前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る 作:ひまんちゅ
新しい人生の最初の仕事は、思っていたよりずっと地味だった。
水を運び、床を拭き、使い終わった布を洗い、台所から部屋へ食事を運ぶ。客の相手をするわけでもなければ、特別なことを教えられるわけでもない。ただ、建物の中を行ったり来たりして、足りないものを補い、汚れたものを片づけていく。誰かが気持ちよく働くために必要なことを、ひたすら静かにやる。
けれど、その単純な仕事は、いまの私には十分すぎるほど大変だった。
中庭の井戸から汲んだ水は重い。小柄なこの身体では、桶を半分ほど満たしただけでも腕が引きちぎれそうになる。台所と廊下を何往復かした頃には、肩も腰もじんじんして、手のひらには赤い跡が残った。前世でも体力があったわけではないが、いまの私はそれ以上にひ弱だったらしい。
「無理してこぼしたら余計な手間だよ。最初は半分でいい」
台所で鍋をかき回していた女が、私のぎこちない動きを見てそう言った。彼女は四十前後だろうか。髪を雑に束ね、腕まくりしたまま、まるで戦場みたいな勢いで朝の支度を進めている。名乗られてはいないが、みんな彼女を「マルゴ」と呼んでいた。
「……はい」
私は素直にうなずいた。怒鳴られるかと思ったが、口調はぶっきらぼうなだけで、内容は完全に助言だった。そういう小さなことに、私はいちいち戸惑う。この世界の人たちは、少なくとも今のところ、何かを教えるときに必要以上の痛みを加えない。
たったそれだけのことが、私にはまだ新鮮だった。
台所には朝から女たちが何人も出入りしていた。寝起きのまま水を飲みに来る人。軽く何かをつまんでから支度に戻る人。昨夜遅くまで働いていたのか、化粧を落とした顔のまま、眠そうにスープをすする人。みんなそれぞれ疲れてはいたが、少なくとも互いに完全に無関心というわけではないらしい。
「新入り?」
「そうらしいよ」
「へえ、思ったよりちっちゃい」
「その歳じゃまだ客は無理だろうね」
ひそひそ、というより、普通に聞こえる声でそんな会話が交わされる。悪意がないわけではないのかもしれないが、露骨な侮蔑でもなかった。私はできるだけ気にしないようにして、木の椀を運び、使い終わった布をまとめ、床にこぼれたスープを拭いた。
働いていると、余計なことを考えずに済む。
それは前世でもそうだった。何かしている間だけは、恐怖や嫌悪を少し脇に追いやることができた。人の機嫌を先回りして動き、必要なものを早めに用意し、怒られる理由をできるだけ減らす。その癖が、この身体に移ってからも抜けていないらしい。私は自然と周囲を観察し、次に何が必要かを考えて動いていた。
誰かが空の水差しを置けば補充する。食器が積まれれば下げる。窓際の床が濡れていれば、誰かが滑る前に布を持っていく。
二時間ほど経った頃、ミレイが廊下の向こうから戻ってきて、私の顔を見た。
「あんた、気が利くわね」
「……そうですか?」
「初日で言われたことだけやって満足する子より、ずっと使いやすい」
褒め言葉なのだろう。私は少しだけ迷ってから、「ありがとうございます」と答えた。言われ慣れない言葉には、返し方までぎこちなくなる。
ミレイはそんな私を見て、ふっと笑った。
「そんなに警戒しなくていいわよ。別に褒めたからって、次に殴ったりしないから」
その一言に、私は固まった。
図星だった。
私の身体は、褒められた直後ほど緊張する。次に何が来るのか分からないからだ。機嫌のいい声のあとに叩かれたことも、優しく撫でる手の次に痛い目に遭ったことも、一度や二度じゃない。だから反射的に肩に力が入るし、逃げ道を探してしまう。
ミレイはそれ以上深く追及しなかった。ただ、少しだけ目を細めて言った。
「ここ、楽な場所じゃないけどさ。少なくとも、商売道具を壊す趣味のやつは少ないわ」
