その戦いが亜空間である【胎界】でおこなわれたのは、街の住人たちにとって幸運だった。
さもなくば地上は瞬く間に焦土と化していただろう。
一撃がぶつかり合うだけで空気は爆ぜ、霊力の余波が周囲を破壊し尽くしていく。
もはや諸人が立ち入れる隙など無い。
超常の域に達した者だけが踏み込むことを許された戦域。
古の時代ならば神話として語り継がれていたかもしれない激闘は、すでに数時間に及んでいた。
「素晴らしいわ雄護! 力の規模、技のキレ、そして何より折れることのない精神力! すべてにおいて、あなたは優れている! ああ、やはり欲しい! 私はあなたが欲しい!」
威刃羅は興奮の絶頂にあった。
これほどまでに同格に渡り合えるオスに出会えるとは。
賛美せざるを得ない。より強く求めざるを得ない。
これほどまでに番として相応しいオスは存在しない。
威刃羅の絶え間ない迫撃にも、雄護は一切の怯みを見せず対応してくる。
少女たちとの霊交練成によって得た、新たな力を使って。
赤い墨による破壊力が大技を消す。
白い墨による超速の一撃が相手にダメージを蓄積させていく。
黄色い墨による特殊防御が必殺の技を封じる。
雄護は異なる色の力を的確に使い分け、着実に威刃羅を追い詰めていった。
だが威刃羅は知っている。その三色の墨の力が無限ではないことを。
使えば使うほど、消耗していく。
各色に応じた少女たちと霊交練成をしなければ、その力は補給されない。
だからこそ威刃羅は決闘の前夜に護衛の少女たちを潰しにかかった。
戦いの最中で、雄護に力の補給をさせないためだ。
娘たちは仕留め損なったものの、結果的に威刃羅が最も望んだ状況となった。
現時点で、互いの力は拮抗している。
だが戦いが長引けば長引くほど劣勢に陥るのは雄護だ。
どこかで必ず異色の墨が底を尽き、使えなくなる。
その瞬間を、威刃羅は狙っていた。
そして、ついにそのときが訪れた。
赤い墨も、白い墨も、黄色い墨も、出ない。
気づけば雄護は元来の黒い墨のみで戦っていた。
尽きたのだ、異色の墨が!
「(楽しい時間も終わりのようね雄護。名残惜しいけど、決着をつけましょう!)」
もはや雄護に威刃羅の艶術を無効化する
第四等級とここまで戦った彼に最大限の敬意を表しよう。
ゆえに己が誇る究極の技にて、この決闘に幕を閉じる。
──艶術・極限解放【
威刃羅が身につける赤いドレスが、白色へと変わる。
それはまさに花嫁衣装であった。
「終わりよ雄護。これであなたは、もう私しか愛せない」
すべての雌鬼が用いる幻惑の魅了。
この技は、その極致である。
いかなる人間であろうと、畜生であろうと、種族の垣根を越えて、威刃羅を最愛の存在として求めずにいられなくなる。
これこそ、威刃羅が第四等級として手に入れた奥義であった。
「さあ、雄護、私を抱きしめて! 誓いの口付けを交わしましょう!」
勝利に酔いしれながら、威刃羅は腕を広げる。
愛しい男との熱い抱擁と濃密な接吻に期待しながら。
返答は斬撃であった。
「ガハッ!?」
血飛沫で白いドレスが鮮血に染まる。
「バカ、な!」
威刃羅は目を見開いて混乱する。
なぜ、雄護はいまだに鬼哭刀を構えている?
なぜ、こちらの敵意の目を向けたままでいる?
