イルファ雪山。かつてレミィとツバメ、そしてサクラと共にドドブランゴと戦ったこの地は、冬本番直前という事もあって多くのハンターが出入りしている。
どの地域でも通常雪山は冬になれば閉山される。これは冬本番の雪山は豪雪や急激な気温低下など最も危険な状態になるので、安全確保の為に行われる。この場合地元に住む者ですら掟で入れない。もちろん外部の人間であるハンターも同じ事だ。
冬本番になれば雪山は立ち入り禁止。その為、この時期は雪山の依頼が殺到するのだ。次の開山は春まで待たないといけないので、皆必死なのだろう。特に多いのがポポノタンや雪山草の採取。どちらも人々の生活に少なからず影響するだけあって需要も多いのだ。
モンスターを倒すだけでなくこういう一般人には危険な事も行う、それがハンターという職業なのだ。
麓付近は晴れているものの、山の頂は鉛色の厚い雲に覆い隠されていて見る事はできない。気候状態はあまりいい方ではないイルファ雪山にこの日、クリュウとシルフィードという珍しい組み合わせでのコンビが到着した。
イージス村から五日ほど掛けてアニエスの引く竜車で来た二人。イルファ雪山は通常はアルフレア経由で来るのだが、今回は村に来た依頼だったので二人は直接この地にやって来た。
拠点(ベースキャンプ)に到着するとクリュウは竜車から降りた。途端に体中を襲う壮絶な寒さに身を震わせた。
「寒い……ッ」
北国育ちであるクリュウでさえ寒さに身を震わせる程、雪山の気温は恐ろしく寒いのだ。
少しだけ寒さに慣れたクリュウはイージス村からここまで竜車を引き続けたアニエスの頭を優しく撫でる。アニエスは疲れているはずなのにクリュウに撫でられると「キュイッ♪」と嬉しそうに甘えてくる。クリュウは程ほどにアニエスをかわいがった後、すでに道具箱を確認しているシルフィードに声を掛けた。
「シルフィ。支給品はある?」
「残念だが届いていないようだな。この時期は雪の影響で雪崩や土砂崩れも多い。補給物資が遅れるのは珍しくはないさ」
そう言ってシルフィードは道具箱を閉めると、持参した道具が満載された道具袋(ポーチ)を腰に掛ける。彼女の装備はいつものように蒼空の王者、リオレウス亜種の素材で作られたリオソウルシリーズと耳に輝く赤い宝石はレッドピアス。武器は鋭さと軽量さを主軸に置いた大剣キリサキ。蒼銀の烈風と呼ばれる彼女にふさわしい強力な武具だ。
そしてクリュウもまたいつもと変わらない装備。シルフィードと色違いとも言うべき空の王者リオレウスの素材を使ったレウスシリーズに、同じく火竜の素材を使った片手剣バーンエッジ。
クリュウがレウスヘルムを被り、バイザーを下ろすとシルフィードは「用意はいいか?」と問うて来た。その問い掛けに対しクリュウはヘルムを被ったままうなずいた。
「良し。今回は雪山草の採集だから二手に分かれよう。クリュウは洞窟を抜けて山頂付近へ回ってくれ。私は麓側から迂回して山頂を目指す。どっちの区域も雪山草が良く採れる場所だからな」
「わかった。大型モンスターの目撃情報はないから気楽でいいけど、シルフィは気をつけてね。大剣じゃギアノスに囲まれたら面倒だろうし」
わかりきった事ながらも、彼に心配されているという事にシルフィードは小さく笑みを浮かべると「わかった」と答えた。
「目標数以上の雪山草を採取、または夕方になったら拠点(ここ)に集合しよう。今日は山頂付近の天候が怪しいから、無理はするなよ」
「了解」
「では行くぞ」
シルフィードはキリサキを引き抜いてその場でブンッと一回転させて手応えを確認し、背に戻すと歩き出した。それに続いてクリュウも歩き出す。
見上げた空は晴れているも、自分達が目指す山の頂上付近は厚い雲に覆われていて確認する事はできない。
クリュウは前を歩くシルフィードに視線を戻すと、その大きくて頼れる背中に小さく微笑んだ。
拠点(ベースキャンプ)から出て最初のエリアに到着した二人は早速二手に別れた。クリュウはこのまま洞窟を目指してそこから山頂付近を目指すコース。シルフィードは一回麓を回ってから山頂を目指すコース。どちらも雪山草が採れる道だ。