少ない、ということはゼロではないのだろう。だけど、その現実的な言い方がかえってありがたかった。なんでも綺麗ごとで包まれるより、よほど信用できる。
「……はい」
私はまたうなずいて、空になった椀を重ねた。
昼前になると、館の空気が少し変わった。朝の気だるさが薄れて、人がそれぞれの役目に散っていく。表に出る女たちは髪を結い、顔を作り、香油を少しだけつける。昼から客を取る者もいれば、夕方からに備えて眠る者もいる。使用人のような立場の人たちは、その合間を縫うように洗濯や掃除をこなしていく。
私は洗濯場に回され、大きな桶の前で布を洗うことになった。
湯に灰汁を混ぜた簡素な洗浄液は手荒れしそうな匂いがしたが、思ったより汚れは落ちた。シーツ、下着、タオル代わりの布、客室で使ったらしい上質なハンカチ。布の種類も使われ方もさまざまで、見ているだけで、この館の中にいくつもの階層があるのが分かった。
黙々と洗っていると、隣に誰かがしゃがみこんだ。
「手、赤くなってるよ」
顔を上げると、私とそう変わらない年頃か、少し上くらいの少女がいた。栗色の髪を後ろでまとめ、目元にそばかすが散っている。派手さはないが、よく動く顔をしていた。
「これ、使いな」
差し出されたのは小さな壺だった。ふたを開けると、油脂を混ぜた軟膏のようなものが入っている。
「……いいんですか」
「いいよ。どうせ私も前に使ったやつだし。マルゴの洗い場、慣れないうちはすぐ手が死ぬから」
言い方がおかしくて、私は少しだけ目を丸くした。少女はにっと笑う。
「私はエナ。あんた、新入りのリナでしょ」
「……はい。リナです」
「知ってる。朝から噂になってたよ。泣きもしない、おとなしい子が来たって」
噂になるほどのことだろうか、と私は思ったが、口には出さなかった。エナは私の横にしゃがんだまま、器用に布をすすぎながら続ける。
「でも、あんまり無理しないほうがいいよ。最初から働きすぎると、みんな『この子は勝手にやる』って思うから」
「そういうものですか」
「そういうもの。まあ、損得だけじゃないけどね。倒れたら面倒見るの、周りだし」
その言葉に、私は少し驚いた。損得だけではない、と彼女は言った。実際、それはそうなのだろう。自分が倒れれば仕事が滞るし、誰かに負担がかかる。それを避けるために加減しろ、という意味でもある。でも、そこには確かに、ただの効率だけではない響きが混じっていた。
「……ありがとう、ございます」
「硬いなあ。エナでいいし、敬語もなくていいのに」
そう言いながらも、彼女は無理に矯正しようとはしない。私は小さく壺を受け取り、指先に軟膏をなじませた。ひび割れそうだった手の甲が少し楽になる。
「いい匂い」
「でしょ。それ、館の裏で育ててる草から作るんだって。詳しいことは知らないけど」
私は思わず壺を見つめた。植物由来の軟膏。簡単な保湿。手荒れの軽減。前世なら珍しくもない発想だが、この世界でも似た知恵はあるらしい。だったら、もっと色々応用できるかもしれない。
そう考えた瞬間、自分の頭が少しだけ前向きに働いていることに気づいた。嫌なことを避けるためだけではなく、暮らしをよくする方法を探している。そんな自分に、私は内心で少しだけ戸惑う。
午後、館の裏手にある物置の掃除を任されたとき、その戸惑いは別の形になった。
埃っぽい部屋の中には、古びた布、壊れた籠、使いかけの香油瓶、ひびの入った洗面鉢が雑多に積まれていた。私は箒で床を掃きながら、鼻をしかめる。湿気が強く、空気がこもっている。このままでは布も傷みやすいし、虫も湧きやすい。
前世の私は、こういうとき換気と整理と乾燥が大事だと知っていた。大した知識ではない。誰でも知っているレベルのことだ。けれど、この場所ではそこまで手が回っていないらしい。忙しさのせいか、人手の問題か、それとも「どうせすぐ使うから」と後回しにされているのか。
私は戸を大きく開け、窓も探して少しだけ隙間を作った。それから壊れていない籠だけを片側に寄せ、布と瓶をざっくり分ける。今すぐ完璧にはできない。でも、取り出しやすいだけでも違うはずだ。
