そろそろ、登場人物一覧を載せようかなぁ。
2208年3月5日22時34分 うお座109番星系中心宙域 病院船『たちばな』 某病室
「はい、ちょっと失礼しますよー」
柏木が手際よく、まだ中身の残っている合成樹脂製バッグを外し、新しいものをぶら下げる。
そらの左手に刺さっている点滴の薬液を取り替えているのだ。
本来、二人には点滴の必要などまったくない。いや、常人ならば点滴程度で済むはずがないのだが、二人の場合は必要ない、というべきか。
30分間も真空暴露していた人間がいたならば、普通は冷凍睡眠カプセルに入れられて地球の病院に送られるか、棺桶に入れられて地球の墓地に送られるかのどちらかだ。どちらにせよ、点滴の必要などない。
しかし二人は生きているどころか、戦闘から二日経った頃には元のような元気さを取り戻していた。折れた肋骨はくっつくまでにまだまだ時間がかかるものの、点滴を打つ理由にはならない。
では、二人が必要もない点滴を受けているのはなぜか。それはひとえに、二人に知られずに行動を制限するためだ。
あの日、二人の身に起きたことは、緘口令が敷かれたことによって上層部とごく一部の当事者だけの秘密になっている。
艦内の一般クルーはただの戦闘による負傷としか知らされていないし、他の艦に対してはあかねとサンディ王女の存在すら知られてはいけない。外国人だけでなく、日本人にも知られてはいけない。知れば、地球にいたときと同じことが二人の身に起きかねないからだ。
従って、病院船『たちばな』に移送したときも二人には冷凍睡眠カプセルの中に隠れてもらったし、病室をひとつ確保して他の人の目に触れないようにした。彼女たちに接触するのは事情を理解している柏木だけ、という徹底ぶりだ。
しかし、いくら周りが二人を隠匿しようとしても、彼女らが病院船内をブラブラと歩きまわってしまっては元も子もない。
彼女たちも自身の状況は分かっているはずだが、おてんば姫が好奇心で病室を抜け出さないとも限らない。
地球に降りて僅か二ヶ月で名古屋の街中を堂々と闊歩していたことを考えれば、有り得る事態だ。
そこで考え出されたのが、「点滴を打たせることでベッドから動けないようにする」ということだったのだ。
「ちょっとぉ、いつまで点滴受けてないといけないの? 私、退屈過ぎて死ぬぅ~」
当の本人は、不条理だといわんばかりに駄々をこねている。
ベッドについて数時間も経っていないのにこんな調子では、あまり長くはもたないだろう。時間としては既に深夜だというにこの元気ようだ、一般病室だったらモンスターパティエントとして追い出されること必至なのだ。
「そらさん、病室では静かにして下さい。隣にはあかねさんも寝ているんですよ?」
やんわりと注意するが、そらは構うことなく唇を尖らせて言った。
「いいのよ、あの娘は。今は自分の中のことで精一杯で、外の事なんて耳に入ってやしないわよ」
「……どういうことですか?」
「見れば分かるでしょ?」
顎だけであかねのベッドを指すそらに促されて、柏木はあかねのベッドにかけられていたカーテンをそっと開けた。
そこにいたのは、仰向けに横たわったまま、無表情で天井を眺めている美女の姿だった。
だらしなく垂れ下がった金色の髪は、散々掻き毟ったのかボサボサに乱れている。
疲労の色に塗れたその瞳に意志の気配はなく、ぼうっと虚空を見つめる視線は焦点も合っていない。
柏木は、彼女の目に覚えがあった。
「おいおい、これってまさかレイ「それ以上言ったら点滴の針で刺してチューブの反対側から息吹くわよ?」マジで死ぬからやめてください」
姫様は、ずいぶんと地球のスラングにお詳しいようだった。
「いやはや、よく私の言いたいことが分かりましたね?」
「私の周りには男性しかいなかったからね。デリカシーが無い人ばかりで本当に困ったわ」
「本当に地球語をよくご存知で。あかねさーん、簗瀬あかねさーん。点滴取り替えますんで、じっとしててくださいねー。あまり興奮すると、チューブの方に血が逆流しますからねー」
柏木は無反応なあかねにも一応声を掛け、返事を待たずに作業に入ってしまう。患者の了解を取らずに進めてしまう姿に、そらはなにやら胡散の香りを嗅ぎ取っていた。
