リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 母の最初で最後の叱責(隠された理由)
ルリカの切羽詰まった足音が遠ざかり、ほどなくして、重い閂が外される鈍い音が離宮の奥まで響いた。
静寂が戻った血塗れの寝室。落日の赤光に照らされる中、リュートはベッドの傍らに立ち尽くしていた。
己の最も合理的で完璧な判断(リーゼの追放)が、他でもない母によって即座に否定された事実。法曹としての冷徹な理屈の鎧を纏った彼の赤い瞳が、微かな困惑を帯びてルナリアを見下ろす。
「……母上。彼女は第一側妃の娘です。情に流されれば、僕たちの闘争の致命的な弱点になる。盤面から排除するのは――」
「リュート」
その言葉を遮ったのは、死の淵にあるとは思えないほど厳格で、深く、そして強い母の声だった。
それは、彼がこの世界に生まれ落ちてからただの一度も向けられたことのない、ルナリアからの『初めての厳しい叱責』であった。
「……あなたは、生まれつき……優秀だった、いえ、優秀すぎたわ」
掠れた声が、冷たい石造りの部屋に重く響く。
リュートは息を呑んだ。母は今、彼が前世の知識を持ち、誰よりも早くこの王宮の構造を理解し、政治的闘争の盤面を俯瞰できる「異常な天才」であることを、はっきりと口にしたのだ。
「私が……あなたのその優秀さを、これまで徹底的に隠し通してきた理由が……分かりますか?」
「……それは……」
「幼い頃、あなたが王宮書庫へ行きたいと望んだ時。私は決してあなたの名前を出さず、『私自身の教育のため』という名目で、王妃から許可をもぎ取りました。……帝国出身の野蛮な側妃が、王国の歴史を学びたがっているという『滑稽な口実』を作ってまで」
リュートの脳裏に、あの薄暗い王宮書庫での記憶が蘇る。
母はいつも彼に本を読ませながら、表向きは「自分が学ぶため」という体裁を崩さなかった。王妃からの厳しい条件や嫌味を一身に受けながらも、決してリュートの知性を誇示することはなかった。
「……この国を支配しているのは、客観的な実力ではなく、王族の『品位』という絶対のルール。……もし、あなたのその異常なまでの知性と論理的思考力が表に出れば、どうなっていたか」
ルナリアは痛む胸を押さえながら、一つ一つの言葉をリュートの心に刻み込むように紡ぐ。
「あなたは必ず、第一王子のグラクト殿下と比較される。……そして、王家が最も重んじる『第一王子の絶対的な品位』を脅かす致命的な存在として……あなたは間違いなく、王妃や第一側妃の派閥から、暗殺か幽閉という形で『排除』の対象にされていたわ」
リュートはギリッと奥歯を噛み締めた。
彼の優れた分析力は、「自分がどうすれば勝てるか」という盤面の計算には長けていた。だが、ルナリアはもっと恐ろしい現実を見ていたのだ。
「優秀であること」それ自体が、この狂った人治国家においては最大の罪になるということを。
「私は……あなたを守るために、あなたのその冷徹で鋭すぎる刃(優秀さ)を、必死に隠してきたの。……あなたが、その理屈の刃で、自分自身や……大切な誰かを切り裂いてしまわないように」
瀕死の母の瞳が、血の涙を流す修羅と化した我が子を、悲痛な思いで見つめていた。
リュートは言葉を失う。自分が安全な場所から盤面を操作できていると驕っていたその裏で、母は己の誇りを捨て、滑稽な側妃を演じてまで、彼という「規格外の天才」を王宮の悪意から隠蔽し、命懸けで守り抜いてくれていたのだ。
「あなたは……論理で世界を切り分けることには長けている。……でもね、リュート」
ルナリアは、力のない手をゆっくりと伸ばし、冷たく強張ったリュートの腕に触れた。
「理屈だけで人を切り捨てる刃は……いつか必ず、あなた自身を孤独という地獄で殺すことになるわ」