前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る   作:ひまんちゅ

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第五話 評判というもの

 変化は、ある日突然やってくるものではない。

 

 少しずつ積み重なって、気づいたときには「前と違う」と思える形になっている。館の中の空気が変わり始めてから、さらに数日が経った頃、私はそのことを別の形で知ることになった。

 

「リナ、あんた表に出てみな」

 

 昼過ぎ、ミレイにそう呼ばれて、私は一瞬だけ足を止めた。

 

 表に出る、という言葉に、身体がわずかに強張る。

 

 ここは娼館だ。表に出るということは、客の目に触れる場所に行くということだ。それがどういう意味を持つのか、私は知っている。

 

「……雑用でいいから。客の前に出すつもりはないわ」

 

 私の表情を読んだのか、ミレイが先にそう言った。

 

「水と茶、運ぶだけ。言われたことだけやりな」

 

「……はい」

 

 短く返事をして、私は深呼吸を一つした。

 

 大丈夫。

 まだ、大丈夫。

 

 言い聞かせるようにして、ミレイのあとについていく。

 

 廊下を抜け、普段はあまり近づかない奥の部屋へ入ると、そこには見慣れない空気があった。

 

 客室。

 

 装飾は簡素だが、普段の生活空間よりは明らかに整えられている。窓際には軽いカーテンがかかり、机の上には花が一輪だけ飾られている。香油の匂いも、普段より少し上品なものだった。

 

 部屋の中には、すでに一人の客と、館の女が一人いた。

 

 客は中年の男だった。特別裕福そうにも、特別粗野そうにも見えない。ごく普通の、どこにでもいそうな男。けれどその「普通」というのが、逆に分かりにくい。

 

 私は視線を下げ、余計な情報を拾わないようにする。

 

「新入り?」

 

 男の声がした。

 

「ええ、雑用だけね。まだ若いから」

 

 ミレイがさらりと答える。

 

 そのやり取りを聞いて、私は少しだけ肩の力を抜いた。少なくとも今この場で、私が何かを強いられることはないらしい。

 

「水、置きます」

 

 言われた通り、机の上に水差しと茶器を置く。手が震えないように、ゆっくりと。

 

 そのとき、ふと気づいた。

 

 机の端に、使いかけの布が置かれている。少し湿っていて、皺が寄っている。たぶん、さっき何かを拭いたのだろうが、そのままになっている。

 

 ほんの些細なことだ。

 

 でも、私は無意識に手を伸ばしていた。

 

 布を軽く整え、皺を伸ばし、端に寄せる。

 

 それだけ。

 

 本当に、それだけの動作。

 

「……おや」

 

 客が小さく声を上げた。

 

 私はびくりと肩を震わせる。

 

 しまった、余計なことをした。

 

 そう思って顔を伏せると、男はくすりと笑った。

 

「よく見ているね」

 

「……すみません」

 

 反射的に謝る。

 

「謝ることじゃない。気が利く子だ」

 

 その言葉に、私は一瞬言葉を失った。

 

 褒められた。

 

 客に。

 

 しかも、穏やかな声で。

 

 信じられなくて、少しだけ顔を上げると、男は特に含みのない表情でこちらを見ていた。

 

「こういう細かい気遣いは、場を心地よくする。大事なことだ」

 

 それは、説教でも、試すような言葉でもなかった。ただの感想のように聞こえた。

 

 私は何も言えず、ただ小さくうなずいた。

 

「もういいわ、リナ。戻っていい」

 

 ミレイの声に、私はほっとして一礼し、部屋を出た。

 

 廊下に出た瞬間、ようやく息が抜ける。

 

 怖くなかったわけではない。

 でも、想像していたほどではなかった。

 

 むしろ――

 

(……普通だった)

 

 その事実が、少しだけ不思議だった。

 

 台所に戻ると、マルゴがこちらをちらりと見た。

 

「どうだった」

 

「……何も、ありませんでした」

 

「ならいい」

 

 それだけで会話は終わる。

 

 それが逆にありがたかった。

 

 その日の夕方、エナが興味津々といった顔で近づいてきた。

 

「聞いたよ、客室入ったんだって?」

 

「……うん」

 

「どうだった? 変なことされなかった?」

 

「されてない」

 

「ならよかった」

 

 エナはあっさりと納得したようだった。

 

「でもさ、あんた、なんか褒められたって」

 

「……少しだけ」

 

「やっぱりね」

 

 なぜか得意げに言う。

 

「最初からそんな感じだったもん。気づくとこ、普通の子と違うし」

 

「……そうかな」

 

「そうだよ。私なんて、最初の頃は言われたことだけでいっぱいいっぱいだったし」

 

 エナは笑いながら肩をすくめた。

 

「まあ、いいことだよ。あんたが楽になるなら、こっちも助かるし」

 

 その言葉を聞いて、私は少しだけ考えた。

 

 楽になる。

 

 私は今、楽になっているのだろうか。

 

 完全に安心しているわけではない。

 不安が消えたわけでもない。

 

 でも――

 

 少なくとも、前よりは呼吸がしやすい。

 

 夜、部屋に戻ってから、私は今日のことを思い返していた。

 

 客室に入ったこと。

 男の言葉。

 エナの反応。

 

 そして、ミレイの態度。

 

 気が利く。

 使いやすい。

 やりやすい。

 

 そんな言葉が、少しずつ積み重なっている。

 

 それはきっと、「評判」と呼ばれるものの始まりなのだろう。

 

 前世の私は、評判なんて気にする余裕はなかった。

 ただ嫌われないように、目をつけられないようにするだけで精一杯だった。

 

 でも今は違う。

 

 どうせ同じように人の顔色を見るなら、

 どうせ同じように周りに気を配るなら、

 

 それを「自分を守るため」だけじゃなく、

 「環境を良くするため」に使える。

 

 その違いが、こんなにも大きいなんて。

 

 私はベッドに横になり、目を閉じた。

 

 ほんの少しだけ、未来のことを考える。

 

 このまま働き続けたら、どうなるだろう。

 どこまでいけるだろう。

 

 まだ分からない。

 でも――

 

(もう少し、やってみたい)

 

 そう思えるくらいには、私はこの場所に慣れ始めていた。

 

 そして、その小さな評判が、やがて思いもよらない形で広がっていくことを、まだ私は知らなかった。

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