前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る 作:ひまんちゅ
変化は、ある日突然やってくるものではない。
少しずつ積み重なって、気づいたときには「前と違う」と思える形になっている。館の中の空気が変わり始めてから、さらに数日が経った頃、私はそのことを別の形で知ることになった。
「リナ、あんた表に出てみな」
昼過ぎ、ミレイにそう呼ばれて、私は一瞬だけ足を止めた。
表に出る、という言葉に、身体がわずかに強張る。
ここは娼館だ。表に出るということは、客の目に触れる場所に行くということだ。それがどういう意味を持つのか、私は知っている。
「……雑用でいいから。客の前に出すつもりはないわ」
私の表情を読んだのか、ミレイが先にそう言った。
「水と茶、運ぶだけ。言われたことだけやりな」
「……はい」
短く返事をして、私は深呼吸を一つした。
大丈夫。
まだ、大丈夫。
言い聞かせるようにして、ミレイのあとについていく。
廊下を抜け、普段はあまり近づかない奥の部屋へ入ると、そこには見慣れない空気があった。
客室。
装飾は簡素だが、普段の生活空間よりは明らかに整えられている。窓際には軽いカーテンがかかり、机の上には花が一輪だけ飾られている。香油の匂いも、普段より少し上品なものだった。
部屋の中には、すでに一人の客と、館の女が一人いた。
客は中年の男だった。特別裕福そうにも、特別粗野そうにも見えない。ごく普通の、どこにでもいそうな男。けれどその「普通」というのが、逆に分かりにくい。
私は視線を下げ、余計な情報を拾わないようにする。
「新入り?」
男の声がした。
「ええ、雑用だけね。まだ若いから」
ミレイがさらりと答える。
そのやり取りを聞いて、私は少しだけ肩の力を抜いた。少なくとも今この場で、私が何かを強いられることはないらしい。
「水、置きます」
言われた通り、机の上に水差しと茶器を置く。手が震えないように、ゆっくりと。
そのとき、ふと気づいた。
机の端に、使いかけの布が置かれている。少し湿っていて、皺が寄っている。たぶん、さっき何かを拭いたのだろうが、そのままになっている。
ほんの些細なことだ。
でも、私は無意識に手を伸ばしていた。
布を軽く整え、皺を伸ばし、端に寄せる。
それだけ。
本当に、それだけの動作。
「……おや」
客が小さく声を上げた。
私はびくりと肩を震わせる。
しまった、余計なことをした。
そう思って顔を伏せると、男はくすりと笑った。
「よく見ているね」
「……すみません」
反射的に謝る。
「謝ることじゃない。気が利く子だ」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。
褒められた。
客に。
しかも、穏やかな声で。
信じられなくて、少しだけ顔を上げると、男は特に含みのない表情でこちらを見ていた。
「こういう細かい気遣いは、場を心地よくする。大事なことだ」
それは、説教でも、試すような言葉でもなかった。ただの感想のように聞こえた。
私は何も言えず、ただ小さくうなずいた。
「もういいわ、リナ。戻っていい」
ミレイの声に、私はほっとして一礼し、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、ようやく息が抜ける。
怖くなかったわけではない。
でも、想像していたほどではなかった。
むしろ――
(……普通だった)
その事実が、少しだけ不思議だった。
台所に戻ると、マルゴがこちらをちらりと見た。
「どうだった」
「……何も、ありませんでした」
「ならいい」
それだけで会話は終わる。
それが逆にありがたかった。
その日の夕方、エナが興味津々といった顔で近づいてきた。
「聞いたよ、客室入ったんだって?」
「……うん」
「どうだった? 変なことされなかった?」
「されてない」
「ならよかった」
エナはあっさりと納得したようだった。
「でもさ、あんた、なんか褒められたって」
「……少しだけ」
「やっぱりね」
なぜか得意げに言う。
「最初からそんな感じだったもん。気づくとこ、普通の子と違うし」
「……そうかな」
「そうだよ。私なんて、最初の頃は言われたことだけでいっぱいいっぱいだったし」
エナは笑いながら肩をすくめた。
「まあ、いいことだよ。あんたが楽になるなら、こっちも助かるし」
その言葉を聞いて、私は少しだけ考えた。
楽になる。
私は今、楽になっているのだろうか。
完全に安心しているわけではない。
不安が消えたわけでもない。
でも――
少なくとも、前よりは呼吸がしやすい。
夜、部屋に戻ってから、私は今日のことを思い返していた。
客室に入ったこと。
男の言葉。
エナの反応。
そして、ミレイの態度。
気が利く。
使いやすい。
やりやすい。
そんな言葉が、少しずつ積み重なっている。
それはきっと、「評判」と呼ばれるものの始まりなのだろう。
前世の私は、評判なんて気にする余裕はなかった。
ただ嫌われないように、目をつけられないようにするだけで精一杯だった。
でも今は違う。
どうせ同じように人の顔色を見るなら、
どうせ同じように周りに気を配るなら、
それを「自分を守るため」だけじゃなく、
「環境を良くするため」に使える。
その違いが、こんなにも大きいなんて。
私はベッドに横になり、目を閉じた。
ほんの少しだけ、未来のことを考える。
このまま働き続けたら、どうなるだろう。
どこまでいけるだろう。
まだ分からない。
でも――
(もう少し、やってみたい)
そう思えるくらいには、私はこの場所に慣れ始めていた。
そして、その小さな評判が、やがて思いもよらない形で広がっていくことを、まだ私は知らなかった。