リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『折れぬ白百合4』

4 狂人の敗北と、母の微笑み(理解不能な気品への恐怖)

 

 壁掛け時計の針が、深夜二時を回っていた。

 かつて優雅な茶会が開かれていた離宮のサロンは、今やむせ返るような鉄錆の匂いと、赤黒い血の海に沈んでいた。

 

 大理石の床には、第一側妃から与えられた高価な回復ポーションの空き瓶が、いくつも虚しく転がっている。

 

 その中央で、第二側妃ルナリアは壁に背を預けるようにして崩れ落ちていた。美しい漆黒の髪は無惨に刈り取られ、豪奢なドレスは原形をとどめぬほどに引き裂かれている。回復薬による強制的な細胞の結合と、剣による肉体の破壊を何十回と繰り返された彼女の身体は、もはや指先一つ動かすことすら困難な、文字通りの満身創痍であった。

 

 だが。

 荒い息を吐き、肩で息をしているのは、拷問を受けているルナリアではなく、剣を握るセオリスの方であった。

 

「はぁっ……! はぁっ……、な、ぜだ……ッ!」

 狂信の騎士は、血塗れの長剣をだらりと下げたまま、目の前の光景に後ずさりした。

 

 武門ゼノビア家の最高傑作である彼にとって、世界とは極めて単純な物理法則で構成されていた。「圧倒的な暴力を振るえば、人間は恐怖し、肉体とともに心も屈服する」。それが、彼が信じて疑わなかった王宮の実力主義であり、絶対の真理であったはずだ。

 

 グラクトの尊厳を回復するため、この生意気な帝国の女にその真理を分からせる。ただそれだけのために、彼は何時間も剣を振るい、骨を砕き、肉を裂き続けた。

 

 しかし、目の前の女はどうだ。

 肉体はすでに限界をとうに超え、生命活動の灯火すら風前の塵であるというのに。ルナリアの紅蓮の瞳は、一切の恐怖や絶望に濁ることなく、澄み切った極寒の吹雪のように、ただ静かにセオリスを見据えていた。

 

「……あ、ぁ……」

 セオリスの喉から、ひきつるような声が漏れた。

 彼が直面していたのは、己の理解が及ばない『精神の次元の違い』に対する根源的な恐怖であった。

 

「……どう、したの……?」

 不意に、静寂のサロンに掠れた声が響いた。

 ルナリアであった。彼女は息も絶え絶えになり、喉から血の泡を吹かせながらも……その血塗れの唇を三日月のように吊り上げ、はっきりとセオリスを嘲笑ったのだ。

 

「グラクト殿下の……光を、取り戻すのではなくて……? 狂犬の牙は……その程度かしら……」

「ヒッ……!!」

 挑発に乗って激昂するどころか、セオリスは悲鳴に似た息を呑み、大きく一歩後ずさった。

 

 わからない。理解できない。

 なぜ、これほどの激痛と陵辱を与えられてなお、この女は己の品性を一欠片も手放さないのか。なぜ、地べたに這いつくばらされているはずの女から、遥か高みから見下ろされているような、絶対的な威厳を感じるのか。

 

 ルナリアが己の肉体を犠牲にして証明し、セオリスに突きつけていた事実。

 それは、『お前の信奉する物理的な暴力など、私の裡にある誇りと気品には、永遠に傷一つ届きはしない』という、残酷なまでの絶対的敗北の宣告であった。

 

「ち、違う……俺は、俺は正義を……グラクト様の、品位を……ッ!」

「……哀れね」

 ルナリアの氷のような一瞥が、狂信者の薄っぺらな自我を完全に粉砕した。

 

『俺は、何をしている……? こいつを屈服させられないなら、俺がやっていることは、ただの……無意味な、ただの残虐な……ッ!』

 自分が絶対の正義の執行者ではなく、ただの無力で醜悪な暴力装置に過ぎないという事実を、彼女の存在そのものが鏡のように突きつけてくる。

 

 ガタッ、ガチガチガチガチ……!

 セオリスは、柄を握る自らの両手が、己の意志とは無関係に激しく痙攣し、恐怖で震え震え上がっていることに気づいた。武の頂を極めたはずの肉体が、死に体の女が放つ「気品」という見えない刃に完全に制圧されていた。

 

 肉体をいくら破壊しても、その魂を屈服させることは絶対にできない。

 完全な密室で、圧倒的な暴力を持っていたはずの加害者が、被害者の気高さの前に精神を崩壊させていく。

 

「ぁ……あァァァァァッ!!」

 セオリスはついに理解不能な恐怖と狂乱のあまり理性を完全に手放した。

 心を折ることができないのなら、もはやその存在そのものを消し去るしかない。グラクトの尊厳などもうどうでもいい、ただこの恐ろしい女の瞳を永遠に閉ざさなければ、自分が狂ってしまう。

 

「もう殺してやる!! 死ねェェェェッ!!」

 恐怖に顔を歪ませたセオリスが、自らの崩壊をごまかすように、ルナリアの首を刎ね落とすべく長剣を高く、高く振り上げた。

 

 そして、その致命の一撃が振り下ろされようとした、まさにその瞬間であった。

 

 

 

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