二人は互いに手を振り合うと、それぞれの道に向かって歩き出す。そんな二人の背中を見ていたポポは、すぐにそんな二人の事も忘れてのどかに草を食み始めた。
前に来た時よりも確実に地面に残っている雪の量が増えていた。地面に所々雪が残っているという光景は、今では雪原の中に所々地面が見えているというような状態だ。
シルフィードは辺りを見回して危険なモンスターがいないかを確認する。少し離れた場所にポポがいるが、こちらから手を出さなければ問題はない。
「さて、と……」
シルフィードは早速雪山草を探してみる。雪山では結構見かけられる草だが、こうしていざそれを探すとなるとなかなか見つからない事もある。人間の心理とは不思議なものだ。
だが何も希少植物という訳ではない。程なくして岩陰に生えているのを見つけてシルフィードはそこへ駆け寄ってしゃがみ込む。
雪のように純白の美しい花に濃い緑色の葉や茎を持つ、普通の草花と変わらないような、しかしそれらとは何か違うようなオーラを放つ植物。それが雪山草だ。
「まずは一つか」
シルフィードは雪山草を根っこから引っこ抜くと素材袋に入れる。続いて岩陰の周りをよく見てみると、運良くあと一つ生えていた。シルフィードはそれも採取すると、次のエリアに向かった。
そうして麓をくまなく探した結果、全部で五つの雪山草を手に入れた。
山頂を目指して坂道を歩き続けるシルフィード。その前に純白の斜面にぽっかりと空いた洞窟が現れた。別ルートから進んでいるクリュウも通る洞窟の入り口の一つだ。近づくと、奥から外の風なんかよりもずっと寒い風が吹き出していた。その風が頬を撫でた途端、体が勝手にブルブルと震える。ここから先はホットドリンクなしで行くのは暴挙と言える。
「ホットドリンクを飲まないと……」
シルフィードは腰の道具袋(ポーチ)に手を伸ばして中を探る。手に取ったのは赤い液体の入った回復薬などと同じビン。雪山や冷たい洞窟の中などの極寒の地に人間の体を一時的に適応させる薬品、ホットドリンク――の、はずだが。
「うん?」
シルフィードはようやくその異変に気づいた。手に持つホットドリンクをまだ見える太陽にかざして見る――心なしか、いつも飲むホットドリンクと色が違って見えたのだ。
首を傾げつつ、シルフィードはビンの蓋を開けてみた。鼻をそっと近づけて匂いを嗅いでみて――ようやくその異変に気づいた。
「……これは、鬼人薬グレートだよな?」
そうつぶやき、サァーッといつものクールな表情が一転して慌て始めるシルフィード。
シルフィードがホットドリンクだと思って持って来たのは、何と似たような色をした別の薬、鬼人薬グレートだった。これは腕力や脚力といった攻撃に重要な筋肉が一時的に上昇する薬。残念だがホットドリンクの効果は得られない。
「ぬおッ!? なぁッ!? ちょ、ちょっと待て……ッ!」
慌てふためくシルフィードはすっかりいつもの冷静さを失って狩場だというのに辺りを見回す事なく座り込むと、道具袋(ポーチ)を引っくり返す。中身を雪の上にぶちまけるのも気にせずあたふたと持って来た道具類を確認する。
回復薬や回復薬グレート、こんがり肉、砥石……鬼人薬グレート……
「……ほ、ホットドリンク、忘れた……」
その瞬間、後頭部をバットで殴られたかのような衝撃を受けた。そして、自分のアホ過ぎる程のうっかりさに絶望した。恥ずかしくて、顔も上げられない。
「な、何をやっているんだ私は……」
あまりのアホさに笑いそうになる。だが、何とか堪えた。このまま笑ってしまうとそのままずっと爆笑していそうだったからだ。それほど、今の自分の姿はあまりにも滑稽だった。
「ど、どうすれば……」
解決策を必死に考え出すシルフィード。このまま雪山に突っ込むのはあまりにも無茶だ。だが、行かなければ雪山草は手に入らない。それに山頂に行けばクリュウと会える可能性が高い。そうすれば恥ずかしいがホットドリンクを分けてもらう事もできるだろう。
逆に拠点(ベースキャンプ)に戻って支給品かクリュウが来るのを待つという手もある。だが、それはできれば遠慮したかった。理由は簡単、クリュウ一人に仕事を押し付けるのは気が引けたからだ。