「……ちょっと、なにこれ。なんか痛いんだけど、何を投与してるわけ?」
不審な物を見る目で睨むそらに、柏木は気にする素振りも見せずに平然と答えた。
「あー、今までとは違う薬を入れてるんで、最初は痛いと思いますよ。すぐに治まりますから」
しかしそらは胡乱な瞳で、「そうなんだ」と呟くだけでそれ以上は追及しなかった。
あかねの点滴を取り替えると、柏木はそそくさとそらの元に戻ってきた。どうにも、柏木も今のあかねに関わりたいとはあまり思わなかったようだ。柏木は回収したパックを手に持ち、手頃な位置にあった丸椅子に腰かけた。
「で。あかねさん、どうしちゃったんです? あんな茫然自失としている彼女は見たことないですよ。あ、分かった!篠田の野郎が湧き上がる性欲を持て余したあげk「ブーケの爪研ぎにされたい?」あ、すいません」
妄想を膨らませて激昂しかける柏木を冷たい声で黙らせる。しかし、眠たげに目を擦ったそらは、ひとつ大きな溜息をつく。
「あの娘に……真実を教えてあげただけよ……。あんたは、アレックス人の血を引いているって……」
「……へえ、あかねさんが、アレックス人の? そらさんは、どうしてそう思うんですか?」
段々と言葉が遅くなり、思考が鈍化していくさまを確認しながら、噛んで含めるようにゆっくりと問いかける。
「……分かるわよ……私は、イスカンダル人の末裔だもの……。彼女には、イスカンダル人の特徴が…………見えるもの」
「それじゃあ、簗瀬家の人は皆イスカンダル人の末裔ってことなのですか?」
「………………」
柏木の問いに、そらは答えない。
しばらく物音を立てずに様子を見ていると、そらの体が船を漕ぎ始めた。垂れた前髪を掻き分けて表情を窺うと、その瞼は閉ざされていた。
柏木はそらを起こさないようにゆっくりと椅子から離れ、あかねの様子を覗き見る。
思った通り、彼女も同じように静かに寝息を立てていた。
「やれやれ、ようやく効いたか。全身麻酔用の強力な奴なんだがね……薬が効きにくいのも、アレックス人の特徴なのか? まったく、異星人ってのはいったいどんな体の構造してるのやら。98%同じだっけ? 嘘だろ、絶対」
上半身を起こしたままぐっすりと眠っているそらをゆっくりと寝かしつけ、布団をきれいに掛け直すと、柏木は病室を後にした。
―――2時間後、後頭部を殴打されて気絶した柏木が病室で発見された。代わりにあかねとそらの姿はベッドから忽然と姿を消し、外された点滴針から垂れた薬液が床に大きな水たまりを作っていた。
そして同じ頃、船橋にて最下層デッキにある船外排出用の大型ダストシュートのうちのひとつが30秒間ほど「開放」に表示されるというエラーが起きていた。
◇
0時47分 うお座109番星系第七惑星『スティグマ』周辺宙域
カーニー司令が、本隊に続いて陽動艦隊への攻撃命令を発した頃。
惑星『スティグマ』を周回する岩塊の一つに身を隠していた本隊は、背後から突如現れたミサイルの反応に驚愕し、混乱した。
何も無いところに突如として現れたミサイルに、そして隠れていたはずの本隊が既に敵に発見されていたことに、そして攻撃を受けているにも関わらず敵の姿がレーダーに映っていないことに、彼らは狼狽を隠せなかったのだ。
ミサイル潜宙艦『ガレオモフィ』が放った破滅ミサイルに最初に気付いたのは、ドイツの『ペーター・シュトラッサー』だった。
波動砲戦隊形―――すなわち一列横陣で待機していた本隊は、岩塊に近い右側から『ストラブール』、『ニュージャージー』、『エリス』、『シナノ』、『ペーター・シュトラッサー』の順に並んでいた。一番岩塊から遠く、レーダーの視界が広く取れていた『ペーター・シュトラッサー』が、左後方から突き上げるように迫って来る大型飛翔体を感知したのだった。
「回避! 全力でここから離れろ!」
5隻の艦長はいずれも回避運動を命じる。
ガトランティス残党掃討戦の過程で鹵獲したミサイル艦を解析した結果、破滅ミサイルがとんでもない代物だということは判明している。星一つ消滅せしめる威力のミサイルを食らったらどうなるかなど、想像に難くない。
地球連邦軍が誇る最新鋭戦艦と空母、そして最大最強の戦略指揮戦艦は、艦隊としての統率もへったくれもなく文字通り蜘蛛の子を散らすように逃げだした。
