前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る 作:ひまんちゅ
働き始めて三日目の朝、私はようやくこの館の「流れ」のようなものを少しだけ理解し始めていた。
誰がどの時間に動き、どの場所で何が不足しやすいのか。どの女が几帳面で、誰が大雑把で、誰が疲れているのか。言葉にするほど明確ではないが、なんとなく空気で分かる。
それは前世で身についた癖だった。
相手の機嫌を読み、怒られない位置を探し、危険を避ける。そうやって生き延びてきた結果、私は人の些細な変化に敏感になっていた。その能力を、今度は「逃げるため」ではなく「暮らしを整えるため」に使えるかもしれない――そう思えたのは、ほんの少しの進歩だった。
朝の台所は相変わらず慌ただしい。
私は水を補充し、食器を並べ、こぼれたものを拭き取る。その合間に、昨日よりも少しだけ周囲をよく見ていた。
例えば、スープ。
大鍋で作られたそれは、朝のうちは比較的さらりとしているのに、時間が経つにつれて底に具材が沈み、上のほうはほとんど汁だけになってしまう。後から来た人ほど、味の薄いものを食べることになる。
前世の私なら、それを見ても「そういうものだ」と諦めていたと思う。自分が損をしないようにタイミングを見計らうくらいはしたかもしれない。でも今は違った。
私は木の匙を手に取り、そっと鍋の底からすくい上げてかき混ぜた。
ぐるり、と円を描くように。
「……何してるの」
マルゴの声が飛んできて、私はびくりと肩を震わせた。反射的に手を引きそうになったが、どうにか踏みとどまる。
「すみません。底に具が沈んでいたので……」
「だからって勝手に触るな、とは言わないけどね」
怒られる、と身構えたが、マルゴは少し眉をひそめただけだった。彼女は鍋を覗き込み、私がかき混ぜたスープを一口すくって味を見る。
「……ああ、確かに均一になってる」
ぼそりと呟いたあと、マルゴは私をちらりと見た。
「前からやってたわけじゃないけど、言われてみりゃその通りだね。放っておくと上だけ薄くなる」
「すみません、勝手に……」
「いいよ。別に減るわけじゃないし」
そう言って、彼女は自分でも鍋を軽くかき混ぜた。たったそれだけのことだったが、私は内心でほっと息をついた。
怒られなかった。
それどころか、否定もされなかった。
その事実に、私は少しだけ勇気づけられた。
午前中の仕事を終えて洗濯場に行くと、エナがすでに桶の前に座っていた。相変わらず手際よく布を洗い、軽く絞っては横に積んでいく。
「おはよ、リナ」
「おはよう、エナ」
少しだけ敬語を外してみると、エナは満足そうに頷いた。
「いいね、それくらいのほうが楽でしょ」
私は小さく笑って、隣にしゃがんだ。昨日よりも手際よく布を水に沈め、擦り合わせる。まだ力は足りないが、動きは少し慣れてきた。
「手、大丈夫?」
「うん。これ、ありがとう」
エナからもらった軟膏の壺を見せると、彼女は軽く肩をすくめた。
「どういたしまして。まあ、それでも荒れるときは荒れるけどね」
「……これ、作ってる人いるんだよね」
「いるらしいよ。裏の庭で薬草いじってる人。ちょっと変わってるけど」
変わっている、という言葉に私は少し興味を引かれた。
「どんな人?」
「年上の女の人。あんまり表に出てこない。必要なときだけ薬とか持ってくる感じ。話しかけてもぼんやりしてるし、たまに意味分かんないこと言う」
それでも役に立つものを作っているなら、すごい人なのだろう。私は頭の片隅にその存在を留めた。
洗濯をしながら、私はふと気づいた。
布の中に、妙に強い匂いが残っているものがある。香油とは違う、少し鼻につく匂い。汗と何かが混ざったような、こもった匂い。
前世の知識が、ぼんやりと浮かぶ。
通気が悪い。
湿気が抜けていない。
乾燥が足りない。
私は周囲を見回した。洗った布は外の物干しにかけられているが、場所によっては日当たりが悪い。建物の影に入る部分では、乾きが遅くなっている。
「……場所、変えたほうがいいかも」
思わず口に出していた。
「ん?」
エナが顔を上げる。
「乾かしてる場所、日が当たってないところがあるから……匂い、残るかも」
「え、そう?」
エナは立ち上がり、物干しのほうを見に行った。しばらくして戻ってくる。
「あー、確かに。こっちの端、あんまり乾いてないや」
「少し寄せたほうがいいかも。あと……間、あけたほうが」
「詰めすぎってこと?」
「うん」
言いながら、自分でも少し驚いていた。こんなふうに提案めいたことを口にするのは、前世ではほとんどなかった。余計なことを言えば、面倒ごとになるだけだったからだ。
エナは少し考えてから、にやっと笑った。
「やってみよっか」
二人で布の位置をずらし、少し間隔をあけてかけ直す。単純な作業だが、終わってみると風の通りがよくなった気がした。
「なんか、いい感じ」
「……うん」
確信はない。でも、少なくとも悪くはなっていないはずだ。
午後、物置の整理を続けていると、ミレイがまた顔を出した。
「あんた、昨日の続きやってるのね」
「はい。まだ全部は無理なので……」
「十分よ。前よりずっと取りやすいし」
彼女は棚から瓶を一本取り出し、軽く振って中身を確かめる。
「これ、探すのにいつも時間かかってたのよね」
「……役に立ってるなら、よかったです」
そう答えたとき、ミレイは少しだけ真面目な顔になった。
「あんたさ」
「はい」
「前はどんなとこにいたの」
唐突な問いだった。
私は一瞬、言葉に詰まる。嘘をつくべきか、何も言わないべきか、それとも適当にごまかすか。
でも、結局出てきたのは、とても曖昧な言葉だった。
「……あまり、いいところではなかったです」
それ以上は言えなかったし、言うつもりもなかった。ミレイもそれ以上は聞かなかった。ただ、短く息を吐く。
「そ。まあ、ここも大した場所じゃないけどね」
「……はい」
「でも、多少はマシにできる余地はある」
彼女はそう言って、私の肩を軽く叩いた。
「そういうの、嫌いじゃないわ」
それだけ言って、ミレイは部屋を出ていった。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
多少はマシにできる余地。
その言葉が、妙に胸に残った。
夜、部屋に戻ってからも、私はそのことを考えていた。
この館は完璧じゃない。
むしろ問題だらけだろう。
でも、全部を変えることはできなくても、少しずつなら変えられるかもしれない。
スープをかき混ぜる。
布の間隔をあける。
物を分けて置く。
どれも大したことではない。
でも、それで誰かが少し楽になるなら。
私はベッドに横になり、天井を見上げた。
前世の私は、何も変えられなかった。
変えようとする余裕も、力もなかった。
でも今は違う。
ほんの小さなことでも、自分の手で何かを変えられる。
それは、想像していたよりずっと――
救いになることだった。