前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る 作:ひまんちゅ
「行きます」と言ったあと、時間の流れが急に現実的になった。
その場で何かが劇的に変わるわけではない。けれど、決断したという事実が、次にやるべきことを一つずつ引き寄せてくる。
「出るのは明日の朝だ」
レイナはそう言った。
「準備に時間はかからない。荷物も多くは持てない」
「……はい」
「必要なものはこっちで用意する。お前は、ここでのことを片づけておけ」
それだけ言うと、レイナは席を立った。
話は終わりだ、という合図のようだった。
私は一礼して、部屋を出た。
廊下に出ると、妙に静かに感じた。
同じ館の中なのに、さっきまでとは少し違う場所のように思える。
明日、ここを出る。
その事実が、景色の見え方を変えていた。
台所に戻ると、ミレイがすぐに気づいた。
「決めたのね」
「……はい」
「そう」
それだけだった。
もっと何か言われるかと思ったが、ミレイは深く追及しなかった。
ただ、少しだけ目を細めて私を見る。
「後悔しないようにしな」
「……はい」
「あと」
少し間を置いて続ける。
「ちゃんと帰ってこれる場所だと思っていいわよ、ここ」
その言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。
帰ってこれる場所。
それは、私にとってほとんど未知の概念だった。
前世では、戻れる場所なんてなかった。
逃げても、戻っても、同じ場所しかなかった。
でも今は違う。
ここは、少なくとも「戻る」という選択肢が存在する場所だ。
「……ありがとうございます」
自然と頭を下げていた。
ミレイは軽く手を振る。
「大げさね。別に追い出すわけじゃないんだから」
それでも、その言葉は十分だった。
午後、洗濯場に行くと、エナがすぐに駆け寄ってきた。
「どうだった?」
「……行くことにした」
一瞬だけ、エナの表情が止まる。
それから、ぱっと笑った。
「そっか」
短い言葉だったが、そこにはいろんな感情が混ざっていた。
「よかったね」
「……うん」
「怖い?」
「怖い」
「だよね」
二人で少しだけ笑う。
それ以上は、あまり言葉はいらなかった。
洗濯をしながら、いつもと同じように手を動かす。
でも、もう「いつも」ではない。
これが、ここでの最後の一日になる。
「なんか、変な感じ」
エナがぽつりと言う。
「昨日まで普通だったのに、急に『最後』とか言われると」
「……うん」
私も同じだった。
昨日まで、ここでの生活が続くと思っていた。
今日も明日も、その次も。
でも、そうじゃなくなった。
「寂しい?」
「……少しだけ」
正直に答える。
エナは少しだけ目を細めた。
「そっか」
「でも」
言葉を続ける。
「それだけじゃない」
「うん」
「……楽しみ、もある」
それを言ったとき、自分でも少し驚いた。
楽しみ。
そんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
エナはにっと笑った。
「いいじゃん」
それだけで、十分だった。
夕方、仕事を一通り終えたあと、私は館の中を少し歩いた。
台所。
洗濯場。
物置。
廊下。
どれも、この短い時間で少しだけ変わった場所だ。
そして、少しだけ慣れた場所でもある。
私は手すりに触れながら、ゆっくりと歩いた。
ここでの生活は長くなかった。
でも、確かに何かを得た。
働くこと。
役に立つこと。
人に関わること。
そして。
選ぶこと。
夜、部屋に戻ると、荷物をまとめた。
と言っても、大したものはない。
着替えが一組と、エナにもらった軟膏の壺。
それくらいだ。
それでも、それは「自分のもの」と言える数少ないものだった。
壺を手に取り、少しだけ眺める。
これも、ここで得たものの一つだ。
誰かがくれたもの。
自分が使っているもの。
前世では、そういうものを大事にする余裕すらなかった。
私はそれをそっと袋に入れた。
寝る前に、もう一度だけ考える。
本当にこれでよかったのか。
間違っていないか。
不安は、まだある。
でも。
後悔は、していない。
それだけははっきりしていた。
私は毛布を引き上げ、目を閉じた。
明日、この場所を出る。
新しい生活が始まる。
怖い。
でも。
それ以上に。
(……行ってみたい)
そう思える。
それだけで、十分だった。
静かな夜の中で、私はゆっくりと眠りに落ちていった。