「ありえないありえないありえない! なぜなの雄護! なぜ、私に魅了されていないの!」
「なぜ? そんなの、決まっているだろう」
鬼哭刀の切っ先を向けて、雄護はさも当然のことのように語る。
「お前が心底嫌いだからだよ」
「なっ……」
雄護の言葉で、威刃羅はさらに困惑する。
嫌い。そんな一言で振り払えるような魅了ではない。
好悪の感情を無視して虜にしてしまう、洗脳のごとき力だというのに。
「それがお前の切り札のようだが……残念だったな。俺には効かない。お前に対する嫌悪感が強すぎて、錯覚でも『愛しい』と思った瞬間に吐き気がする。それで正気に戻る」
「そんな……精神力だけで、私の魅了を破ったっていうの! ふ、ふざけないで! これは私の奥義なのよ!」
「知るか。お前に対する感情は殺意しかない」
「っ!?」
金色の眼光が威刃羅を射貫く。
燃え盛るような憤怒を前に、威刃羅は思わず後退する。
「お前は、羽月を、ユアを、七乃花を……俺の大切な存在を傷つけた。そんなお前を愛すはずがない。滅ぼす以外の選択がない。この胸に宿るのは、お前への憎しみだけだ」
「……そう。だったら、あなたのお気に入りの娘たちで堕落させてあげる!」
最大の奥義を、ただの精神力で撥ね除けられて、威刃羅のプライドはズタズタに引き裂かれた。
だから、もはや意地であった。
その者が最も望む幻を見せてやろう。
雌鬼にとって初歩的な幻惑の魅了。
初歩であるがゆえに、滅法有効に働く場面もある。
まさしく、いまがそうだと判断した。
「(堕ちろ! 堕ちてしまえ! 私の魅了で敗れろ!)」
今頃、愛しの3人娘に扇情的に迫られる幻を見ていることだろう。
癪ではあるが、それで雄護を我が物にできるのであれば、もはや手段は選ばない。
今度こそ勝った。再び勝利を確信する。
「解釈違いだな」
「……は?」
しかし、またしても威刃羅の魅了は撥ね除けられた。
雄護は涼しい顔で、さも呆れたように溜め息を吐く。
「ただ淫らに誘惑することしか思いつけないのか? 何もわかっていないな。本物のアイツらのほうがずっと魅力的だし、ずっとかわいい」
「な、何ですって」
「羽月は恥じらいながらも情熱的に求めてくるし、ユアは意外と従順で尽くすタイプだし、七乃花は幻以上に妖艶に迫ってくる」
この数日、雄護は娘たちと幾度も心と体を重ねてきた。
現実と幻の違いなど容易に見抜けるし、偽物の彼女たちで堕落したいなどと思わない。
「どれだけ人の姿を真似ようが、やはりお前の本質はケダモノだ威刃羅。相手を貪ることしか考えていない。他者を思いやらない一方的な欲望を持つ者に、惹かれる生き物など存在しない」
「何を、言って……」
「俺もずっと間違っていた。自分の欲望に呑まれることを恐れて、彼女たちをずっと遠ざけていた。でも、それは俺の弱さだったんだ。気づいたのさ。本気で相手を思いやっているなら、いっときの衝動に負けたりしない」
同じ人間でも、異性とはやはり別の生き物だ。
話すだけで、触れ合うだけで、何が起こるかわからない。理解できない者は怖い。
だから遠ざけることが一番賢い選択だ。自分の身は自分で守るしかないのだから。
だが、逆だった。
相手が何者かわかれば、どんな思いをいだいてくれているか知れれば、恐れることは何もなかった。
その瞬間に、異性は数少ない理解者として、自分以上に心強い味方になってくれるのだ。
「ひょっとしたら、それこそがお前が欲している『愛』ってやつなのかもな、威刃羅」
「……よく、わかったわ。あなたが私のモノにならないってことがね」
威刃羅から笑みが消える。
輝くような美貌に気品のカケラはすでに無い。
あるのは、ここまで
人ならざるモノとしての禍々しい気性が表情から滲み出す。
「私を愛さないのなら、もう、お前などいらない! 喰らい尽くして私の糧にしてやる! そして私はさらなる進化を果たす!」
歯を剥き出しにして威刃羅は吠える。
ここからは決闘ではなく、ただの狩りだ。
「殺してあげるわ雄護! 私を愛さなかったことを後悔しながら死になさい!」
