リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 密室の危機と、氷の微笑(既成事実の回避)
それから数日間。
第一王女リーゼロッテは、本宮の会議室という「逃げ場のない実務の檻」に完全に縛り付けられていた。
帝国使節団の要求は苛烈を極め、王国の各省庁との調整は難航。膨大な資料の海の中で、彼女は十一歳の少女が背負うにはあまりにも過酷な激務を、持ち前の知性と気力だけで完璧に処理し続けていた。
だが、肉体的な疲労は確実に彼女の体力を奪い、その白磁のような肌には微かな隈が浮かび始めていた。
『……そろそろ限界か。今なら、あの圧倒的な知性も隙を見せるだろう』
補佐として同席し続けていたセラフィナ侯爵は、獲物が弱るのをじっと待つ毒蜘蛛のように、冷徹な観察眼でその瞬間を計っていた。
そしてある日の夕刻。会議室の周囲から人払いを済ませていた侯爵は、わざとらしく立ち上がった。
「王女殿下。長時間の激務、誠にお疲れ様です。……少し過去の極秘資料を自室へ取りに参ります。リーデル、殿下のお相手を務めておきなさい」
「はっ、お父様」
侯爵が重厚な扉を閉め、鍵の音が微かに鳴る。
王宮の奥深く、護衛のいない完全な「密室」が人為的に完成した瞬間であった。
静まり返った室内で、リーゼロッテはペンを置き、小さく息を吐いた。
その疲労の隙を、リーデルが見逃すはずもなかった。彼は先日の実務で見せつけられた「圧倒的な知性の差」に対する屈辱を、原始的な「男の腕力」で塗り潰そうと、ねっとりとした足取りで彼女の背後へと近づいた。
「……殿下。随分とお疲れのようですね。少し、肩でもお揉みしましょうか?」
「お気遣い感謝しますわ、リーデル様。ですが、触れるには及びません」
リーゼロッテが拒絶の言葉を紡ぎ、立ち上がろうとしたその時。
ガシッ、と。彼女の細い腕が、背後から強引に掴まれた。
「……っ!」
「強がることはありませんよ、リーゼ『王女』」
リーデルの声には、かつての茶会で見せたような「歪んだ優越感」と、ドロドロとした執着がへばりついていた。彼はそのままリーゼロッテの腕を強く引き寄せ、強引に奥のソファへと押し倒そうとする。
「実務がこなせるからといって、調子に乗るな。帝国の野蛮人になど嫁がせるものか。……僕の妻として、僕の下で大人しく喘いでいるのが、女としての貴女の『品位』だ!」
既成事実を作ろうと迫る男の狂った熱と、腕に食い込む痛み。
密室という絶望的な状況下で、かつて「女は黙って従え」と心を折られたトラウマがフラッシュバックし、リーゼロッテの全身が恐怖で氷のように強張る。
『怖い……っ。お兄様……お母様……!』
悲鳴を上げそうになった彼女の脳裏に、離宮での鍛錬の日々が鮮明に蘇った。
『いいかリーゼ。王宮の連中はこちらの悲鳴など聞かない。怯えれば、彼らは余計に増長するだけだ。事実と結果だけを突きつけて、盤面をひっくり返せ』(リュート)
そして、異国の武門の血を引く母、ルナリアの教え。
『力で勝てない相手には、決して正面から逆らわないこと。相手の暴力(ベクトル)をそのまま利用して、自滅させなさい。……気高く、美しくね』
リーゼロッテの黄金の瞳から、恐怖の揺らぎがスッと消え去った。
彼女は、力任せに押し倒そうと腕を引くリーデルの力に「一切逆らわなかった」。逆に、引かれる力を利用して前方に半歩ステップを踏み込み、自らの重心を極端に低く落とす。
「なっ……!?」
不意に手応えが消え、前のめりに体勢を崩したリーデルの腕に、リーゼロッテはルナリア直伝の『合気』の要領で自らの体重と回転を乗せ、円を描くように手首を返し、下方へと鋭く誘導した。
「あ、ぎっ……!」
ドンッ!! という鈍い音とともに、リーデルは無様に床に這いつくばる形で転倒した。その反動で、彼の肩が円卓の端に激突し、置かれていた重厚なインク壺が床に落下。パシャァッ! と黒い染みを広げながら粉砕され、凄まじい破裂音を密室に響かせた。
「あ、あうぅ……っ」
床に倒れ込み、肩を抑えて呻くリーデル。
彼が痛みに顔を歪めて見上げた先には。
一筋の乱れもない完璧な所作でドレスの裾を直し、極寒の北の氷原のような、絶対零度の瞳で彼を見下ろす第一王女の姿があった。
「……あら。お足元が滑ったようですね、リーデル様。床に這いつくばるなど、知性派のセラフィナ家らしくもない『品位』に欠けるお姿ですわ」
氷のように冷酷な声。
それは暴力を振るったのではない。あくまで彼が「自滅した」という体裁を保ちながら、相手の尊厳を土足で踏みにじる、王族としての完璧な蹂躙であった。
「お怪我がなくて何よりです。……インク壺を落としてしまいましたので、清掃の者を呼びますわね」
リーゼロッテは、床に這いつくばったまま恐怖と屈辱で身動き一つ取れなくなったリーデルを一瞥すらせず、悠然と踵を返し、扉の鍵を開けて会議室から脱出した。
護衛のいない密室の危機を、彼女は自らの知性と、母から受け継いだ牙(体術)によって見事に切り抜けたのである。
◇
しかし。
会議室から遠く離れ、本宮の誰もいない回廊の隅に辿り着いた瞬間。
「はぁっ……はぁっ……!」
リーゼロッテは壁に背を預け、ズルズルとその場にへたり込んだ。
完璧な王女の仮面が剝がれ落ち、恐怖を堪えていた反動で、全身がガタガタと激しく痙攣するように震え出す。
『怖かった……本当に、怖かった……!』
上手く切り抜けたとはいえ、十一歳の少女が成人目前の男の悪意と暴力に直面したのだ。その精神的なダメージは計り知れない。連日の激務による過労と、極限の恐怖。ギリギリで持ち堪えていた彼女の心の糸が、ついに限界を迎えてプツリと切れた。
「……お母、さまっ……」
リーゼロッテは両手で顔を覆い、しゃくり上げながら、唯一の安息の地である離宮へと逃げるように走り出した。
彼女が流したこの切実な涙が、離宮の『最後の盾』を剥ぎ取るという、取り返しのつかない悲劇の引き金を引くことになるとは、誰も予想していなかったのである。