だが、このままホットドリンクなしで山頂を目指すのもかなり危険だ。
結局考えが纏まらずその場で考えまくるシルフィード。自分の世界にすっかり入っている彼女は、背後から近づく気配にまだ気づいてはいなかった。そして、
「ギャオワァッ!」
「何ッ!?」
振り返った刹那、水色の粘液が右腕にベチャリと付着した。その途端右腕のリオソウルアームとリオソウルメイルの右肩付近が一瞬にして凍りついて動かなくなってしまった。
「しまった……ッ!」
シルフィードは慌てて体を投げ出すようにその場から跳ぶと、ゴロゴロと雪の上を転がって立ち上がる。そこで初めて自分を襲った襲撃者を見た。
「ギャアォッ! ギャアッ!」
そこにいたのは白いドスランポス。否、ギアノスの親玉であるドスギアノスであった。真っ白の体に青色の縞模様を背に描き、頭にはリーダーの証である水色のトサカが輝く、雪山の支配者。
シルフィードは急いでキリサキを抜こうとしたが、右腕が凍り付いていて抜く事はできない。武器を出せないという事実に、シルフィードは悔しそうに舌打ちした。
ドスギアノスは基本的にドスランポスと何も変わらない。唯一違う所はギアノスと同じく氷液を吐いて来る所だ。しかしドスギアノスの氷液はギアノスのそれとは比べ物にならないほど大きく冷たい。付着した瞬間一瞬にして凍りつき、獲物の動きを封じる恐ろしい付加能力がある。これを解除するにはドドブランゴの氷ブレスと同様に解氷剤が必要なのだが、シルフィードは持っていなかった。
氷状態を脱するには解氷剤の他に衝撃を与えるか時間が経てば勝手に砕ける。だが今はどちらもできるような状態ではない。
シルフィードは悔しそうに唇を噛むと、威嚇して来るドスギアノスに背を向けて走り出した。このまま武器が使えない状態で戦っても勝ち目などない。いくら歴戦のハンターとはいえ、武器がないのでは話にならない。プライドなどに反するが、今は逃げるしかないのだ。
走り出したシルフィードは広げた道具を拾う暇もなくホットドリンクなしで洞窟の中に入り込んだ。その瞬間、体中に針で刺されたような痛みが走る。人間の限界を超える寒さというのは、痛みとなって人体に危険信号を放つらしい。
必死に逃げるシルフィード。その背後から逃げる獲物に怒りの声を上げて追い掛けて来るドスギアノス。しかし狭い洞窟の中では体格が小さな人間であるシルフィードの方に分があった。ついに細い道に自らの巨体が引っ掛かってしまいドスギアノスは追撃を断念した。
逃げ帰るドスギアノスを見詰め、シルフィードはホッと息をついた。その息は水蒸気というにはあまりにもはっきりしているほど真っ白だった。
何とか逃げ切れたという現実が終わると、今度は雪山の壮絶な寒さが現実となって彼女を襲う。いつもはホットドリンクを飲んで入る場所に飲まずに入ると、こんなにも世界が違うのかと驚く。
だが、いつまでも冷静ではいられなかった。
「……さ、寒い……ッ」
口が勝手にカタカタと振るえ、歯の根が合わない。自分の体を抱き締めるように両手を交差させ、必死に擦って体温を取り戻そうとするが、それ以上の速さで外気が貴重な体温を奪っていく。
このままでは凍死してしまうかもしれない。シルフィードは残る力を振り絞って前へ歩み続けた。このまま洞窟の中にいては本当に危険。まだ山頂なら日差しがあるだけマシのはず。それだけを希望に前へ進み続ける。拠点(ベースキャンプ)に戻るにも、ドスギアノスが待ち伏せている危険性を考えるととてもじゃないがその選択肢は選べない。すでに右腕の氷は解けたが、リオレウスなどと違い小さく機動力のあるドスギアノス相手では大剣は不利だ。
運良く、ギアノスは現れなかった。ガウシカには遭遇したものの、ポポと同じくこちらから攻撃をしなければ通常は攻撃してくる事はない。シルフィードはガウシカに敵視されないように気をつけながら彼らの横を通り抜けた。その向こうはもう外へ繋がる出口だ。
(も、もう少し……ッ!)
温かな日差しを求めて、シルフィードは最後の一歩を踏み出した――視界が、開ける……
ゴオオオオオォォォォォッ!
