リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 聖母の呼びかけ
窓の外の空が完全に夜の闇に沈み、冷たい月光が、濃密な血の匂いに満ちた離宮の寝室へと差し込み始めていた。
ベッドに横たわるルナリアの肉体は、すでに生物としての限界をとうに超えていた。全身を覆う分厚い包帯、無惨に切り落とされた艶やかな黒髪、そして自白剤という名の劇薬によって内側から破壊された臓器。その呼吸は今にも夜風に溶けて消えてしまいそうなほど浅く、命の灯火が燃え尽きる寸前であることは、誰の目にも明白な客観的事実だった。
だが。
凄惨な拷問の痕跡をこれでもかと刻み込まれたその肉体を前にしてなお、彼女から放たれる気品と威厳は、微塵も損なわれてはいなかった。
死の影が色濃く差す蒼白な顔に浮かんでいるのは、死への恐怖や苦悶ではなく、ただ静かで、どこまでも深い慈愛に満ちた微笑みだった。
それは、かつて冷酷な王宮の中で誰もが「聖母」と仰ぎ、同時に「帝国の虎」と恐れた、彼女自身の誇り高く強靭な魂の輝きそのものであった。極限まで破壊された肉体の凄惨さすらも、その圧倒的な精神性の前では些末な事象に過ぎないと錯覚させるほどの、神々しいまでの存在感。
己の傲慢さを悔いて涙を流したリュート。
実の母と兄を「盤上の敵」と認定し、己の意志でこの離宮を選び取ったリーゼロッテ。
そして、主の最後の盾になれなかった自責の念に震え、血塗れの甲冑姿のまま肩を震わせるルリカ。
ルナリアは、ベッドを取り囲む三人の子供たちへ、ゆっくりと慈しむような視線を巡らせた。
「……おいで、みんな。……もっと、近くへ」
掠れているが、三人の魂の奥底まで真っ直ぐに届く、優しく温かな声だった。
その深い眼差しを向けられた瞬間、三人は吸い寄せられるようにベッドの傍らへ寄り、血で汚れた石床に静かに膝をついた。
王宮の権力闘争という理不尽な暴力が、今まさに一つの尊い命を奪おうとしている。その絶望的な現実の中で、ルナリアは残された最後の命の炎を燃やし、修羅道へ歩み出そうとする子供たちへ、未来を縛る「呪い」ではなく、生き抜くための「祈り」を託そうとしていた。
◇
月光が照らし出す静寂の中、ルナリアは包帯に巻かれた腕を、僅かに残された命の火を燃やすようにして、ゆっくりと持ち上げた。
行き場を探すように宙を彷徨ったその震える指先が、ベッドの傍らに跪くリュートの顔へと伸びる。
冷たい。
触れられた瞬間、リュートの背筋が凍りついた。生きている人間の温度ではなかった。彼女の命が、指先から砂のようにこぼれ落ちていく物理的な現実を、その冷たさが何よりも雄弁に物語っていた。
ルナリアの指は、リュートの眉間に深く刻まれた皺にそっと触れた。
そこには、愛する母を惨殺された怒りと、この狂った王宮のすべてを焼き尽くしてやろうという、どす黒い修羅の憎悪が凝り固まっていた。彼女は、我が子が纏ってしまったその悍ましい呪いを解きほぐすように、氷のように冷たい指で、愛おしそうに何度も、何度もなぞった。
「……人に、優しくしなさい、リュート」
掠れた声が、リュートの鼓膜を震わせる。
それは、実力主義の帝国を生き抜き、血みどろの王宮で権謀術数を見てきた女の言葉とは思えないほど、あまりにも純粋で、無防備な願いだった。
「……それはね、決して自分を貶めることではないのよ」
ルナリアは、痛みで霞む視界の中で、必死にリュートの赤い瞳を見つめ返す。
「貴方が誰かに向けた光は……いつか必ず、もっと大きな温もりとなって……貴方が暗闇に迷い込んだ時、その孤独を救いに戻ってくる。……だから」
ゆっくりと、一つ一つの言葉に魂を乗せるように。
「憎しみに……貴方のその、美しい心を……すべて明け渡しては、いけないわ」
リュートは、ギリッと血の味がするほど奥歯を噛み締めた。
法曹としての卓越した論理的思考が、母の遺した言葉の『真の意図』を、痛いほど残酷に読み解いてしまう。
もしリュートが、この怒りに身を任せ、すべてを計算で切り捨てる冷酷な復讐鬼(修羅)に成り果てていれば、これからの闘争はどれほど楽だっただろう。邪魔な者は殺し、無関係な者は見捨てる。感情を殺せば、痛みなど感じない。
だが、母はあえて、修羅の道を歩もうとする彼の心臓のど真ん中に、『愛と義(優しさ)』という名の決して抜けない「棘」を打ち込んだのだ。
この棘がある限り、リュートは他者を切り捨てるたびに血を流し、弱き者を踏み躙る世界を憎みながら、自らもまた痛みにのたうち回ることになる。冷徹な怪物に堕ちることを、母の愛が許さない。
それは、彼に人間としての苦悩を強いる最も残酷な呪いであり――同時に、彼が王道を歩み、最終的に「幸せだった」と笑える日を迎えるための、母からの最も深く、最も尊い救済であった。
「――っ、ぁ……」
声にならない嗚咽が、リュートの喉から漏れる。
知性が高すぎるが故に孤立し、理屈の鎧で自分を守るしかなかった不器用な少年の本質を、母は誰よりも理解し、そして誰よりも愛していたのだ。
溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、リュートは自らの両手で、頰に触れる母の冷たい掌を包み込んだ。そして、祈るようにその掌に自分の顔を強く押し当てた。
「……はい……っ。はい、母上……」
決して憎しみに魂を売り渡さない。どれほど血に塗れた盤面を歩もうとも、あなたが愛してくれた『人間の心』だけは、絶対に手放さない。
リュートは瞳を閉じ、冷たい掌の感触とともに、母から託されたその重く痛い「義の棘」を、己の骨の髄まで静かに飲み込んだ。