前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る 作:ひまんちゅ
目が覚めたとき、最初に胸に浮かんだのは、ひどく場違いな感想だった。
ああ、まだ生きているんだ。
それは喜びでも絶望でもなく、ただ淡々とした確認だった。眠りから覚めたというより、暗い水の底からゆっくり浮かび上がってきたような感覚があった。まぶたを開くと、そこには見覚えのない木の天井があった。薄汚れてはいるが、どこか手入れの跡がある板張りの天井。鼻をくすぐるのは汗と古い布の匂い、それから、安い香油の甘ったるい残り香。
知らない場所だった。
少なくとも、前世で最後にいたあの部屋ではない。鍵のかかった狭い部屋でもなければ、カーテンの隙間から街灯だけが差し込む、あの冷たい部屋でもなかった。
しばらく身じろぎもせず天井を見つめたあと、ゆっくりと体を起こす。驚くほど軽い。全身を覆っていたはずの鈍い痛みがない。骨の芯にまで染みついていた疲労もない。少し動かしてみても、関節は素直に動いた。腕も脚も細いが、少なくとも壊れかけてはいない。
それがかえって、不気味だった。
最後の記憶は途切れ途切れだ。つらいことばかりが続いた人生の、その終わり。もう何もかも嫌になって、考えることも息をすることも苦しくて、逃げるために一線を越えた。あとは、冷たさと、遠ざかる意識だけ。
それなのに、いま自分はこうして呼吸をしている。
「……どこ、ここ」
口に出した声は、思っていたよりも高かった。かすれてもいないし、ひどく弱々しくもない。自分の声なのに、知らない誰かのものみたいだった。違和感に眉を寄せながら、狭い部屋を見回す。木のベッドが一つ、小さな机が一つ、壁にひびの入った鏡が立てかけてある。窓はあるが小さく、朝なのか昼なのかも分かりにくい。家具は古びているけれど、乱暴に扱われた気配ばかりではない。最低限、使う人間がいる場所の空気がある。
私はそっとベッドから降りて、鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、知らない少女だった。
色の薄い髪。やせ気味ではあるけれど、ひどく衰弱しているほどではない身体。頬も顎もまだ幼い。せいぜい十三、四歳。いや、もっと下かもしれない。少なくとも、前世で死んだときの自分とはまるで違う顔だった。
「……転生、ってやつ?」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。妙に落ち着いた声が返ってきて、私は少しだけ笑ってしまった。現実感がない。だけど夢にしては、床板の冷たさも、指先で触れた鏡のざらつきも、生々しすぎた。
なら、これは本当に二度目の人生なのだろうか。
もしそうだとしても、困惑より先に来た感情は意外なものだった。
まあ、前よりはましだといいな。
その程度だった。
劇的な希望はない。神様に感謝する気も、運命に怒る気もなかった。ただ、前の人生より少しでも痛くなくて、怖くなくて、どうしようもない時間が少なければ、それでいい。そんな低すぎる願いが、当時の私にはちょうどよかった。
そのとき、廊下の向こうで足音が止まった。こちらの様子をうかがうような、わずかな気配。私は反射的に身を固くした。息を殺し、肩をすくめる。勝手にそういう姿勢になるあたり、前世の私は最後までちゃんと壊れていたのだと思う。
「起きてる?」
女の声だった。若くもなく、年寄りでもない。少し気だるげで、けれど妙に尖ったところのない声。
私は一瞬返事に迷ったが、黙っていて状況がよくなる可能性は低いと判断した。
「……はい」
扉が開く。入ってきたのは二十代後半から三十代くらいの女性だった。濃い化粧をしているけれど、近くで見ると目元には疲れがにじんでいる。香油の匂いがするが、きつすぎない。服は胸元の開いた派手なものだが、破れてはいない。生活のために身なりを作っている人だと分かった。
彼女は私を頭から爪先までひと通り眺めて、小さく息を吐いた。
「ちゃんと起きられるならいいわ。今日からあんた、ここの子だから」
その言葉に、私は目を伏せた。ここの子。家族的な響きのある言葉だったが、実際の意味はもっと乾いているのだろう。
「名前、覚えてる?」
「……いえ」
少し考えてからそう答える。ほんとうは、今の身体の持ち主に名前があったのかどうかも分からない。ただ、記憶はない。なら、ないと言うしかなかった。
「じゃあ今日からリナ。呼びやすいし、悪くないでしょ」
「……はい」
あまりにあっさり決まった新しい名前に、私は少し拍子抜けした。けれど同時に、悪くないとも思った。前世の名前にはろくな思い出がない。この世界で新しい名前を与えられるなら、それでよかった。
女は部屋の壁にもたれ、簡単に言った。
「ここは娼館。意味は分かる?」
分かった。
分かりすぎるほど分かった。
それでも私は顔色を変えないように努めて、うなずいた。
「……はい」
「最初は雑用から。掃除、水運び、洗濯、下働き。客はまだ取らせない。歳もあるし、身体もできてないしね。まあ、そのうち必要になれば覚えてもらうけど」