希望を胸に抱いていたシルフィードを待ち受けていたのは、残酷な現実であった。
そこには温かな日差しも、晴れ渡った青空もなかった。あるのは横殴りな風で荒れ狂う雪による吹雪と、鉛色の雲に覆われた暗い空だけ。
呆然と立ち尽くすシルフィードはその光景が信じられず、前へ歩き出した。洞窟の外に出た途端に吹き荒れる猛烈な風が体を突き飛ばすように襲い、フラフラの足はそれに耐えられずに倒れてしまった。
もう、体が動かない。
今思えば、山頂には悪天候そうな雲が垂れ込めていたではないか。そんな大事な事を今更思い出し、つくづく自分のドジを呪った。
吹き荒れる雪は、倒れたシルフィードの上にも容赦なく積み上がっていく。このままでは危険だとわかっていても、もう立てない。寒くて、お腹が減って……眠くなって来た。
遠のいていく意識の中、目の前に霞んで見える一輪の雪山草。
今頃、彼はどうしているだろうか。
雪山草を見てふと思い浮かんだのは彼の事だった。きっと彼はこの吹雪の中で必死になって雪山草を探しているのだろう。なのに、自分は何をやっているのか。
「……クリュウ……た、助けて……」
まるでそこに彼がいるかのようにシルフィードは最後の力を振り絞って手を伸ばし、雪山草をグッと掴んだ。だが、引っこ抜く力もなく、力尽きたシルフィードはそのまま気絶してしまった……。
その頃、山頂付近に到着したクリュウは吹雪の中で懸命に雪山草を採取していた。
「あ、あったぁ……ッ」
岩陰に生えた一輪の雪山草を採取。クリュウはほっとしたようにため息すると採取した雪山草を素材袋に入れた。すでに袋の中にはノルマを超えた数の雪山草が入っている。
次を探そうと岩陰から立ち上がった瞬間、突風が容赦なくクリュウを襲った。さすがに転ぶ事はなかったが、雪風が容赦なくクリュウの体に叩き付けられる。ホットドリンクを飲んでいるのに、止まっていると勝手に体が震えてしまう。
「寒い……ッ。シルフィ、大丈夫かな?」
別ルートから山頂を目指しているはずのシルフィード。この吹雪では彼女もきっと苦労しているだろう。だが、心配はしても不安はない。何せシルフィードはチーム一の知識と技量、経験を持つ歴戦のハンター。彼女に対するクリュウの信頼はどんな事があっても決して揺るがない。
美しく、鋭く、力強く狩場を翔ける烈風。その華麗で峻烈な姿は見る者皆に勇気を与えてくれる。そして、自分はそんな彼女のようなハンターになりたかった。
英雄扱いをされる父は確かに強かったが、死んでしまった今ではその姿や強さを見る事はもうできない。でも、シルフィードは違う。常に自分の前に立って恐れる事なくモンスターに突撃するその姿は、幻ではない現実。
見えない強さに憧れるほど、もうクリュウは子供ではない。まずは目の前の強さに追いつく為に、努力を重ねる。シルフィードは、クリュウの憧れだ。
自分もいつか、シルフィードのような強くて優しいハンターになる。いつしか、父の背を追い求めていた自分の目標は、シルフィードと隣に立てるだけの力を身に付けるという現実のものに変わっていた。
自分を大きく成長させ、変えてくれたシルフィード。彼女ならどんな苦境や逆境であっても決して諦めずに前へ進む。きっと今頃も、この猛烈な吹雪の中でも迷う事なく前に進み続けているであろう。だったら自分も、こんな所でいつまでも足止めされている訳にはいかない。
クリュウは猛烈な吹雪の中、再び歩み始めた。積み重なった新雪は柔らかく、足場としては最悪だ。それでも、前へ進み続ける――彼女に一歩でも近づく為に。
そうして前へ進みながらも、クリュウは時折辺りを眼を凝らして見回した。すでにノルマである雪山草は取り終えたが、資金集めの為にももう少し採っておきたかった。
しかし、吹雪の為に視界が悪いこの状況下ではなかなか雪山草を見つける事はできなかった。それでも、クリュウは懸命に探した。
その時、荒れる吹雪の向こうに真っ白く染まった山肌にぽっかりと開いた洞窟が見えた。
「あれって、シルフィが出て来る洞窟の一つだよね」
自信なさげなのは、麓の洞窟からこの山頂付近へ向かうと出口が複数あるからだ。今目の前にはるのはその数ある出口の一つだ。
当てもなく歩き続けていたクリュウは、とりあえずその洞窟を目指して再び歩き始めた。もしかしたらシルフィと合流できるかもしれない。そんな一抹の期待を抱いて。
