リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 グラクトの「慈悲」という名の哀願
離宮のサロンは、本宮の重苦しい喧騒とは無縁の、静謐な空気に満ちていた。
リュートとルリカが所用で外出している今、ルナリアは一人で長椅子に腰掛け、帝国の原語で書かれた分厚い歴史書を優雅にめくっていた。
そこへ、ノックの音すらもなく、乱暴に扉が開け放たれる。
「……ルナリア!」
息を切らし、金糸の髪をわずかに乱しながら踏み込んできたのは、第一王子グラクトであった。
ルナリアは驚く素振りすら見せず、ゆっくりと本に栞を挟んで閉じた。そして、立ち上がることもなく、ただ静かな赤眼を十三歳の少年に向けた。それは、王宮の者たちがグラクトに向ける「神の子」への崇敬とは対極にある、ただの「訪問者」を値踏みするような冷徹な眼差しだった。
「……随分とご機嫌斜めなご様子で、グラクト殿下。護衛の方々はどうなさいました? このような辺境の離宮へ単身で乗り込まれるなど、王族の品位に関わりますわよ」
「品位だと……? どの口が言うか!」
ルナリアのその言葉が引き金となり、グラクトは一歩踏み込んで声を荒らげた。
「先の茶会でのそなたの暴言。あれは天に選ばれた『神の子』である僕の、ひいては王家の品位を根底から貶める大罪だ! 本来であれば、その首と引き換えにしても償いきれぬ重罪なのだぞ!」
グラクトは、宮廷の教育係から叩き込まれた『王族品位録』の絶対性を盾に、ルナリアの危機を突きつけた。
ローゼンタリアにおいて、上位者の品位を損なうことは国家の秩序に対する反逆である。グラクトから見れば、ルナリアは既に死の淵に立たされている罪人に等しかった。
「だが……」
グラクトは顎を上げ、いかにも王者らしい寛大な態度を装って、もったいぶるように言葉を継いだ。
「あの場でそなたを断罪すれば、不要な外交問題を生む。何より、僕の慈悲深き心に反する。だからこそ、僕は王太子にふさわしい度量をもって、これを『内々の政治的妥結』として処理してやろうと、自ら足を運んだのだ」
「……妥結、ですか?」
ルナリアが微かに眉を動かすと、グラクトは自分の「高度な宮廷政治の根回し」が通じたと勘違いし、得意げに唇を歪めた。
「そうだ。王国の美しき形式美に則るのだ、ルナリア。今すぐ長椅子から降りて僕の足元に膝をつき、『私の不徳ゆえ、神の子たる殿下の御心を煩わせてしまいました』と泣いて謝罪しろ。そうして僕に身を委ねるなら、僕が絶対の権限をもってその罪を許し、再びそなたを名誉ある情交奉仕者として迎えてやろう」
グラクトの論理は、彼の中では完璧だった。
下位の者(ルナリア)が罪を被り、上位の者(グラクト)がそれを許す。それにより王家の品位は守られ、彼女にも「王の庇護下に入る」という特権が与えられる。誰の顔も潰さず、自分の傷ついた自尊心も完全に回復する、極めて理路整然とした政治的解決策である。
「そなたは賢い女だ。帝国の顔も立ち、僕の度量も示せる。これこそが、互いにとって最も利益のある完璧な着地点だろう?」
グラクトは、自分が恐ろしく理性的で大人びた「根回し」をしていると信じて疑っていなかった。
しかし、その根本にある価値観――「自分は生まれながらに神聖で無条件に尊い」「女や下位の者は、王権の理に従属し、罪を被って庇護されるべきである」という前提が、実力主義の帝国で生き抜いてきたルナリアの価値観とは、天と地ほども絶望的に断絶していることに気づいていなかった。
ルナリアは、何も答えない。
ただ、憐れみすら混じったような、氷のように冷ややかな沈黙でグラクトを見つめ返すだけだった。
「な、なんだその目は……っ!」
自分の「完璧な提案」に平伏さないルナリアの態度に、グラクトの張りボテの余裕が揺らぎ始める。焦燥に駆られた彼は、宮廷政治における最も卑劣で、最も効果的とされる「脅しのカード」を焦って切った。
「断れば……同い年でありながら金髪金眼を持たぬ影である、息子のリュートの立場がどうなるか分かっているのか!? 奴がこの王宮で冷遇されているのは、僕という絶対の基準があるからだ! 母親なら、息子の生存圏を守るために僕の前に這いつくばるのが当然の義務だろう!」
血統の優位性という借り物の権力を振りかざし、必死にルナリアを屈服させようと吠えた。
それは、彼が王国の理に完全に染まりきった「哀れな体現者」であることを、何よりも雄弁に物語っていた。