モンスターハンター ~恋姫狩人物語~   作:黒鉄大和

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第85話 幼なじみの想い ずっと見てたんだから

 イルファ雪山もついに閉山され、大陸の季節はすっかり冬本番。イージス村に面する海も曇り空の下で荒れ、主の乗らぬ漁船はその波に寂しく揺られる。

 曇天の空からは真っ白な雪がフワリフワリと舞い落ち、大地を幻想的な純白の絨毯(じゅうたん)に変えてしまう。

 木や家の屋根、野原や道にも真っ白な雪が降り積もり、イージス村はすっかり雪景色に染まっていた。村人達は降り積もる雪を屋根の上から下ろしたり、道に積もった雪を除雪したりなど、すっかり除雪作業に追われていた。家々の暖炉は今日もフル活動だ。

 雪が屋根の上に降り積もったクリュウの家の暖炉もまた、その一つだ。

 パチンと薪が火にあぶられて弾ける音が良く響くほど、家の中は静かであった。それもそのはず。今この家には住人は一人しかいないのだ。しかも、その一人はというと……

「ゲホッ! ゴホッ!」

 暖炉の火が薄っすらと明るい部屋の中、ベッドの上で横になりながら咳き込むのはクリュウ。赤らんだ顔に玉のような汗、辛そうな表情はまさに風邪の症状そのものだ。額には水と氷結晶を入れた熱冷ましの為の袋が載っている。

 最近色々と忙しかったせいで疲れが溜まっていたせいもあってか、クリュウは風邪を引いてしまって寝込んでいた。だが、そんな状態に陥っている彼の周りにはいつもの騒々しい少女達の姿は一人もいなかった。

 大陸全体が雪景色に染まっていても、モンスターからの被害は減る事はあってもなくなる事はない。運悪く、フィーリア、サクラ、シルフィードの三人はそれぞれ別任務で村を出ている。人気者というのは忙しいものだ。

 一方、そんな三人に対して全然人気などないしがないルーキーであるクリュウは、こんな感じで風邪状態。何とも情けない事この上ない。

「み、水ぅ〜……」

 風邪の時はのどが渇きやすい。しかし枕元の小机に置いてあったヤカンにはもう水は入っていない。すでに全部飲み終えてしまっていた。仕方なくベッドから起きる。すると、玄関が開く音が聞こえた。続いて足音がゆっくりと近づいて来る。それを聴いて、クリュウは小さく笑みを浮かべた。

「クリュウッ!? あんた何起きようとしてんのよッ! 病人は寝てなさいってばッ!」

 ドアを開けた直後、起き上がろうとしていたクリュウを怒鳴りつけたのはエレナ。手には様々な食材の入った袋が握られている。

「そんな事じゃ治るものも治らないでしょッ! さっさと寝なさいッ!」

「……あ、でも水が」

「水くらい私が持って来てあげるからッ! あんたは寝てなさいってばッ!」

 そう言ってエレナはヤカンを引っ掴むと、バタバタと急いで台所へ消えた。クリュウは素直に彼女の言う事を聞いてベッドに戻ると、横になる。すると、そこへバタバタと足音を立てながらエレナが戻って来た。手には水がたっぷりと入ったヤカンが握られている。

