前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る 作:ひまんちゅ
働き始めて一週間が過ぎた頃、館の空気はほんのわずかに変わり始めていた。
大きな変化ではない。誰かが声高に「良くなった」と言うほどでもない。ただ、日々の中で感じる小さな違和感が、少しずつ減っていくような、そんな変化だった。
朝の台所では、マルゴが自然とかき混ぜながらスープを配るようになった。誰が後から来ても、極端に味が薄いということがなくなった。
洗濯場では、布を詰め込みすぎないように干すのが当たり前になりつつあった。風が通るようになったせいか、嫌な匂いが残ることも減っている。
物置も、まだ完璧ではないが、必要なものが以前よりずっと見つけやすくなった。
どれも些細なことだ。
けれど、その「些細」が積み重なると、働く側の負担が確かに軽くなる。
そのことを、私は毎日の中で少しずつ実感していた。
朝、水を運びながら廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。
「リナ」
振り返ると、ミレイだった。腕を組んで、いつもの少しだるそうな姿勢で立っている。
「はい」
「最近、あんたの名前よく聞くのよ」
「……え」
思わず間の抜けた声が出る。
「いい意味でね。マルゴも『あの子が来てからやりやすい』って言ってたし、洗濯場も文句減ってる」
「……そう、ですか」
どう返せばいいのか分からなかった。褒められているのは分かる。でも、それを素直に受け取ることに、まだ慣れていない。
ミレイはそんな私を見て、少しだけ笑った。
「顔に出てるわよ。戸惑ってるの」
「……すみません」
「謝るとこじゃないっての」
彼女は肩をすくめる。
「まあ、調子に乗らなければいいわ。今くらいのペースでやりな」
「……はい」
私はうなずいた。調子に乗らない。それはむしろ得意分野だった。期待されすぎて、それに応えられなくなったときの反動はよく知っている。
だからこそ、少しずつでいい。
できることを、できる範囲で。
その日の午後、私は台所の隅で小さな違和感に気づいた。
使い終わった布が、まとめて籠に放り込まれている。まだ温かいものもあれば、すでに冷えて湿ったものもある。そのまましばらく放置されることも多く、洗濯場に回る頃には匂いが強くなっている。
前世の記憶が、またぼんやりと浮かぶ。
湿ったまま放置すると、匂いがこもる。
雑菌が増える。
後で洗う手間が増える。
私は少し考えてから、籠の中の布を軽く広げた。完全に乾かすのは無理でも、少しでも空気に触れるようにするだけで違うはずだ。
その様子を見ていたマルゴが、怪訝そうに声をかけてきた。
「また何かやってるね」
「すみません。あの……まとめて置くより、少し広げたほうが匂いが残りにくいかと思って」
「ふうん」
彼女は腕を組んでしばらくそれを見ていたが、やがて近づいて同じように布を広げてみる。
「確かに、蒸れにくそうだね」
「……はい」
「まあ、場所は取るけど、その分後が楽なら悪くないか」
あっさりと受け入れられて、私は少し驚いた。
前世なら、「余計なことをするな」と言われて終わりだっただろう。理由を説明する余地すらなかった。でもここでは、少なくとも話は聞いてもらえる。
それだけで、世界の見え方が変わる。
夕方、洗濯場に行くと、エナが私の顔を見るなり笑った。
「聞いたよ、台所でもなんかやってるんだって?」
「……なんか、って」
「いい意味でだってば。マルゴが珍しく文句言ってなかった」
それは相当珍しいことらしい。エナは楽しそうに肩を揺らした。
「ねえリナ、あんたさ」
「うん?」
「なんでそんなに気づくの?」
ストレートな質問だった。
私は少し考えてから答える。
「……前に、似たようなことがあったから」
正確には、もっとひどい環境で、もっと切実に「どうすれば少しでもましになるか」を考えていた。けれど、そのまま言葉にするのは難しかった。
エナは「ふうん」とだけ言って、それ以上深くは聞かなかった。
「まあ、助かってるからいいや。こっちも楽になってるし」
「……よかった」
その一言で十分だった。
役に立っている。
それが分かるだけで、次もやろうと思える。
夜、部屋に戻ると、私は小さく息をついた。
体はまだ慣れない疲れで重い。それでも、最初の日のような不安定さは少し減っていた。やるべきことが分かっていると、人はそれだけで落ち着けるらしい。
ベッドに腰を下ろし、手のひらを見つめる。
赤みはまだ残っているが、ひび割れはしていない。少しずつ、この身体も環境に慣れてきている。
「……変わるんだ」
ぽつりと呟く。
世界は急には変わらない。
でも、小さなことなら変えられる。
スープを混ぜること。
布の間隔をあけること。
物を分けて置くこと。
濡れた布を広げること。
どれもほんの些細な工夫だ。
けれど、それが積み重なれば、確実に「前よりまし」になる。
そして何より。
それを「やっていい」と思える場所に、私はいる。
それが、どれほど大きな違いか。
前世では知らなかった。
私は毛布を引き寄せ、ゆっくりと横になった。
まだ、この先どうなるかは分からない。
ここにずっといられる保証もない。
嫌なことだって、きっとある。
それでも。
(もう少し、ここでやってみよう)
そう思えるくらいには、この場所は私にとって――
「ましな世界」になり始めていた。