しかし、ここで些細な問題が生じる。
波動砲による面制圧を目的として横一列に密着して並んでいた本隊は、下手に回避行動をとれば他の艦に衝突してしまう可能性があったのだ。
一番行動に自由がきいた『ペーター・シュトラッサー』は敵ミサイルと直角の方向、すなわち取舵45度に回頭して着弾個所から逃れた。『シナノ』と『ニュージャージー』はそれぞれ仰角45度と伏角45度、つまり上下方向に艦首を向けた。『エリス』は針路そのまま、前進して遁走を図った。
問題は、一拍だけ艦長が我に帰るのが遅れて、退避命令が遅れてしまった『ストラブール』だ。もともと左右を岩塊と味方艦に挟まれて一番身動きが取りづらい位置だった『ストラブール』が波動エンジンノズルからオレンジ色の輝きを灯したときには、前方方向には『エリス』、斜め上方向には『シナノ』、斜め下方には『ニュージャージー』が先に逃走を始めていた。
3隻のいずれかの後を追うことは2隻が同じ方向へ超至近距離で航行することになり、回避行動や対空戦闘を行う際に味方艦を巻き添えにしてしまう可能性があるため、好ましくない。しかたなく『ストラブール』は仰角90度、垂直方向に逃げることを決断した。
この一瞬の行動の遅れが、明暗を分けた。
『シナノ』が、『ニュージャージー』がパルスレーザー砲をミサイルに向け、弾幕を張って必死の抵抗を試みる。護衛戦艦『ビスマルク』に似て潜水艦のように凹凸が極端に少ない『ペーター・シュトラッサー』は、艦橋前面の収納カバーを開いて格納式連装衝撃砲を露出させ、波動エンジンから主砲へエネルギー回路を接続する。カバーを開く手間の要らない『エリス』は既に三番、四番主砲計8門の砲口を青く煌めかせ、衝撃砲を撃ち放っている。
それらの迎撃が功を奏したのか、はたまた破滅ミサイルにはまともな追尾機能が搭載されていないのか。
閉じた番傘のような、あるいは馬上槍のような形をした超大型ミサイルは軌道をわずかに外れ、本隊が隠れていた岩塊に着弾した。
弾頭が土煙を上げて岩塊に突き刺さり、脆い岩肌に身をうずめる。刹那、まばゆい光が生まれてミサイルの輪郭を消し、見る者の視界を奪う。
太陽を再現したような黄白色の光が、その大きさからは考えられないような熱量が、岩塊をあっという間に飲み込んで膨張する。
光の球がその体積を加速度的に増し、大きさが全方位に加速度的に増していく。
5隻はそれぞれの針路で、破滅ミサイルが齎した爆発に呑みこまれないように全速力で宙を駆けた。
波動エンジンノズルから伸びる光跡が、速度に合わせてその長さを増していく。艦の全長を越し、二倍の長さになっても、光球の表面は圧倒的な存在感で追い縋ってくる。
5隻の中で一番の速力を出しているのは、その幅広な巨体にアンドロメダⅠ級戦艦の波動エンジンを2基搭載している『エリス』。
次に速いのは、準第三世代艦ながらヨコハマ条約の対象外だったために搭載する波動エンジンに制限がなかった空母三隻。『シナノ』は第二世代型巡洋艦の波動エンジンを小型化して2基搭載することで、『ニュージャージー』『ペーター・シュトラッサー』は第二世代型主力戦艦の波動エンジンを改良することで第三世代艦よりも高速を実現した。
結果、一番遅いのは設計としては最新鋭のはずの『ストラブール』だった。
ついに、爆発球が『ストラブール』を捉える。
初動の遅れのせいで充分に加速しきることができず、迫りくるデッドラインを振り切ることができなかったのだ。
放射される熱で後部の装甲が溶解を始めても、『ストラブール』はまだ諦めずに前進を止めない。
しかし、艦尾から咀嚼するように、満ち潮が干潟を侵食するように、蛇が顎関節を外して大きなネズミをゆっくりと飲み込んでいくように、じわじわと獲物を併呑していく。
底なし沼に引きずり込まれるがごとき緩慢さで、ズブズブと『ストラブール』は光の中へ沈んでいってしまった。
やがて光球がその輝きを失って、宇宙がつかの間の平穏を取り戻した時、そこにはただひたすら何もない虚ろな空間だけが残っていた。
◇
同場所 1時09分
アレックス星攻略部隊偵察部隊旗艦 高速戦艦『パナエオーディア』艦橋
