リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『折れぬ白百合3』

3 破綻した脅しと、揺るがぬ誇り(血縁の事実)

 

「……ぐ、ぅ……」

 大理石の床に血溜まりが広がる中、ルナリアは苦痛に顔を歪めながらも、決して這いつくばるまいと両腕で身体を支えようとした。

 

 しかし、狂信の騎士セオリスはそれを許さない。彼は無造作に歩み寄ると、ルナリアの誇りでもある艶やかな帝国の黒髪を鷲掴みにし、力任せに上方へと引き摺り上げた。

 

「あ、ぁっ……!」

「よく聞け、野蛮なる帝国の女。己の身の程を知り、床に額を擦り付けてグラクト殿下への謝罪と絶対の服従を誓え」

 頭皮が裂けるような激痛に顔をしかめるルナリアに対し、セオリスは武力という絶対の優位性を背景に、浅薄極まりない脅迫を突きつけた。

 

「もし平伏さねば、貴様が庇い立てしている第二王子リュートや、第一王女リーゼロッテの命はないと思え! 貴様の傲慢さが、あの子らを手打ちにさせるのだぞ!」

 それは、大切な子供たちを人質に取れば、この忌まわしい女も必ず涙を流して哀れに泣き叫ぶだろうという、底の浅い思い込みに基づく脅しであった。

 

 だが。

 血を吐き、髪を掴み上げられ、完全に蹂躙されているはずのルナリアの顔に浮かんだのは、絶望でも哀願でもなかった。

 彼女の紅蓮の瞳は、一切の恐怖に染まることなく、ただ極寒の吹雪のような『冷酷な嘲笑』をセオリスへと向けていたのである。

 

「……ふふっ、あはははっ……!」

「何がおかしいッ!」

「浅はかね。……あまりにも無知で、滑稽だわ」

 ルナリアは血塗れの唇を三日月のように吊り上げ、眼前の屈強な狂犬を、知的に完全に「見下して」言い放った。

 

「グラクト殿下如きに、リュートを害する政治的権限など一欠片もないわ。あの子の背後には、私の母国である帝国という巨大な軍事国家の影がある。もし正当な理由もなく第二王子を害そうとすれば、あの子は躊躇なく帝国へ亡命し、それを大義名分として帝国の重装騎士団がこの国を火の海にする。……この国の王も宰相も、そんな自殺行為を許すはずがないわ」

「な……っ」

 ルナリアから突きつけられた、己の腕力ではどうにもならない『国家間の論理と軍事バランス』という事実に、セオリスの顔が微かに強張る。

 

 だが、ルナリアの冷徹な知の刃は、さらに深く狂犬の前提を切り裂いた。

 

「それに……貴方、リーゼの命を奪うと本気で言っているの? 正気かしら」

「黙れ! あの色素の薄い出来損ないなど、王宮の面汚し――」

「リーゼは、グラクトの『実の妹』であり、第一側妃ヒルデガード様の『お腹を痛めた実の娘』よ」

 ルナリアのその低く鋭い言葉が、サロンの空気を凍りつかせた。

 

「プラチナブロンドだからと忌み嫌われ、冷遇されているとはいえ、正真正銘の血を分けた王族の直系。……その子を害するなどと、一介の近衛騎士に過ぎない貴方が進言する? 血統主義の権化である彼らが、自らの血筋を他人の手で傷つけられるような真似を、本気で許すとでも思っているの?」

「…………ッ!!」

 

「後宮の絶対的な支配権を持つマルガレーテ王妃様が、側妃の娘への不当な暴力を黙認するはずもない。……貴方の脅しは、王宮の権力構造と血統のルールすら理解していない、最初から論理が完全に破綻した妄言なのよ」

 それは、セオリスという男が「王宮の政治や血統の重みを何一つ理解していない、ただ扇動されて踊らされているだけの無知な操り人形」であるという、残酷なまでの事実の指摘であった。

 

 ルナリアを屈服させるために放った言葉が、逆に自らの愚かさを浮き彫りにする結果となり、セオリスの脳内で何かが激しく弾け飛んだ。

 

 一切の怯えを見せず、自分を「無知な暴力装置」として見下し続けるルナリアの強靭な精神。それは、セオリスが心の底で信じ切っていた『自分が絶対の正義であり、王家の忠臣である』という狂信の前提を、根本から揺るがす劇薬であった。