洞窟に近づいたクリュウだったが、残念ながらそこに彼女の姿はなかった。どうやらこの出口ではなかったようだ。
「そろそろ合流しないとまずいよな……」
そう思いつつも、連絡の取りようがないので合流する場所なんて特定できない。一応山頂で待ち合わせの予定はあったが、残念ながら山頂はこの吹雪で雪崩が起きたらしく道が塞がっていて通行不能。第二合流場所は拠点(ベースキャンプ)なので、このままだと戻って彼女の帰りを待つしかない。できれば合流しておいた方が色々と便利なのだが……
そんな事を色々と頭の中で考えながら歩いていると、洞窟の入口に一輪の雪山草が強風に激しくその身を揺らしながらも健気に生えていた。
「あ、ラッキー」
クリュウはこれ幸いとその雪山草に近づいた。通常、雪山草は一度に花は三つから五つ程度しか咲かせない。だが目の前の雪山草は全部で八つの花が咲いていた。
「おぉ、幸せのスノードロップ」
クリュウが言った《幸せのスノードロップ》とは、数多くの雪山草の中でごく稀に突然変異で現れる五つ以上の花を咲かせる雪山草の事。雪山草は別名はスノードロップといい、五つ以上の花を持つ雪山草は幸せの象徴とされ、人々からは《幸せのスノードロップ》とも言われている。縁起のいい代物だ。
「こりゃ何かいい事があるかもね」
そう言って嬉しそうに微笑みながら、クリュウはその雪山草を片手で引っこ抜く。だが、雪山草はビクともしなかった。相当深くまで根を張っているらしい。
「よぉしッ」
クリュウは今度は両手でしっかりと握り締め、体全体を使って引き抜く事にした。このまま幸せのスノードロップを見逃すなんてありえない。
雪山草を跨ぐように両足をしっかりと地面に着き、両手もしっかりと雪山草の茎を掴む。そして、気合を入れて一気に引っこ抜くッ。
「ぬうううううぅぅぅぅぅ……ッ!」
全力で雪山草を引っ張るクリュウ。すると、だんだんと雪山草が抜けて来た。あと一息。残る力を振り絞って、最後のラストスパート。
「てぇりゃあああぁぁぁッ!」
ボコッという音と共に見事に雪山草は抜けた――のだが、その根元には真っ白な人の手がぶら下がって――
「うわあああああぁぁぁぁぁッ!」
その恐ろしい光景にクリュウは悲鳴を上げてその場に転倒した。
「お、お化けッ! 幽霊ッ! な、何でッ!?」
あまりにもホラーな光景に完全に慌てふためくクリュウ。恐る恐る振り返ってみると、そこには確かに雪山草を握り締めてうつ伏せで倒れている女性の死体が……
「雪山草を摘んでいて遭難した女性の幽霊があああぁぁぁ――って、あれ?」
もうほとんど涙目で、これ以上怖い目に遭ったら逃げ出そうとまで考えていたクリュウはその女性の姿を見て、一気に冷静さを取り戻した。
雪のように純白色の白銀の美しい長髪、スラリとした長身、蒼火竜の素材をふんだんに使ったリオソウルシリーズ、ショウギンギザミの鋏をモチーフにした大剣キリサキ――
「も、もしかして……シルフィッ!?」
クリュウは慌てて女性に駆け寄ると、仰向けに体を起こした。すると、そこには見知った顔があった。自分の憧れの対象――シルフィード・エアその人であった。
「し、シルフィッ!? だ、大丈夫ッ!?」
クリュウの腕の中でぐったりとしていて瞳を開かないシルフィード。心なしか彼女の肌がいつも以上に白く見える。桃色の柔らかな唇は紫色に変色し、まるで死んでいるように……
「シルフィッ! しっかりしてよぉッ! っていうか、一体何がどうなってるのおおおおおぉぉぉぉぉッ!?」
荒れ狂う吹雪の嵐の中、少年の悲痛な悲鳴は掻き消える事はなく雪山中に空しく響き渡った……
温かい……
まるで、体全体を優しく抱き締めてもらっているかのように心地良い温かさが、氷のように冷えた自分の体を優しく温めてくれる。
その心地良さに、ずっとこのままでいたいと願ってしまう。
もう少し、この温かさに包まれていた。もっと、優しく包まれたい。
この温かさを放さないよう、もっとしっかりと抱き締める。ギュッと抱き締めると、それはまるで抱き枕のように心地良い抱き心地だった。
「ちょ、ちょっとシルフィッ!」
すぐ近くで、彼の声が聞こえたような気がした。
でも、今はこのまま心休まる温かさに身を委ねていたかった。だから、もっとギュッと抱き締めて……
「あうぅ……ッ、ちょっとシルフィ……ッ! は、離れてぇ……ッ!」
(……うん?)