二隻の無人戦艦が放とうとしていた波動砲は間一髪、大戦艦が放った回転速射砲の猛攻によって阻止された。
断罪の緑槍の猛射は、一切の抵抗をせずに波動砲の発射シークエンスを整えていた無人戦艦に、無慈悲に突き刺さる。
いずれの艦の一撃がとどめになったか、艦首の砲口に纏っていた青い燐光がゆっくりと輝きを失っていく。行き場を失った膨大な波動エネルギーは最終収束装置を逆流し、突入ボルトを突き破って機関室内に躍り出た。洪水の勢いで噴き出すタキオン粒子の奔流は、触れるものすべてに三次元の崩壊を撒き起こしながら艦内を蹂躙した。
地球連邦軍最大最強の兵器の威力を嚥下した無人戦艦は、内から外へと三次元の崩壊を起こしていく。
熱病にうなされるように小刻みな震えを起こし、艦内の前部弾火薬庫から順番に次々と誘爆を起こす。
艦の到るところから爆発が噴き上がる様は、出血熱を起こした患者を思わせる。
爆炎で内部から艦を蝕まれ、無人戦艦の特徴的な杈状の艦体があっという間にバラバラに砕けていく。
最後にひと際眩しいディープブルーの輝きを放ち……後には一片のかけらも残さずに消滅した。
轟沈と呼ぶべき壮絶な、しかし美しい最後だった。
「戦艦は潰した、あとは雑魚ばかりだ! 一気に平らげてしまえ!」
戦艦二隻を撃沈させたカーニーは意気軒高だ。満足げな笑い声が艦橋に響く。目は愉悦の色に染まり、鼻息を荒くして戦況の推移を楽しんでいる。
しかし一方で、参謀長は冷や汗を袖口で拭って秘かに安堵の息を漏らしていた。
愚鈍で見たいものしか見たがらない司令は気付いていないが、敵の戦艦は今まで沈黙を貫いていたにもかかわらず、前触れなく踵を返し、こちらに青く輝く艦首を向けたのだ。
小型艦を逃がすために自らを犠牲にしたのであろう事までは推測がつく。
しかし、それならばあの青い燐光は何だったのか。
あれは、敵の起死回生の一撃だったのではないか。
参謀長には、自分たちがギリギリのタイミングで助かっていたように思えてならないのだ。
もし、他の艦もあのような兵器を持っているとしたら?
その可能性に思い至ったところで、参謀長は青ざめた表情をコロッと入れ替えた。
「司令、戦列を解いて敵を包囲しましょう」
「なに?」
「駆逐艦を先行させて前方に網を張り、大戦艦で後ろから獲物を追いこむのです。敵が全滅するさまを全方位から録画できれば、非常に見応えのある映像になること請け合いでございます」
参謀長は卑下た笑いを表面に張り付けながらカーニーに進言した。
カーニーの機嫌を損なわず、カーニーの琴線に触れるような言い方を以て司令の心を動かす、いつものやりかただ。その言いようはその都度違うが、今回の場合「より映像になる倒し方」の一点を突破口にして、艦隊を散開させようと考えたのだ。
敵戦艦が何をしようとしていたのか、真実はわからない。しかし、もしもあれが敵の起死回生の一撃だったとしたら、このまま左右2列縦陣で固まっているのは危険な可能性がある。
既に敵の本隊は破滅ミサイルの直撃で壊滅し、残るは眼前の小型艦ばかり。ここは敵があの青い燐光をもう一度煌かせる隙を与えずに、一気に包囲して握りつぶしてしまうのが得策だ。
だというのにカーニー司令は、
「ならぬ」
と、一言に斬って捨てた。
「何故です?」
「せっかく整然と並んでいる艦列を乱してしまったら、美しくないではないか」
見よ、とカーニーは指揮棒で正面を指し示す。
そこには、戦列を乱しながら必死に逃走する地球艦隊を挟撃する、二列の艋艟の群れがある。
地球艦隊最速である駆逐艦も高速艦のみで編成された偵察部隊は振り切れないらしく、ガトランティス艦隊が放つ鉄火の鉾をその身に受けている。
あやとりをするかのように緑色の糸が両者の間をやり取りし、そのたびに紅蓮の綿花が実を付ける。
「見よ、一糸乱れずに戦列を組む我が艦隊の勇姿を! いいか参謀長、殿下にお見せする記録映像は、ただ敵を殲滅する様子を取ればいいというものではない。それは、ずぶの素人がすることだ」
口元をヒクつかせながらも、まだ参謀長は外面を保とうと頑張っている。おまえはいつプロのカメラマンになったんだ、という呟きは卑屈な笑顔の下に懸命に押し隠しているのだ。
