リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第5話『品位という防波堤1』

1 修羅の謝罪と、新しい家族の誓い

 

 月光が差し込む凄惨な寝室。事前の強訴の咎で謹慎中であるリュートは、母の亡骸の傍らで泣き崩れるルリカへ、悲しみを奥底に沈め切った為政者の声で命じた。

 

「ルリカ。本宮へ向かってくれ。第二側妃ルナリア崩御の報告だ」

「……はい……っ」

 ルリカは涙を拭い、主の最期の命を胸に刻んで、ただちに離宮を駆け出していった。

 

 静寂と濃密な血の匂いだけが残る冷たい石床の上。リュートはゆっくりと振り返り、立ち尽くすリーゼロッテの目の前で、静かに両膝を突いた。

 

「……お兄様?」

「リーゼ。……先ほど君を突き放した、僕の傲慢さと狭量さを許してほしい」

 それは、実務家としての冷徹さを装い、彼女を暗い廊下へ追い出したことへの心からの謝罪だった。リュートは頭を下げたまま、絞り出すように語る。

 

「リスクを排除して盤面を支配しているつもりで……僕は、君にどれだけ救われていたかという事実から目を背けていた。君がカモフラージュとして本宮の視線を集めてくれたこと。何より、王宮の毒の中で、君が笑いかけてくれたからこそ、僕は正気を保ち『人間』でいられたんだ」

 

「……」

「君は、僕の大切な妹だ。……こんな地獄のような離宮(ここ)を選んでくれた君を、僕はもう二度と手放さない。一緒に、生きてほしい」

 偽りない感謝と、深い愛情の吐露。それを聞いたリーゼロッテの金色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 彼女は跪く兄の前に歩み寄り、その肩にそっと手を置く。

 

「……謝らないで、お兄様。私こそ、お兄様やお母様に出会わなければ、ただ怯えるだけの出来損ないの飾りのままだった」

 彼女は最高級のドレスの袖で涙を拭い去り、為政者としての強靭な理知の光を瞳に宿した。

 

「私の実の家族は、本宮のあの女たちではありません。私に本当の愛と生きるための知性を与えてくれた、お母様と、お兄様と、ルリカだけよ。……王家の安寧などいらない。何が起きても、私はここで、お兄様と共に歩むわ」

 月光の下。実の親の権威と王家の安寧を捨て、血の繋がりを超えた「真の家族」としての誓いが、静かに、しかし絶対的な重みを持って結ばれた。

 

 ◇

 

 離宮から風のように現れた侍女・ルリカがもたらした「第二側妃ルナリア崩御」の凶報は、深夜の本宮を文字通り凍り付かせた。

 

「……何だと? 今、何と言った……!?」

 国王ゼノンの絶叫が、私室の壁を震わせた。

 彼はルナリアを愛していた。帝国の至宝と謳われたその美貌、気位の高さ、そして時折見せる「虎」のような鋭さ。ゼノンにとって彼女は単なる側妃ではなく、自らの男としての征服欲と、王としての自尊心を最も満たしてくれる特別な存在だった。第一王子のグラクトが、いずれ彼女を下賜され「情交奉仕者」として側に置くことを夢見て鼻の下を伸ばしていたのも、父であるゼノンが彼女を惜しみなく愛でる姿を見ていたからに他ならない。

 

「セオリスか……あの狂犬が、余のルナリアを殺したというのか! 許さぬ……ゼノビア侯爵もろとも、一族根絶やしにしてくれるわ!!」

 ゼノンは顔を真っ赤に染め、装飾品の置かれた机をなぎ倒した。愛する女を無残に奪われた憤怒と、自らの足元である王宮内で「管理下の騎士」が暴走したという不名誉に、理性が焼き切れていた。

 

 だがその傍らで、王妃マルガレーテは微動だにせず、ただ静かに、夜の闇を見つめていた。

 

『……やはり、死んだか』

 マルガレーテの心中にあったのは、悲しみでも怒りでもない。極めて高度な「盤面の計算」である。

 

 北のアイギス公爵家、その苛烈な国境地帯で「何を守り、何を捨てるか」を叩き込まれてきた彼女にとって、側妃の死は「王家の品位」という巨大な防波堤に生じた、致命的な亀裂でしかなかった。

