前世が最悪だった私、転生したら娼婦で成り上がり、戦士との幸せな結婚生活を送る 作:ひまんちゅ
朝が来るのが、少しだけ怖かった。
目を閉じても、完全には眠れなかった。浅い眠りの中で何度も目が覚めて、そのたびに同じことを考える。
残るか。
出るか。
答えは、もうほとんど決まっている気がするのに、最後の一歩が踏み出せない。
それでも、朝は来る。
窓の隙間から差し込む光で、私はゆっくりと目を開けた。
身体は重い。
頭も、少しぼんやりしている。
けれど、起きなければならない。
いつも通りに。
いつも通りに動くことで、少しは落ち着くかもしれない。
私は顔を洗い、簡単に身支度を整えて、台所へ向かった。
マルゴはすでに鍋の前に立っていた。
「遅いよ」
「……すみません」
「いいから水」
「はい」
短いやり取り。
いつもと同じ。
それだけで、少しだけ安心する。
水を運び、器を並べ、こぼれたものを拭く。身体は自然と動いた。頭で考えなくても、手が次にやることを知っている。
その流れの中で、ふと気づく。
私はもう、この場所の一部になりかけている。
ここで働くことに慣れている。
この空気の中で呼吸することに慣れている。
だからこそ――
(ここに残れば、きっと楽だ)
そう思ってしまう。
大きな変化はない。
危険も、比較的少ない。
毎日同じことを繰り返していけば、少なくとも「今より悪くなる可能性」は低い。
それは、悪くない選択だ。
でも。
その先に何があるのかは、分からない。
昼前、ミレイが私を呼んだ。
「リナ」
「はい」
「今日中に答え出しな」
短い言葉だった。
「レイナは昼過ぎまでいる。それ以降は分からない」
「……はい」
「急かすつもりはないけど、機会ってのはそう何度も来るもんじゃない」
そう言って、ミレイはそれ以上何も言わなかった。
その言葉の重さだけを残して。
私は静かにうなずいた。
午後、洗濯場に行くと、エナがこちらを見て手を振った。
「お、来た来た」
「……うん」
「決めた?」
直球だった。
私は少しだけ笑ってしまう。
「まだ」
「そっか」
エナはそれ以上急かさなかった。
二人で黙って布を洗う。
水の音だけが、静かに響く。
しばらくして、エナがぽつりと口を開いた。
「ねえ」
「うん?」
「怖い?」
「……怖い」
素直に答える。
嘘をつく意味はない。
「そりゃそうだよね」
エナはうなずいた。
「でもさ」
手を止めずに続ける。
「ここに残るのも、別の意味で怖くない?」
その言葉に、私は手を止めた。
残るのも、怖い。
それは、昨日ミレイが言っていたことと同じだった。
ここにいれば、すぐに死ぬことはない。
でも。
ずっとここにいれば、別の意味で終わる。
「……うん」
小さくうなずく。
エナはそれを見て、少しだけ笑った。
「じゃあ、どっちの怖さを選ぶか、だね」
どっちの怖さを選ぶか。
その言葉は、妙にしっくりきた。
怖さがなくなる選択なんて、きっとない。
なら。
どの怖さなら、受け入れられるか。
どの怖さなら、その先に進めるか。
それだけの違いだ。
洗濯を終えたあと、私は一人で中庭に出た。
空を見上げる。
青い空。
少しだけ流れる雲。
前世でも、空はあったはずだ。
でも、こうして見上げる余裕はなかった。
今は、ある。
それだけで、少しだけ違う。
(……外)
館の外。
まだ見たことのない場所。
まだ知らない世界。
怖い。
でも。
知りたい、と思う。
その気持ちが、確かにある。
私はゆっくりと息を吐いた。
そして、目を閉じる。
前世のことが、少しだけよぎる。
選べなかった人生。
逃げられなかった場所。
あのときの私は、ただ終わるしかなかった。
でも、今は違う。
選べる。
怖くても、決められる。
「……行きたい」
小さく、そう呟いた。
その言葉は、驚くほど自然に出てきた。
無理に絞り出したものじゃない。
心の奥にあったものが、そのまま形になった。
私は目を開けた。
迷いは、もうほとんど残っていなかった。
廊下を歩き、奥の部屋へ向かう。
足取りは、思ったよりも軽い。
扉の前で立ち止まり、一度だけ深呼吸をする。
そして、ノックした。
「入れ」
レイナの声がする。
私は扉を開けた。
部屋の中には、昨日と同じように彼女がいた。
椅子に座り、静かにこちらを見る。
「答えは出たか」
短い問い。
私はまっすぐに彼女を見た。
「……はい」
「聞こう」
その一言で、背筋が伸びる。
私は一歩前に出て、はっきりと言った。
「行きます」
その瞬間、胸の奥にあった何かが、すっと軽くなった。
怖さが消えたわけじゃない。
でも、それ以上に、前に進んだという実感があった。
レイナは静かにうなずいた。
「いい選択だ」
それだけ言う。
過剰な評価も、余計な言葉もない。
でも、それで十分だった。
私は小さく息を吐いた。
これで、戻れない。
でも、それでいい。
初めて、自分で選んだ。
その事実だけで、十分だった。