たせる。
視界の向こう、木々の間で何かが動いた気配がした。柄を握る手にも力が入る。
「……シルフィードさん?」
「クリュウはここにいて」
「し、シルフィードさん……ッ!」
クリュウは止めようとするがシルフィードはその制止を振り切って煌剣リオレウスを構えたまま洞窟の外に出てしまう。彼女は現在全く防具を着ていない。ランポスの一撃でも喰らえば大怪我になってしまう。
――それでも、彼を守る為に戦わなくてはならないのだ。
近づいてくる気配。シルフィードは煌剣リオレウスを構える。狙う木々の間から迫る何か。グッと柄を握り、迎え撃つ。そして――
「ふぇッ!?」
「……」
木々の間から現れたのはランポスなどのモンスターではなく――逸れていたフィーリアとサクラであった。
「無事だったのか」
シルフィードは安堵の息を漏らすと煌剣リオレウスを下ろした。そんな彼女を見てフィーリアに笑顔が浮かぶ。
「シルフィード様、ご無事だったんですねッ!」
「あぁ、何とかな。だがブレスの直撃を受けてこの様だよ」
「す、すみません……」
「気にするな。こうして全員無事だったのだからな」
「……全員?」
サクラの隻眼が大きく見開かれた。その彼女の視線に、シルフィードは小さく微笑み背後の洞窟を指差す。
「怪我しているが、クリュウも無事にあの洞窟の中にいるぞ」
その言葉に、フィーリアとサクラの顔に満面の笑みが浮かんだ。フィーリアに至ってはボロボロと涙を流す始末。
「よ、良かったぁ……良かったですぅ……ッ!」
泣き崩れてしまうフィーリアの金色の柔らかな髪を、シルフィードはそっと撫でる。サクラも薄っすらと浮かんだ涙を拭い取る。二人とも、本当に心配していたのだ。
ふと、サクラは洞窟の傍で黄色い煙を上げる発炎筒に気づいた。
「……救護アイルーを呼ぶほど、危険な状態なの?」
フィーリアはその言葉にピクリと震え、今度は別の涙を流し始める。
「そ、そんなぁ……ッ!」
「大丈夫だ。確かにひどい怪我だが、命に別状はない。だが、私達ではどうしようもないからな。救護アイルーを呼んでいるのだ」
命に別状はないという彼女の言葉に、二人とも心から安堵した。そんな二人に小さく微笑むシルフィード。
「ここは私が見張っていよう。君達は早くクリュウに会いに行ってやってくれ。その方が彼も喜ぶ」
「はいッ!」
「……ありがとう」
二人は大喜びで洞窟の中に入って行った。そんな二人の後姿を見てシルフィードは小さく微笑むと発炎筒を見詰め救護アイルーの到着を待ち続ける。
一方洞窟の中に入った二人は奥で横になるクリュウを見つけ、今までずっと心を押し潰していた不安が一気に消えたのか、泣き出してしまった。
「く、クリュウしゃまぁ……ッ!」
「……良かった……ッ!」
二人は涙を流しながら彼の無事を喜ぶ。そんな二人の気配にクリュウはゆっくりと瞳を開く。そこには逸れてしまって心配していた二人の元気な姿があった。
「フィーリア……サクラ……? 二人とも……無事だったんだね……」
「クリュウ様は大丈夫ですかッ!?」
「……大丈夫って言いたいけど……ちょっと辛い……」
「……クリュウ。もうすぐ救護アイルーが来る。それまでの辛抱」
「うん……」
フィーリアはクリュウが生きていてくれた事が本当に嬉しかったが、同時に血まみれ彼の姿を見て心を痛めた。サクラも、血にまみれた彼の姿に隻眼を苦しげに細めた。だが、クリュウはそんな二人に小さく微笑む。
「二人こそ……怪我はない……?」
「私もサクラ様も全身に打撲などはありますが、大丈夫ですよ」
「そう、良かった……」
クリュウはそう言うと嬉しそうに微笑んだ。二人が無事だった事が本当に嬉しいのだ。
フィーリアとサクラもクリュウのその笑顔を見て少しだけ安堵できたのか、小さく微笑む。
数度お互いの状況を伝え合ったところで、サクラはクリュウを休ませようとフィーリアの手を引っ張って外へ出た。フィーリアはクリュウの傍にいたかったのだが、それでは彼にいらぬ気遣いをさせてしまうとサクラが言うと、渋々といった感じで従った。
外へ出ると、シルフィードが岩に腰掛けて辺りを警戒していた。
「シルフィード様」
フィーリアが声を掛けると、シルフィードが振り返る。
「クリュウの様子はどうだった?」
「……あまりいいとは言えませんね。救護アイルーはまだでしょうか?」
「そろそろだと思うが……」
シルフィードは黄色い煙を上げ続ける発炎筒を一瞥し、夕焼けに染まる空を見上げる。先程までは空一面茜色だったが、今では藍色の空も徐々に広がり星々が煌き始めている。