「ほらッ! 持って来てあげわよッ!」

「あ、ありがとう……でも、息を荒くするまで急がなくても良かったんだけど……」

「べ、別にそんなの私の勝手でしょッ! 文句あんのッ!?」

「……いえ、ございません」

 顔を真っ赤にして怒るエレナに、クリュウは返す言葉もない。そもそもこっちは看護されている身なので、逆らえるような立場でもないのだ。

「と、とにかくあんたは寝てなさいよ。私はお粥(かゆ)でも作っといてあげるから」

「ありがとうエレナ。ごめんね、僕のせいで……」

 エレナだって暇な身という訳ではない。なのに自分の為にこうして時間を割いてくれ、その上食事まで……。本当に申し訳なかった。

 すると、そんなクリュウの言葉にエレナはまたも顔を真っ赤にした。

「べ、別にいいわよそんな事。仕方ないでしょ? フィーリア達はいないんだし、あんたの世話ができそうなのは私くらいしかいなかったんだから。仕方ないじゃないッ」

 そう言ってプイッと顔を背けるエレナ。だが、そんな彼女の言葉にさらに申し訳なさそうな表情をするクリュウを一瞥し、エレナはつまらなそうに唇を尖らせた。

「とにかくあんたは寝てなさい。いいわね?」

「わ、わかった……」

 エレナはドア付近に置いてあった食材の入った袋を引っ掴むと、不機嫌そうに部屋を出た。エレナが部屋から出て行くと、クリュウは言われた通りに横になる。そして、くしゃみを一発ぶちかまして情けなく鼻水を垂らした。 

 

 ドアの向こうで彼のくしゃみを聞いて、エレナはくすりと笑うと台所へ向かった。

 勝手知ったる幼なじみの家。台所へ入ったエレナは慣れた手つきで氷結晶冷蔵庫――氷結晶を上部分に入れて冷やす冷蔵庫――に必要な食材以外を入れると、棚などから食器を取り出す。すでにここは彼女にとって第二の厨房のような場所だ。

 小さな土鍋を釜戸の上に置き、台所の隅に置いてある薪を数本取り出して釜戸の中に入れる。続いて釜戸の横の小机の上に置いてある火打石と油に浸してある紙を取り、紙に火打石を打ち付けて火をつけると、釜の中にくべる。すぐに筒を構えて息を吹き込んで火を強くさせ、薪に引火させる。あっという間に釜戸の中は火に包まれた。その手つきは慣れたもの。さすがは料理人といったところか。

 続いて鍋に水と米を入れて温める。その間にネギを素人ではマネできないような包丁遣いで素早く切り刻む。

 温まったお粥にネギに塩、卵を入れてきれいに米に絡める。さらに彼女特製の調味料を加え、より完成度の高いお粥を作りあげていく。

 ハンターにとっての戦場が狩場だとしたら、料理人にとっての戦場は厨房だ。

 あっという間にエレナ特製、ネギ卵粥が完成した。

「これで良し。後は……」

 コップに汲み置きしてある井戸水を入れ、スプーンやお粥と一緒にトレーに載せる。エレナは後片付けを手早く済ませると、台所から出た。向かうのはもちろん彼の部屋だ。

 歩きながら、チラリと自分特製のお粥を見た。結構な自信作なのだが、果たして彼の口に合うだろうか――おいしいと言ってくれるだろうか。

「ば、バカな事考えないの……ッ!」

 おかしな事を考える自分に慌ててエレナは首を激しく横に振ってそんな考えを追い出す。

(ば、バッカじゃないのッ!? こっちは作ってあげてる身なんだから、食べて当然じゃないッ! 無理やりにでも食べさせてやるわよッ!)

 そう思ってはいても、やっぱり料理は人に喜んでもらいたいもの。できれば「おいしい」と彼の口から聞いてみたいのが本音だ。

「べ、別に私はあんな奴に喜んでもらいたいなんて、微塵も……微塵、くらいは思ってるかもしれないけど……でも大半は思ってないんだからッ!」

 一人でボケとツッコミを炸裂させまくるエレナ。相当動揺しているようだ。まぁ、今この家には自分と彼の二人っきりしかいないのだから、幼なじみとはいえ男であるクリュウを意識してしまうのは当然の事。特に、彼女の場合は……

(別に私はあいつの事を何とも思ってないんだからッ! こ、これは幼なじみとして当然の事なんだから、他意はないんだからッ!)

