前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る   作:ひまんちゅ

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第九話 はじめての決断

 朝が来るのが、少しだけ怖かった。

 

 目を閉じても、完全には眠れなかった。浅い眠りの中で何度も目が覚めて、そのたびに同じことを考える。

 

 残るか。

 出るか。

 

 答えは、もうほとんど決まっている気がするのに、最後の一歩が踏み出せない。

 

 それでも、朝は来る。

 

 窓の隙間から差し込む光で、私はゆっくりと目を開けた。

 

 身体は重い。

 頭も、少しぼんやりしている。

 

 けれど、起きなければならない。

 

 いつも通りに。

 

 いつも通りに動くことで、少しは落ち着くかもしれない。

 

 私は顔を洗い、簡単に身支度を整えて、台所へ向かった。

 

 マルゴはすでに鍋の前に立っていた。

 

「遅いよ」

 

「……すみません」

 

「いいから水」

 

「はい」

 

 短いやり取り。

 

 いつもと同じ。

 

 それだけで、少しだけ安心する。

 

 水を運び、器を並べ、こぼれたものを拭く。身体は自然と動いた。頭で考えなくても、手が次にやることを知っている。

 

 その流れの中で、ふと気づく。

 

 私はもう、この場所の一部になりかけている。

 

 ここで働くことに慣れている。

 この空気の中で呼吸することに慣れている。

 

 だからこそ――

 

(ここに残れば、きっと楽だ)

 

 そう思ってしまう。

 

 大きな変化はない。

 危険も、比較的少ない。

 毎日同じことを繰り返していけば、少なくとも「今より悪くなる可能性」は低い。

 

 それは、悪くない選択だ。

 

 でも。

 

 その先に何があるのかは、分からない。

 

 昼前、ミレイが私を呼んだ。

 

「リナ」

 

「はい」

 

「今日中に答え出しな」

 

 短い言葉だった。

 

「レイナは昼過ぎまでいる。それ以降は分からない」

 

「……はい」

 

「急かすつもりはないけど、機会ってのはそう何度も来るもんじゃない」

 

 そう言って、ミレイはそれ以上何も言わなかった。

 

 その言葉の重さだけを残して。

 

 私は静かにうなずいた。

 

 午後、洗濯場に行くと、エナがこちらを見て手を振った。

 

「お、来た来た」

 

「……うん」

 

「決めた?」

 

 直球だった。

 

 私は少しだけ笑ってしまう。

 

「まだ」

 

「そっか」

 

 エナはそれ以上急かさなかった。

 

 二人で黙って布を洗う。

 

 水の音だけが、静かに響く。

 

 しばらくして、エナがぽつりと口を開いた。

 

「ねえ」

 

「うん?」

 

「怖い?」

 

「……怖い」

 

 素直に答える。

 

 嘘をつく意味はない。

 

「そりゃそうだよね」

 

 エナはうなずいた。

 

「でもさ」

 

 手を止めずに続ける。

 

「ここに残るのも、別の意味で怖くない?」

 

 その言葉に、私は手を止めた。

 

 残るのも、怖い。

 

 それは、昨日ミレイが言っていたことと同じだった。

 

 ここにいれば、すぐに死ぬことはない。

 

 でも。

 

 ずっとここにいれば、別の意味で終わる。

 

「……うん」

 

 小さくうなずく。

 

 エナはそれを見て、少しだけ笑った。

 

「じゃあ、どっちの怖さを選ぶか、だね」

 

 どっちの怖さを選ぶか。

 

 その言葉は、妙にしっくりきた。

 

 怖さがなくなる選択なんて、きっとない。

 

 なら。

 

 どの怖さなら、受け入れられるか。

 

 どの怖さなら、その先に進めるか。

 

 それだけの違いだ。

 

 洗濯を終えたあと、私は一人で中庭に出た。

 

 空を見上げる。

 

 青い空。

 少しだけ流れる雲。

 

 前世でも、空はあったはずだ。

 でも、こうして見上げる余裕はなかった。

 

 今は、ある。

 

 それだけで、少しだけ違う。

 

(……外)

 

 館の外。

 

 まだ見たことのない場所。

 まだ知らない世界。

 

 怖い。

 でも。

 

 知りたい、と思う。

 

 その気持ちが、確かにある。

 

 私はゆっくりと息を吐いた。

 

 そして、目を閉じる。

 

 前世のことが、少しだけよぎる。

 

 選べなかった人生。

 逃げられなかった場所。

 

 あのときの私は、ただ終わるしかなかった。

 

 でも、今は違う。

 

 選べる。

 

 怖くても、決められる。

 

「……行きたい」

 

 小さく、そう呟いた。

 

 その言葉は、驚くほど自然に出てきた。

 

 無理に絞り出したものじゃない。

 

 心の奥にあったものが、そのまま形になった。

 

 私は目を開けた。

 

 迷いは、もうほとんど残っていなかった。

 

 廊下を歩き、奥の部屋へ向かう。

 

 足取りは、思ったよりも軽い。

 

 扉の前で立ち止まり、一度だけ深呼吸をする。

 

 そして、ノックした。

 

「入れ」

 

 レイナの声がする。

 

 私は扉を開けた。

 

 部屋の中には、昨日と同じように彼女がいた。

 

 椅子に座り、静かにこちらを見る。

 

「答えは出たか」

 

 短い問い。

 

 私はまっすぐに彼女を見た。

 

「……はい」

 

「聞こう」

 

 その一言で、背筋が伸びる。

 

 私は一歩前に出て、はっきりと言った。

 

「行きます」

 

 その瞬間、胸の奥にあった何かが、すっと軽くなった。

 

 怖さが消えたわけじゃない。

 

 でも、それ以上に、前に進んだという実感があった。

 

 レイナは静かにうなずいた。

 

「いい選択だ」

 

 それだけ言う。

 

 過剰な評価も、余計な言葉もない。

 

 でも、それで十分だった。

 

 私は小さく息を吐いた。

 

 これで、戻れない。

 

 でも、それでいい。

 

 初めて、自分で選んだ。

 

 その事実だけで、十分だった。

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