リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 冷徹なる裁可と、知性派の野望
そして最後の標的は、第一王女リーゼロッテ。
ヒルデガードは、激務と自身の謀略(色仕掛けによる傀儡化)によって精神をすり減らしている新宰相・ヴァルメイユ侯爵を呼び出し、蠱惑的な笑みを浮かべて「助言」を与えた。
「宰相閣下。間近に迫った帝国使節団の接待ですが……今回の準備、帝国との婚約当事者であるリーゼロッテ本人に任せてみてはいかがでしょう? 実力主義を掲げる帝国に対し、『我が国の王女は自ら外交を取り仕切るほどの実力を備えている』とアピールすることは、交渉において絶大な優位性(カード)をもたらしますわ」
帝国という外的要因を盾に取った、反論不可能なロジック。さらに彼女は、悪魔的な一手を付け加える。
「もちろん、王女一人では不安でしょう。補佐にして担当官として、セラフィナ侯爵を据えなさい。彼ら知性派の家系ならば、王女を立派に支えることでしょう」
ヒルデガードのこの采配は、二重の悪意に満ちていた。一つは、実の娘であるリーゼロッテを本宮の激務に縛り付け、離宮に寄り付かせないこと。もう一つは、グラクトを奪った第三側妃ソフィアの実家(セラフィナ公爵家)をこの面倒な実務に巻き込み、彼らの手足を同時に縛り上げることだ。
その囁きを受けた宰相ヴァルメイユ侯爵は、本宮の謁見の間にて、国王ゼノンと王妃マルガレーテの前に進み出た。
「陛下、王妃様。間近に迫った帝国使節団の接待に関しまして、後宮の長たる王妃様の裁可を仰ぎたく存じます。……使節団を迎える『名誉責任者(主賓役)』として、帝国との婚約交渉当事者である第一王女リーゼロッテ殿下を据えてはいかがでしょうか。実際の手配や予算管理を行う実務責任者には、知性派の重鎮たるセラフィナ侯爵を推挙いたします」
宰相の上奏を聞き、マルガレーテ王妃は氷青の瞳を細めた。
王女を名誉職に据えて品位をアピールしつつ、泥臭い実務と失敗時の責任はすべてセラフィナ侯爵が負う。王家にとって一切のリスクがない完璧な布陣である。
『悪くない提案です。教師たちの評価が本物であるか、帝国という脅威を前にしてどこまで表舞台の重圧に耐えうるか試す良い機会。……もし重圧で潰れ、恥を晒したとしても、すべての実務責任をセラフィナ侯爵に押し付け、王家は無傷で済ませればいいだけのこと』
マルガレーテ王妃は、この提案の裏にヒルデガードの囁きがあることなど知る由もない。彼女は極めて冷徹な「王家の利益とリスク管理」という天秤だけでこれを測り、静かに口を開いた。
「よろしい。リーゼロッテを本宮へ召し上げ、今回の饗応における名誉責任者としての権限を与えます。セラフィナ侯爵は実務責任者として、王女の顔に泥を塗らぬよう完璧に支えなさい」
「うむ。王妃が許可するならば、余も異存はない。手配せよ」
この瞬間、大人の醜い権力闘争とは無関係な「国益と責任分散という反論不可能な正論」によって、リーゼロッテを本宮の実務の泥沼へと引きずり込む決定が、誰にも覆せない『王命』として正式に下された。
◇
その数日後。本宮の執務室。
正式な王命を受けたリーゼロッテは、実務責任者に命じられたセラフィナ侯爵を前に、背筋を真っ直ぐに伸ばして優雅なカーテシーを行った。
「名誉ある大役を仰せつかり、身の引き締まる思いです。セラフィナ侯爵、実務の面では至らぬ点も多々あるかと存じますが、ご指導のほどよろしくお願いいたしますわ」
「はっ。王女殿下を全力でお支えいたします。……して、殿下。我々文官が過去の接待記録を元に作成した、饗応の予算案と席次の草案がございます。殿下は名誉責任者であられますゆえ、こちらは形式的なご確認だけで――」
