前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る 作:ひまんちゅ
「買いたい」と言われたあと、しばらく言葉が出なかった。
部屋の空気は静かで、重苦しさはない。けれど、私の中だけがざわついていた。胸の奥が落ち着かず、息の仕方を忘れたみたいになる。
買われる。
その言葉の意味は分かる。この館では、それは「外に出る」ことを意味する場合もあるし、別の場所へ移されることでもある。良いことなのか、悪いことなのかは、相手と条件次第だ。
だからこそ、簡単には頷けない。
「……どんな、旅ですか」
ようやく絞り出した声に、レイナは少しだけ目を細めた。
「依頼を受けて動く。魔物退治、護衛、探索。場所は定まらない」
「……危険、ですか」
「ある」
即答だった。
誤魔化しは一切ない。
私はその答えに、逆に少しだけ安心した。
前世では、「大丈夫」と言われるほど危険だった。優しい言葉の裏に、何が隠れているのか分からなかった。だからこそ、最初から危険だと言われたほうが、まだ信じられる。
「お前に前線は求めない。最初は雑用だ。だが、学ぶ気があるなら、剣も魔法も教える」
「……」
剣と魔法。
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。
この世界に来てから、そういう存在が現実だと知った。でも、それはあくまで遠いものだった。私には関係のない世界だと思っていた。
それが、今。
手を伸ばせば届くかもしれない距離にある。
「嫌なら断っていい」
レイナは淡々と言った。
「ここに残るのも一つの選択だ」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
断っていい。
その前提があることに。
前世では、選択肢などなかった。
与えられたものを受け入れるか、壊れるか。
でも今は、選べると言われている。
「……少し、考えてもいいですか」
「ああ」
レイナはうなずいた。
「急がない。ただ、長くは待たない」
「……はい」
それで十分だった。
私は一礼して、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、足の力が少し抜ける。
壁に手をついて、静かに息を吐いた。
(どうしよう)
頭の中で、同じ言葉が何度も繰り返される。
残るか。
出るか。
どちらが正しいのか、分からない。
台所に戻ると、ミレイが腕を組んで待っていた。
「どうだった」
「……買いたい、と」
「でしょうね」
予想通り、といった顔だった。
「どうするの」
「……まだ、分かりません」
正直に答える。
ミレイは少しだけ目を細めた。
「まあ、簡単に決められる話じゃないわね」
「……はい」
「でも、あの人は悪い相手じゃない」
意外な言葉だった。
「知ってるんですか」
「昔、一度だけ依頼で関わったことがある」
ミレイは肩をすくめる。
「無駄に喋らないし、嘘もつかない。腕も確か。……少なくとも、ここで客として来る連中よりは、よっぽど信用できるわ」
その評価は、かなり高いものに聞こえた。
「ただし」
ミレイは少しだけ声を落とす。
「楽じゃないわよ」
「……はい」
「外は外で、別の厳しさがある。怪我もするし、死ぬこともある」
その言葉に、私は小さくうなずいた。
分かっている。
ここが安全な場所ではないように、外もまた安全ではない。
違うだけだ。
危険の種類が。
「ここにいれば、少なくともすぐに死ぬことはない」
「……」
「でも、ずっとここにいるなら、それはそれで別の意味で終わる」
ミレイはそう言った。
その言葉は、静かに胸に落ちてきた。
終わる。
前世の私も、そうやって終わった。
変わらない場所で、変えられないまま、少しずつ削れていく。
「……考えます」
「そうしな」
ミレイはそれ以上何も言わなかった。
その距離感がありがたかった。
夕方、洗濯場に行くと、エナがすぐに気づいた。
「なんかあったでしょ」
「……うん」
「顔に出てる」
エナは笑いながら、隣に座るように促す。
私は少し迷ってから、レイナの話をした。
全部ではないが、大まかに。
「へえ……」
エナは興味深そうに聞いていた。
「どうするの?」
「……分からない」
「そっか」
エナはそれ以上無理に聞こうとはしなかった。
少しだけ考えてから、ぽつりと言う。
「でもさ」
「うん?」
「あんた、ここで終わる感じしないんだよね」
その言葉に、私は驚いた。
「……どういう意味?」
「なんとなく。ずっとここにいる人って、最初からそういう空気あるけど、あんた違う」
エナは肩をすくめる。
「外に出る人のほうに見える」
外に出る人。
その言葉が、妙に現実味を持って響く。
「……怖くないの?」
「怖いよ」
エナはあっさり言った。
「でも、怖いだけでやめてたら、何も変わらないし」
「……」
「まあ、私が決めることじゃないけどね」
そう言って、笑う。
「ただ、どっち選んでも、あんたならなんとかすると思う」
その言葉に、私は何も言えなかった。
信じられている。
そう感じたのは、初めてかもしれない。
夜、部屋に戻って、私は一人で考えた。
ここに残るか。
外に出るか。
どちらも、正解ではない。
どちらも、間違いではない。
ただ。
選ばなければならない。
それが、今の私に与えられたものだ。
前世では、選べなかった。
でも今は違う。
怖い。
不安もある。
でも。
(……どうしたい?)
自分に問いかける。
誰かのためじゃない。
怒られないためでもない。
自分のために。
しばらくして、私はゆっくりと目を閉じた。
答えは、まだ完全には形になっていない。
でも。
ほんの少しだけ、心は決まり始めていた。