リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 現行犯と、ルリカの圧倒的蹂躙
王都の冷たい夜の闇を切り裂き、泥と馬の血にまみれた第二王子リュートが、狂ったような強行軍の果てに離宮の正門へと辿り着いた。ほぼ同時刻、本宮での異常を察知し、一切の体裁を投げ打って全速力で駆けつけたルリカも合流する。
だが、二人の目に飛び込んできたのは、静寂に包まれた安息の地ではなく、むせ返るような血の匂いと凄惨な蹂躙の跡であった。
「……っ!」
離宮の門前から庭園にかけて、カイルが外周防衛として残していった警備隊員たちが、一人残らず血だまりの中に倒れ伏していた。
ルリカが瞬時に駆け寄り、血まみれで倒れている副長の首筋に指を当てる。……息はある。致命傷は避けられているが、圧倒的な「武」による暴力で、完膚なきまでに骨を砕かれ叩き伏せられていた。
彼ら平民上がりの警備隊員にとって、本宮の権力者の威光を笠に着たゼノビア公爵家の次期当主であるセオリスに剣を抜くことは、法的な反逆であり、文字通り首が飛ぶことを意味する。セオリスが「第一王子の品位のため」という正論を叫びながら強行突破を図った時点で、彼らには法的に止める権限などなかった。普通ならば、恐怖に屈して道を開けるのが王宮の常識である。
だが、彼らは誰一人として逃げなかった。
彼らは、外周警備の任に就きながらずっと見ていたのだ。権力と損得勘定だけが支配するこの狂った王宮において、忌み子と蔑まれる第二王子と異国の側妃が、どれほど理不尽な目に遭おうとも互いを庇い合い、懸命に生き抜こうとするその姿を。そして、本宮の貴族からは「使い捨ての防波堤」としか見られていない自分たちを、彼らだけは血の通った人間として扱ってくれたという事実を。
カイル隊長が「命に代えても守れ」と命じたその主君たちを、理不尽な暴力から守るため。彼らは己の命と法的な立場を投げ打ってでも、セオリスの前に肉の壁となって立ちはだかったのである。
「……よく、耐えてくれた」
血を流して倒れる忠義の部下たちを一瞥し、リュートの赤い瞳から、人間としての感情が完全に抜け落ちた。
ルリカもまた、無言のまま逆刃の短剣を抜き放ち、その灰色の瞳の奥で殺意の純度を極限まで高める。
この十三年間、理不尽な盤面で生き残るためにリュートが自らに課してきた冷徹な生存戦略も、王宮のルールという名の鎖も、すべてが焼き切れた。彼らの裡で、ギリギリの理性を繋ぎ止めていた最後の糸が完全に断ち切られた。
二人は血の足跡が続く廊下を、足音すら立てずに真っ直ぐに奥へと進む。
そして――。
狂信の騎士セオリスが、満身創痍のルナリアの首を刎ね落とすべく、致命の長剣を振り下ろそうとしたその刹那。
――ドゴォォォォンッ!!
堅牢なオーク材の二枚扉が、凄まじい衝撃とともに蝶番ごと吹き飛び、血の海となったサロンの床に激突した。
土埃が舞う中、そこに立っていたのは、極限の怒りに染まった二つの影。
彼らの目に飛び込んできたのは、無残に散らばった無数の空き瓶と、切り落とされた艶やかな漆黒の髪。そして、爪を剥がされ、肉体を切り刻まれ、原型をとどめないほどボロボロにされながらも、決して加害者に屈することなく、気高き微笑みを浮かべて壁にもたれかかる、最愛の母の姿であった。
「……母、上……?」
リュートの口から、信じられないものを見るような声が漏れる。
「き、貴様ら……なぜここにッ! 邪魔をするな!」
突然の乱入者に一瞬驚愕したセオリスだったが、すぐに自らの狂信を盾にして声を荒らげた。
「退け、リュート殿下! これは第一王子グラクト様の品位を守るための、正当な教育であって――」
その、見え透いた戯言が最後まで紡がれることはなかった。
「――っ」
ルリカの姿が、かき消えた。
帝国特有の暗殺と護衛を極めた戦闘術、『瞬動』。
実戦のプロフェッショナルである彼女は、怒りに任せて剣を振り回すような素人臭い真似は一切しない。極めて冷徹に、的確に、最速で――相手の戦闘能力を剝奪する。
――シュガッ!!
銀の閃光が一閃する。
「あ、ぎッ!?」
セオリスの右腕から、鮮血が噴き出した。ルリカの手にした逆刃の短剣が、長剣を握っていた狂犬の手首の腱を、寸分の狂いもなく斬り裂いたのだ。指の自由を完全に奪われ、カラン、と長剣が床に落ちる。
だが、ルリカの蹂躙はそれだけでは終わらない。
無防備になったセオリスの懐に滑り込むと同時に、彼女はその硬い軍靴の踵を、セオリスの右膝の裏側に向かって、自らの全体重と殺意を乗せて横薙ぎに叩き込んだ。
――メキョォッ!!
骨と軟骨が完全に粉砕される嫌な音が、サロンに響き渡る。
「アァァァァァァァッ!!?」
人間が耐えうる限界を超えた激痛に、ゼノビア家の最高傑作と謳われた男が、無様な悲鳴を上げて自らが作った血の海へと這いつくばった。
「…………」
ルリカは、一切の言葉を発しない。
床で芋虫のようにのたうち回る男を見下ろす彼女の瞳からは光が完全に消え失せ、底なしの暗黒のような無機質な殺意だけが渦巻いていた。
品位だの、正義だの、知ったことか。ただ、最愛の主君の尊厳を土足で踏みにじり、温かな日常を破壊したこのゴミを、一秒でも早くこの世から消し去る。
ルリカは無表情のまま血塗れの刃を逆手に握り直し、床に這うセオリスの首を完全に刎ね飛ばすべく、その凶刃を静かに、そして無慈悲に振り上げた。