「殿下は、蛮族を誅滅するさまのみならず、股肱の臣が八面六臂の活躍をするさまを御覧になるのがお望みなのだ。我々は殿下の御期待にお応えして、完璧かつ華麗に敵を倒さなければならない」
その後もやれ「包囲して叩くのは獣がやることだ」とか、「我々は洗練されたガトランティス軍人、それもダーダー殿下揮下の精鋭だ」などと司令は立て続けに持論を展開するのを、参謀長は内心辟易としながら聞き流す。
カーニー司令のたちの悪いところは、言っていることが全部が全部嘘でたらめという訳ではないことだ。
確かに、ダーダー殿下率いるさんかく座方面軍は錬度が高く、中でもアレックス星攻略部隊に参加していた近衛艦隊は、実力と戦いの優雅さを兼ね備えた精鋭といえる存在だ。
戦場に美しさが求められる場面があることも、あながち間違いでもない。
出世していく上で、またライバルを蹴落とすためには、ただ勝つだけでは足りないことがある。
作戦の上手さ、撃破数と損害数の比率、また上司に好印象を与えるような映像の撮り方が昇進への下積みになることは、確かにあるのだ。
しかし今回は、明らかにそのような上司の機嫌取りはいらない場面だ。
此度の遠征の本命はアレックス星攻略戦であり、地球艦隊殲滅は前哨戦ですらない、寄り道のようなものだ。そのような瑣末な戦においては優雅さよりもすばやく戦闘を終結させて本隊に合流することと戦力の温存にある。
また、敵の数が少ない。ダーダー殿下の覚えをめでたくするには、もう少し敵の数が多いと見応えのある映像にはならない。
さらに、カーニーは艦隊再編成の際に司令部直衛艦隊参謀から偵察部隊司令に昇進したため、ダーダー殿下の次に偉い立場にある。もちろん最高齢で決戦部隊司令のウィルヤーグが最先任であり、年齢でいうとツグモに次いで三番目であるため正確にはもう少し立場は低いが、これ以上は年功序列であり、功績だけでどうにかなるものではない。つまり、これ以上の過剰なご機嫌取りは無駄なのだ。
カーニー司令は、年下ながら自分よりも先に司令の立場になったダルゴロイやミラガンに、劣等感を抱いているに違いない。だから今の立場に満足せず、ダルゴロィやミラガンより上に立とうともがくのだろう。
「……承知いたしました。現状のままで参りましょう」
参謀長は、引き下がるしかなかった。ダーダー殿下に覚えめでたくいようと媚を売るカーニー司令と、その司令を持ち上げることで自分の意のままに操ろうとしている自分がダブって見えて、自分に他人を責める資格はないと己が身を恥ずかしく思ったのだ。
引き下がる参謀長を尻目に捉えて唇の端を上げつつ、カーニーは眼前で進行しつつある地獄絵図を喜々として眺める。
カーニーの座乗艦である高速戦艦『パナエオーディア』は右側の艦列の最後尾に位置しており、戦場を全て見渡すことができた。
戦闘開始前、敵は小型艦を先頭に12隻が単縦陣を組んでおり、こちらに背を向けて航行していた。
こちらは二列縦陣で敵艦隊を左右から挟み込み、宙が緑一色に染まるほどの濃厚な砲撃を加えた。
結果、一番艦、四番艦と最後尾の大型艦二隻が爆沈、二番艦、五番艦が艦列から落伍、九番艦、十番艦が大破炎上中。いまだに戦闘を継続中なのは三番、六番、七番、八番艦だ。しかし、いずれも被弾は蓄積されていて至るところから狼煙のような黒煙を噴き上げている。大破あるいは撃沈までそう時間はかからないだろう。
対してこちらは大戦艦には一発も弾が飛んで来ず、代わりに駆逐艦に被害が集中している。ミサイル防御のために駆逐艦を戦列の前方に押し出したことと、敵大型艦が一発も撃って来なかったことが原因だが、敵中小型艦の衝撃砲が発砲を始めた頃から味方の損害が出始めた。
とはいえいずれも中小口径砲ゆえ威力が弱く、大破沈没といった事態になった艦は1隻も無い。重装甲型というのも功を奏したのかもしれない。精々が中破したところで大事をとって、戦列から外れている駆逐艦が4隻ほどいるだけだ。
思ったよりもいい画が撮れる。カーニーはそう確信した。
「レーダーに感! 右前方8万宇宙キロに敵大型艦出現!」
「右方向に敵編隊!」
レーダー士官が異変を知らせてきたのは、その時だった。
事態は大きく動き出しました。しかも悪い方向に。