リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 愚者の増長(無知なるグラクトとの遭遇)
玉座の間を辞し、謹慎の地である離宮へと向かう本宮の回廊。
豪奢な装飾が施された大理石の床を踏みしめながら、リュートの脳内は先ほどの王妃マルガレーテの冷酷な正論を反芻し、次なる盤面への介入手段(リーガル・アプローチ)の再構築へと完全に切り替わっていた。
その時、回廊の先にある重厚な扉が内側から開かれた。
魔導卿を輩出する知性派の血筋、第三側妃ソフィアの私室である。そこから、数人の側近を従えて第一王子グラクトが姿を現した。
すれ違いざま、グラクトの足が止まる。
彼の身体からは、ソフィアの寝室で焚き染められていたであろう、頭の芯を麻痺させるような甘美な媚薬の香りが微かに漂っていた。
前日、ルナリアから突きつけられた圧倒的な実力差と「現実」に自我を破壊され、無様に泣き叫んで逃げ込んだはずの少年。しかし今、彼の顔にその時の恐怖や絶望の欠片はない。
『情交奉仕者』たるソフィアが与えた底無しの快楽と、「殿下は神に選ばれた絶対の光」という致死性の高い全肯定の猛毒。それらによって一晩で記憶を都合よく書き換えられ、人為的に修復された「空虚な優越感」だけが、その金眼に薄っぺらく張り付いていた。
グラクトは、リュートの血と泥に塗れた無惨な姿を一瞥すると、ふんと鼻で笑い、己のちっぽけな全能感を確認するように上段から言い放った。
「朝から騒々しいな、リュート。玉座の間にまで怒鳴り込むとは、みっともない真似を。……だが、帝国の獣が王宮の『品位』をわきまえないから、あのような正当な教育を受けることになるのだ。当然の結果だろう」
――ピタリ、と。リュートの足が止まった。
『……正当な教育、だと?』
その瞬間、リュートの裡で暴発しかけた殺意を、前世から持ち越した法曹(実践者)としての極めて冷徹な理性が瞬時に押さえ込んだ。
彼は怒りに吞まれる代わりに、目の前の「第一王子」という最高権力の駒が抱える構造的欠陥を透徹した視線で分析し始める。
こいつは、知らないのだ。
狂信の騎士セオリスが、ルナリアの爪を剝ぎ、肉を削ぎ、致死量の血を流させて今なお生死の境を彷徨わせているという、あの血の海の『現実』を。
そしてグラクト自身も、己の不作為や王宮の暗部から目を背けるため、ソフィアの甘い言葉を妄信し、凄惨な拷問すらも『正当な教育』という言葉で必死に自己正当化している。
『……これが、「人治」の正体か』
リュートは、自らが対峙しているシステムの悍ましさに底冷えのするような理解を示した。
王家の「品位」とは、気高さなどではない。真実を隠蔽し、無知と快楽によって絶対権力者を都合のいい神輿として祀り上げるための、醜悪な「防壁」なのだ。
ならば、どうするか。
ここで獣のように怒り狂い、この無知な神輿を殴り飛ばせば、リュートは「王族への反逆者」として法的に処理され、盤上から即座に排除される。それは実践者として最も愚かな「敗北」である。
リュートは、グラクトが今放った言葉を『第一王子がセオリスの暴行を正当化したという客観的事実』として、冷酷に脳内の調書へと書き加えた。ルールの穴を突き、実利を強奪するには、この狂ったルールに完璧に従うふりをして相手の退路を断つのが最も合理的だ。
「…………」
リュートは、極限の精神力をもって己の顔面から一切の感情を削ぎ落とした。
まるで精巧な蠟人形のような無表情。冷え切った赤黒い瞳で、グラクトの金眼をただ一瞥する。そして、血塗れの姿のまま、王国の法と序列に従う「完璧な臣従の一礼」をして見せた。
一切の言葉を発することなく、無知なる第一王子の横を静かに通り過ぎていく。
その冷徹すぎる沈黙と、背中から発せられる異常なまでの『死の気配』に、グラクトと側近たちは誰一人としてそれ以上声をかけることができず、ただ回廊に立ち尽くすことしかできなかった。