リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第2話『白金の決醒1』

1 惨劇の目撃と、氷の宣告

 

 本宮での帝国使節団の饗応役という、王女としての華やかな大役。そこから抜け出し、足早に離宮へと帰還したリーゼロッテの鼻腔を突いたのは、むせ返るような濃密な鉄の匂いだった。

 

 エントランスの重厚な扉を押し開けた瞬間、彼女の視界に飛び込んできたのは、無惨に破壊された調度品の残骸と、石床にこびりついた赤黒い染み。そして、奥の寝室から漏れ出す、死の気配に満ちた重苦しい静寂であった。

 

「……え……?」

 状況を処理しきれず、ドレスの裾を握りしめたまま立ち尽くすリーゼロッテ。

 

 その視線の先、寝室のベッドには、全身を分厚い包帯で覆われたルナリアが横たわっていた。艶やかだった漆黒の髪は乱雑に切り落とされ、蠟人形のように蒼白な肌は、失われた血の量の多さを無言で物語っている。傍らでは、血塗れの甲冑姿のルリカが、焦点の合わない虚ろな瞳でただ床を見つめていた。

 

「お母、様……? なに、これ……どうして……」

 震える足で一歩を踏み出そうとしたリーゼロッテの前に、音もなく一つの影が立ち塞がった。

 本宮から謹慎を言い渡され、急ぎ戻ってきたばかりのリュートである。

 

 だが、リーゼロッテを見下ろすその赤い瞳に、かつて王宮書庫で彼女に政治の裏側を教え、共に盤面を読み解いてきた「穏やかな兄」の面影は一切なかった。そこに宿っていたのは、己の敗北に対する血を吐くような自己嫌悪と、この惨劇を引き起こした政治的因果をただ冷徹に解剖しようとする、血の通わない眼差しだった。

 

「……現在、確定している事実は二つだけだ」

 感情を完全に死滅させた、恐ろしいまでに無機質で厳密な声だった。

 

「一つ。ゼノビア侯爵家のセオリスが、一切の令状を持たずに離宮を強襲し、母上に致死量の血を流させたこと。二つ。奴がこれを『第一王子の品位を守るための正当な教育』であると嘯いていたこと」

 グラクトの品位。その悍ましい響きに、リーゼロッテの金色の瞳が見開かれる。

 

 リュートはギリッと奥歯を噛み締め、法曹としての分析力を「この国の理不尽な現実」へと適応させ、十歳の少女の脳髄へと叩き込んでいく。

 

「だが、盤面を俯瞰すれば、これが単なる狂犬の突発的な暴走ではないことは明白だ。……リーゼ。僕は驕っていた。自分はこの王宮のルールを完全に支配し、離宮の防衛は完璧だと本気で勘違いしていたんだ」

 前世の知識と論理を過信した結果が、目の前の凄惨な血の海だ。

 

「同日、同時刻。西の公爵令嬢であるヴィオラは王妃教育の慰労という名目で実家へ帰省させられ、僕は宰相が進言した東の監査で王都の端まで引き離された。そして、お前は帝国使節団の饗応役に抜擢された」

「……」

 

「ヴィオラの帰省は『王妃の恩命』。僕の監査は『宰相の王命』。お前の饗応は『外交の要請』だ。発令者はすべて別々であり、形の上では手続上の瑕疵が一切ない。これらが同日同時刻に収束し、離宮の『防衛力』が削ぎ落とされた。……この偶然の連鎖を装った絵図を描いたのは誰か」

 リュートは一歩、リーゼロッテへと歩み寄る。

 

「王妃の仕業かといえば、あり得ない。あの女が、帝国の虎である母上を無惨に傷つけるという『国家間の戦争(外交的リスク)』を理解できないはずがない。では、グラクトを情交で依存支配している第三側妃のソフィアか。彼女には知恵があるが、実行犯であるセオリスはゼノビア侯爵家の嫡男であり、ソフィアの背後にいる魔導卿派閥とは犬猿の仲だ。ソフィアが政敵の狂犬を都合よく動かせる道理がない」

 

「――っ、なら……」

「派閥の力学と、得られる利益。そこから導き出される僕たちの隔離工作の主導者は、第一側妃ヒルデガードしかいない。……問題は、最後の物理的な盾であるルリカの不在だ」

 リュートは、血の海の中心に視線を落としながら、氷のように冷たく言い放つ。

 

「彼女が離宮を離れたのは、セラフィナ侯爵家が嫡男リーデルとお前の既成事実を作ろうと暗躍した結果だ。これがヒルデガードの采配かといえば、それも違う。セラフィナ侯爵家と第一側妃は犬猿の仲であり、結託して動くはずがない。さらに、ルリカは自らの武力を秘匿する隠密だ。ヒルデガードは彼女を高度な防衛力として計算していない。……つまり、これはヒルデガードによる『合法的な隔離工作』に、セラフィナ侯爵家の『お前への執着』という独立した思惑が最悪の形で連鎖した、致命的な偶然だ」

 リュートの声が、地の底から響くような重みを帯びる。

 

「証拠はない。状況証拠を集めて王に直訴したところで無意味だ。この国を支配しているのは、王族の『品位』だ。王家の品位を揺るがすスキャンダルなど、連中は単なる不敬として握り潰すに決まっているからな。あの絶対の盾に守られている限り、この国において正論や証拠は何の武器にもならない」

 前世の常識を完全に捨て去り、リュートの赤い瞳の奥には、すべてを焼き尽くすような強烈な殺意と、為政者としてのどす黒い炎が宿っていた。

 

「だからこそ……僕はまず、あの女を政治的に殺す」

「……!」

 

「事実関係は不透明なままでいい。この『出来すぎた偶然』を利用して第一側妃派に徹底的な政治的攻撃を仕掛け、盤面を揺さぶり、連中に致命的なボロを出させる。そして、あの女を王家の盾(品位)から完全に切り離し、社会的に抹殺する。……王家の品位という腐ったルールそのものを破壊し、あの女の命を物理的に絶つのは、その後だ」

 その血を吐くような冷徹な決意の宣告の果てに、リュートは最も残酷な事実をリーゼロッテに突きつけた。

 

「この凄惨な拷問の密室を設計し、僕たちの大切な母上を血だまりに沈めた主導者は……お前の実の母である、第一側妃ヒルデガードだ」

 自分が「完璧な王女」の仮面を被り、誇らしく外交舞台に立っていたその裏で。実の母と兄の陣営が、自分に本当の温もりと知性を教えてくれたルナリアを無惨に破壊していた。

 

 その絶望的な因果関係を前に、リーゼロッテの顔から完全に血の気が失せ、声にならない絶望が彼女の喉を塞いだ。

 

 

 

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