すぐ近くで恥ずかしそうな声を上げる彼の声を聞いて、ようやくシルフィードはその違和感に気づいた。
夢の中から脱出し、スッと瞳を開く。顔を埋めていたものから引っこ抜き、ボーっと首をもたげると、目の前には頬を真っ赤にして困ったような表情を浮かべたクリュウの顔が……
「……なぁッ!?」
「や、やっと気づいたぁ……」
あまりにも突然の事にシルフィードは慌てて彼から離れた。真っ赤になった顔を隠す余裕もなく、驚愕のあまり見開かれた瞳はしっかりとクリュウを見詰める。
「く、クリュウ……ッ!? な、なぜ君がここに……ッ!?」
「いや、ここまで君を運んだのは僕なんだけど……」
そう言って苦笑しながら頬を掻くクリュウ。その時、自分の肩に掛かっている毛布に気づいた。これは雪山での狩りには必須のもので、拠点(ベースキャンプ)に戻れなくなった場合、体温を奪われないようにするものだ。ホットドリンクの数には限りがあるからだ。
「この毛布……」
「あぁ、それ僕のだよ。いやぁ、シルフィってば火で温めても全然起きる気配がないから慌てて一緒の毛布に入って体温で温めたんだけど、成功したみたいで何よりだよ」
「な、何? 一緒の毛布、だと?」
シルフィードは、足の先から頭の天辺までカァッと体が熱くなるのを感じた。見ずともわかる。今の自分の顔は真っ赤になっているだろう。そんな自分の反応に何を誤解したのか、クリュウも顔を真っ赤にして慌て出した。
「だ、大丈夫だよッ! べ、別に変な所とかは触ってないからッ! そ、それにあの時はそれくらいしか思い浮かばなくて、焦ってて――」
「――いや、君がそのような事をする者ではないという事は先刻承知済みだ。今は君の的確な判断と対応に感謝するしかない。ありがとう」
シルフィードはそう言って深々と頭を下げた。彼に対する感謝の気持ちを伝えるのはもちろんだが、気絶中とはいえ彼と触れ合っていたという事実に真っ赤になってしまった顔を隠す為でもあった。
「お礼なんていらないよ。だって僕達は仲間じゃないか」
その言葉に、どれだけ気が楽になった事か――同時に、小さな落胆を感じている自分に困惑もしたが。
「それより、これからどうしようか」
そんな彼の言葉に慌てて辺りを見回すと、そこは洞窟の中だった。と言っても先程自分が通ったような地下水や雪解け水が流れる凍てつく寒さの洞窟ではなく、振り返るとすぐ行き止まり。洞窟というよりは洞穴のようなものだ。
「こ、ここは……?」
「山頂付近にある洞穴だよ。さすがに君を背負って拠点(ベースキャンプ)に戻るのは無理だったから、せめてここまでと思って運んだんだ」
「せ、背負ってだと?」
その言葉にシルフィードはボンッを顔を真っ赤に染めた。気を抜くと頭の中に自分を背負って一生懸命吹雪の中を歩く彼の姿が思い浮かんでしまい、慌てて首を激しく横に振ってそんな邪(よこしま)な考えを排除する。
「し、シルフィ。大丈夫?」
「だ、大丈夫だッ!」
「そ、そう? ならいいんだけど」
シルフィードの慌てっぷりに不可思議さを感じるも、彼女の言葉を信じて納得するクリュウ。彼の素直な性格に感謝しつつ、シルフィードは数回深呼吸をして冷静さを取り戻す。
冷静さを何とか取り戻すと、辺りを再び見回した。少し先には洞穴の出口があった。そこから見える外は相変わらずの猛吹雪。幸い風向きの関係で洞穴には風が入って来ないようだ。
クリュウと自分から少し離れた場所にはパチパチを音を立てる焚火がある。どうやらこの火のおかげで自分は凍死しないで済んだらしい。
まぁ、気絶していたのであればホットドリンクなど飲めないのでそれが当然の判断といえ――忘れよう。今思い浮かんだ恥ずかし過ぎる仮定は今すぐ、即刻に忘れよう。
「どうしたのシルフィ。顔赤いよ?」
「ぬおッ!? な、何でもないぞッ! き、気にするなッ!」
突然彼に話し掛けられ、シルフィードは慌てて彼から距離を取る。小首を傾げる彼の唇を注視している自分に気づき慌てて視線を逸らした――変な妄想のせいで完全に意識してしまっていた。
それっきり、二人の間から会話が消えた。お互いどう声を掛ければいいか模索しているので、その間は何も会話がないのだ。ただ、焚火のパチパチとした音と外の吹雪の音、焚火の上の台に吊るされたヤカンの中のお湯が沸騰するグツグツという音だけが二人の間に流れる。
「そ、そういえばさシルフィ。何で君はあんな所で倒れてたの?」
何とか話を続けようとヤカンのお湯と持参した茶葉で淹れたお茶を自分の湯のみに入れながらクリュウはふと彼女に訊いてみた。すると、一足先にお茶を受け取ってフーフーとかわいらしく息でお茶を冷ましていたシルフィードはその問いにビクッと体を震わせた。