威刃羅は残った霊力をすべて練り上げる。
向こうに殺意しか無いのなら【禁華聖罰】だけで、あっさりと決着がつく。
終わらせてやる。
体を八つ裂きにして、バラのように鮮血で染め、苦痛に苛まれる中で犯し尽くし、骨も残らず貪ってやろう。
久しく忘れていた雌鬼としての衝動に突き動かされながら、威刃羅は艶術を発動させる。
「艶術──【禁華聖……」
威刃羅の口が止まる。
威勢に満ち溢れていた顔が凍りつく。
「な? え?」
威刃羅は違和感に気づく。
出ない。艶術が、発動しない。
霊力すら、練り上げられない。
「お前は俺が消耗する瞬間を狙っていたようだが……それは俺も同じだ。ようやく隙を見せたな、雌鬼」
威刃羅の体が震える。
先ほどとは比べものにならない異質な眼光に貫かれて。
視ている。
少年が魔眼を光らせて、威刃羅を視ている。
だがその魔眼の輝きは……かつて見たことの無い色彩であった。
「何? 何なの、その眼は!」
退魔師の魔眼は3種類。金、赤、青しか存在しないはずだ。
だが、その魔眼はいずれにも該当しない。
絶えず、色が変わっていく。
あらゆる色が混ざり合ったような輝き。
極色の魔眼。
そう形容する他ない魔眼であった。
「何を、した? 私に、いったい何をした!」
その魔眼を前に、威刃羅は自分がひどく矮小な生き物になったような錯覚に陥った。
「何を、何を、視ている! やめろ、やめろ! その眼で私を視るな!」
声は恐怖に震えていた。
* * *
俺の魔眼に変化が起きている。それはわかっていた。
異なる魔眼の持ち主同士で霊交練成をした結果なのか。
いずれにせよ、肝心な扱い方がわからなかった。この夜までには。
羽月たちを傷つけた威刃羅に対する激しい怒り。それが鍵となったらしい。
異変した魔眼が見せるモノが何であるか、それを本能的に理解することができた。
威刃羅の体を泳ぐように動き回る無数の文字。
いまなら、それの正体がわかる。
「何を視ているだって? 教えてやるよ威刃羅。お前という存在を構成する『情報』そのもの……威刃羅という名の『世界/宇宙』さ」
魔眼は、本来であれば知覚できないものを知覚する。
緩やかな時間の流れを。敵の弱所を。全方位の視角を。
だが、この魔眼は次元が違う。
きっと、人間が知覚してはならないものを知覚してしまっている。
目の前の存在が保有するすべての情報。
それを文字として、俺の脳に理解させようとしている。
すべてといっても俺がいま視ているのは、ほんの一部の情報だけだ。
全情報を知覚しようとすれば、脳への負荷が凄まじいことになり、たちまち俺は廃人となるだろう。
だが問題ない。
俺の狙いは威刃羅から情報を引き出すことじゃない。
俺の狙いは、最初からひとつ。
威刃羅という『世界/宇宙』に、新たな『
「お前は、もう艶術を使えない。霊力も練れない。俺がそう『情報を書き足した』からだ」
指先を威刃羅に向ける。黒い墨が滲む指を筆のように動かす。
霊交練成によって、墨柘榴の力は進化し、異色の墨が使えるようになった。
同時にオリジナルである黒い墨にも変化が起きた。
相手の『世界/宇宙』に干渉して『情報』を書き足す。
そんな芸当ができるようになった。
「『一切の異能の使用を禁ずる』──そういう制約をつけた」
威刃羅を戦いで消耗させ、精神的に動揺させることで、ようやく文字の隙間に書き足すチャンスができた。
威刃羅はもはや、この書き足された『理』に逆らうことはできない。
「……ふざけないで。ふざけないでよ! 何なのよ、ソレは!」
硬直していた威刃羅が騒ぎ出す。
「そんなの、人間ごときが使っていい力じゃない! まるで……私たちが追い求めている神の力そのものじゃない!」
「それが、お前たちの真の目的か」
「あっ」
己の失言に威刃羅は顔面を蒼白にする。
もっとも、言葉にしなくとも俺の魔眼の前では筒抜けだ。
ハッキリと視た。
威刃羅の中に、激しい羨望と嫉妬が生じたのを。
魔眼を解除する。これ以上の使用は危険だと本能が告げていた。
だが、いまはこれで充分だ。
