前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る   作:ひまんちゅ

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第十話 別れと準備

 「行きます」と言ったあと、時間の流れが急に現実的になった。

 

 その場で何かが劇的に変わるわけではない。けれど、決断したという事実が、次にやるべきことを一つずつ引き寄せてくる。

 

「出るのは明日の朝だ」

 

 レイナはそう言った。

 

「準備に時間はかからない。荷物も多くは持てない」

 

「……はい」

 

「必要なものはこっちで用意する。お前は、ここでのことを片づけておけ」

 

 それだけ言うと、レイナは席を立った。

 

 話は終わりだ、という合図のようだった。

 

 私は一礼して、部屋を出た。

 

 廊下に出ると、妙に静かに感じた。

 

 同じ館の中なのに、さっきまでとは少し違う場所のように思える。

 

 明日、ここを出る。

 

 その事実が、景色の見え方を変えていた。

 

 台所に戻ると、ミレイがすぐに気づいた。

 

「決めたのね」

 

「……はい」

 

「そう」

 

 それだけだった。

 

 もっと何か言われるかと思ったが、ミレイは深く追及しなかった。

 

 ただ、少しだけ目を細めて私を見る。

 

「後悔しないようにしな」

 

「……はい」

 

「あと」

 

 少し間を置いて続ける。

 

「ちゃんと帰ってこれる場所だと思っていいわよ、ここ」

 

 その言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。

 

 帰ってこれる場所。

 

 それは、私にとってほとんど未知の概念だった。

 

 前世では、戻れる場所なんてなかった。

 逃げても、戻っても、同じ場所しかなかった。

 

 でも今は違う。

 

 ここは、少なくとも「戻る」という選択肢が存在する場所だ。

 

「……ありがとうございます」

 

 自然と頭を下げていた。

 

 ミレイは軽く手を振る。

 

「大げさね。別に追い出すわけじゃないんだから」

 

 それでも、その言葉は十分だった。

 

 午後、洗濯場に行くと、エナがすぐに駆け寄ってきた。

 

「どうだった?」

 

「……行くことにした」

 

 一瞬だけ、エナの表情が止まる。

 

 それから、ぱっと笑った。

 

「そっか」

 

 短い言葉だったが、そこにはいろんな感情が混ざっていた。

 

「よかったね」

 

「……うん」

 

「怖い?」

 

「怖い」

 

「だよね」

 

 二人で少しだけ笑う。

 

 それ以上は、あまり言葉はいらなかった。

 

 洗濯をしながら、いつもと同じように手を動かす。

 

 でも、もう「いつも」ではない。

 

 これが、ここでの最後の一日になる。

 

「なんか、変な感じ」

 

 エナがぽつりと言う。

 

「昨日まで普通だったのに、急に『最後』とか言われると」

 

「……うん」

 

 私も同じだった。

 

 昨日まで、ここでの生活が続くと思っていた。

 今日も明日も、その次も。

 

 でも、そうじゃなくなった。

 

「寂しい?」

 

「……少しだけ」

 

 正直に答える。

 

 エナは少しだけ目を細めた。

 

「そっか」

 

「でも」

 

 言葉を続ける。

 

「それだけじゃない」

 

「うん」

 

「……楽しみ、もある」

 

 それを言ったとき、自分でも少し驚いた。

 

 楽しみ。

 

 そんな言葉が出てくるとは思っていなかった。

 

 エナはにっと笑った。

 

「いいじゃん」

 

 それだけで、十分だった。

 

 夕方、仕事を一通り終えたあと、私は館の中を少し歩いた。

 

 台所。

 洗濯場。

 物置。

 廊下。

 

 どれも、この短い時間で少しだけ変わった場所だ。

 

 そして、少しだけ慣れた場所でもある。

 

 私は手すりに触れながら、ゆっくりと歩いた。

 

 ここでの生活は長くなかった。

 でも、確かに何かを得た。

 

 働くこと。

 役に立つこと。

 人に関わること。

 

 そして。

 

 選ぶこと。

 

 夜、部屋に戻ると、荷物をまとめた。

 

 と言っても、大したものはない。

 

 着替えが一組と、エナにもらった軟膏の壺。

 それくらいだ。

 

 それでも、それは「自分のもの」と言える数少ないものだった。

 

 壺を手に取り、少しだけ眺める。

 

 これも、ここで得たものの一つだ。

 

 誰かがくれたもの。

 自分が使っているもの。

 

 前世では、そういうものを大事にする余裕すらなかった。

 

 私はそれをそっと袋に入れた。

 

 寝る前に、もう一度だけ考える。

 

 本当にこれでよかったのか。

 

 間違っていないか。

 

 不安は、まだある。

 

 でも。

 

 後悔は、していない。

 

 それだけははっきりしていた。

 

 私は毛布を引き上げ、目を閉じた。

 

 明日、この場所を出る。

 

 新しい生活が始まる。

 

 怖い。

 でも。

 

 それ以上に。

 

(……行ってみたい)

 

 そう思える。

 

 それだけで、十分だった。

 

 静かな夜の中で、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

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