 そう自分に必死に言い聞かそうとしても、やっぱり意識してしまうのが思春期というものだ。特に彼女の場合は子供の頃からずっと一緒だったとはいえ、男の子が一番成長すると言ってもいい十代前半時代では離れ離れだった。その為に、急成長した彼をかっこいいと思った事は不覚にも何度もあった。自分の知っている彼と、成長した彼のギャップにグッと来てしまう自分が恥ずかしくて仕方がなかった。

「あぁもうッ! 何で私があんな奴の為に悩まなきゃいけないのよッ! バッカじゃないのッ!?」

 ついに思考が耐え切れなくなったのか、エレナは突然逆ギレした。元々考えるよりも先に行動するタイプである彼女に、思春期だからこその男女の悩みなど許容範囲外なのだ。

 不機嫌そうに足を進め、彼の部屋をノックもなしに入り込む。すると、ベッドに横になりながらクリュウは心配そうに彼女に声を掛けた。

「何かすごく怒鳴ってたみたいだけど……ゲホッ! だ、大丈夫?」

「う、うるさいわねッ! 病人は寝てればいいのよバカッ!」

 顔を真っ赤にして怒鳴るエレナの迫力に、クリュウはビクッと震えて布団に潜った。エレナの怒りは時にリオレウスよりも恐ろしい。

「ほら、お粥作って来たんだから。さっさと食べなさい」

 そう言ってエレナは彼の枕元の小机にトレーを置くと、机の椅子を拝借してベッドの横に置いて腰掛けた。

「ほら、起きれる?」

 日頃の態度が実に女の子らしくなくても、こういう部分では女の子らしいエレナ。病人のクリュウを気遣いつつ、ゆっくりと起き上がった彼に小さく苦笑した。

「あんた、少しは体調良くなったの?」

「たぶん……昨日よりは熱も下がってるから……ゲホゴホッ!」

「咳は相変わらずみたいね。ちゃんとリリアの風邪薬は飲んでるの?」

「うん」

 幼いながらも優秀な村唯一の調薬師にして、これまた村唯一の薬屋兼道具屋を経営しているリリア・プリンストン。彼女が調合する薬は好評で、風邪薬などは特に需要が高い。彼女のおかげでこの村の風邪患者が風邪を治すまでの期間が大幅に減少した事は、彼女の功績の一つだろう。

 だが、いくら優秀な調薬師だとしても、自然の力には敵わないらしく――現在彼女もまた風邪でダウンしていた。正確には、ダウンした彼女を看護していたクリュウに移ったというのが現状である。

 そりゃいくら風邪を引いた身だからとはいえ、一日中クリュウにベッタリして話し相手になってもらったり、一緒に寝てもらったり、一緒にお風呂に入ろうとしたり(これはもちろん当時村にいたフィーリア達の大反対を受けて阻止されたが)すれば自然と彼にも移ってしまうのは当然の事。しかも元来の優柔不断な性格から彼女の願いを断る事もできずに体調を崩していても彼女の看護を続けた結果が――こういう状態であった。

「ったく、調薬師とか言いながら風邪でぶっ倒れて、あんたにも移すなんて呆れちゃうわよ」

「……そう言わないでよ。いくら優秀な調薬師と言っても、リリアは子供なんだからさ」

「へぇ、いつも思うけどあんたって良くリリアの肩を持つわね」

 ジト目で睨んで来るエレナに、クリュウは寝汗をタオルで拭いながら苦笑を返す。

「別にそういうつもりじゃないけど……」

「ふぅん。ロリコンなんじゃない? あんた」

「違うよッ! それは断じて違うッ!」

 風邪で体力的に結構厳しい体調であっても鋭くツッコミを返して来るクリュウを見て確実に回復していると悟ったエレナは小さく口元に笑みを浮かべると、お粥の入った小さな土鍋のフタを開いた。途端に白い湯気が解放されて辺りに溶け込み、続いておいしそうな匂いが辺りに充満する。