もっと訓練を重ね、精度を上げれば、いずれはさらに雌鬼から必要な情報を引き出せるだろう。
だが、どうしてもこれだけは確認せねばならない。
「3年前の大侵攻。アレは、お前たち第四等級の仕業か? そして……俺の母、黒井戸ヒナタを殺したのは何者だ?」
「……っ!?」
魔眼を使うまでもなかった。
威刃羅はあからさまに怯えていた。
雌鬼の頂点であるはずの、第四等級が。
「……言えない。言えるわけが、ないっ」
素直に口にすれば、どんな目に遭わされるか、わからない。そういう怯え方だった。
「お前に、わかるものか。不完全であることの苦渋と惨めさが! だから私たちは至るのよ! さらなる進化を重ね……
爪を突き出して、威刃羅が飛びかかってくる。
刃を一閃。
向けられた両腕を切断する。
「あっ……アアアアッ!」
両腕を失った威刃羅がみっともなく、のたうち回る。
「再生しない……再生しないよぉ! 死ぬの? 私、死ぬの? いやだ。いやだあああああ!!」
艶術も霊力も使えない第四等級など、もはや人の形をした害獣も同然だ。
獅子を狩るよりも容易い。
「ゆ、許してください……あなたに、服従しますっ。奴隷にでも何にでもなるから、見逃して……!」
「誇りすら、もう捨てたか雌鬼。美しくないな」
いまさら命乞いが許されるとでも、思っているのだろうか。
「その姿になるために、どれだけの命を奪ってきた。生き残るために、どれだけの退魔師を踏みにじってきた」
「ひっ、ひぃ」
「とうにお前は一線を越え過ぎている。生かす理由がひとつも無い」
墨柘榴を天に掲げる。
刀身で墨が渦巻く。
赤色、白色、黄色、三色の墨が。
「な、なぜ、その墨が! もう使い切ったはず!」
「いつ使い切ったと言った? この技を使うために、温存していただけだ」
三色の墨が混ざり合う。
異なる能力を持つ墨が、ひとつに結合していく。
「塵ひとつ残さない。いまの俺が使える最大の技で、お前を滅ぼす」
混ざり合った三色の墨に、さらに黒い墨を重ね掛けする。
異色の墨を呑み込んだ漆黒は、燃え盛る炎のように伸びて、巨大な生物と化す。
それは、多くの画伯が墨絵として描いてきた神話上の存在。
──墨柘榴・
すべてを黒く染め、すべてを無に帰す。
第四等級であろうと例外なく、黒き竜の
「い、いや……いやだあああああ!!」
「喚くな。お前が喰われる番が来た。ただ、それだけのことだ」
「助け……助けてぇ! 消えたくないぃぃぃ!」
「いいや消す。この世から一匹残らず、お前たちを滅ぼす。そして……」
終わらせてみせる。
俺の手で、この戦いを。
もう誰も、傷つかず、泣かないように。
解放してみせる。
この過酷な運命から、俺が愛する少女たちを。
「俺たちの未来に、お前は必要ない」
「う、うわあァァァァァァァァァァァッ!」
「喰え──【墨柘榴】」
竜が吠える。
威刃羅は瞬く間に黒一色の怒濤に呑まれ、跡形も無く消滅した。
* * *
威刃羅の消滅によって、バラ畑の胎界も溶けるように崩れ落ちていく。
現実世界へ戻る。
退魔庁の屋上から、眩い日の出が見えた。
悪夢のような夜が、終わった。
「こちら黒井戸雄護。第四等級・威刃羅を討伐した」
早速報告を済ませ、現実世界での状況を確認する。
とつぜんの雌鬼の襲来にも、退魔師も退魔庁も冷静に対応したようだ。
幸いにも、負傷者はゼロ。
俺たちの完全勝利だった。
「羽月。ユア。七乃花」
防護の結界を解いて、少女たちに声をかける。
「雄護、様……」
先に羽月が目を覚ました。
そっと、その白い頬に触れる。
「ありがとう。お前たちのおかげで勝てた」
羽月は瞳に一粒の涙を浮かべながら「よかった」と笑顔を浮かべた。
心を打ち明けて、少女たちとわかり合えたことで、手にした力と思い。
彼女たちを拒み、孤独のままでいれば、この未来はきっと無かった。
だから、この勝利は俺たち全員で掴み取ったものだ。
この朝を迎えられるように、これからも戦おう。
どれだけ戦いが苛烈さを増しても、彼女たちとならきっと乗り越えられる。
平和な未来を掴み取るための第一歩を、この日、俺たちは踏みしめた。