リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 意味深な夜(深夜の政治会議)
深夜。東のオルディナ公爵邸、リュートにあてがわれた豪奢な客室。
廊下の暗がりでは、弟のテオドールが壁に張り付き、血走った目でリュートの部屋の重厚な扉を睨みつけていた。
『あ、姉上が……薄絹の寝衣にショールを羽織っただけの姿で、あいつの部屋に入っていった……! しかも、微かに寝香水の甘い香りまで……っ! こ、こんな夜更けに二人きりで、一体何を……!』
テオドールの脳内では、もはや破廉恥極まりない光景が繰り広げられており、彼はギリギリと壁を掻き毟りながら、今にも木剣を持って突入しようかという衝動と戦っていた。
しかし。
重厚な扉の向こう側――リュートの客室の空気は、甘い色恋などとは対極にある、氷点下の政治的緊張に包まれていた。
「……王都の市場は、完全に我々の海運ルートに依存し始めましたわ。内務卿をはじめとする本宮の貴族たちも、この莫大な税収と利権を手放すことはもはや不可能です」
広大な天蓋ベッドの上には、色気のかけらもない王都の派閥図と、膨大な経済指標の書類が無造作に広げられている。
薄着のアイリスは、その美しい脚を崩すこともなく、冷徹な目で盤面を見下ろしていた。
「経済の土台は固まった。だが……王都の権力情勢の動きが、どうにも不気味だ」
リュートは腕を組み、派閥図の上に置かれた駒を指先で弾いた。
「出立前にも確認した通り、第一王子は母上に精神を砕かれ、第三側妃ソフィアの元へ逃げ込んだ。ヒルデガードは今、己の最高傑作の操作権を取り戻すため、ソフィアとの泥沼の内部闘争に全精力を注いでいるはずだ。彼女に、離宮へ攻撃を仕掛ける余裕などない」
「ええ。第一側妃様の目は完全に本宮の奥へ向いていますわ。ですが、殿下。各派閥が己の実利を追求した結果、盤面には極めて異様な『空白』が生まれています」
アイリスは、扇子の先で盤上の三つの駒を外へ押し出した。
「クロムハルト家のヴィオラ様に対する、完璧な実績を理由にした西への帰省命令。殿下に対する、国王陛下の利益追求を大義名分とした東への視察命令。そして、リーゼ様に対する、帝国使節団の接待という反論不可能な実務の押し付け。……実務責任者であるセラフィナ侯爵は、間違いなく彼女を囲い込むための罠を張るでしょうね。これらの采配が、すべて同時期に下されていますわ」
「……ただの偶然じゃない。各々が王宮のルールに則って合理的な手を打った結果、まるで示し合わせたかのように、ルナリアの周囲から手足と知恵が完全に引き剥がされた」
リュートの赤い瞳に、鋭い警戒の光が宿る。
法曹としての直感が、権力者たちの損得勘定が偶然に作り上げたこの「合法的な密室」の異様さに警鐘を鳴らしていた。
「誰も直接手を下そうとはしていない。だが、離宮は今、物理的にも政治的にも完全に孤立している。いくらヒルデガードに動く余裕がなくとも、この無防備な構造的欠陥は危険すぎる。……視察の体裁が整い次第、予定を前倒しして王都へ戻る。嫌な予感がするんだ」
リュートはそう吐き捨てながらも、脳内のどこかではまだ「王宮のシステム」を信じていた。
『離宮にはルリカとカイルの残した警備隊がいる。王妃の印璽がなければ誰も手出しはできない。いくら盤面が空白であろうと、政治的メリットの欠片もない単なる物理的暴力を振るうような非合理な人間は、あの王宮には存在しないはずだ』
「アイリス。万が一に備え、現在稼働している魔導船の第三船団のスケジュールを空けられるか?」
「……船団を? まさか、ただの移動手段として使うおつもりですか?」
「いや。最悪の場合、王都の物流の首根っこを押さえる物理的な武器として使う」
リュートの冷酷な宣言に、アイリスは息を呑んだ。
「王宮の連中が理不尽な政治的圧力でこちらを縛り付けようとするなら、海運の完全停止をもって王の喉元にナイフを突きつける。あるいは、検問を完全に無視した海路からの強行救出だ。……今のうちに、積荷の偽装と待機座標の再設定を頼む」
経済の血流を、一瞬にして国家に対する「攻城兵器」へと反転させる悪魔的な発想。
アイリスは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにその唇を三日月のように歪め、極上の笑みを浮かべた。
「……恐ろしい方。王国の経済基盤を、自らの私兵のようにお使いになるのですね。ええ、承知いたしました。書類上の偽装は、私が完璧に仕上げてご覧に入れますわ」
二人の資本主義の怪物は、王家を根底から揺るがす恐るべき謀略を、まるでチェスを楽しむかのように一晩中語り明かした。法と経済、そして権力をどうハックするか。その知的な応酬は、彼らにとって何よりも濃密で、魂を満たす時間であった。
◇
そして、翌朝。
朝の光が差し込む中、重厚な扉がガチャリと開いた。
「いやあ、実に有意義な夜だった。君の物流偽装のロジックは完璧だ、アイリス」
「ふふっ。殿下の王法を逆手に取った解釈こそ、舌を巻くほど見事でしたわ。……本当に、満たされました」
徹夜での激論を終えた二人は、疲労を見せつつも、極上の傑作を完成させた芸術家のような、ひどく満足げで艶やかな表情を浮かべて廊下へと出てきた。
「あ、あああ……っ!!」
その「すべてを終えて満ち足りた男女の顔」を目の当たりにしたテオドールは、悲鳴にも似た声を上げ、ついに白目を剥いて廊下の絨毯の上にぶっ倒れた。
「あら、テオ? どうしたの、こんなところで寝て」
「放っておこう。少し疲れているんだろう」
公爵邸の者たちが「ついに殿下と御令嬢が結ばれた」と完全に勘違いしてざわめく中、当の本人たちは涼しい顔で朝食へと向かう。
東の地で、リュートとアイリスの共犯関係は盤石なものとなった。
だが、彼らが王都の権力闘争を「政治と経済のロジック」で完全に制圧できると確信していたまさにその頃。
遥か遠くの王都では、彼らの理屈など一切通じない「本物の暴力」と「悪魔的な偶然」が噛み合い、最悪の密室が完成しようとしていたのである。