「うわぁ、おいしそうだね」

「フン。お世辞なんていらないわよ」

「素直な感想を言っただけなんだけど……」

 相変わらず素直じゃないエレナに少し呆れつつも、本当においしそうなお粥を見て小さく微笑む。それを見て、エレナも彼からは見えない位置で小さく微笑みガッツポーズした。

「結構熱いから気をつけないとね」

「わかった」

 注意を聞いて早速お粥に手を伸ばそうとするクリュウ。すると、そんな彼の手を突然エレナは制止した。どうしたのと言いたげな彼の視線を感じながら、エレナはスプーンを手に取ると、お粥をそっとかき回す。下の方のまだ熱々のお粥を上にし、適温になった上の部分を下に潜らせる。こうすると全体が満遍(まんべん)なくちょうどいい温度まで下がるのだ。

 熱さも幾分か和らいだ事を確認するとスプーンで一口分お粥をすくう。そして、自分の口元に持って来ると、今度はフゥと息を吹きかけて仕上げとばかりにさらに食べやすい温度にまで下げた。そして――

「ほら、口開けなさい」

 そう無愛想に言ってズイッとスプーンを突き出すエレナ。この彼女の予想外の行動に驚いたのはスプーンを向けられたクリュウだ。

「えッ!? あ、いや、一人で食べられるよぉッ」

「いいから、さっさとしなさい」

「で、でも――ゲホッ! ケホゴホッ!」

「ほらぁッ! そんな状態のあんた一人に任せておけないわよッ! さっさとしなさいッ!」

「だ、大丈夫だよぉ……」

「何よッ! 私が作った料理なんか食べられないって言うのッ!?」

「そ、そういう訳じゃ……」

「あぁもういいわよッ! 別に無理に食べなくてもいいものッ! 片付けるッ!」

 ついに怒り出し、本当に片付け始めるエレナに根負けしたクリュウが慌てる。一日三食しっかり食べる彼にとって、例え一食抜きだとしてもそれはかなり辛いのだ。

「わ、わかったッ! 食べるからッ!」

「《食べるから》?」

「食べさせてくださいッ!」

 男としてのプライドなど、彼女の前では無力であった。プライドの空砲では何も出来ないし腹も膨れないのだ。

 ついに屈服した彼を見て、エレナは一転して楽しそうな笑みを浮かべてご機嫌になる。子供の頃からクリュウは彼女の尻に敷かれ続けていただけあって、彼女もまたクリュウを屈服させるのが楽しくて仕方ないのだ。何という幼なじみの関係であろうか。

「ふぅん、じゃあ仕方ないわね。食べさせてあげる」

 エレナは本当に楽しそうな笑みを浮かべてウキウキと片付けようとしていたお粥を小机に戻す。一方のクリュウは自分の中で何か大切なものが折れた気がして少しだけ落ち込んでいる。二人の間にはかなりの温度差が発生していた。

「ほら、この私が直々に食べさせてあげるんだから、感謝しなさいよ」

 本当に楽しそうな笑みを浮かべるエレナを見て、クリュウは苦笑しながらもそんな相変わらずな幼なじみを見て少しだけほっとしていた。

 考えてみれば、エレナとこうして二人っきりというのはずいぶん久しぶりな気がする。いつもいつもフィーリア達と一緒に行動していたし、彼女達が留守だとリリアが存分に甘えて来るからだ。

「ほら、口を開けなさい」

 先程と同じ要領で冷ましたお粥を載せたスプーンをズイッとクリュウに向けるエレナ。ただ、先程と違って表情はかなり楽しそうだ。そんな彼女に逆らう事などクリュウはもちろんできず、素直に彼女の言う事に従って口を開く。

 エレナは少し緊張したように一度大きく深呼吸すると、そっとスプーンを彼の口の中に入れる。そして、彼の唇がしっかり閉まってからスプーンを引っこ抜く。スプーンに載っていたお粥はきれいに消えていた。