湯のみを持つ手が寒さとは違った理由でカタカタを震え出し、顔は焚火の明かりで隠れてはいるものの真っ赤に染まっていた。
「あ、いや、そのぉ……」
言いよどんで、それ以上の言葉が続かない――まさかホットドリンクを忘れて行き倒れたなんて、とてもじゃないが彼には言えない。恥ずかし過ぎる。
なぜか黙ってしまったシルフィードに、クリュウは慌てた。何か悪い事でも訊いただろうかとあたふたし、何とかこの気まずい雰囲気を打開しようと無理やり笑う。
「ま、まさかホットドリンクを忘れて寒くて倒れたなんて事はないよね〜ッ!」
「ブホォ……ッ!」
クリュウの悪気なしの気まずい雰囲気打開の為の冗談は、見事にシルフィードの失態を射抜いた。おかげで心を落ち着かせようとお茶をすすっていた彼女は盛大に噴いてしまった。
「ゲホゲホッ! ゴホッ!」
激しく咳き込むシルフィード。こんな時いつもならクリュウは「だ、大丈夫ッ!?」とか言って慌てて駆け寄って来てくれるのだが、今回は彼のそんな助けは来なかった。不審に思って涙目の瞳を彼の方に向けると――彼は硬直していた。
「く、クリュウ……?」
「え? あ、まさか……本当に、ホットドリンクを忘れたの?」
そんな彼の言葉にシルフィードはボンッと顔を真っ赤に染めると、「あぅ……」とか「うぅ……」など言葉にない声を漏らしながらあたふたと慌て始める。そんな彼女の反応に確信を得たクリュウは――爆笑した。
「あはははははッ! ちょっとそれ本当なのッ!? コントとかじゃなくて? ま、マジで忘れたのッ!?」
爆笑する彼の笑い声に、もう穴があったら入ってしまいたい。なくても自分で掘ってでも入ってしまいたいくらい恥ずかしいシルフィードの顔はこれ以上ないってくらいに真っ赤に染まっていた。
「ほ、本当だ……」
搾り出すような返事に、クリュウはついに壊れた。腹を抱えて倒れ込むと、必死に笑いを堪えようとし始める。どうやら自分に不快な思いをさせないようにがんばっているようだが――肩が小刻みに震え、堪え切れずに漏れ聞こえる笑い声などの演技ではできないようなうそ偽りなしの《本当》の笑いに、むしろ逆に恥ずかしくなる。
(い、いっそ殺してくれぇ……ッ!)
生きた心地がしないというのは、きっとこういう事を言うのだろう。シルフィードは体育座りの体勢のまま恥ずかしくて顔が上げられずにいた。
「――でもさ」
現実逃避しようと思った矢先、そんな彼の声が聞こえた。本当は顔を上げるのも恥ずかしくて嫌なのだが、その声にはなぜか顔を上げてしまった。
顔を上げると、焚火の炎に照らされた彼の屈託のない笑顔がそこにあった。
「逆にそういうドジな所がある方が、親近感が湧くっていうか、一緒にいても緊張しないみたいな感じになれるんだよね」
そんな彼の言葉にシルフィードは驚いたように瞳を見開くと、なぜかうつむいてしまう。そしてチラチラと不安そうにクリュウの方を見る。
「どうしたの?」
「あ、いや、軽蔑してないか?」
「何で僕がシルフィを軽蔑する必要があるのさ」
「だ、だって、雪山にホットドリンクを忘れるなんてうっかり、普通はやらないぞ……」
「うん。普通はやらない」
「……それでも軽蔑しないのか?」
「しないってば」
「ど、どうして?」
「君のうっかりは今に始まった事じゃないし」
クリュウの見事な返しにシルフィードはがっくりとその場に崩れ落ちた。どうやら彼の中での自分の方程式ではイコールで結ばれているのはドジらしい。
彼の中での自分の評価が下がっていく。シルフィードはその事にものすごくショックを受けていた。
そんな一人落ち込むシルフィードに気づいた様子もなく、クリュウは言葉を続ける。
「でも完璧超人のシルフィにはこれくらいのドジさがあった方がかわいいと思うけどね」
「……なぁッ!?」
全く予期していない完全なる不意打ちに、シルフィは仰け反った。だがすぐにボンッと真っ赤になった顔を隠すように慌ててうつむく。そんな彼女をクリュウは不思議そうに首を傾げながら見詰める。
「どうしたのさ?」
「……何度も忠告しているが、君はもっと自分の言葉というものに責任を持て……ッ」
シルフィードの忠告の意味が全くわからず、首を傾げるクリュウ。相変わらず彼の天然さは神から授けられた天才の領域に達しているようだ。
一方、突然の不意打ちとはいえ動揺してしまった事に激しく自分を叱責するシルフィード。だがドキドキと激しく脈を打つ心臓は冷静さを保とうとする彼女の理性とは反比例に高鳴ったままだ。
(な、何なのだこの感覚は……ッ!?)
