リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第8話『剥がされた最後の盾4』

4 母の決断と、差し出された最後の盾(ルリカの派遣)

 

 夕闇が迫る王宮の渡り廊下を、第一王女リーゼロッテは息を切らして駆け抜けていた。

 本宮の冷たい石畳を蹴り、ただ一つの安息の地である離宮の扉にすがりつくようにして飛び込む。

 

「お母、さま……っ!」

 離宮の私室。暖炉の火が静かに揺れるその部屋で、ルナリアは立ち上がり、飛び込んできた娘の細い身体をその両腕でしっかりと受け止めた。

 

 本宮での「完璧な王女の仮面」が完全に砕け散り、リーゼロッテはルナリアの胸に顔を埋めて、せき止めていた恐怖と疲労を吐き出すように泣き崩れた。

 

「怖かった……! 私、お兄様とお母様に教わった通りに……あの男を、自分の力で組み伏せたわ……! 泣かなかった……でも、本当は、すごく……っ!」

 十一歳の少女が背負うにはあまりにも過酷な重圧と、密室で成人男性から振るわれた醜悪な暴力。その顛末をしゃくり上げながら語る娘の背中を優しく撫でながら、ルナリアの赤い瞳には、極寒の吹雪のような冷たく激しい怒りの炎が灯っていた。

 

『……セラフィナ侯爵。己の薄汚い権力欲のために、私の娘を密室の生贄にしようとしたのね』

 帝国の虎たるルナリアの内心は、今すぐにでも本宮へ乗り込み、あの知性派を気取る俗物の親子を物理的に八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られていた。

 

 だが、盤面はそれを許さない。リュートは東へ視察に赴いており、王都における「反撃の論理(手札)」が致命的に不足している。もしここでルナリアが感情のままに動けば、それこそ第一側妃ヒルデガードやセラフィナ家の思う壺であり、帝国との外交問題にまで発展しかねない。

 

 ルナリアは冷徹に状況を分析し、一つの残酷な、しかし母としては必然の決断を下した。

 

「……ルリカ」

「はっ。ルナリア様」

 部屋の隅で、主の怒りに当てられて静かに殺気を放っていた灰髪の騎士、ルリカが進み出る。

 

「明日から、貴女がリーゼの専属護衛として本宮へ同行しなさい。シルファ伯爵家(帝国系貴族)の養女であり、高い戦闘能力を持つ貴女がピタリと横に付けば、セラフィナ家も物理的な手出しや、今日のような密室への誘導は不可能になる。……何より、帝国の人間が護衛についているという事実が、最高の牽制になるわ」

 ルナリアの指示は、リーゼロッテを守るための局地的な戦術としては、極めて合理的で完璧な一手であった。

 

 しかし、その言葉を聞いた瞬間、ルリカは血相を変えて床に膝をつき、激しく首を横に振った。

「いけません! お戯れはおやめください、ルナリア様!」

 

「ルリカ……」

「現在、リュート殿下の視察に伴い、カイル隊長が離宮を空けております! 残る外周警備の者たちでは、本宮の権力者が正論を盾に強行突破してきた場合、法的に防ぎ切ることは不可能です。今、ルナリア様のお傍から私という『最後の盾』が離れれば……離宮の内部は、完全に無防備となってしまいます!」

 ルリカの訴えは、護衛の騎士として絶対的に正しい真理であった。

 

 盤面全体を見渡せば、ここでルリカを本宮へ回すことは、離宮という聖域の防御力を「ゼロ」にするという致命的な悪手(自殺行為)に他ならない。

 

 だが、ルナリアは自らの命の危険など百も承知であった。

 彼女は静かに歩み寄り、床に伏して懇願するルリカの震える両手を、自らの手で優しく包み込んだ。

 

「お願い、ルリカ」

「……ルナリア、様」

「あの子は、今一人で、本宮という泥沼で戦っているの。十一歳の小さな身体で、王族の重圧と、大人の醜い悪意に晒されながら……必死に立っているわ。これ以上、あの子の心を削らせるわけにはいかないの」

 ルナリアは、主従の垣根を越え、ただ一人の「母親」として深く頭を下げた。

 

「貴女も知っているでしょう。リーゼが、どれほど努力してきたかを。……お願い。あの子は、貴女の『妹』でしょう?」

 その言葉に、ルリカは弾かれたように顔を上げた。

 

 脳裏に浮かぶのは、離宮の庭でリュートと共に笑い合い、懸命に魔導書を読み解こうとしていた、プラチナブロンドの少女のひたむきな姿。

 

 ルリカにとって、ルナリアが絶対の主君であるならば、リュートとリーゼロッテは、己の命に代えても守り抜くべき大切な「弟と妹」であった。

 

 ルリカは、包み込まれた手から伝わるルナリアの深い母の愛と、その裏にある悲壮な覚悟を理解し、ギリッと唇から血が滲むほど強く噛み締めた。

 

「…………承知、いたしました」

 床に額を擦り付け、絞り出すような声で誓約を紡ぐ。

 

「ルリカ・シルファ、命に代えましても……妹(リーゼロッテ様)を、あの薄汚い泥沼からお守りいたします」

「ありがとう、ルリカ」

 ルナリアは安堵の微笑みを浮かべ、泣き疲れて微睡み始めたリーゼロッテの背中を優しく撫でた。

 

 娘を想う深い愛情。そして、家族を守るという尊い絆。それは人間として最も美しく、気高い決断であった。

 

 だが、王宮という血塗られた権力闘争の盤上において、その「情」こそが致命的な隙となる。

 第一側妃ヒルデガードの撒いた『合法的な排除の罠』と、セラフィナ侯爵の『醜悪な暴力』。そしてルナリア自身の『海よりも深い母の愛』。

 

 それらすべての偶然と必然が完全に噛み合った結果、ついにルナリアの周囲から、最後の物理的な盾までもが剝ぎ取られてしまったのである。

 

 狂犬の鎖が解き放たれるその瞬間まで、残された時間はあとわずかであった。

 

 

 

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