「ど、どうよ?」

 もぐもぐと咀嚼(そしゃく)している彼を不安げに見詰めるエレナ。おいしいのか、それともそうでないのか。料理人としての誇り――乙女としての誇りが試される時だ。

 じっくりと味わうように食べるクリュウ。十分に味わった後にゴクリと口の中のお粥を全部呑み込んだ。そして、

「うん。すっごくおいしいよ」

 素直な感想を笑顔と共に放つと、エレナはほっとしたような表情になった。そんな彼女を見て、さすがプロの料理人だなぁと改めて彼女のすごさを実感した。幼なじみとはいえ、進む道は全然違う。しかも自分はまだ経験が少ないルーキーなのに対し、彼女は通の間では有名になるまでに料理の腕を上げている。分野は違うとはいえ、素直に尊敬できた。

 ただし、彼女が料理の道を目指すきっかけになったのが昔彼自身が彼女の料理を絶賛した事。彼に喜んでもらえるように彼女が日々よりおいしい料理を作る為に努力している事などは彼は知らないだろうし、彼女自身も彼に打ち明けるつもりはない――もちろん恥ずかしいからだ。

 エレナは彼の口に合った事にほっとしたような表情を浮かべていたが、すぐにいつものようにプイッとをそっぽを向いてしまう。

「当然でしょ。この私が作ったんだからまずい訳ないじゃない」

「そ、そうだね」

 こんな素直じゃない自分は、あまり好きではなかった。素直に《おいしい》と言われたら《ありがとう》と笑顔でお礼を言う事がなぜできないのか。特に彼の前だといつも以上に素直になれない。なぜそうなってしまうか、その理由はわからない。

 いつもいつもこうして素直じゃない、女の子っぽくない態度をしていても彼は呆れずにずっと傍にいてくれる。その理由が、子供の頃からの付き合い、つまり幼なじみだからなのか。それとも――

 ブンブンブンッと激しく頭を横に振って不覚にも過ぎってしまった考えを一生懸命追い出す。その可能性はない。断じてない。絶対にない――そう、必死に思う自分がいた。

 でも、悪い気はしない。

「ほら、次よ次」

 それから、エレナはどこかご機嫌そうにクリュウにお粥を食べさせ続けた。クリュウは正直かなり恥ずかしそうだったが、逆らえる立場でない事は重々わかっているので素直に従っていた。

 彼女の手際の良さやお粥の美味さが功を奏し、お粥がすぐに食べ終わった事がクリュウの救いであった。ちなみに「お代わりはいる?」と彼女に問われが、クリュウは丁重に断った。

「とにかく、あんたは寝てなさい。看護は私がちゃんとやってあげるから――言っておくけどこれは幼なじみとして当然の事をしてるだけだからね。他意はないんだからねッ!」

 そう言って、エレナは空になった食器を引っ掴むと部屋から出て行った。ようやく静かになった事で安堵するクリュウは布団を肩まですっぽりと被ると、少し寝ようと目を瞑った。

 

 台所に戻ったエレナは慣れた手つきで食器洗いをする。調理から給仕、後片付けに掃除、そして店の経営などを一人でこなす彼女にとって、食器洗いなど日々の仕事の一つに過ぎない。料理や家事が得意な方であるフィーリアの倍近い速度でプロであるエレナは家事をこなしてしまう。

 普段は女の子らしくなくても、意外と所有スキル自体は一番女の子らしいエレナ。

 食器をキアの実でできたスポンジで磨きながら、エレナはつい口元に笑みを浮かべてしまう。思い出すのはさっきの彼の言葉。

 ――すっごくおいしいよ――

 その言葉を思い出すだけで、自然と笑みが浮かんでしまう。慌てて笑顔を引っ込めるが、しばらくするとまた勝手に口元が緩んでしまう。

「も、もうッ! 集中しなさいエレナ・フェルノッ!」

 軟弱な自分を正そうと喝を入れるが、結局笑みが浮かんでしまう所を見ると効果はなかったようだ。だが、そんな状態であってもしっかりと皿を洗い上げる所はさすがは職人だ。

 食器洗いを片付け、エレナはピカピカになった食器を見て満足そうにうなずく。次に、まだ洗っていないまな板を軽く水洗いし、再びテーブルの上に載せる。続いて食材などが入った袋から取り出したのは新鮮な氷樹リンゴ。エレナはそれを手際良く流れるような包丁捌(さば)きで皮を剥くと、八等分に切り分ける。あっという間に食べやすい大きさのリンゴが完成した。