軽く言っているが、それがどういう意味かは知っている。前世の知識でも、今この場の空気でも分かった。私は胸の奥にひやりとしたものが走るのを感じた。けれど、恐怖で取り乱すほどではなかった。
いや、正しく言えば、恐怖の形が違った。
殴られるかもしれない。売られるかもしれない。身体を使われるかもしれない。普通の人なら、そんな未来に涙を流すのだと思う。でも私の基準は、もうひどく壊れていた。前世の私は、家の中で、逃げることも訴えることもできないまま、守られるはずの場所で傷つけられ続けた。だから、いっそ金のやり取りが明確な場所のほうが、まだ理屈があるように思えてしまった。
最低だ、と自分でも思う。だが、そう思ってしまったのは事実だった。
「分かりました」
私が素直に返すと、女は意外そうに目を細めた。
「……変わった子ね」
「そうですか?」
「そうよ。普通は泣くか、わめくか、逃げようとするもの」
逃げようとしてどうなるのか、という言葉を、私は飲み込んだ。知らない土地、知らない身体、頼れる人も金もない子供。逃げたところで長く保つとは思えない。この女も、そういう現実を知っているから落ち着いているのだろう。
少し迷ってから、私は答えた。
「多分……もう、疲れたので」
自分でも驚くほど静かな声だった。
女はその言葉を聞いて、一瞬だけ黙った。哀れみとも同情とも違う、何か言いにくいものを見る目をしたあと、結局ただ一言だけ返した。
「……そう」
それ以上は聞かれなかった。
それが、ありがたかった。
この世界のことはまだ何も知らない。優しいかどうかも分からない。だけど少なくとも、いまのところは、無理に事情を聞き出されたり、泣けと命じられたりはしていない。私にとってそれだけで十分な違いだった。
「ついてきな。仕事を教えるから」
私はうなずき、彼女のあとについて部屋を出た。
廊下には朝の気配が満ちていた。木造の建物はあちこち軋んでいて、下の階からは食器の触れ合う音や人の話し声が聞こえる。笑い声もあった。明るいというほどではないが、少なくとも死んだ空気ではない。階段を下りる途中、開いた扉の向こうに何人かの女たちが見えた。年若い子もいれば、大人の女もいる。髪を結い、服を直し、鏡をのぞき込み、眠そうにあくびをしている者もいた。
娼館という言葉の響きから、私はもっと荒れ果てた場所を想像していた。暴力と怒鳴り声が当たり前に飛び交い、人が人として扱われない場所。もちろん綺麗な場所ではないのだろうし、楽園でもないのだろう。けれど、少なくとも今目の前にあるのは、生活の場だった。人が食べ、人が眠り、人が働く場所だった。
そのことに、私はひそかに驚いていた。
前世よりまし、かもしれない。
そんな考えが胸に浮かぶ。ひどく情けない比較だった。娼館に転生して、それでも「前よりまし」と思える人生って何なんだろう、と他人事みたいに思う。けれどその情けなさすら、いまは少し遠かった。
広間に出ると、朝食らしい匂いがした。薄い粥と、固いパンと、少しの塩気のあるスープ。贅沢とは言えないが、ちゃんと食事だった。私は思わずその湯気を見つめた。前世で空腹に慣れていたわけではない。けれど、食事の時間が苦痛だった記憶はあまりに多い。誰かの機嫌をうかがって食べる食卓、喉を通らなくても飲み込まなければならない食事。それらを思い出しかけて、私は慌てて意識を戻した。
「あんたはまず台所の手伝いね」
女が言う。
「私はミレイ。まあ、姉さんでも何でも、好きに呼びな」
「……ミレイさん」
「素直でよろしい」
彼女は少しだけ口元を緩めた。完全に愛想がいいわけではないが、敵意はない。その事実が妙に胸にしみた。
台所では年上の女が大鍋をかき回していた。私を見るなり、面倒そうに眉を上げる。
「新入り?」
「そう。名前はリナ。しばらく下働き」
「倒れないなら何でもいいよ。まず水」
ぶっきらぼうだが、これもまた普通の反応だった。殴られもしないし、品定めするみたいな目でじろじろ見られることもない。私は言われた通り桶を持ち、井戸へ向かった。小さな中庭に出ると、朝の光がようやくきちんと見えた。空は青く、少し冷たい風が吹いていた。
その風が頬に当たった瞬間、なぜだか泣きそうになった。
ああ、外だ、と思った。
閉ざされた箱の中ではない。鍵の向こうでもない。誰かの気配に怯えながら息をひそめるだけの場所でもない。もちろん、自由ではない。ここは娼館で、私はそこの下働きで、未来が決まっているわけでもない。それでも、空が見えるだけで、風が吹くだけで、こんなにも違うのかと思った。
桶に水を汲みながら、私はこっそり深呼吸をした。
ここで、生きてみよう。
大それた誓いではない。ただ、今日一日をやり過ごすための小さな決意。けれど、それは前世のどのときよりも、ずっと前向きな言葉だった。
私はまだ何も持っていない。力も、金も、身分もない。あるのは前世の嫌な記憶と、人の顔色を読む癖と、少しばかりの知識だけだ。けれど、その少しが、もしかしたら使えるかもしれない。少なくとも何もしないよりはましだ。
どうせ二度目の人生だ。
今度くらい、自分のために使ってみてもいい。
そう思いながら持ち上げた水桶は、思ったより重かった。
細い腕がぶるぶる震えて、私は小さく息を吐く。
……まずは体力をつけよう。
新しい人生の最初の課題は、案外そんな、当たり前のことだった。