 

 ◇

 

 己の薄っぺらな正義を論理で完全に粉砕され、無知な操り人形に過ぎないという事実を突きつけられたセオリスの顔は、怒りと屈辱でどす黒く染まっていた。

 

「……黙れ。黙れ黙れ黙れッ!!」

 狂信の騎士は獣のように吠え、腰の長剣を乱暴に引き抜いた。鋭い刃の冷たい輝きが、薄暗いサロンを切り裂く。

 

「理屈をこね回すだけの野蛮な雌犬が。王宮の品位を汚す、その忌まわしい帝国の黒髪こそが、貴様の傲慢さの根源か!」

 セオリスは、ルナリアの誇りでもあり、第二王子リュートへと受け継がれた帝国の象徴たる長く美しい黒髪を乱暴に掴み上げると、刃を根元に当て、一切の躊躇なく無残に切り裂いた。

 

「あ、ぅ……っ」

 バラバラと、艶やかな漆黒の束が血だまりの床へと散らばっていく。

 誇り高き帝国の象徴を穢され、無惨に短く不揃いになった頭髪。だが、ルナリアは悲鳴一つ上げず、ただ乱れた前髪の奥から、極寒の吹雪のような紅蓮の瞳でセオリスを真っ直ぐに射抜いていた。

 

「……愚かね。髪など、いくらでも削ぎ落とせばいいわ。ですが……私の裡に流れる帝国の血と、母としての誇りは、貴方のその鈍らな剣では決して斬り落とせはしない」

「……ッ、貴様ァァ!」

 肉体を傷つけても、象徴を奪っても、この女の『心』は一切折れない。

 

 グラクトの尊厳を回復するためには、ルナリアが恐怖に顔を歪め、涙と鼻水で顔を濡らし、無様に命乞いをする姿を引き出さねばならないのに。

 

 焦燥と狂気に駆られたセオリスは、懐から数本の小瓶を取り出し、大理石のテーブルの上に乱暴に並べた。

 

 それは、王家の宝物庫にしか存在しない、最上級の『魔法回復ポーション』。第一側妃ヒルデガードが、「あの女の心を完全に砕くまで、決して楽に死なせるな」と与えた、悪意の結晶であった。

 

「殺しはしない。貴様がグラクト様への不敬を心底から悔い改め、涙を流して靴を舐めるまで……貴様には、死ぬことすら許されん!」

 セオリスはルナリアの腕を踏みつけ、剣の柄や刃先を使い、彼女の白磁のような指先から、生きたまま爪を一枚ずつ剝がし始めた。

 

「――っ……!!」

 常人であれば鼓膜が破れるほどの絶叫を上げるほどの激痛。

 しかしルナリアは、自らの唇を血が滲むほど強く噛み締め、喉の奥から漏れ出そうになる悲鳴を、帝国の虎としての絶対的な『品性』と意志の力で封じ込めた。

 

 彼女は己の尊厳を汚すような、無様な命乞いの声など一音たりとも発しはしない。

 

「なぜ鳴かない! なぜグラクト様に許しを乞わないッ!」

 己の暴力が通じないことに恐怖すら覚え始めたセオリスは、痛みのショックでルナリアの意識が遠のきそうになるたび、傷口に回復ポーションを振りかけた。

 

「あ、が……っ、ぁぁ……」

 魔法薬が肉体に触れた瞬間、細胞が強制的に結合し、千切れた神経が無理やり繋ぎ直される。それは「治癒」という名の、新たな激痛の始まりであった。

 

 傷が中途半端に塞がり、意識が鮮明に覚醒させられた直後、セオリスは再び別の部位を剣で刺し貫き、あるいは骨を砕く。

 破壊と、魔法薬による強制的な再生。

 終わりのない無限の苦痛のループ。

 

 血の海となったサロンで、時計の針は残酷に深夜へと向かって進んでいく。

 常軌を逸した激痛が延々と繰り返される中、ルナリアの肉体は原型をとどめないほどボロボロに破壊され、再生のたびに夥しい体力を奪われていった。

 

 それでも。

 彼女はただの一度も、狂犬の前で己の品性を手放すことはなかった。どれほど血肉を散らそうとも、彼女の背筋は決して屈服を認めず、その紅蓮の瞳の奥で燃える冷徹な知性と誇りの炎は、微塵も揺らいではいなかったのである。

 

 

 

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