リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 魂の舟と、生き抜く誓い(リーゼへの祈り)
リュートへ「義」の棘を打ち込んだルナリアは、次に、そのすぐ隣で肩を震わせているリーゼロッテへと、ゆっくりと視線を移した。
痛みに霞む目を細め、死にゆく母は、力の入らない冷たい指先で、娘の細く震える手を力強く、そしてどこまでも優しく包み込んだ。
「……リーゼ」
「……はい。はい、お母様……っ」
リーゼロッテは、血で汚れたルナリアの手を両手で握り返し、こぼれ落ちる涙を拭おうともせずに頷いた。
ルナリアは、浅く苦しい呼吸を繋ぎながら、これからこの十歳の少女を襲うであろう政治的現実を、静かに口にする。
「……私が死ねば、私という後ろ盾を失うことで、帝国からの婚約交渉は……間違いなく、一度は止まるでしょう。本宮の連中は、貴女の価値が暴落したと勘違いして、これ幸いと冷遇するはずよ」
それは客観的な事実だ。だが、ルナリアの漆黒の瞳には、一切の悲観はなかった。彼女は血濡れた口元に、ふっと柔らかで誇らしげな微笑みを浮かべた。
「……でも、私は少しも心配していないの。……だって、貴女には『実力』がある。貴女のその知性と能力は、すでに帝国の興味の対象なのだから」
「私の……能力……?」
リーゼロッテが目を丸くする。ルナリアは、血の気を失った頰を僅かに綻ばせた。
「ええ。以前、貴女が『無詠唱化』や『属性複合』の魔法理論について熱く語っていたでしょう? ……私、それを父への手紙の追伸に、さらりと書いておいたのよ。『逸材がここに埋もれていますよ』とね。実力至上主義の怪物にとって、それがどれほど喉から手が出るほど欲しい餌か……」
リュートがハッと息を呑む。
母は、ただ庇護していただけではない。王国の呪縛に囚われたままのリーゼロッテを救うため、すでに自分自身の命がどうなろうとも機能する、リスクのない外患誘致という布石を打っていたのだ。
「王国への圧力は、帝国が勝手に判断したことであり、私はただの世間話をしたに過ぎない。……婚約という形がどう転ぼうと、必ず彼らは貴女を確保に動くわ。だから、リーゼ。貴女自身の知性と能力が、必ず貴女の身を助ける」
それは、ただの慰めではない。
西の公爵令嬢の件でも自ら本宮の茶会へ乗り込み、堂々と立ち回った彼女の「政治的知性」と、血統に依存しない「本人の価値」に対する、完全なる信頼の言葉だった。
「貴女なら、その力で自分で自分を守れる。新しい未来を、自分の手で掴み取れる。……それでも」
ルナリアは、リーゼの手を包み込んだまま、視線だけをリュートへと向け、愛おしそうに、そして少しだけ可笑しそうに微笑んだ。
「どうしても自分一人ではどうしようもなくなった時は、意地を張らずに、隣のお兄様を頼りなさい。……あの子は、自分の命を削ってでも、意地でも貴女を守り抜くでしょうから」
リュートもまた、その母の信頼に応えるように、強く、静かに頷き返す。
その光景を見て、ルナリアは再びリーゼロッテへ向き直り、彼女の手の甲を親指でそっとなぞった。
「……だからね、リーゼ。どうか、自分を大切にするのよ。……この国では、王女の体は王家の所有物であり、血統を繋ぐための道具だと教えられる。……でも、それは違う。体は、貴女の魂を乗せる『唯一の舟』よ」
血統や品位という呪縛から、娘の存在意義を完全に切り離す、力強い宣告だった。
「誰の道具にもならなくていい。……健康でいて。どんなに過酷でも、生きていて。……貴女たちが明日を生きている、その事実こそが……冷たい王宮で生きてきた私にとっての、たった一つの救いだったのだから」
「――っ」
「自分を粗末にすることだけは、私との約束を破ることだと思って」
その言葉が、リーゼロッテの胸の最も深い場所を、鋭く、温かく貫いた。
実の母であるヒルデガードは、自分のことを王家の品位を飾るための「道具」としか見ていなかった。
しかし、血の繋がりなど一切ないこの人は、自分の命が尽きようとしているこの極限の瞬間においてすら、本人の実力(能力)を信じ、そして「明日も生きていること」そのものを、自身の魂の救いだと呼んでくれたのだ。
自分は、ただ生きているだけで、誰かの救いになれていた。
その無条件の肯定と、海よりも深い愛情を前に、リーゼロッテの中で張り詰めていた悲しみの糸が、ついに音を立てて弾け飛んだ。
「……っ、はい……! はい、お母様……っ!」
リーゼロッテは、ルナリアの冷たい手に自らの額を押し当て、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「約束します、約束するわ……! 私、自分の力で絶対に生き抜く……誰の道具にもならない……っ! お母様が愛してくれた私を、絶対に、粗末になんてしない……っ!!」
それは、実の親から見捨てられた孤独な少女が、真の母の愛を受け取り、王宮の呪縛(血統と品位)から完全に解き放たれた瞬間だった。
何度もうなずき、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら生き抜くことを誓うリーゼロッテの頭を、ルナリアは最後の力を振り絞り、満足げに、そして誇らしげに撫でた。