しばらくしてミレイが見に来たとき、彼女は眉を上げた。
「掃除しろとは言ったけど、片づけまでしろとは言ってないわよ」
「すみません。勝手でしたか」
「いや、別に。むしろ助かるけど」
彼女は部屋の中を見回し、壁際に寄せられた籠と、干されるのを待つ布の束を見て、ふうんと息を吐く。
「見つけやすくなってる」
「……分けたほうが楽かと思って」
「そうね。楽だわ、これ」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が少しだけ熱くなった。
役に立った。
誰かの役に立った。
前世でも、役に立とうとはしていた。怒られないために、見捨てられないために、邪魔だと思われないために。でも、そこにあったのはいつも消極的な意味だった。足を引っ張らないように、罰を減らすように、ただ生き延びるために動いていた。
いまは少し違う。
私がしたことで、誰かが少し楽になる。
そして、そのことを言葉にしてもらえる。
そんな当たり前の循環が、こんなにも嬉しいなんて、知らなかった。
夕方、仕事が一段落すると、下働きの子たちには簡単な食事が出た。固めのパンと野菜の煮込み、それに薄い肉の入った塩気の強いスープ。豪華とは程遠いが、ちゃんと温かかった。エナが向かいに座り、パンをちぎりながら言う。
「初日はどう? 逃げたくなった?」
あまりにもあっけらかんとした口ぶりに、私は少し考えた。
「……まだ、分からないです」
「ふうん。まあ、正直でいいね」
エナは笑って、スープをすすった。私は木の匙を握ったまま、しばらく湯気を見つめた。
逃げたいかどうか。
それは簡単な問いではなかった。
ここは娼館だ。未来永劫、安全が約束されているわけでもない。この先どうなるかも分からない。客を取らされる日が来るかもしれないし、嫌な思いをすることだってあるだろう。
だけど、それでも。
いまこの瞬間だけ切り取れば、私は誰にも怒鳴られていない。殴られてもいない。食事があり、寝る場所があり、仕事を教えられ、助言を受け、軟膏まで分けてもらった。
その事実をどう受け止めればいいのか、まだうまく整理できない。
「……前よりは、ましです」
ぽつりと言うと、エナはそれ以上聞かなかった。ただ、「そっか」とだけ返して、パンを口に運んだ。
それがありがたかった。
夜、自分にあてがわれた小さな部屋に戻って、私はベッドの上に座り込んだ。足が重い。腕もだるい。慣れない労働のせいで全身がきしむ。それなのに、嫌な疲れではなかった。眠れば少し回復しそうだと思える種類の疲れだった。
私は自分の手を見た。昼間より赤くなっているが、エナにもらった軟膏のおかげでひび割れはしていない。指先には洗い場の匂いが残っている。前世なら、こうして一日を終えるとき、まず安堵より先に明日への恐怖が来た。今日は無事でも、次は分からない。そんな緊張が常に喉の奥にあった。
いまも不安が消えたわけではない。
でも、不思議と、少しだけ思えるのだ。
明日も、なんとかなるかもしれない。
その感覚があまりに久しぶりで、私はしばらく暗い部屋の中で黙っていた。
この世界は、多分、優しいだけの場所じゃない。
この館も、決して綺麗な場所ではない。
それでも、少なくとも今日の私は、ここで確かに一日を過ごした。
生き延びた、ではなく。
過ごした。
その違いは、まだ小さい。
けれど私にとっては、人生をやり直すには十分な違いだった。
明日も、水を運んで、床を拭いて、言われたことをするのだろう。
でも、その合間にもう少し周りを見てみようと思った。
何が足りなくて、何を変えられるのか。
どこを少し整えれば、みんながもう少し楽になるのか。
そんなことを考えながら眠りにつくなんて、前世の私なら想像もしなかった。
薄い毛布を胸まで引き上げ、目を閉じる。
痛い記憶は消えない。
でも、それとは別に、新しい一日が積み重なっていくのかもしれない。
その予感だけを抱いて、私は静かに眠りに落ちた。