リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第5話『帝国の護身術5』

5 見て見ぬふりの免罪符と、敗走

 

「……っ、あ……ぁぁっ……!」

 ルナリアが静かに手を離すと、グラクトは跳ね起きるように距離を取り、絨毯の上を這うようにして無様に後ずさった。

 極められた右腕を押さえ、その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れている。先ほどまで彼が必死にまとっていた「神の子」の威厳や、王家特有の「作られた品位」など、もはや微塵も残っていなかった。

 

 己の拠り所であった権威も、最後にすがった自らの力(剣術)すらも通じなかった絶望と混乱。彼の頭の中にあった『絶対的な王者である自分』という虚像は完全に崩壊し、そこにはただ恐怖に震える等身大の十三歳の子供がいた。

 

 そんな彼を、ルナリアは静かな赤眼で見下ろしていた。

 そこには嘲りも、怒りもなかった。ただ、一人の未熟な少年を見る、厳しくも透明な大人の眼差しがあった。

 

「……それが本当の殿下ですよ」

 静寂のサロンに、ルナリアの凛とした声が響く。

 

「生まれ持った血統でも、他者がひれ伏す権威でもない。力を持たず、ただ無様に泣き喚くことしかできない十三歳の子供。……それが、今の貴方の真実です」

 それは、今まで誰も彼に突きつけることのなかった、この王宮における最大の禁忌であった。同時に、一人の人間として自立するための残酷な『愛の鞭』でもあった。

 

「これからは、その等身大のご自分を受け止め、歩いてください。……いつか本当の王となるために」

 しかし。

 完全に自我が崩壊し、パニックに陥った十三歳の少年の心は、その深遠な言葉を全力で拒絶した。

 

『嫌だ……! 違う、僕は無能な赤子なんかじゃない! 僕は神の子だ!』

 強烈な自己否定の恐怖から逃れるため、グラクトの脳は必死に「自分を肯定してくれる存在」を求めて狂ったように過去の記憶を漁り始めた。

 

 実母ヒルデガードの顔が浮かぶ。だが駄目だ。今の惨めな姿を見せれば、「神の子たる者が何という見苦しい姿ですか」と厳しく叱責される。それは、ルナリアの『庇護下にある赤子』という呪いを自ら証明することになってしまう。

 その時、極限の逃避行の中、グラクトの脳裏にふと、あの白薔薇の間で自分を優しく抱きしめてくれた、底無しに甘い笑顔が蘇った。

 第三側妃、ソフィアだ。

 

『――殿下は何も間違っておられません。あのような無理解な言葉に、御心を痛める必要など一切ないのです。殿下は神の子であり、誰よりも気高く、素晴らしい方……』

 

『そうだ……ソフィア義母上だ! あの方だけが、僕の正しさを理解してくれている。僕がどんなに無様でも、絶対に叱らず、優しく抱きしめて「貴方は悪くない」と慰めてくれる……!』

 真の成長を促すルナリアの言葉を捨て、完璧を強要するヒルデガードの元からも逃げ出し、グラクトは『自分を全肯定してくれる甘い毒』へと完全に精神の依存先を定めた。

 

 そして同時に、目の前の恐怖の対象――自分という存在を根本から破壊したルナリアに対する、底無しの憎悪が膨れ上がる。

 ルナリアの言葉が真実だと認めてしまえば、自分の存在価値が消滅してしまう。だからこそ、彼女を「完全な悪」として否定しなければ、自我を保てないのだ。

 ここでグラクトが次にすがったのは、自分を無条件で肯定し、絶対的な腕力で外敵を排除してくれる最強の盾、セオリスの姿だった。

 

『――帝国の連中は、力しか信じない血の通わぬ野蛮な獣です。もしグラクト様を脅かす獣が現れれば、この私が徹底的に排除いたします』

『そうだ……セオリスなら、こんな女、一捻りだ! 僕には無理だ。でも、あいつなら……! あの女がこれからセオリスに何をされようと、僕の知ったことか! むしろ、完膚なきまでに痛めつけられればいいんだ!!』

 この瞬間、グラクトの中で決定的な「逃避」が完了した。

 

 精神の安寧はソフィアの甘やかしに依存し、自分を傷つけた者への報復はセオリスの暴力に丸投げする。自分自身で現実を受け止める強さを持てなかった彼は、これから起こるであろう凶行を黙認するための完璧な『免罪符』を己の心に発行したのである。

 

「お、覚えていろ……!! 貴様など……貴様などぉぉッ!!」

 グラクトは痛む腕を抱え、等身大の子供の甲高い声で泣き叫びながら、サロンの扉を蹴り開けて離宮から逃げ出していく。彼が向かう先は、厳格な母の宮でも、王としての執務室でもなく、自分を甘やかしてくれるソフィアの腕の中であった。

 

 彼が持ち込んだ「王国の狂った理」は粉砕された。

 だが、彼が現実から目を背け、狂犬の鎖を手放して甘い毒へと逃げ出したことによって、今度は理屈など一切通じない「本物の暴力の理」が、いよいよこの離宮へと解き放たれることになる。

 

 

 

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