リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 真なる優秀さと、寛容の教え
優秀であること自体が、この国では致命的なリスクになる。その事実から自分を命懸けで遠ざけてくれていた母の手は、失血によりますます冷たくなっていた。
だが、その冷たい手がリュートの腕を掴む力には、死の淵にある者とは思えないほどの、魂を震わせるような強い熱が宿っていた。
「……リュート。あなたは私の祖国である帝国の『実力主義』を、単なる弱肉強食だと、力と理屈で弱者を淘汰するだけの思想だと勘違いしていませんか?」
「……え……」
「もし本当にそうなら、帝国はとうの昔に内側から自滅しているわ。力で他者をねじ伏せ、己の計算に合わない者を理屈で切り捨てるだけの者は、いずれ必ず最も近しい者の裏切りに遭って背中から刺される。……人間は、盤上の無機質な駒ではないのだから」
ルナリアの漆黒の瞳が、法曹としての完璧な論理の鎧を纏ったリュートを真っ向から射抜く。
「優秀さとは、単に知識や知恵が優れていることだけを指すのではありません。他者の痛みを知り、怯える心に理解を示し、寄り添う『寛容さ』を持てること。……それこそが、過酷な世界を生き抜くための、真の実力(強さ)ではないですか?」
「――っ」
寛容。
その言葉が、リュートの胸の奥底に鋭く突き刺さる。
すべてを損得とリスク計算で切り分ける修羅の道を選んだ彼にとって、それは最も不要で、最も遠ざけようとしていた不確定要素だった。しかし、帝国という過酷な生存競争を生き抜いてきた母は、それこそが真の強者の条件であると断言したのだ。
「あなたはかつて、幼いリーゼに『相手の感情を読み、立ち回れ』と教えたはずです」
ルナリアの静かで厳しい声が、リュートの脳髄を揺さぶる。
「……それなのに、今のあなたはどうですか。凄惨な血の海を見せられ、実の家族が黒幕であるという絶望を突きつけられ、怯え、迷っている少女の感情に寄り添うこともせず……『リスクだから』という自分の理屈だけで、あの子を冷酷に切り捨ててしまった」
リュートはハッと息を呑み、言葉を失った。
彼がリーゼロッテに迫った極限の二者択一。あれは、彼女のキャパシティを完全に無視した、実務家としての暴力的な踏み絵に過ぎなかった。
彼女の迷いは、実の家族を手にかけることへの人間として当然の倫理的な恐怖であり、同時に、ルナリアたちを深く愛しているからこその絶望的な葛藤だったはずだ。それを「覚悟の欠如」と断じ、不要な駒として扉の外へ放り出した。
相手の感情を読めと教えた本人が、相手の感情を最も蹂躙していたのだ。
「自分の計算通りに動かない者を切り捨てるのは、冷徹なのではありません。ただ傷つくことを恐れているだけの、傲慢な逃避よ。……あなたは、あの子の魂の強さを信じられなかった」
「……僕は……」
「リュート。……リーゼは、あなたの妹ではないのですか?」
その一言が、リュートが纏っていた「理屈」という名の冷たい鎧を完全に粉砕した。
血統や立場など関係ない。離宮という小さな世界で、共に机を並べ、共に王宮の欺瞞を暴き、時には無邪気に笑い合った。彼女は紛れもなく、彼が守るべき家族であり、手塩にかけて育てた妹だったはずだ。
自分がこの王宮の構造を解き明かす「観察者」から、盤面を支配する「為政者」へと変貌しようとするあまり、最も大切なはずの『心』を自ら殺そうとしていた事実。
完璧な論理を構築したと信じていた己の浅薄さが、母の深い愛情と真の実力主義の前に、無惨に崩れ去っていく。
ルナリアは、呆然と立ち尽くすリュートの頰に、力の入らない冷たい指先をそっと添えた。
「優秀すぎるあなたの知性は、時として、あなた自身をひどく冷たい場所へ孤立させてしまう。……だからこそ、あの子が必要なのよ。あなたのその冷たい論理に、血を通わせるために」
それは、死にゆく母が、修羅道に堕ちようとする息子へ遺した、最初で最後の、最も厳しくも温かい人生の教訓であった。