セラフィナ侯爵は恭しく腰を折りながらも、内心では薄く嘲笑していた。所詮は十一歳の飾り物。適当に恩を売って手駒にしてやろう、と。
しかし、顔を上げたリーゼロッテの金色の瞳には、子供らしい戸惑いや、飾り物としての妥協など微塵もなかった。
「侯爵。事前に目を通させていただきましたが、この草案は根本から修正が必要ですわ」
「……は?」
「過去の王国の古い記録など、実力主義の帝国には何の意味も持ちません。帝国の軍事予算の推移を見るに、彼らは質実剛健を重んじています。使節団の席次は、我が国の血統順ではなく、彼らの重んじる『実力(魔導や武術の階級)』を最優先に再配置してください。また、装飾過多な甘口のワインは削り、肉と度数の高い蒸留酒に予算を回します。私が名誉責任者として彼らの前に立つ以上、我が国の『無知』を晒すわけにはいきませんわ」
流れるような、それでいて一切の無駄を省いた完璧な指示。
セラフィナ侯爵は息を呑み、思わず十一歳の少女の顔をまじまじと見つめ返した。ヒルデガードが触れ回っていた「不完全な駒」などではない。飾り物として据えられたはずの少女が、帝国の本質を正確にえぐり出し、実務責任者である自分を論理で完全に凌駕したのだ。
『……驚いた。これほどの才女であったとは。……いや、これは素晴らしい』
魔導と知性を司るセラフィナ侯爵の胸の奥で、黒く巨大な野心が燃え上がった。
『これほどの逸材が帝国に流れるのは、我がセラフィナ家にとって莫大な損失だ。この使節団の滞在中、何らかの理由をつけて帝国の婚約を穏便に破談に持ち込み、我が息子リーデルの妻として何としても囲い込むべきだ!』
◇
その日の夜。
本宮の回廊の死角、月明かりの届かない影の中で、セラフィナ侯爵は第三側妃である実の娘、ソフィアと静かに視線を交わしていた。
「……第一王子殿下は、おまえの腕の中から出ようとしないようだな」
「ええ、お父様。実母の重圧から逃げ出したあの子は、もはや私の甘やかしなしでは息もできませんわ。……お父様も、素晴らしい『駒』を見つけられたご様子で」
ソフィアの蠱惑的な笑みに、侯爵は口の端を歪めて頷いた。
「ああ。リーゼロッテ王女は、私が手ずから我が家へ迎え入れる。……これから本格化する接待準備、名誉職の体裁を利用して彼女を徹底的に本宮へ縛り付け、私の指揮下で孤立させる。その合間に息子のリーデルを接近させ、帝国も口を出せない『既成事実(スキャンダル)』を作り上げて婚約を白紙に戻してやる」
「ふふ。傷ついた第一王子と、優秀な第一王女。次代のローゼンタリアは、我がセラフィナの血が完全に支配することになりましょう」
知性派の親子は、互いの完璧な盤面を祝して、影の中で妖しく微笑み合った。
彼らは自らの権力欲を満たすためだけに、リーゼロッテを罠にかける算段を整えた。大人たちの醜い欲望は、リュートのあずかり知らぬところで着実に、そして複雑に絡み合いながら、離宮への包囲網を形作っていたのである。
数日のうちに、ヒルデガードの撒いた「反論不可能な正論」は、すべて彼女の計算通りに王宮の盤面を動かした。危機を悟りながらも抗えなかったヴィオラは帰郷し、リュートは東へ飛ばされ、リーゼロッテは本宮の奥深くで外交実務に幽閉された。
自室の長椅子で、ヒルデガードは扇で口元を覆い、妖艶で残酷な笑いを漏らした。
想定以上に完璧に仕上がった盤面。離宮という忌まわしい蜘蛛の巣は、今や完全に解体された。
「さあ、帝国のお姫様。貴女を守る騎士も、慕う子供たちもいなくなった完全な密室で……狂犬の牙を、どう防ぐのかしら?」
自らの手は一滴の血にも汚さず、標的を完全な孤立へと追いやった第一側妃。
理屈の通じない絶対的な暴力の足音が、静寂に包まれた離宮へと確実に近づいていた