彼と一緒にいるとよく起きるこの感覚。今まで体験した事のないその感覚にはまだ慣れないし、なぜかこの先一生慣れない、慣れてはいけないような気がした。自分でもその理由はわからない。
数回深く深呼吸を繰り返し、ようやく平静さを取り戻したシルフィード。その途端、緊張が和らいだせいか、不覚にもぐぅ〜と腹が鳴ってしまった。その音はこの静かな空間にはよく響いてしまった。
カァッと顔が赤くなるのを感じた。そして、自分の空前絶後のドジさを激しく呪う。不覚にも、彼の前なんて――焦り過ぎてなぜ彼の前だとダメなのかという理由については、今の彼女には考える余裕はなかった。
顔を赤らめてあたふたと慌てるシルフィードを見てクリュウはクスッと笑うと、道具袋(ポーチ)の中を漁った。そして、中から取り出したのはこんがり肉。
「ごめんね。採取クエストだったから食材とか全然持って来てなくて。今はこれくらいしかないんだ」
「あ、いや、私は全然構わないというか、むしろ大歓迎というか……」
「そう?」
クリュウはほっとしたような表情を浮かべると、こんがり肉二つを取り出して火に掛けた。このまま食べる事もできるが、できれば温かい状態で食べたい。焦げないように気をつけながら、器用に両手でそれぞれの肉を温める。その技術をじっと見詰めて来るシルフィードの視線がちょっと恥ずかしい。
そんなこんなで肉が温まる頃、洞穴の中には肉の焼ける香ばしい匂いが漂い始めた。その匂いにまた腹が鳴ってしまい、シルフィードは顔を赤らめる。
「もういいよシルフィ」
そう言ってクリュウは湯気が立ち上るこんがり肉を彼女に渡した。シルフィードはそれを受け取って礼を言うと、早速食べ始めた。相当お腹が減っていたのか、フォークやナイフなどで切り分けもせずに直接食べている。まぁ、それが本来のハンターの食べ方なのだが。
クリュウも直接かぶり付いて食べた。口の中に広がる肉汁が、すっかり減っていたスタミナをぐんぐんと回復させ、お腹も満たされていく。
普通の塩|胡椒(こしょう)での味付けのこんがり肉なのに、シルフィードはその肉が今までで一番おいしく感じられた。
それが空腹の為だったのか、それとも別の理由だったのか。わからないけど、とてもおいしかった。
お腹が膨れると気持ちも楽になるものだ。おかげでその後は話題に困る事なく、吹雪が終わるまで二人の会話は続いた。
彼と二人っきり。そんな状況にドキドキする自分に困惑しながらも、シルフィードはこの幸せな時間をたっぷりと楽しんだのであった。
吹雪が終わった頃、洞穴から出た二人を待っていたのは太陽であった。夏のように輝かしく暑さを感じるものではないが、それでもポカポカという温かさが心地良かった。とはいえ寒さは相変わらず。シルフィードは今度こそクリュウから分けてもらったホットドリンクを飲んで準備万端だ。
「じゃあ帰ろう」
「あぁ、そうだな」
屈託のない笑みを浮かべて歩き出す彼に小さく口元に笑みを浮かべながら、シルフィードもその後に続いた。
その帰路は何とも平和なもので、まるで雪山全体が二人の仲を邪魔しないように気を配っているのかと思うくらい一切モンスターが現れなかった。
そうして何事もなく無事に拠点(ベースキャンプ)に戻った二人。早速クリュウはアニエスに甘えられてしまい、シルフィードはそんな彼に苦笑しながら依頼分の雪山草を紐で縛って龍車に積んだ。他にも荷物を全部押し込み、これで任務完了だ。
荷物を積み終えると、二人は竜車に乗り込んだ。運転手にはクリュウが着き、アニエスも嬉しそうに「キュイッ♪」と鳴いた。
「しゅっぱ〜つッ!」
クリュウの掛け声にアニエスは「キュイキュイッ♪」と鳴き声を上げて歩き出した。縄で繋がれた竜車もそれに引かれて動き出した。
ガタガタと揺れる竜車の中、シルフィードは幌の隙間から遠くなっていくイルファ雪山を見詰めていた。
今回は心底自分のドジさを呪った。もう二度とこんな事がないように気をつけようと心に刻み――まぁ、結局またやらかすのだが。
本当に今回は最悪――いや、そうでもなかったような……
幌の向こうに見える彼の背中を見て、ドキッと胸が高鳴った。慌てて胸を押さえると、心臓がドキドキといつもに比べて幾分か早く脈打っていた。
「な、何なのだ一体……」
困惑しつつも、楽しそうにアニエスに話し掛けている彼を見て、ふっと頬が緩んだ。
(でもまぁ、楽しかったと言えば楽しかったな……)
肘を立て、すっかり青空に変わった空の下、シルフィードは天に輝く太陽を見上げた。その明るく柔らかな光を――彼に例えながら……
「か、かわいいのか……私は……」
彼に言われた言葉を思い出した時の彼女の笑顔は、年相応の少女の、幸せに満ちた最高の笑顔であった。