前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る 作:ひまんちゅ
評判というものは、不思議な広がり方をする。
館の中での小さな変化は、最初はほんの限られた人間しか気づかない。だが、そこに出入りする人間がいれば、その変化はやがて外にも漏れていく。
その日、私はその「外からの視線」を初めて意識することになった。
昼を少し過ぎた頃、ミレイに呼ばれて、また客室の近くまで行くことになった。
「今日は二組入ってるから、手が足りないのよ」
「……はい」
「前と同じ。水と茶だけ。余計なことはしなくていい」
「分かりました」
余計なことはしなくていい、と言われて、私は少しだけ胸の奥がちくりとした。
最近は、気づいたことを少しずつやることに慣れてきていたからだ。けれど、それがいつも許されるわけではないのも分かっている。場所が変われば、求められるものも変わる。
私は言われた通り、余計なことは考えないようにして、用意された水差しを持った。
廊下を進み、客室の前で一度呼吸を整える。
大丈夫。
ただ運ぶだけ。
そう言い聞かせて、扉をノックした。
「入っていいわよ」
中から女の声がして、私は扉を開けた。
部屋の中には、前に見たのとは違う客がいた。
若い男だった。二十代前半くらいだろうか。身なりは整っているが、どこか落ち着きがない。視線が忙しなく動いている。
その向かいには、館の女が座っていた。落ち着いた笑顔で話をしているが、その目はしっかりと相手を見ている。
私は視線を下げ、静かに机へ向かう。
「水、置きます」
声が震えないように注意しながら、ゆっくりと動く。
そのときだった。
「……あれ?」
客の男が、ぽつりと声を上げた。
心臓が一瞬だけ強く跳ねる。
何かまずいことをしただろうか。
「どうかしました?」
女が柔らかく問いかける。
「いや……この子、なんか……」
男の視線が、こちらに向く。
私は反射的に肩を固くする。
見られること自体は珍しくない。
でも、その「見方」が分からないときが、一番怖い。
「……普通だなって」
「は?」
思わず顔を上げそうになって、慌ててこらえる。
普通。
それは、どういう意味だろう。
侮辱ではなさそうだった。
けれど、褒め言葉とも少し違う。
女はくすりと笑った。
「それ、どういう意味?」
「いや、その……」
男は少し言葉を探してから、続ける。
「なんか、こういうとこって、もっと……作ってる感じがするっていうか」
「作ってる?」
「うん。媚びてるっていうか、無理に笑ってるっていうか」
その言葉に、私は一瞬だけ息を止めた。
それは、前世の私がずっとやってきたことだった。
媚びること。
作ること。
無理に笑うこと。
それをやらなければ、生きていけなかった。
「でも、この子、そういうのがない」
男はそう言った。
「ただ、普通にいる感じ」
その言葉を聞いて、私は何も言えなかった。
普通。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
前世では、異常だった。
壊れていた。
おかしいと言われ続けた。
ここに来てからも、自分が普通だとは思っていなかった。ただ、目立たないように、問題を起こさないようにしていただけだ。
それなのに。
「……変?」
思わず、小さく声が漏れた。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
部屋の空気が一瞬止まる。
男は驚いた顔をして、こちらを見た。
「いや、変じゃない。むしろ……」
少し考えてから、言葉を選ぶ。
「いいと思う」
その一言に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
いい。
ただ、それだけの言葉なのに。
「……ありがとうございます」
自然とそう返していた。
作った声ではない。
無理に整えた笑顔でもない。
ただ、少しだけ嬉しかったから。
ミレイに「余計なことはするな」と言われていたのを思い出し、私はすぐに一礼して部屋を出た。
廊下に出ると、さっきまでの緊張が一気に抜ける。
壁に手をつき、静かに息を吐いた。
(普通……)
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
普通。
それは、前世の私が一番遠いと思っていたものだった。
特別でなくていい。
優れていなくていい。
ただ、普通に存在していい。
それだけのことが、あのときの私には許されていなかった。
台所に戻ると、ミレイがちらりとこちらを見た。
「遅かったわね」
「……少しだけ」
「何かあった?」
少し迷ってから、私は答えた。
「……普通って言われました」
「は?」
ミレイが怪訝な顔をする。
「どういう意味で?」
「分かりません。でも……悪い意味じゃなかったです」
そう言うと、ミレイは少し考えてから、ふっと笑った。
「ならいいじゃない」
「……はい」
「この仕事で“普通”って言われるのは、むしろ得よ。安心するってことだから」
その言葉に、私は小さくうなずいた。
安心。
その感覚も、まだ完全には理解できていない。
でも。
少なくとも、さっきのあの瞬間、私は少しだけ安心していた。
夜、部屋に戻ってから、私は何度もその言葉を思い返していた。
普通。
いい。
安心する。
どれも、前世ではほとんど縁のなかった言葉だ。
それが今、自分に向けられている。
それは、ほんの小さな変化かもしれない。
でも。
確かに、何かが変わり始めている。
館の中だけじゃない。
外から見ても、何かが違うと感じられるようになっている。
そのことが、少しだけ怖くて。
でも、それ以上に――
(嬉しい)
そう思っている自分がいた。
私は目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
この変化が、どこまで続くのかは分からない。
でも。
もう少し、このまま進んでみたい。
そう思えるくらいには、私は前に進み始めていた。