「……一分以内に来なきゃ斬り殺す」
「そんな無茶な」
「――いや、どうやら命拾いしたようだな」
「え?」
シルフィードの言葉に二人は彼女の視線を追う。すると、木々の間を何か小さなものがこちらに向かって走って来ていた。
人一人寝れるくらいの大きさの荷車を二足歩行をした二匹のネコが引っ張っている――救護アイルーだ。
救護アイルーはシルフィード達に近付くと荷車を急停止させた。
「遅れてごめんニャッ! 怪我人はどこニャッ!?」
職務に忠実なアイルーが早速遅れた事に関して頭を下げて謝る。その必死に働くかわいらしい姿を見ては怒るなんて事は――
「……崖の上からの紐なしバンジーと息止め潜水二四時間、どちらか好きな方を選べ」
「放してニャァッ! どっちもバッドエンドルートニャァッ!」
無表情でアイルーの顔面を片手で握り締め持ち上げるサクラから提示されたのは理不尽な死刑判決。アイルーは必死になって謝るが、サクラは表情こそは無表情だがブチ切れ寸前であった。
「も、申し訳ないニャ。リオレウスが飛び回っててこっちも動きを制限されて到着が遅れてしまったニャ。本当にすまないニャ……」
もう一匹のアイルーが改めて頭を下げて謝った。
ハンターを助ける事が役目の救護アイルー。だが彼らだって死にたくはない。ハンターを助けたい気持ちはあるが、自分の命だって大切だ。そもそもリオレウスが飛び回っている状況でここまでがんばって来てくれただけでも感謝しなければならな――
「……罠に誘き寄せる生肉が不足してる」
「放してニャァッ! アイルーは食べてもおいしくないニャァッ!」
「……大丈夫。食べるのはリオレウスだから」
「全然大丈夫じゃないニャアアアァァァッ!」
両方の手で一匹ずつアイルーの顔面を握り締めながら淡々と死刑方法を述べるサクラ。その隻眼は本気(マジ)だ。
このままだと本当に二匹を殺しかねないサクラを、フィーリアが慌てて止める。シルフィードは疲れたように小さくため息した。
「それで、怪我人はどこにいるニャ?」
サクラから解放されたアイルー達はすぐに職務に戻る。シルフィードは「こっちだ」と言ってアイルー達を連れて洞窟に入った。サクラとフィーリアもそれに続く。
「クリュウ。救護アイルーが来たぞ」
シルフィードの声にクリュウは薄っすらと瞳を開いた。するとそこにはフィーリア、サクラ、シルフィードの他に二匹のアイルーがいた。アイルー達はすぐにクリュウの傷口を確認する。
「ウニャ……、傷はそれほど深くはないニャ。これならオイラ達の技術があれば問題ないニャ」
「ほ、本当ですかッ!?」
「ニャハハ。オイラ達アイルー族の医療術ニャらこれくらい余裕ニャ」
「……だったらさっさとしろ。殺すわよ」
「ニャアアアァァァッ! わかったニャッ! だから剥ぎ取りナイフは腰に戻してニャッ!」
サクラの脅迫に耐えながら慌ててクリュウを運ぼうとするが、それはシルフィードがやってくれた。彼女の肩を借りて何とか立ち上がったクリュウはそのまま洞窟の外に置いてある荷車に載せられる。ずいぶん貧相な荷車に見えるが、詳しい事は不明だがどうやらアイルー族の技術が満載されている優れ物らしい――見た目は完全に貧相な荷車にしか見えないが。
「じゃあ、クリュウを頼む。治療を終えたら拠点(ベースキャンプ)のベッドで寝かしておいてくれ」
「わかったニャッ!」
「クリュウ様をお願いします。お気をつけて」
「任せるニャッ!」
「……もしもの時は――覚悟しなさい」
「「命を懸けてやらせていただきますニャァッ!」」
救護アイルー達はそんな悲鳴のような声を上げながら全速力で荷車を引いて森の中に消えて行く。その小さな背中を見詰めるサクラは小さく「……お願い」とつぶやき、彼が元気になる事を切に願っていた。
そして、アイルー達の姿が完全に消えるとシルフィードは洞窟の中に戻る。そして脱いでいた防具を着直し、煌剣リオレウスを背中に挿す。
「私達も戻るぞ。クリュウの状態を見て依頼を続けるか棄権するかを決めよう。もし続けるにしても今日はもう遅い。明日にするべきだ」
「そうですね。早く無事なクリュウ様とお会いしたいですし」
「……(コクリ)」
依頼を続行するにしても棄権するにしてもとりあえず一度|拠点(ベースキャンプ)に戻る事を決めた三人はリオレウスを警戒しながら一路|拠点(ベースキャンプ)を目指して歩き始めた。
三人の戦姫を包み込むような空はいつに間にかすっかり藍色に染まり、星々が神々しく煌き、月が柔らかな淡い光を静かに照らし上げていた。