 エレナはそのうちの一つを摘んで口に放り込むと、咀嚼しながら皿に盛ったリンゴを持ってクリュウの部屋に向かった。

「クリュウ、リンゴ剥いて来てあげたわよ。百回くらいお礼の言葉を言いなさいよ」

 そんな調子で部屋に入ったエレナだったが、すぐに口を閉じた。その視線の先では、クリュウが横になって小さな寝息を立てていた。どうやら眠ってしまったらしい。

「何よ。せっかくリンゴ剥いてあげたってのに」

 エレナはつまらなさそうに唇を尖らせると、部屋の中に入って先程の小机にリンゴの載った皿を置くと、椅子に腰掛けてため息した。

「まったく、人が看護に奔走してるのに、のん気なもんよね」

 グチを言ってみるが、彼からの応答はなかった。エレナは益々つまらなさそうに唇を尖らせ、リンゴをさらに一切れ食べた。

 リンゴをくわえながら、ふとエレナは眠る彼の寝顔を覗き込んでみた。スゥスゥと小さな寝息を立てて眠っている彼の寝顔は、思った以上にかわいかった。不覚にもドキッとしてしまった。

「ふ、フンッ。大人しく寝てる分にはまだかわいいもんよね。いつもはギャーギャー口やかましいクセに」

 腕を組んでそっぽを向くが、その頬は確実に赤らんでいる。チラリともう一度エレナは彼の寝顔を見てみる。元来の女顔が加わった彼のその無防備過ぎる寝顔は、ある意味かなりの威力を放っている。フィーリア辺りが見たら確実に鼻血のオンパレードだろう。

「で、でも本当にこいつ、女の子みたいな顔してるわよね……それもかなりの美少女の」

 見れば見るほど彼は男にしておくのにはもったいないくらいのかわいらしい顔立ちをしている。しかしだからと言ってひ弱なイメージとは違った、男のかっこ良さも見え隠れする顔。正直、彼が本気で女を目指したらそこら辺の女子じゃ太刀打ちできないかもしれない。自分の立場も危ういだろう――まぁ、本人は完全に男方向に突き進んでいるようなのでそんな事はないだろうが。

 でも例え顔が女の子っぽくても、いつもいつも頼りなさそうな雰囲気だとしても、自分はちゃんと知っている。彼がそこら辺の男子よりも、ずっとずっとすごい少年だって事を。

 誰も知らない。自分しか知らない彼の姿。

 子供の頃、大人を連れずに森に彼を引っ張って入った時、森の中で足を挫いてしまった事があった。その時、まだその頃は自分よりも身長が低かったのに、彼は必死になって自分を負ぶって村まで連れ帰ってくれた。

 子供の頃、父親に激しく怒られて家を飛び出して森に飛び込んでしまった時、村人総出でも見つからなかった自分を彼は迷わずに見つけてくれて、一緒に父親に謝ってくれた。

 子供の頃、森の中でランポスに襲われた時、自分の身長くらいの長さの枝を振り回して応戦し、怖くて泣いてしまっていた自分を必死に逃がしてくれた。

 子供の頃、今とは逆で自分が風邪を引いてしまった時、一日中ずっと看護してくれた。

 誰も知らない、自分だけが知っている彼の姿。

 彼の成長を、ちゃんと知っている。

 だって――ずっと見てたんだから……

 子供の頃から、ずっと、ずっと……

「――あんたの事、ちゃんと見てるんだからね」

 自然と口から漏れたその言葉は、どこか嬉しそうな声色だった。

 彼のサラサラとした緑色の髪を優しく撫で、エレナは小さく笑みを浮かべた。その笑顔はいつもの勝気な性格をした彼女からは想像も出来ないような温かい、優しくて可憐な笑顔だった。