 

「陛下、お鎮まりください。取り乱して怒鳴り散らすのは、王の品位をさらに貶める行為です」

「黙れマルガレーテ! 余の女が殺されたのだぞ!」

 

「ええ。ですが、死んだ者は戻りません。今、陛下がなさるべきは、この醜聞が王家の『崩壊』を招かぬよう、速やかに蓋をすることです」

 マルガレーテは氷のような声で言い放ち、控えていた官吏たちに次々と指示を飛ばし始めた。

 

「遺体安置官を離宮へ。ルナリア妃の遺体は即座に棺へ収め、厳重に封印なさい。傷跡一つ、外部の目に触れさせてはなりません。葬儀の形式が決まるまで、安置室への出入りは私の許可制とします」

 その淡々とした口調は、まるで壊れた家具を片付ける事務処理のようだった。彼女の脳裏には、数日前に玉座の間で自分と対峙した、あの忌み子の姿が浮かんでいた。

 

『……思い出すだけでも、悍ましい少年だわ』

 マルガレーテは、あの『強訴』の盤面を反芻する。

 わずか十三歳の子供だ。最愛の母が今まさに拷問を受けているかもしれないという極限状況。凡庸な貴族の大人でさえ、あのような場面では恐怖に泣き喚き、感情論で王にすがりつき、あるいは怒りで喚き散らすことしかできないだろう。

 

 だが、リュートは一滴の涙も流さず、一切の私情を交えなかった。ただ客観的な目撃証言と遺留品を証拠として提示し、国王の正当な命令の「隙間」を縫って作られた密室の存在を、完璧な論理で立証してみせたのだ。

 

 しかし、マルガレーテを真に戦慄させたのは、彼の論理の組み立て方ではなかった。彼が見せた、その『引き際』である。

 

 あの日、王権すら論破されかけたマルガレーテは、「告発された側(セオリス側)の弁明を聞いていない以上、一方的な証言のみで断罪することは王家の公平性を損なう」という、最終裁定者としての正論を盾にして辛うじて彼を退けた。

 

 その時だ。母の命が危うい状況で即時介入を拒まれたにもかかわらず、リュートは激昂もせず、一切の反発も見せなかった。彼は即座に自らの非を認め、深く頭を下げて矛を収めたのである。

 

 それは、彼が「相手の言い分も聞かなければならない」という裁定の公平性の概念を瞬時に理解し、自分自身の感情すらも盤上の駒として俯瞰できている決定的な証拠だった。

 

『あの年齢で、自らの感情を完全に制圧し、物事を俯瞰して正しく引くことができる。……あれは、狂った暗殺者などではない。知性と論理を完璧に使いこなす、王座すら揺るがしかねない「怪物」よ』

 あの日、彼が大人しく謹慎を受け入れたのは、理屈に納得したからに過ぎない。

 

 だが、その彼から、唯一の足枷であった『母』を奪ってしまった。

『これは、最悪の事態だわ』

 ルナリアが生きていれば、彼女を人質としてリュートを制御できた。だが、今のリュートはもはや失うものがない。彼がその底知れぬ知能を全て「復讐」と「破壊」に振り向ければ、王国は内部から腐り落ちる。

 

「……ゼノビア侯爵、および役職持ちの重臣たちを緊急招集なさい。第一側妃ヒルデガードと第三側妃も、今すぐにここへ。……夜明けまでに、この事件の『正解』を決めなければなりません」

 マルガレーテの瞳に、防衛者としての鋭い光が宿る。

 

 国王がルナリアの死を悼んで叫ぶ横で、彼女はすでに「どうすれば、グラクトの継承権を守り、リュートという劇薬を抑え込み、かつ帝国の介入を防ぐか」という針の穴を通すような司法取引の筋書きを描き始めていた。

 

 王妃にとって、ルナリアの死はもはや過去の遺失物だった。

 彼女が見ているのは、この悲劇がもたらす「新しき秩序の胎動」――すなわち、自分たちの支配体制を根底から覆そうとする、あの黒髪の王子の次なる一手だった。

 

 

 

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