「あんたは昔っから無茶ばっかりして、怪我したり泥だらけになってもバカみたいに笑ってて。私の気も知らないで、本当にバカなんだから」

 そう言うエレナの顔は、先程までの笑顔は消えてどこか寂しそうな表情に変わっていた。

「いつもいつも心配してるこっちの身にもなってよ。お願いだから、無茶しないでよ」

 それは、彼女の心からの願いだった。

 いつもいつも誰かの為に自分から危険に飛び込もうとする度を越えたお人好しバカ。

 でも、そんな不器用なまでに真っ直ぐな彼の事は、嫌いではない。好きか嫌いかと問われれば、口では嫌いとは言いつつも、心の中では好きだと断言できるだろう。ただし、それが恋愛感情かと訊かれれば、それは違う……と、思う。

 最近、自分の心がよくわからなくなってきた。

 確かに彼はかっこ良くなったし、昔よりもずっと頼りになる。今でもまぬけな部分はまぬけだが、それを差し引いても彼は《男の子》に成長している。そんな彼を見て、自分の中に少しはある《女の子》の部分が多少なりとも刺激されているのは事実だ。

 でも、自分の胸の中でドキドキと高鳴るこの鼓動。これは本当に《恋》なのだろうか?

 絶対に違う。口ではそう言っていても、本当にそうは断言できない自分がいる。

 結局、この高鳴りの正体はわからないままだ。だけど、別に嫌という訳ではない。むしろ、胸が温かくて、すごく心地が良い。

 まだこの想いの正体は自分ではわからない。だけど、いつかその正体がわかるとしても、今はこうしてこの温もりに身を委ねておきたかった――こんな弟のような幼なじみを、見守っててあげたかった。

 そっと、彼の手を握り締めた。その手は昔に比べてずいぶんと硬く、大きくなっていた。それだけ彼が男として成長しているのだろう。それがなんか、少しだけ切ない。彼が自分の知らない彼になってしまうのではないか。そんな不安はある。

 でも、彼はきっと変わらない。悪い意味ではなく、いい意味で今のまま、もしくはそれ以上になるだろう。そんな確信があった。

「――信じてるからね」

 それが何に対しての意味なのかは、それは彼女しか知らない。

 ただ、こうして彼の手を握り締めている彼女は、いつもの男勝りな性格で暴力を振り回す破天荒な厄介少女ではなく、純粋に幼なじみの安否と幸せを願う、一人の心優しい少女であった。

 

 そのしばらく後、エレナはクリュウが目を覚ました事に気づかず手を握り締め続けてしまった。そんな彼女に不思議に思った彼が声を掛けた途端、彼女は顔を一瞬で真っ赤に染めると音速の鉄拳を彼に撃ち込んだ。

 その強烈無比の一撃に、せっかく目覚めたクリュウは気を失ってしまうのであった。

 

 それから数日後、フィーリアやサクラ、シルフィードが任務を終えて帰って来た。その頃にはクリュウの体調も全快し、笑顔の花を辺り一面に振りまいていた。その笑顔に、疲れ切っていた三人がどれだけ癒されたかは想像できないだろう。ちなみにリリアも全快していたので結局は彼女に振り回される事になったのだが。

 全てがハッピーエンド……とは、ならなかった。

「ケホッ! コホッ! うぅ〜……」

 今度はエレナが風邪でダウンしてしまった。まず間違いなくクリュウが原因である事は言うまでもない。

 先日と立場が逆転し、クリュウが彼女の看護に奔走する事になったが、その度に「あんたのせいでしょッ!? このバカクリュウッ!」と彼女の鋭い一撃を叩き込まれるハメとなった。

 不運な事に、風邪による損害は彼女の基本戦闘能力には一切効果がなく、それから彼女が全快するまでの一週間、エレナの家からは一日最低五回はクリュウの悲鳴が木霊する事となったのであった。


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